2022年12月31日土曜日

師走の気配

 3日前に芦屋の孫が一人でやってきた。大学生になって、親とは別に行動するようになり、友人と会うなどの宿泊地にするつもりなのかもしれない。その翌日に名古屋の孫が家族でやってきた。こちらはまだ高校生と中学生。従兄弟同士で交わす言葉が、一寸した遠慮というか、互いの立ち位置を尊重した物言いになっていて、「面白うて喧嘩になりぬ」幼い頃の遠慮会釈のない遣り取りと違って成長を感じさせる。

 正月に奥日光へ行く。今年からスキーではなくスノボをしたいという。大学生の方は、バイトで稼いだ資金で自分好みのウェアなどを購入したいという。高校生の方も靴や防寒の品が必要というので、そちらは父親が付き合った。

 最初,スキーなどのスポーツ用品店を検索したら、大宮西区に昔ながらの大規模店があることが分かって、車で足を運んだ。11時からというので少し待たされたが、開店して店員に聞くとゴルフ用品しか扱っていないという。ネットには特売しているような案内があったよというと、そんなこと私にいわれても・・・と困ったような顔をしている。昔の大型店が、電話機も含めて売り払って変わってしまったのかもしれない。ネット情報は、削除して置いてほしいものだ。

 近くのスキーなどのスポーツ用品店を検索すると、与野区にあった。そこへ向かう。大型店舗というより一つの街といった方がよいような3階建ての総合店舗のごく片隅に、結構大きなスポーツ用品店があった。人が多い。いくつかの防寒用品の「男性用のは売り切れ」といっていたから、年末と正月にかけて野外活動へ向かう人は多くなっているのかもしれない。

 孫たちは、言葉を交わしながら品定めをする。二人の靴の大きさが28センチといっしょだという。170センチを少し越えたばかりの高校生孫も180センチを超えている大学生孫に、いずれ追いつくかもしれない。そう思ってみると、二人とも本当によく食べる。まさしく成長期だ。

 お目当ての品が何処に置いてあるのかわからないほど大きい。店員に聞けばいいのにと私は思うが、若い彼らは聞こうとしないで、タグを子細にみて、同じように見えるこの二つの品が倍ほども値段に違いがあるのはなぜなのかを考えている。ああそうか、私世代はアナログだからすぐに店員に尋ねる。だが若い人たちはデジタル世代、人の手を煩わせることにためらいがあるようだ。そういう気遣いをみると、若い世代は人と接するのにうんと優しくなっていると思った。

 大学生の孫は自分の懐具合と相談しながらあれこれ迷っているのが、微笑ましい。なんと2時間も掛けて買い物をし、お昼をフードコートで済ませて帰宅した。滞在時間は3時間ほどになった。私にとっては、久々の雑踏。若い人の好みというのが、TVなどで観るほど私世代とかけ離れていないのに,ちょっと安堵する気分でもあった。

 さて、出かける準備をしなくてはならない。夏から秋にかけて、部屋の片付けや移動などで品物を動かしたせいか、いつもの場所にない。はて何処に置いたか、探し物をすることになった。井上陽水の「さがしものは何ですか~」と声が聞こえてくる。

 のんびりとした年の瀬だ。夕食には7人分の蕎麦を打つ。その段取り手順も考えなくちゃあならない。

2022年12月30日金曜日

自問自答は生命史への旅

ミヤケ様/ツナシマ様/皆々さま

 お送りしたエッセイ「生きてきた世界の違い」(2022-12-19)にお目通し下さり、ありがとうございます。ミヤケさんには、いずれ、量子力学的な観点から,かかわる部分の見解を教わりたいと思っています。とりあえず、今日は、ツナシマさんの感想に,少しばかり付け加えておきたいことを記します。

(1)《これに対して「ヒトのクセの動態的プロセス」というのは、ヒトをより根源的にとらえ、ヒトを宇宙・自然の中の生命体の一つとして捉えようとするものであるかのように感じました。》

 その通りです。わが身を含めて「人間」のことを「ヒト」と表現するのも、「量子力学的な観点から・・・」とミヤケさんにお願いするのも、わが身が「宇宙・自然の生命体のひとつ」とみているからです。いや、みているだけでなく、「宇宙・生命体」の歩んできた径庭が堆積しているのが、わが身・「ヒト」だと感じています。そのほとんどは無意識ですから、ワタシにとってはほぼブラックボックスです。ですからひとつひとつわが身が受け止めた「感触」の根源を探り、はてそれは何だろうと問うことだと考えてきました。その自問自答を,哲学することだと思っていたこともあります。しかし、「後に掲げるエッセイ」のように、そりゃあ違うよとホンモノの哲学者に軽くいなされてしまいました。ご笑覧下さい。でも門前の小僧であるワタシのテツガク的志向は間違っていないと思っています。

