一年前の今日(1/16)、一週間後に開催予定であった36会seminarの「開催中止」のご案内を行った。そこには、次のように記している。
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皆々さま
寒中お見舞い申し上げます。併せて、新型コロナウィルス禍中、お見舞い申し上げます。
Seminarを予定していた1月23日(土)が間近に迫っていますが、開催のお知らせをする言葉が出て来ません。開催のお知らせもしないで「中止」というのも、何だかなあと思いますね。それもこれも皆、コロナ禍のせいにしてお赦し下さい。
コロナウィルスが勢いを増していることは、日々の報道で、ひしひしと感じられます。たしかに「緊急事態」だと思います。では政府の「緊急事態宣言」がコロナウィルスのどこをどう抑えようと意図しているのかとなると、ピンときません。/庶民大衆に「密を避け、外出自粛を」と呼びかけた「規制」を(密かに)破った政治家たちは、5人以上「会食」の人数が問題なのではなく、ウィルス感染の防備を整えているかどうかがモンダイなのだとか、人と会うのが役目なのだからと居直っています。/8時以降の外出は「誤解」だそうです。昼夜を問わず外出するなという意図だそうですが、政府はそうは口にしません。なぜかメディアが言葉を補足しているのです。いかにも日本語の特性文化なのでしょうか、直に言わせるな、推察せよということのようです。/若者中心に感染が広がっていることを政府は力説していません。コロナウィルスに感染した若者の「無症状」も面倒な「後遺症」をもたらすとメディアが広報をはじめていますが、政府はそうは言いません。対応策が後手であると思われないかと気を遣っているようにみえます。つまらないこだわりです。
都知事が(感染拡大を抑えるには)「人の往来を止めることです」というのが唯一、そうだよなあと響きます。でも、日々の暮らしそのものの「密」度が高い首都圏では、ほんとうに街を封鎖するロックダウンでもして、外出を抑えてしまうのでなければ、「止める」ことなどできません。法改正をして施策に強制力を持たせようと政府与党は立案作業をしていますが、知事の強制権限に実効性をもたせるための「罰則」には言及するものの、強制を効果あらしめるための「財政保障」には触れていません。国家の強制力とは無理やり従わせることにほかなりません。それによって進路を誤った75年前の国家のトラウマを未だ引きずっているのだと傷ましく思います。知事の強制権限にしてから、「勧告」と名づけて「強制」とは表現できないのです。
いずれにせよ私たち年寄りは、現状況に適応して自己防衛するしかありません。世の中の移ろいに、過ぎ越し日に積み重ねたわが身の無意識を見いだしつつ、せいぜいご近所の散歩程度を欠かさず、御身大切に、元気にお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。(後略)
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今年は、1/22(土)にseminarを予定しており、今のところ実施しようと準備を進めています。去年に較べて今年のコロナは収まっているかというと、そうではない。むしろ日々の感染者数は、多いんじゃないか。でも実施する。参加者は今年の誕生日を迎えると80歳という高齢者ばかり。
去年と何が違うのか。ワクチン接種を2回終えている。デルタ株がオミクロン株に変わっている。なにゆえに感染が拡大しているか、分からないことが分かっている。「公助」が当てにならないことを身を以て知った。つまり、「自助」というか、自分で用心して行動する以外に防ぎようがない。その用心というのは、マスク、手洗い、間隔、換気。用心する場所は、公共交通機関と人混み。
seminarの会場になると、なぜか(7月以降の3回では)同じ高齢者ならばもう一蓮托生という気分が働いて、(マスクはしているが)気分的には家族のように振る舞っている。
私の気持ちには、もう一つある。そろそろ80歳。ここまで幸運に恵まれて人生を送ってきた。ここで、seminarを機に(コロナに罹って)身罷ったとしても、悔いを残すことはない。だいたい平均寿命を生きたんだからと、「私が平均寿命を生きる」ってことには何の意味も根拠もないのだけれども、そう自足して肚も決まった。この平均寿命を生きるって発想が、そもそも私たちの年代の特異なセンスじゃないかと、わが身を振り返って思っている。公平とか公正という感覚のどこかに、概ね平均的なところをどなたもが到達できるようになるという気分が根付いているのだ。それが、何に由来するのか、何時そうしたセンスがわが身に侵入してきたのか、皆目わかりませんが、我が人生を振り返ってみると、あることに気づく。もちろんこれは、誰もが平均でなければならないと「出る杭は打たれる」ことに向かう同調圧力というものではない。むしろ、平均以下の人々が、平均に到達するように支援するのが公助であり共助であると、底辺に目配りして世の中全体を「高めていく」指向性を持っている。その私の思考性は1980年代のバブル経済へ向かう途上までは、世の中の進展と符節があった。「一億総中流」と謂われた時代は、そういう意味では、私の公平・公正センスを育てた社会的な規範感覚が働いていたと思う。
例えばこんな話があった。イギリスに進出した日本企業の社長が社員食堂で社員と共にお昼を摂るということをしたことが驚きの目で以てみられたとニュースがあった。労働者と同じ場で社長がお昼をとるというのは、「非礼である」とイギリスではみられたのだ。「会社」に対する捉え方も同じで、株主である資本家よりもそこで働いている従業員が会社の経営の運命共同メンバーと見なされていた。だから、社長と従業員の給料の差も、せいぜい数倍~十倍という程度であった。
だが、その後の「失われた*十年」を見ていると、平均がどんどんズレて行っている。例えば所得をとると、優勝劣敗がどんどんと進んだ。豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はますます厳しい貧困に陥った。2021年の一人当たりのGDP速報値をみると460万円ほど。世界22位だが、これは平均である。では「中央値」は何処にあるかと見ると、254万円。大雑把に言うと、1億2500万人の人口の中央値は、5250番目の人の年間所得は平均値の55%程になる。極少数の超高額所得者と大多数の超少額所得者が排出されているのだ。もっと簡単に言うと、中央値は、平均値の半分程になっている。
いやはや、平均寿命という年齢の話しを、所得の話しにするなんて、奇妙奇天烈そのもの。だが、私の身に宿るセンスを解析するには、そういう奇天烈な入口から入らなければならないのだ。私はこうしたセンスが、同世代の人たちに共有されていると思っている。それを普通だと思っていたら、どうもそうではないらしい。私たちの世代の過ごして培ってきたセンスは、特異な時代が生み出したもの、一般的ではないと感じるようになった。
おやおや、コロナウィルスの話しが逸れてしまった。自助努力でseminarを開催するという私たちの心持ちをご披露したかっただけ。でも、こういう事々に出逢うごとに自分の歩いてきた道筋が浮かび上がってくる。不運に出逢わなかったという幸運に恵まれたことに感謝したい。これには「平均」も「中央値」もない。
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