昨日(1/9)の朝日新聞「社説余滴」《「人民」って一体誰のこと?》を読んで、ちょっと驚いたことがあった。筆者は国際社説担当の古屋浩一。中国に留学して中国語を学んだときのことを記している。
《例えば「人民」という単語。英語でピープル、日本語では人々と訳されることも少なくないが、中国では反体制以外の人とか、「敵対勢力」ではない人といった意味を持つ。》
えっ? じゃあ、私が遣ってきた人民というのは、何だったのか。私がはじめてこの言葉に出逢ったのは、小学校高学年であったか。リンカーンのゲティスバーグ演説の一節「人民の人民による人民のための政治」だったと思う。その頃は「国民」と同じ意味だと思ってきた。高校生になる頃、「国民」が日本国籍を持つ人と考えると、それとは違う在日定住者の人たちを含めるときに人民と謂うのだと思うようになった。つまり「国民」より広い範囲を概念が「人民=ピープル」。
大学へ行って後に、人民という言葉が英語のピープルほど日本語としてこなれていないと感じることが多くなった。左翼用語の趣が強い。かといって古屋浩一が指摘するように「人々」と訳すと、市民とか大衆と謂うよりも狭かったり、国民さえも含まれたり含まれなかったりする。「人々」は遣う文脈によって自在に幅を変える。ということは、英語でピープルという概念を表す言葉が「人民」以外に日本語にはなかったと気づくようになった。
しかし中国語の「人民」が《反体制以外の人とか、「敵対勢力」ではない人といった意味》とは思いもよらなかった。そうか、共産党が人民の前衛として先見的に(アプリオリに)国政を指導する(専制的)立場を手に入れるには、共産党が「人民」を囲い込み先取りする必要がある。それには「反体制」とか「敵対勢力」を予め排除することが欠かせない。なるほどそう考えると、「中国には中国流の民主主義がある」と(中国政府の)謂うことが詭弁ではなく、彼らの世界観を示している。
とすると、香港の民主派は「民主」ではなく、政府や権力側に対する異議申し立てはことごとく排除するべき言説であり、愛国的ではないと規定できる。チベットや新疆ウィグル族の民族的伝統は、もし中央政府が漢族的文化伝統を国家的アイデンティティと見なすようになれば、それも排除の対象となる。今それが中国国内で進行しているといえようか。
でもこれって、既視感がある。昭和初期の日本の為政者が採っていた世界観と同じ響きを感じる。「人民」は「臣民」であり、「天皇の赤子」という感触なんであろう。それに反対するものや敵対勢力というのは、当然の如く排除の対象になる。国体を脅かすという意味で愛国的でない。そこを判断基準とすると、近代市民社会の世界観には似つかわしくない。何が? 異質な考え方や感じ方を認めない、同質な人たちだけが身を寄せ合う共同体を思い起こさせる。
そうやって近代社会の成立期を思い起こしていると、西欧では17世紀の半ば、30年戦争とその終結を画期するウェストファリア条約の締結に突き当たる。宗教戦争でもあった西欧中を巻き込んだ長年に亘る戦争の結果、カトリックもプロテスタントも相互に棲み分けて認め合うはじめての国際条約が結ばれた。つまり、「敵対する」ものたちがヨーロッパという領域に共存することを、先ずは領邦国家ごとに承認し合い、後にそれが市場経済の広がりと市民の誕生に伴って個人の信仰の自由にもつながっていった。つまり、異なる思想信条、異なる価値観を持った人たちが「市民」として関係を紡ぐ社会規範が育まれていくことになった。
近代政治哲学からみると、ホッブズ、スピノザ、ジョン・ロックが思索活動を行った時期と重なる。そのとき、自然権とか社会契約とかを突き合わせて、主権とか立法権とか行政執行権と謂った近代政治哲学の概念が形づくられていった.それを私たちは、明治以降の西欧思想の流入と第二次大戦敗戦後の民主化政策の中で受けとってきたのであった。
江戸時代という安定した社会規範の期間が長く続いたことが、西欧近代を受け容れるときに異質な人たちとの共存という要素を意識しないまま、統治システムの形として理解することに傾いたのかも知れない。また、西欧の文化的一体性を「キリスト教」とまるごと一つと考えて理解したことが天皇制国家日本という精神的支柱を打ち立て、「天皇の赤子」として人々を統合していく道筋を意識的に歩んだのであったろう。つまり、異質な人たちの共存という要素を見失ったまま「近代社会」へ突入し、それを成熟させていったと勘違いしていたのが、戦前日本の統治感覚であった。その意味で、「天皇の赤子」が「共産党の指導」に変換されただけの現在の中国政府の国家的組立は、むしろ西欧の絶対王制の支配に近い統治感覚だといわねばなるまい。
とは言え、中国語の「人民」感覚が時代遅れと誹ることは適切でない。アメリカにしても、トランプが登場して以来、政治的対立勢力は「敵」であり、排除するべきと謂う「ピープルの分断」が公然化している。それに掻き回された世界政治が、皆トランプ・タイプに移りつつある。というか、これまで被っていた近代市民社会の規範の装いを脱ぎ捨て、自己利益を剥き出しにして、脅しと懐柔とをもって外交交渉に臨むことが恒となった。
中国が(遅れてきた近代国家として)遠慮がちに振る舞っていた時期は終わり、経済的な地位の向上と併せてあからさまな#me-firstを、手順さえも我が儘に追求してきている。それはじつは、近代政治哲学が積み上げてきた「ことば」が、もはやその始まりの出来事(西欧の17世紀)を離れ、漂流してきたことをしめしている。そしていまや、人類史的に積み上げてきた古層が現れ、それに直面している私たちは、あらためて近代政治哲学の言葉を、人類史始原の原点に遡って吟味し直さねばならないところに立たされている。
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