(2)《人のクセのトップに感情がきていますが、感情は生命や本能に近く、生存に必須なものと私は認識しています》

 前述の自問自答のアタマに「感情」がくるのは、ワタシがセカイを感知するのが、それだからです。通常セカイを感知する感官を五官といいます。眼・耳・鼻・舌・身と、感知する箇所で表現したりしますが、それらで感知したことを身体全体でひとつに総合して、外部からの刺激としてセカイを感じています。それをワタシはココロとみています。逆に表現するとココロは世界を感知するセンサーです。仏教では心身一如という言葉を用いますが、五官の感知器官のひとつとされている「身」が「心」とひとつになってココロとして働いていると考えています。それほどに五官の働きは繊細精妙であり、五つに分けて扱えるほど単純ではありません。すべてがつながって外界とワタシを連接させて、「身」として反応しています。それを、「生命や本能」と一括してしまうと、あまりに大きくとらえすぎてしまうために、身の裡の微細な働きに目が届かなくなります。

「知・情・意」というとらえ方で、ヒトのタマシイの作用を取り上げようとするのも、「身」と「心」を分断していると感じます。肉体と精神を分断して、精神こそがヒトを象徴する気高いこととし,逆に(それによって)肉体を,ただの物として貶める考え方を西欧キリスト教世界はしてきました。

 ツナシマさんが「プーチンを理解できるか」と論題を立てていますから,ちょっと逸脱して、ロシアの人々の肉体理解に触れますが、30年ほど前に週刊誌で目にして驚いたことがあります。藤原新也という写真家が撮ったロシア(ソ連?)の屍体工場の写真だったと思います。極寒の地の大きなプレハブ工場の広いスペースに山のように積み上げられた人の死体です。それを解体して(何かの)利用に供するという趣旨のコメントがつけてありました。そのとき私は、ロシア人のこの人間観には付き合えないと強烈に感じました。魂の抜けた肉体はただの物というのが、彼らの自然観だと思ったのです。それ以来、キリスト教世界の自然観には用心してかかろうと思いました。確かに,何でもかでも大雑把に一括してかかるのは間違いの元ですが、この初発の印象は、いまだに拭えません。

 さて話を本題に戻しましょう。

 わが身の裡に、人類史ばかりか生命の歩んできた道筋がことごとく堆積しているという直感は、ワタシの姿勢を正すのに大いに貢献しています。ミヤケさんが宇宙の果ての考察が宇宙の始原を観ることと同じと指摘したことも、同じ感触で受け止めました。つまり、わが身の裡への視線が、世界を受け止めることと等質の重みを持つという充実感です。ワタシが感じていること、ワタシが考えていること、ワタシが想像することは、全人類史ばかりか全生命史の堆積である。その感覚や感性、直感や感情、思索の流れや価値意識も、どこで、なぜ,どう身につけたかと、根拠を問うことがじつは、全生命体の歩みとを問うことと等質だという直感でした。

 こうしてワタシの自問自答の旅がはじまったのは、還暦で仕事をリタイアしてからでした。ハマダさんやミヤケさんと(再び何十年ぶりかで)言葉を交わしはじめたのもその頃でした。それがこのseminarにつながったと思っています。

 とりあえず、ツナシマさんのコメントへの私の感懐を綴りました。でもね、このワタシへの旅が、門前の小僧の戯言かもしれないと指摘されたのが、冒頭にお断りした「後に掲げるエッセイ」です。別送しますので、こちらもご笑覧下さい。

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 皆々さま

 相変わらずコロナは勢い盛んですが、2023年1月22日(日)13:00~16:30 seminar会食を行います。元気でまた、顔を合わせることができますように、お身体に気をつけてお過ごし下さい。

 佳い年をお迎えになりますよう。

2022年12月29日木曜日

ピンポイントの今を生きる

 12/28となると、年の瀬も押し詰まったという気分になる。リハビリに行く。病院もこの日で1/3までお休みとあって、患者が押し寄せている。だがリハビリ士は、施療をしながら世間話をする。正月にどこかへ出かけるか、と。ははあ、この人は出かけるんだなと思ったから、こちらの話しを少しして、あなたは? と問いかける。案の定、妻の実家の豊岡に行く、妻と子らは一足先に今日出かけ、自分は明日出発する。話しぶりから、関西は僻遠の地のように感じているようだ。

