2022年1月30日日曜日

三途ロス

「介護ロス」ということがあるらしい。長年介護してきた身近な人が亡くなったとき、その喪失感に耐えられず死にたいと思うそうだ。カミサンの友人が、長い介護をしてきた連れ合いが亡くなり、その後一年ほどは呆けたようになってしまった。やっとこのほど立ち直って、それ以前のような行き来が復活し、言葉を交わせるようになった。一回り以上若い60代の方だが、いまはかつての仕事にも就いて、いそしく働いている。その友人の話がそうであったという。推察するに、娘さんや孫達との支えがあって気持ちを盛り返したようだ。

 ふじみ野市の立て籠もり人質殺害事件も、直接動機としては介護していた母に死なれ、「この先いいことがないと思った」と犯人が話しているそうだ。メディアは、何か悶着があったらしいと訪問クリニックの医師や介護士と犯人の間に何かあったと探っているようだが、子細を省略してみると、「介護ロス」になって茫然自失。自殺の道連れに手近な人を巻き添えにしたとみてよさそうだ。介護生活に於いて、一番身近に付き合いがあったのはまさしく被害に遭ったクリニックの人たち。一人で彼岸に渡るのに耐えられず、巻き添えにするというのであってみれば、どんな悶着があったのかは、モンダイではない。

 大阪のクリニック放火殺人事件も(何が動機かわからないが)、独りの旅立ちに耐えられず多くの人を巻き添えにしたように見える。

 まず、自殺しようと思う心持ち自体に思いをやると、「この先いいことがない」と思う感懐を何とかしないといけないのかも知れないが、このように問うとずいぶん多くの後期高齢者は「ああ、俺だってそうだよ。いいことなんかあるものか」と応えると思う。いいことがあるから生きているワケじゃない。天から授かった命だから、それが尽きるまでは大切に扱う、それだけだと私は思っている。

 ふじみ野市の犯人だって、死にたいと思ったかも知れないが「この先いいことがあるかないか」を吟味したワケじゃあるまい。取り調べの警察官にあれこれ問われてふと口をついて出た言葉が、これだったと私は推察している。自殺したいと思っていたかどうかも、取調官に「なぜやったんだ」と問われたとき頭に浮かんできたからそう言っただけで、ただ単に鬱屈を晴らさなけりゃあ収まりが付かないと、何かに怒りをぶつけたい憤懣にとらわれていたに過ぎないという、ボンヤリした因果関係が案外正解なのかも知れない。当人だって、ワケがわからないに違いない。

 私自身の感懐を併せてみると、こんなことが言えるように思う。

(1)今の世の中、自分の命は自分のものだと思っている。ここが私と違う。

(2)自分の責任で世の中を渡っていっているが、自分の力で生きているワケじゃない。

(3)人生に運不運はつきもの。運否天賦は天に任せるしかない。

(4)人生も、出くわすコトゴトの善し悪しも、自分で決めるものではない。

(5)でも、犯罪被害者にはなりたくない。もちろん加害者にもなりたくはない。できるだけ社会の力で(2)を拡げて世の中を渡りやすくし、(3)の不運に苦しむ人が少なくなるように、公助、共助を整えるようにしましょう。


 今年の誕生日が来れば八十になる私が、わが人生を振り返って思うのは、自分の命は自分のものではないということ。死にたくなるほどの窮地に陥ることがあるのは、わからないでもない。名誉を守るってこともあろう。家族や愛おしい人を護るために命懸けでやらなければならないこともあるかもしれない。その結果、命を落とすことはよくある話しだ。だがそのときにも、自分の命は自分のものとして扱うという考え方は、発生しない。単独者として生きてきたわけで話しからだ。まして、生きていく間に身につけてヒトから人間として一人前に生きてきたのは、ヒトの築いてきた文化を全部{わたし}として背負ってきている。人類の文化が、この体を通過しているのが「わたし」なのだ。

 だが今の世の中、大人になってからだが、全部「自分の責任」で世の中を渡っているのは、間違いない。それは、社会に身をおいて、人々と関係を紡いでこそ渡って行けている訳で、自分の力で生きている訳ではない。それを自力で生きていたと錯覚するから、(3)のようなことに肚が決まらない。頑張ってもダメなときはダメ、他の人との競争に身を削って生きる社会であってみれば、自分の不運は他の人の幸運ということも、よくある話しや。貧乏籤を引いても、誰かにお裾分けしてるんやと思えば、腹も立たない。善し悪しも、人類史が発生してからの「原点」に思いを致せば、そもそもそれほど目くじら立てるほど良いことか悪いことかは、決められない。因果はめぐる風車じゃないが、ずうっと昔の顔を名も知らないご先祖さんがなんぞ悪いことをしたから、何十代も後の「わたし」に応報がめぐってきたと思っても構わないが、それは、自分の子や孫や子々孫々のことを考えて「いま」を生きていきなさいという「教訓」にすぎない。袖振り合うも他生の縁。彼岸で極楽に行けるからねと言うのも、善き振る舞いを肝に銘じることであって、天国があるかどうかはわからない彼岸のこと。

 となると、とどのつまり、(5)を心掛けるしかない。まずは社会的な仕組みをできるだけ整えることに尽力する。そして世の中の人の力と扶けを借りながら、自己責任で生きていけるように、公私に亘って活動する生き方をすることだ。私の好みを入れれば、心地よい文化を後の世代に遺せるように、社会関係をやわらかくつくりあげることを年寄りは心がけたいと願う。

 そうやって生きて行ければ、三途の川も独りで渡るのが怖くないってことになるんじゃないか。閻魔さまの審判に臨んでも、奪衣婆の再審議に出くわしても、(5)を心がけて振る舞ってきたよと思えば、他人を巻き添えにしなくても三途ロスにはならない。

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