2022年1月27日木曜日

制服組の苛立ちか編集者の物語か

 図書館で手に取った小説に珍しく「編集後記」が付いている。それを読むと「情報」は《「正しく処理されたかどうか」が重要》といい、ただの「情報」はインフォメーション、「正しく処理された情報」はインテリジェンス特別されると続ける。そして、

《近頃の日本人は荒んできた。民度が低くなってきた、とテレビなどで真剣に危機感を訴える人もでてきました》

 と記している。小説の「後記」としては、読み方を水路づけようとする意図が露わで、変な感じ。じゃあ本文はどうかと思って読んだ。門田泰明『存亡』(光文社、2006年)。

 陸上自衛隊の中央即応集団「打撃作戦小隊」、謂わばグリーンベレー。何処とも知れぬ外国からの、初め何を意図しているのかわからない散発的に、そちこちで始まる侵略の兆しに敏感に反応して、武力対応をする。その活劇のお話しであった。登場する「打撃作戦小隊」の若者たち、その報告を防衛大臣に揚げたときの、政治家や文民官僚たちの引け腰、及び腰の、見当違いな対応を滑稽に対象化し、現場の「小隊」の活躍を描く。若者たちの捨て身の熱意は描かれているが、為政者たちと市井の庶民と彼ら青年下士官たちのギャップの描き方が、すっかり別世界になっていて、漫画を読んでいるというか、ハリウッドの凄惨な活劇映画を見ているような気分であった。

 麻生幾の小説だったかに原子力発電所を北朝鮮ゲリラが襲うという想定の作品があったかと思うが、そちらはいかにもありそうなリアリティを湛えていたと思う。この「ありそうなリアリティ」の源泉は、たぶん表現の問題だと思うが、市井の庶民の日常と重なる感触が文面のベースに感じられるかどうかではないか。門田の作品は、そこに焦点を合わせていないから、登場する為政者や市井の民の胸中がどこかに行ってしまっているのだが、たぶんそれに気づいた「編集者」が「後記」を記して、リアリティの補充をしたのだと思う。だが、それって作家を編集者が利用してるっていうか、作家の褌で編集者が相撲を取ろうとしてる姿じゃないのか。

 編集者が、「後記」に記したような思いを持っているのであれば、門田の描くそちこちで起こる事態をインテリジェンスに高めていく(政治)過程を描けと作家を使嗾すればいい。それをしないで「後記」で埋め合わせようとするのはお門違いだ。

 現場の青年下士官は「職務専念」が、すなわち「命令」を受けて命懸けで事態に対応することと心得て、それがどのような扱いを受けているかに思いを及ぼさない。そうすることが、文民統制の本意とみているようにさえ思う。統制する側が、机上論に終始することは、どんな現場でもよくあること。昔、「兵士に聞け」という記録が出版されたことがあった。そこに記載された自衛隊員の言葉は、(その言葉の評価は別としても)誠実さに溢れていた。門田の小説から、もしそこだけを取り出せば、制服組の職務に対する誠実さが浮き彫りになるが、文官為政者に対する苛立ちは書き込まれていない。

 ここに現れているような編集者の「勘違い」とは、自分たちには見えているが、為政者や市井の民はみていないという(エリート性の)物語が底流していることだ。何故、自分たちにはインテリジェンスと見えていることが、ほかの人たちにはインフォメーションにしか見えないのか。そこを「平和惚け」と規定して誹っても、少しも解明したことにならない。それを探求することは、平和惚けの人たちの「情報処理」を分節化するだけでなく、自らの危機意識の「情報処理」の仕方をも描き出すことになる。それこそが、根柢から社会意識を組み立てていく民主的方法なのだと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