 驚いたのは、私の実家は岡山の南部と話したとき、オカヤマってヒロシマの向こうかこっちかと聞いたことだ。そうか、岡山に住んでいるものにとって、たとえばトチギとイバラキは? っていうと、どっちがどこにあるという位置関係がわからないのかもしれない。そうだね、ヒトはその暮らしの中で直接関わりのないことについては、慮外のこと、僻遠の地と思っても致し方ない。

 ではなぜワタシは、そうした地理的な位置関係を熟知しているか。今の学校ではどうしているのか知らないが、小学生の時には、日本列島の河川や山脈、大きな湖沼や古くからの街道、都道府県の位置、あるいは特産物など地理的な「知識」を、今思うと、まるでクイズのように覚えたものだ。今はネット検索をすればすぐにワカル。検索すればすぐにワカルことを覚えてどうするというのが時代的風潮だ。昔風に謂うと、「知」が単なるデータになった。だがそうだろうか。

 検索すればすぐワカルというのは、必要になったら検索すればいいということを意味する。だが、闇雲に覚えていたことが、あるときパッと閃いて目下のデキゴトと結びつくという経験をしたことはないだろうか。ただただ覚えるというのは、その覚える事項の意味合いがワカラナイことを意味する。都道府県の位置関係や、それと河川や湖沼、山脈の所在とがヒトの住むところ、暮らしを立てる知としての空間的なベースをなし、それ故に、その感知は創造力の大きな力になる。駆動力となり、現実的な時間と空間の移動という感触につながり、その感触にまつわるデキゴトに接したときにリアルを持って受け止める触覚を育てる。知っているということは、その筋の触覚のセンサーを持つことになるのだ。

 もちろんそれは国内の地理的な関係事項ばかりではない。世界の国名とか面積的な大きさとか、人口的な規模などにも通じること。私たちは何かコトが出来し必要に応じて、その地のことを意識するようになる。そのときには、ただ単に地名や人口規模とか広さといった大きさばかりでなく、デキゴトにもつ地理的データが起ち上がり、ヒトの営みが経済的・政治的・軍事的・文化的な色合いを添えている豊かさを感じる。今年の大きなひとつでいえばウクライナがそうだ。ロシアの侵攻によって、それまでまとまりのない茫洋とした国家と思われていたウクライナが、一挙に国民国家としての堅固な集約点をもって動いている。人々の、というかヒトの営みが連綿として受け継いできたコトが、良くも悪くも浮き彫りになる。それにワタシが深い関わりを持つことが実感できるのも、ワケ知らずわが無意識の中に溜め込んできた「データ」があったればこそだと、振り返って思う。

 冒頭「クイズ的に覚えてきた」と記したのは、幼少期のヒトの好奇心に導かれていたことを指していた。それにとりかかろうとする時機に、「検索すればワカル」と水を掛けられると、たぶん自分の好奇心がつまらないことに見えてきて、消し去ってしまうであろう。「検索すれば代わる」というのは、データ検索を覚えたすっかり大人になったヒトのいう言葉であって、それが如何程に浅知恵であるかは、己の知恵・知識がどれほどに無意識の裡に身につけたことによって支えられているかを忘れた振る舞いかに目をやれば、判る。わが身の来し方を振り返り往き来して参照してこそ、そう感じられる。そのココロは、ワタシには見えていないことがずいぶん多い、である。

 「知」が単なるデータになった。だから、データの使い方を直に教育せよ、アタマの使い方を訓練した方がよいというのが、今風な学校の風景だろう。だがそうだろうかとワタシには疑問がついて回っている。

 いつだったか、私の高校の同窓生で車の設計・製造を生業にしてきた男がいる。彼が現役の時、ドイツの自動車会社の幹部たちと言葉を交わしたとき、経営者が車がどのように設計・製造されているかに頓着しないで、製造経費をどのように詰めろと指示命令しているのを観て、驚いたと話してくれたことがあった。そのときは、ヨーロッパと日本との製造現場と経営者との立ち方の違いを論題にした場であったから、謂わば会社の中の分業が経営者の戦略的な視線を養い、現場は現場でその指示命令を受けて工夫を凝らす素養を培っていると終わった。だが、データとその使い方との教育の方法を巡るコトで、それを思い出した。

