数学研究者・森田真生の『計算する生命』(新潮社、2021年)は「(私の)わからない世界」を、理解できる地平から説きはじめて、思わぬ地点へ連れて行ってくれる。「わからない」ことが誘う不思議感が、私の身をおく日常から地続きなのに次元の違う(思わぬ)世界へ導き、「わからない」感触が媒介となって理解を扶けているように思う。
数学研究というのがここからスタートしているのかと驚く。その記述は「数えることが起ち上げる人の思考とはどういうものか」を考察することから始まる。算数とか数学というのを私たちは、学校で学ぶ算術から始まっている思っているが、森田はヒトがものを数えるということをどう行ってきたかから第一章を開始している。数えることに数字が加わることが、「数」に関する観念のどのような変化を引き起こしているか。読み進めることが不思議を起ち上げ、そうかなるほどと「せかい」の広まりを感じつつ、なお、漢数字がアラビア数字になる変化が、現代数学の「計算する」機能性を格段に高めたことへ展開する。
その筋道自体が、数学的だ。つまり、話しの運びが次へ次へと段階を踏まえて次元を変え、抽象化と機能性と数理的合理性とがわが身の裡で形づくられてきたさまが思い浮かぶ。図でイメージされる「数」が「式」となる過程も、和算の問題文のように文章で記される。ふと思ったのだが、x(10-x)=21を、文章で表現させるような「問題」を中学生に出したら、はたして解けるだろうかと新井紀子さんなら考えるかも知れない。
運びの速度は速い。第一章ではじまった「数」は「式」を経てライプニッツやデカルトを経由して「方程式」という代数的な方法へと点綴されることによって、ギリシャ時代の数学が持っていた図の制約から解き放たれ、と同時にそれは、普遍的な方法として「数学」の純度を高めていくことに寄与している。高校で数学を学んだものは、しかし、すっかり手順が固められた形跡を身につけるべく、「計算する方法」として覚え込み、その意味合いを腑に落とすことなく辿ってきたなあと、わが身を振り返って慨嘆している。微分積分になって、かえって「計算」が容易になったという感触さえ抱いたことが甦る。
あるモノを取り去るという意味で「0から4を引く」ことをあのパスカルも「0になる」と考えていたことが、数直線を思い描き、原点ゼロを設定することで視覚化する。17世紀のことだとは驚きだ。そこで一挙にマイナス概念が登場する。するとすぐに、では掛け合わせるとプラスになる「虚数」はどう表現されるだろうかと話が進み、二次元の座標軸から三次元方向に90度起ち上げて「√-1」を記し、掛け合わせることによってさらに90度回転して「-1」になるという離れ業を森田は示してみせる。虚数だけではない。-1×-1=1というマイナス掛けるマイナスがプラスになることを視覚的に説明するにも次元を付け加えることが有効になる。これは、コペルニクス的転回だ。
こうした記述の一つひとつに森田は、ヒトの思考の次元がどう変わってくるかを算入して考えている。そのひとつ、第二章「1、演繹の形成」は、スタンフォード大学の数学史家リヴィエル・ネッツの著書を紹介しながらギリシャ数学に踏み込み、演繹のメカニズムを繙いて行く。ネッツと共にギリシャ数学の原風景に迫る「演繹の代償」と題された部分は、論証過程を可視化して図にしている。そこが私には「わからない」部分となるが、結論的に引用したネッツの文章は、それとなくわかる。
《ギリシャ数学の論証の背景にある理想は、真っ直ぐで途切れることのない説得の行為だ。皮肉なことに、この理想は、数学的な議論があらゆる文脈から抽象されて実生活における説得から切り離された人工的な作業になり変わったとき、はじめてより完全な形で達成されるのだ》
これを私は、経済学の展開をしている専門家に重ねて受け止めている。経済的関係を数学的に考えて解析することが陥る陥穽である。数学的論理の展開を経済学に当てはめて語る人たちが、しばしば抽象化することによって実生活における場面からすっかり離陸してしまって、ヒトの要素を見落としてしまうことだ。演繹的ということに対する私の警戒心、経験的ということに重きをおこうとする私の傾きは、基本的にこのネッツの文章に表されている。そういう読み方が森田の意図することと外れているということはわかるが、そういう参照点として、この著書を読み囓っているのだ。
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