つい先日(1/12)の本欄「リケジョの心得」で取り上げた新井紀子さんと数学研究者・森田真生さんが、昨日(1/14)の朝日新聞の「寄稿」欄に登場していて、偶然とはいえ、なにか社会的な土台が共有されているような気分。というか、私と社会が共鳴共振して同期しているメトロノームって感じがして、愉快になる。
森田真生さんが「寄稿」。紙面の3分の2を遣って「自分でないものの力」とコラム主見出し。「共に在るということ」とコラム袖見出し。記事そのものの中の見出しは「祖母の記憶を宿す手」「堂々巡りの始まる朝」「宛先を超えていく声」「地球の表層で知らずに支え合う命」と見出し4本が並ぶ。
この見出し群を見ただけでは、この「寄稿」が何を書いているのか、わからない。見出しは、森田真生に「寄稿」を依頼した編集者の読み取りたい心持ちが現れているのだろうが、それが彼の書きたいものを読み取っているのかどうかは、私には分からない。
「二年前に亡くなった祖父が、亡くなる直前まで読んでいた絵本がある」と始まる。祖父の思い出を語る言葉の中に、庭のサザンカが登場する。それに寄るメジロ、カッコウやシジュウカラ、ヒヨドリの声も響き、太陽を浴びるカエデやギンモクセイも共演して、それらが皆、祖父として森田の心裡に甦る。祖父のように生きる、祖父と共に生きる、それは大地を含む自然そのものとして自らも生きていることを感じている姿と読める。
この「独立研究者」という肩書きの森田真生が、数学研究者として「数字を遣わないで数学する」ことを標榜して社会活動をしている人と分からなければ、何故こんな文章が大新聞の一面を飾るのか「わからない」と思う。だが森田を少しかじったことのある門前の小僧は、数理世界の裏側に張り付いている「せかい」の根柢に、自然世界をまるごとのままにとらえた「混沌」が感じ取られているのではないか。その感触を、分節化して数理に置き直してしまうときに捨象されてしまうもろもろのことを惜しむが故に、「混沌」を混沌のままにとらえ措いて、しかしその「混沌」に近接する極限にまで感覚を鋭敏にさせて(数理的に)迫ってみようとしているのではないか。
だから、この文を読んでコンパクトに見出しをつける切り取り方は好ましくない。むしろ「(何を言っているか)わからない」ままに、その「せかい」に身を浸して、感触を味わう。それが、「森田真生のせかい」に触れる礼節ではないかと私は感じた。
それじゃあ、わからないままではないか。そう。「わかる」というのが、筋道をつけて、論理的に理解できるということだとすると、「わからないまま」におくことが、向き合い方として正解。言葉にすると損なわれてしまうことがある。そういう領域のことに森田は触れている、触れようとしている、そう感じていることだけを伝えようとする。と、まるで祈るように、関わりのあるありとあらゆることへの「感謝」が、ふつふつと湧いてくる。それしかないなら、それで十分。そう見切っているのかもしれない。
いやそうじゃないか。わたしが、そう見切っているのだ。そうして、「わからない」ことを愉快だと感じている。まるで森田真生が「祖父の読んでいた絵本」を、繰り返し巻き返し読むように、そうして、読むごとに胸中に現れてくる場面は変わり、心裡に描き出される感傷は像がぼやけ、まるで世界が一つになったかのように「こんとん」として感じ取られる。それは、もう一歩先には、「わたし」自身の端境、輪郭がぼやけて「こんとん」と一体になって自然に溶け込んで感じられる。心身一如というのは、こういう感触のことかと、世界と個我の一如を感じるのであった。
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