 会社経営では、経営者の市場を踏まえた戦略的思考が要求する無理難題を製造現場がやりくりして凌いでいくことによって、全体としてうまくいっている/破綻するということになろう。だが、それぞれの領域の担当者間で暗黙に了解している、謂わば無意識の働きによって乗り越えている部分が結構多く、そのことに関知しないで済むのは、運びが順調なときだけなのだ。

 一人のヒトが自らの無意識部分を分けて取り扱うことはできない。「データを覚えるのに等しい」とそしられる知恵・知識も、それを覚えている間にどのような世界認知の文法作用が働いているか、ワタシは知らない。子どもが言葉を覚え使いこなせるようになる間に、複雑な文法作用を身につけ、時に間違って、へえ子どもって面白い発想をすると笑いを得、ときにバカだなあと嗤われて心裡で修正を加えてゆくことは、多くの親が、そして多くの子ども時代のワタシが経験したことである。それを私は不可思議と呼んでいるが、ヒトというのは、身の内奥でそういう不可思議なメカニズムを働かせながら、言葉を操る方法を覚え、ヒトの社会の群れに身を投じていっている。その無意識の部分を、ただ単に機械が代替するようになったというだけで、データ処理として切り離して処理していいものとは、思わない。

 こうも言えようか。データ部分を機械任せにするというのは、アタマのデータ処理部分を外部化することだと。外へ出してしまったとき実は、それを内部処理していたときの無意識的に醸成していた世界認知の奥行きもまた、内部から放逐されてしまう。そうして、データを処理する方法が教育されて養われる部分が、果たして放逐されてしまった部分を補うだけの奥行きを保つかどうか。ヒトの意識する部分の方が、無意識の部分よりも遙かに少ないと自覚しているワタシにとっては、明らかに深みは失われ、浅薄になると思う。ヒトがそう変わっていくこと自体は止められないが、つまらないデータを外部化しただけでなく、ヒトのセカイをとらえる深みをも失うことだと知っておかねばならない。古語古典を読み書きしていた時代の人たちの内奥の深みを、現代のワタシは失ってしまっているという自覚と重なって、それは申し訳ないことをしたと私は思っている。ワタシもまた、ピンポイントの今を生きているに過ぎないのだね。

2022年12月28日水曜日

三位一体のワタシ的理解

 食卓について「父と子と精霊の御名において、アーメン」と祈りを捧げて食事をはじめる場面を映画などでよく見てきました。キリスト教のいただきますだなと受け止めてきました。文化人類学の本を読んでいて、違った文明・文化の地に育つ宗教や考え方も、ヒトの暮らしの根源に於いては、相共通する要素があり、それが形を変えてそれぞれの地の言葉になっているのだと思うようになりました。食卓の祈りの言葉がどういう意味を持つのか、いろいろなキリスト者の解説を読んできました。父は神、子はイエス、イエスの時代にはなかった観念とか、精霊は聖霊だとか諸説ありましたが、神を男としたことによって発生した概念だとか、処女懐胎の不可思議を組み込んだ合理性を保つためにつくられたカトリックの教義だとかあり、三位一体が何か、キリスト教の信仰をしていないものにとって感性の奥底を刺激するものに出逢うことはありません。縁なき衆生かと思うばかりでした。

 それがふと寝床で思い起こり、わが胸中でひとつになって氷解するように感じたことがあります。それをほぐしてみました。ま、謂わば、ワタシ流の自然信仰的「三位一体」とは何かをお話ししようというわけです。

 閃いたのは、父=過去、子=未来、精霊=現在、という見立てです。三位一体というのは、その、時制で表現したわが身の、心身一如。わが身に受け継がれているのは、いうまでもなく父性原理や父権主義的なジェンダーから自由な、生物学的な生々流転の継承だ。つまりワタシの現在に、過去も未来も一体となって存在しています。

 キリスト教では、旧約聖書由来の父権主義的なジェンダー意識がすでに埋め込まれています。また、それとも関係するが、身体と魂を別物ととらえ、魂に永遠性を託す発想も埋め込まれています。だがワタシの自然信仰では、それはことごとくワタシに体現された「時間」で表現される「空間」的実在がひとつになって、次の世代へと受け継がれてゆくヒト的=文化的連続性なのであって、性も実存も、あるがままにワタシなのですね。どなたかの言葉を援用すると、動態的存在なのです。

