2022年1月13日木曜日

seminarの「まとめ」という定点観測点

 seminarの準備をしている。2013年に始まったseminarが隔月に開催され、7年を経て振り返ってみた『うちらぁの人生 わいらぁの時代』(日本出版ネットワーク、2020年)は、どんな意味を持ったろうかと自問するのがテーマ。

 いろんな方がさまざまな「お題」を展開したseminarに触発された「私的メモ」というのが、上記の本の中身なのだが、読み返していると、そのときに気づかなかったことが湧き起こってくる。

 たとえば、第6回の「現代物理学の容貌」で聞いた量子論や素粒子論や第22回の「人がたどり着いた宇宙」などは、「わからない世界が(何処か向こうに)ある」という恰好で「せかい」を描き自分を位置づけているという感触を、感じさせる。そこへ第20回の「音楽しろうと雑学」が「可聴域を超える音を人は聞いている」と、生物としてのヒトを自然の中に放り込むと、俄然、「わからない世界」がわが身の足下から起ち上がるような気分につながる。するとこの講師が「神話伝説の黄帝が樂師を呼び音曲を弾かせるとたちまち兵士が元気になった」という話しの、音と生物としてのヒトの親密な成り立ちが埋め込まれていることに思い至る。それは、オノマトペを得意とする日本語に親しんできた私たちの成立事情にも思いが及ぶ。ひょっとするとオノマトペというのは「ことば」をリズムや響きやメロディとして聞いているのであって、言葉の意味とかテーマとかは二の次ではなかったか。発生的には「ことば」の大きさや響き、リズムやメロディで〈なにがしかのこと〉を伝える役を果たしていた。二の次というのは、それが進化・深化し微細な表現として練り上げられていったが、その過程で初期の大きさや響き、リズムやメロディが忘却されていっているんじゃないか。そういう風に、言葉に関してわが身に堆積してきた痕跡が、薄皮を剥がすように現れてくる。それが、「36回seminar私記」をまとめた効果。つまりわが身が気づかぬままに体験している領域を、読み返すことによって対象化しているわけである。

 seminarというネットワークは、「わたし」というヒトに堆積している人類史的な文化が、私の裡側で意味を持って起ち上がる。堆積して裡深くに沈んでいるニューロンが、seminarの「ことば」に触発されてつながり、表面に浮き上がってくる、その触媒になっている。そうか、ネットワークというのは外の人と人との関係だけでなく、わが身の裡に張り巡らされている文化の痕跡が互いに繋がり会っていることを、まるごとの混沌から掬い出してくる「網」なのだ。そう感じるのが、面白い。

 別の「触発」もつながる。第13回「建築を楽しもう」は、建築家が人が住む心地よさという合目的性を探求することと同時に、それが人の紡ぐ関係を規定してしまうという機能性を、どう打ち破っていくかと苦闘している様子を伝えていた。ザハ・ハディドの名も、ここで登場していた。「建築家ってヘンじゃないか」という言葉も、ここで遣われている。それもあって後に、荒川修作という建築家がおしゃべりしているのに気が止まった。

「中央線の上の土地を全部買う」という。「第二の東京をつくる」「つくったら武蔵境の上はビーチにする」「ビーチにしたらどうなると思う」「七十歳のおじいさんと八十歳のおばあさんが、そこで日焼けをしているんだ。それで、おじいさんがおばあさんに『お前の裸が見たい』って言うだろう。そしたらおばあさんが『何言ってんのエッチ!』って答える。それを見た子どもたちは、俺も早く年取りたい、って思うんだよ」

 何という破天荒な建築家だ。seminarで紹介された「塔の家」という建築家の住まいも珍奇であったが、荒川修作の発想は桁違いにむちゃくちゃだ。その彼が設計したという「養老天命反転地」がどんなものか、ネットで覗いてみたことがある。岐阜県の養老町のそれは、なかなか面白い。知らなかったなあ、こんな建築家。世の中面白いと思う。

 第11回「髪結い政談・東アジアの困ったモンダイ(1)」は、2014年。後続の(2)がない。だが2020年の1月・第二期・第11回で「日本の『防衛』という問題」で、濱田守さんが新橋に溢れる中国人とのことを、好悪取り混ぜてレポートした。それからさらに2年、中国の問題は「困ったモンダイ」という以上に、緊迫する様相を呈している。世界がどうなるのだろうということでもあるし、日本はどうしたらいいのだろうと目が離せなくなっている。世のこうした趨勢を、肌身に感じる入口にseminarがあるというのは、まさしく平穏に過ごした「わいらぁの時代」が特異であったことを示している。

 それはともかく、私にはどう解いたらいいか分からない疑問がある。中国と台湾のこと。台湾が中国の一部だと中国政府がいうのは、支配領域のことだろう。だが(経済的にも政治的にも)別々の独立領域であることは、戦後、あるいは1949年から後を考えても明らかである。にもかかわらず「台湾は中国の一部」というのは、日本の植民地であった台湾が、日本の敗戦によって日本領から剥奪され元の中国に返還されたものと考えられているためでしょう。だが、はたしてどうつながっているのか、私にはわからない。サンフランシスコ講和条約では「日本は台湾と澎湖諸島を放棄する」とある。このとき中国大陸では国民党軍と共産党軍が争っていて決着はついていない。つまり台湾は、帰属先が決まらない無所属の地になった。そうして1949年に国民党軍は台湾に逃れ、そちらを占拠して中華民国を名乗る。それを中国として国連の代表権を与え、それが後に中華人民共和国へと移し替えられ、現在の中国の地位へと繋がったである。この過程が元になって台湾は中国であると国際社会が認めたとされているのであろう。だがそれ以降も台湾は独立した経済圏と支配領域をもってきている。

 国家として自律しているという正統性は、国際社会の承認が前提ということならば、その場で争わねばならない。中国政府が、あの手この手で台湾を孤立させようと画策しているのは、そのためであろう。ならば台湾もまた、中国との政治的一体性を受け容れるのがイヤであれば、徹底して国際社会にその存在を訴え続けていかねばならない。それは、貿易であれ、防疫に関する国際機関への所属であれ、折に触れて、一つひとつ関係を取り結ぶ外交を展開するしかない。独立するかどこかに帰属するかは、誰が決するでもない、一つひとつの繰り返される取引や交わす外交文書や会議などで自律していることを証してみせること、それ以外にない。

 つまりこれは、戦後的な国際秩序が(日本を「敵国条項」で特異扱いしている国連が)タテマエとして保っている条項もまた、現実の展開において機能しているかどうかが問われて、その実態に合わせて国家・地域の自律性を判断していく流路が必要ということなのだろう。私たちの日常においても、そうやってタテマエを崩し、実態の関係に目を向けていくことが必要とされている。その判断の一つひとつが、メンドクサイことではあるが、いちいち根源から問い返して自ら答えを出していく作業となる。

 そんなことを続ける面白さを感じさせてくれるのも、定点観測点のような指標を『うちらぁの人生 わいらぁの時代』として立てておいたからであったと、感慨深い。

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