2022年1月26日水曜日

父権主義の殻を破る

 1年前の記事「もう一つのアン」に触れて、書き記す。

 カミサンが録画したTVドラマ「赤毛のアン」をチラ見した。昔日のイギリスの地方を舞台に、高校生になったアンたちが「新聞」を発行し、その土地の人たちに読まれ、アンの書いた(女性の自律に関する)論説が有力者の反発を引き起こし、同時に同級生への中傷として顰蹙を買い、展開していく。テーマはジェンダー・ギャップ、女はかくあるべしという身にしみ通った通念とのぶつかり合い。男と女、父親と母親、親と娘、女子と男子という入り組んだ「かんけい」が錯綜して、展開する。細かい点にまで視線が及び、イギリス社会を描くのに時代劇というよりも今風のドラマにさえ見える。

 いまのイギリスがどうなのかは知らないが、しかし、しっかりと共同体がひとまとまりになって紐帯を持っていると見える。まず高校生の発行する新聞が、その土地の人たちに読まれている。アンの論説に驚いて、新聞の掲載内容を評議委員たちの許可制にしようという動き、それを押し返そうと高校生が一計を案じ、母親たちがそれを支援するという運びは、過程や階級文化の保護膜がしっかりと作用している。

 思えば、高校生を一人前の人として遇するということを、現代日本でも未だしていない。18歳以上の選挙権が与えられてはじめて、高校生の政治活動との関係が論題に上るかと思えたが、それもまだ及び腰。学校における政治活動は、模擬投票というごっこ遊びに範疇を出ていない。

 だが社会は、TVドラマの「赤毛のアン」のように、高校生をも巻き込んで言葉を交わさなければならない様相を呈している。その受け皿というか、ステージさえ設えられていないのが、日本の現状である。学校は学校というネットワークだけで孤立している。街は市場という社会関係だけで広がっている。SDGsの「課題」についてさえ、市民が言葉を交わす「場」がどこにもない。そういうのをコミュニティというのか、と私は疑問に思う。

 マス・メディアは、自分の設えている「場」が舞台だと思っているのかも知れないが、そんな、いつも普遍的に語っている「舞台」なんぞは、市井の民が言葉を交わす「場」にはなり得ない。むしろ、時代劇の舞台である江戸の庶民の方が、身分制という保護膜にも包まれて、人が人と言葉をやりとりするのにふさわしい「場」を持っていたと言えるように思う。

 四民平等という言葉と引き換えに私たちは(百数十年かけて)、一気に保護膜を振り捨てて個人という姿で孤立無援の大海に身を投じたのかもしれない。コミュニティを壊してしまったのは、資本家社会的な市場経済だけではない。四民を一絡げにして「天皇の赤子」とみなしていった共同体制の作り、「家族」という保護膜に全面的に社会保障的な装置を押しつけてきた「公性」、地域共同体を統治制度として扱ってきた行政の「上意下達」システムなど、未だに残る政治や社会システムと資本家社会的市場との齟齬なども、市井の民に作用している。

 父権主義的に、「女・子供」を保護されるべき者たちとして扱う時代は、過ぎ去っている。女・子どもは、保護膜を失って、あるいはすでに殻を破り、自律への道を歩み始めている。父権主義的な振る舞いは、彼らを保護するものではなく、抑圧する作用をしているのだ。そういうことを、大人の男たちは肝に銘じなければならないと思った。

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