 以上が、今朝の寝床で私のアタマに閃いた「三位一体」の腑に落ちた実感でした。それがキリスト教の教義とかその解釈と符節を合わせているかどうかは、まったく感知しないのですが、たぶん、この辺りの実感を身の土台のところで共有するキリスト教徒たちが、思いついた言葉なのではないでしょうか。あるいはこれがベースに於いて実感できるから、その人たちは言葉を信仰しているのではないかと思います。キリスト教徒の胸中は、知りませんけど。

 こういうワタシ的理解を口にすると、それは一知半解、もっとちゃんと古今の言説を参照しなさいと、その筋の方々は言うに違いありません。そうなんだよね。門前の小僧はついに境内には踏み込もうとしませんでしたってワケだ。でもね、三位一体というキリスト者が謂っている言葉の意味を確定して新説を提示したいわけじゃないんですよね。ただ、キリスト者とワタシとがまったく違うセカイに身を置いているとも思わないのですよ。どこかに接点がある。その接点のところからほぐしていけば、同じ地面に足をつけて暮らしているとワカル瞬間がある。そんなことを思っています。

 あっ、ワカルというのは、ワカリアウっていってるんじゃないんです。相互の理解が大切って、向こうさんにも理解を求めているわけではなくて、ワタシが異世界の方々をリカイできればいいのですから、一知半解も全解も、向こうさんに伝わらなければ、殆(あやう)いだけで終わります。ただもしどなたかこれを目にして、一知半解だなと思われるか違いましたら、いや一知全解はこうだよと教えて下さるとありがたくは思いますがね。

 今のご時世もあるのでしょうか。近頃やたらと、身を護ることに意識を傾け、つまりそのために外からの言葉を攻撃的に受け止め、攻撃されると痛いだろうなと思うから、だったらやられる前にやってしまおうと、先制攻撃事態とかいって飛び道具を調えようとする気配が濃厚になっています。ウクライナになっては大変だと、対岸の火事に敏感に反応していますよね。中にはスズキムネオさんという方のように、ロシアの言い分もリカイしなくちゃいけませんよと取りなす方もいますが、なぜ彼がロシアの肩を持つのか、その根拠が少しも披瀝されない。ただただ、ロシアを悪者にしていいのか、NATOだってアメリカだって、こんな不埒なことをしてるじゃないかと言い募ってばかりです。そんなことを言わないで、何でロシアに肩入れするのかを、心情のベースに降りたって、わが身の裡と響き合うように語り出せばいいのにと、岡目八目は思います。あ、ちょっと、卑俗へ近づいてしまいましたね。

2022年12月27日火曜日

年寄りの小言

 やっとモンダイ大臣を更迭することになった。政治資金に端を発し、選挙のときに息子が本人に代わって襷を掛けて選挙カーになるなどの不正が指摘されてきた。任命したキシダ首相は「本人が説明責任を果たして」と言い続けて、とうとう年を越すかという段になって更迭を決断した。何でこうなるのか。

 モンダイ大臣が自民党の派閥推薦で任命したからだ。つまり、この大臣を任命したのはキシダ首相ではなく、当の大臣の所属派閥のボスだった。キシダさんには、罷免権も形式的にしかなかったと言える。だから首相は本人に「説明責任を果たせ」と言ったのであろうが、キシダ首相自身がなぜ彼を任命したのか、説明責任を果たさなければならなかった。にもかかわらず、あたかも他人事のように「説明責任」が本人にあるような振る舞いであった。そうか? 

 大臣の登用が派閥推薦できまるのであって、じつは首相にはない。それを政治家もメディアも、その情報を受けとる人々も知っているから、だれも「説明責任をしろ」という首相の言葉をヘンだとは言わない。まるで、国会政治スクラムでも組んだみたいに、メディアも連日そういう報道に満たされていた。つまり、タテマエがすでに形骸化して行き渡り、ホンネのところで実政治が運んでいる。だからキシダ首相も、ホンネで「ワシャ知らんもんね。ちゃんと説明しなはれ」と他人事にように言って何憚ることはなかった。スクラムメディアも、それをよく知っているから、そのことをモンダイにしない。

 アベさんの時は首相自身が最大派閥、モンダイがあればその大臣の推薦派閥が責任を持って始末しなさいと派閥の領袖に要求することができた。だから彼は、罷免する必要はないと突っ張ればそれで済んだ。今のキシダさんにはその力がない。ますます下世話週刊誌の報道に振り回され、私ら庶民は、政治世界の人々はすっかり腐っていると再認識している。

