昨日の話に続ける。朝日新聞1/15の森田真生さんの記事と同じ面に新井紀子さんも登場していた「新井紀子のメディア私評」のことに触れる。《日本のモノづくり 想像力働かせた「コトづくり」を》と見出しをつけた彼女の文章は「メディア私評」の最終回らしい。「次の場へと転がっていこうと思う」とお別れの挨拶を記している。「教育のための科学研究所」の所長という仕事から別の何かに研究拠点を移すのかも知れない。
最終回のメディア私評のテーマは、「モノづくり」で優れていた日本の製造業は、そのつくられたモノの使用を通じてヒトの暮らしの何がどう変わっていくかを視野に収めていなかったのではないかと指摘するものだ。モノをつくるというのはそれを使うヒトの暮らしを変える。日本のバブル時代の、つまり1980年代から引き継いだ製造業の隆盛は、文化の流れを追うように、需要のあるモノを次々とつくって世に送り出してきたから、モノがヒトの暮らしというコトを変えるコトに思いを馳せていなかったと言える。
だから、1990年代以降の世界の文化的潮流の変わり様に対応しようとしないで、モノだけを見ていたことが、バブル後の「失われた*十年」につながったと新井紀子は読んだ。そこでモノづくりからコトづくりへ向かうようにと提言するのが、今回のメディア私評の趣旨であった。
彼女は1980年代前半に登場したウォシュレットが、コトづくりの模範事例だと持ち上げている。その背景には、ウォシュレットが女性の暮らしを確実に変えた様子を、行く先々のトイレに現認して確信したことを取り上げる。つまり、ウォシュレットという温水便座のモノづくりが、《臭く、寒い、汚い「不浄の場」から「楽しい空間」に変えた画期的なコトづくり》へつながったと評価している。日本の製造業に、そのようなモノを使うヒトの暮らしを変える視線をという提案は、ただ単に需要のあるモノを開発せよというのではなく、ヒトの暮らしが(この先)どのように変遷していくとみているのかを問う、哲学的な視線を持てと示唆しているのである。
それは、ヒトの暮らしの現場を見よという直言ではないか。モノづくりだけではない。立法も行政もまた、机上の思索と立案というのではなく、日常現場に足を運んでヒトの暮らしをじっくりと見据え、それに今何をどう不都合と感じているか聞き取って、策定に臨んでほしいと提案しているように聞こえる。デスクワークだけをベースとする学者の研究業績もそうだ。物事を手順に従って組み立てるだけではなく、それを用いるヒトの暮らし方がどう変わってくるのかを組み込んで、制度設計も細かい施行手順も組み立ててくださいよと、私なら話しを拡げていきたい。
いつであったか、カミサンがTVのチャンネルを切り替えていたとき、国会中継が流れていた。その瞬間、「人がやることですから・・・」という大臣の声が聞こえ、「ちょっと止めて」とチャンネルを回すのを止めてもらったことがあった。質問者が何を聞いたのかはわからなかったが、コロナウィルスとマイナンバーカードとデジタル化のことではなかったか。発言者は山際経産相。こういう政府答弁を耳にしたのは久しぶりだという思いが湧いた。こういう人を大臣に据えているだけで岸田内閣に対する信頼感は、グンと増すと思った。「人がやること」には、推進する作業現場の人の姿が組み込まれている。その不確実性を参入すると、そう機械的に、形式的に、予定通りにコトが進むとはいえないという言葉の含みが、好ましい。
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