seminar準備の話を続ける。第14回「野球の何が私を魅了してきたか・大リーグのすごさを読み解く」を読み直していて「★ 審判の属人性が色濃いアメリカ野球」で講師が「アメリカの審判って、スリーボールの時にボール球が来てバッターが自分で判断して歩き始めると、必ずストライクっていう」と、審判しているのは私だと権威を示す属人性が目にとまった。去年は大谷フィーバーで大リーグの画像をたくさん観させてもらったが、その中で目にとまったのが、上記の審判の「権威誇示」であった。大谷投手が投げた明らかな内角のストライクにボールの判定をした。次の一球を大谷は同じところに投げた。それを審判は、またボールの判定を下し、敵応援団からも大きなブーイングが起こったという場面。映像は審判の判定違いをくっきりと示している。seminarの話を聞いて以来ずーっと内心に蟠っていた疑問が、ムクムクと頭をもたげる。
この、アメリカとの違いは、なんだ? 日本の私たちは、野球の審判というのは、人がやるけれども客観的に判断基準があるみている。つまり、審判は「神に変わって」判定を下している、と。だがアメリカでは、そんなところに神はいないといわんばかり。審判が判定するとみている。つまりルールというのは「(審判の)支配」であるという原義をきっちりと押さえている。ところが日本人の心性は、八百万神の一人である野球審判の神が下す判定を、依代である審判が口にすると考えているようだ。そこには「支配」という、人と人の関係がもたらす要素が欠落して、自然のことと受け止めている。
この両者の違いは、人と人とが結ぶ社会関係においても、支配という上下の関係や強弱の関係が基本だということをないかのように受け止める心性につながっているのかも知れない。だから逆に、「支配」が恣意性を感じさせると酷いなあと受け止める心持ちにつながる。アメリカの審判のような「恣意的な振る舞い」は、日本では受け容れられない。だが「支配」ってそういうものよと見ているアメリカ人は、トランプ前大統領のように自分のために嘘をついて有罪となった元政府高官を「恩赦」するという暴挙を、隠そうともせず平然と行う。もっとも、安部宰相も似たようなことを財務省の高官らに対してやっていたか。日本も、事情が変わってきているのかも知れない。
そんなことを考える一つの基点となっているのが、seminarのまとめという定点である。そういう観測点の足場をつくっておいて良かった。そう思いながら、振り返っている。
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