 これは、何だ? 何を取り替えねばならないのだろうか。タテマエをタテマエとして取り戻して、ホンネを恥ずべきこととして抑え込む道か、または、派閥の領袖が選んで大臣に送っているってことを、周知のこととしてではなく明らかな御正道、つまりタテマエとして掲げて、それに遵って派閥の領袖に「説明責任を求める」。首相の任命責任がカタチだけしかないのなら、そんなものは屑籠に入れて、裏の密談とか取引とか根回しというのを表側に引っ張り出して、それをタテマエと一致させる。裏表をひっくり返せばいい。恥ずかしがることはない。トランプもそうだし、プーチンもそうだ。#me-firstを堂々と掲げてくれた方が、反対する方も論議が回りくどくなくていい。

 たぶんこれは、「恥の文化」といわれた日本文化が覆る、決定的な臨界点に来ているのだと私は思う。それはじつは、欧米渡りで入ってきた近代的な理念が、じつは単なるホンネを覆い隠す外套でしかないという日本人のタテマエ理解を正面に押し出す。人ってのはそんなメンドクサイ上着を纏ってしか他の人と向き合えないメンドクサイ文化を創り上げてきてしまった。

 日本ではそれを、タテマエとホンネ名付け、表と裏の二枚の意思疎通経路をとってきた。人が表で喋るのはタテマエ。それを聴く方はそのホンネを推しはかる。あるいはそれを忖度する。上司のホンネを察知・忖度して対応する下僚こそが出世をするに相応しいという文化が、ここ1200年もの長い間の錬磨を経て、列島全体に行き渡り、時代的な変奏を加えて作り上げられてきた。

 それが、もう無用の長物だということを明らかにしたのが、グローバル世界のトランプさんの振る舞いであり、アベさんのモリ・カケ・サクラであった。いや、いくらなんでもあからさまな、と感想をしたのは戦中生まれ戦後育ちの私たち、すでに後期高齢者の老人たちであった。知識人という人たちは、ご自分の纏っていた衣装と現実政治のズレを調整するのに懸命に理屈を繰り出すが、もう誰もそんな専門家の声に耳を傾けようとはしない。

 じつはほとんどの国民は、王様は裸だと知っている。王様も裸で何が悪いと居直る。でもそれでは、いくらなんでも恥ずかしい部分が丸見えじゃないのとメディアも騒ぐから、忖度したかつてエリートと呼ばれた下僚は、恥ずかしい部分を削り取って見えないようにした。下僚に仕える木っ端役人が、手を染める罪の大きさに心を傷め自らの命を断つ。そのことを問われた元エリート下僚も王様も、ワシャ知らんもんね、を貫き通した。王様は晩節を汚すこともなく、まぐれ当たりの手製銃に斃れ、その非業の死という部分だけが王様の裸を知っていた国民の心を打ち、国葬儀にうなだれたってのが、一幕の終わりとなった。

 これはしかし、ホンネとタテマエの交代劇であり、じつは日本文化の大きな転換点を画するデキゴトであった。背景にグローバルな、理念と目前実益の交代というもっと大きな交代劇が展開していたから、主役たちはいよいよ恥知らずに突き進むことができたってワケだ。

 そのことをどうして感知できたか? ワタシらは旧世代。押しつけられた日本国憲法の理念を身に染みこませて、それを実現することが日本の進むべき道と信じて、戦後の経済一本槍の世界を渡ってきた。それはそれなりに現実化したから、誇らしくもあった。だからタテマエとホンネという使い分けすら脇に避けて生きることができた。ホンネにタテマエの外套を着せるなんて恥ずかしいとさえ思った。そうした身に染みた世界の見立て方をしてきたから、上記の交代劇がよくみてとれる。すでに引退して渦の中に巻き込まれていない。傍観しているものにとって、渦中の混沌は、面白く、かつはっきりとみてとれるのだ。 

 こうして俯瞰してみると、もはや戦後民主主義の着ていた外套はすっかり剥ぎ取られ、経済一本槍で過ごした戦後政治現実の最良の部分を継承していると自称するキシダ首相は、すっかりホンネをさらけ出して「説明責任を果たして下さい」と、ご自分に任命責任など存在しないことを、恥ずかしげもなく口にするようになった。彼も時代の波に揺られて変わりゆくご自分の姿が見えないんだね。言葉と有り様のズレがアベさんほどうまくない。ワタシらは外套を脱ぐよりも人間の皮を脱ぐのが先になるから、行き詰まりを感じないで彼岸に渡る。これからの人が大変なのかどうかは、わからない。

 人として恥ずかしいことはしないでねというお袋の小言が、ちっぽけな世間を気にして生きる人の卑小を思わせていた、だが案外、人類史に照らして恥ずかしいことはしないでねと、現実世界の舵を取る世界の政治家たちに言えるのかもしれない。年寄りの小言として。

2022年12月26日月曜日

分業に分断された思索

 年賀を仕上げて投函した。後は、喪中葉書をくれた方のうち、ことに親しい人のそれに、「お見舞い」を書かなくてはならない。こちらは年賀のように概ね一様というワケにいかない。亡くなった人の顔と喪に服している人の顔を思い浮かべて、文面を一つひとつ書き留める。冒頭表題を「寒中お見舞い・・・」としておいたらカミサンが、それは正月松の内が明けてからよと言われ、では「喪中お見舞い・・・」にしようかと言ったら、聞いたことがないと返された。結局、表題は置かないで書き始めることにした。

 こうして考えてみると、祝いごとというのは、人によらず大雑把にメデタイで済ませて触りはないが、悔やみごとというのは、人の顔が個々別々に浮かび上がらないと失礼に当たると感じる。どうしてなんだろう。

 祝い事は須く、人と共に言祝ぐ。皆が集まってワイワイとやるから、祝い事の当人たちやその関係の人たちも賑わいの中に溶け込んで、一向に構わない。ところが悔やみ事というのは、喪に服する一人称の方もいれば、二人称の方もいる。見舞いをするのはたいてい、三人称の立場だから、その立ち位置に気を配ってことばを遣わなければならない。その違いが、言葉遣いに現れる。

 理知的に言うと、それらは冠婚葬祭と一言でまとめられる。だが、それは、行事儀式としての習わしやデキゴトを謂うのであって、ある時代とか社会的な習俗がどのように執り行われていたか、人々がどのようにそれに向き合っていたかと考察するときには、一般的な形をとりまとめて表現することはできるであろう。だが、暮らしの中で出来する一つひとつの祝い事や弔い事を、それと同じようにみなすのは、三人称のあしらいである。

 三人称と謂っても、たとえば故人の連れ合いにとって(故人の死は)は二人称である。だが冠婚葬祭は(故人の連れ合いにとっては)一人称である。悔やみをいう友人とか知人としては、故人の死は三人称であっても、冠婚葬祭は二人称になる。共にした空間や時間によっては、連れ合い同様に一人称の立場に置かれることもある。葬祭に参列する時、人は三人称というわけにはいかない。三人称ならば、参列羽することもない。三人称というのは、それらの死や弔い/葬祭を、超越的な視点から眺めている。つまり、どの人称をまとってその場に居合わせるかは、動態的なのだ。

 理知的に冠婚葬祭を考察すると謂うとき、その冠婚葬祭の一人称や二人称の当事者の心情をひとまず脇に置いて見るとはどういうことであろうか。そのようにみるとき実は、弔いの社会的形式を論題にしているのであって、弔いそのものが、その社会集団の何を弔っているか、そこに於いて魂とか身体というのは、どうみなされ扱われているかは、別問題として脇に置かれていると私は思う。脇に置いたことがじつは、人の社会的考察に於いては不可欠の重要性をもつ。しばしばそれを忘れて理知的考察を「限定」抜きで俎上にあげて、普遍的なこととして遣り取りするから、理知的な専門家は政治家に馬鹿にされ、市井の民は、その政治家も含めてつまらない人たちだと思ってしまう。今年の秋に行われた元宰相の「国葬儀」のように、「弔う」と謂うことが抜け落ちてしまって、言葉が取り交わされるようになる。

「知・情・意」と謂うとき、それぞれが独立して社会的な分業体制の中で登場することが多いが、それらが切り離されては意味を失うほどに、世の役には立たない。あたかも、知=専門家、情=庶民、意=政治家という分業が成立するかのようにみえるが、それらがバラバラでは、ほぼ役に立たない。「知・情・意」と分節された人のクセの有り様を、どう総合的にとらえるのか。そこに言及しないでは、どんなことに関しても、何かを言ったことにはならないのだ。

 世界は人がいなくても存在すると考えるのか、考えているのは誰かを抜きにして世界は存在しないと考えるのか。そういう哲学的に根源的なことが問われている。

2022年12月25日日曜日

毒気のマッピング

 人は言葉によっていろいろなことを伝えると言うが、言葉だけではなく、いや、言葉以上に、その背の高さ/低さ、がたいの大きさ/小ささの持つ雰囲気、立ち居振る舞いの粗雑/丁寧とか、声の高/低、響きの鋭利/平坦といった、その人の身そのものが持っている気配が伴って、コミュニケーションが成り立っている。人は言葉を聞くときすでに、相手が何を話しているかを半ば以上に察知して言葉を交わしている。それが人の多数集まる場となると、そこに屯する人々の気配が力関係を働かせて集団的空気をつくり、それへの同調を求めたり、違和感を醸し出したりする。

 つまり人は、存在感という身の「気」を働かせて、気配を交わしているのだが、多人数が集まっているところでは、気配が交雑して何やら賑やかとか、はしゃいでいたり、騒いでいるのがわかる程度に混沌とし、どの人の何がそうなってこうなっているのかさえ、わからなくなる。でも、何かひとつ集中点を持ってそこに人が集まるときは、自ずから気配が同調同期して、それがまたわが身に跳ね返ってきて、いっそう身の裡の気配を強めたりする。それが堪らなくうれしかったりするのは、(この歓びを言祝いでいるのは)独りじゃないという広がりを合わせて感じるからだろう。

 逆に、選挙の応援演説やヘイトスピーチなどに際して、醸し出される気配も、その場に居合わせた人々の集団的気配として、場の雰囲気の強度を強める。そうでなかった人も何となく同調同期して惹き込まれていってしまう。毒気に当たるのである。

 蝶の羽ばたきが竜巻を起こすとか、台風を呼び寄せるということも、そうした集団的毒気がその場にいる個々人の振る舞いから生じると、視線をフォーカスしてみせている。集団的気配地図上に個人の存在をマッピングした表現と言える。

 そのように考えると、スポーツにせよ、選挙応援の集会にせよ、イベントや野外コンサートなど、人が集まるってことには、必ずそういった集団的毒気に身を置きたいという衝動につき動かされている。おしゃべりをしながら宴会をすると、普段はそれほどウマイとも思わないお酒が度を超して飲み過ぎてしまう。これも、毒気に当たりたい衝動が然らしむるところであって、わが身のそうした衝動が潜んでいたのだなと、振り返って思う。これは、ヒトの無意識に身につけているクセとも言えることにみえる。

 それを意識化してどうにかなるということではないが、自分がそうした衝動につき動かされることもあるのだと知ると、その瞬間のわが身を見る目が備わる。時にはそれによってシラケてしまうことにもなるが、少しばかり集団的毒気から身を剥がしてマッピングする働きとなる。それがすっかり身についてしまって、たとえばストレッチ体操の講師が「はい、ここは笑顔で……」などといったりすると、それと逆の振る舞いをしたくなる天邪鬼になる。動作を巻き寿司になぞらえて「何を入れて巻きますか」などと問われると、気恥ずかしくなって、「煙に巻く」とか戯けて言ってみたくなる。困った年寄りになった。

 これも、世の中のメインのありようにどこかで「対峙」しているような、わが身の奥底の無意識が反応するのだから、いまさら更(あらた)めようもない。この反骨というか、世の中のメインの気風に同調同期したくないというワタシの毒気は、何に由来するのだろうか。もっとも手近に思い浮かぶのは、37年前に亡くなった親父の存在感。それに対する反発と、若い頃は思っていたが、歳をとって考えてみると、案外、親父自身が、出征を機に、世の中の権威や権力や、要するに主流の気風に、反発して生きる生き方へ転換したのではなかったかと思うようになった。つまり、親父への反発というのは、アタマで考えたこと。身の方はしっかりと有り様を受け継いで、息子も反骨的に生きてきたよと、彼岸の親父と言葉を交わしているような気分になっている。不思議気分の年の瀬だ。

2022年12月24日土曜日

飲み過ぎの翌日

 昨日は「男のストレッチ」の忘年会。なにしろ間もなく87歳になる方を最高齢者として80歳以上が半数以上を占める。辛うじて60代が1人いるが、後は70代。ワクチン接種も5回以上とあって、三密を心配もしていない。でも、ここ2年半集まることもなかったから、賑やかであった。芋焼酎の一升瓶を2本も開け、お湯割りをくいくいと調子よく飲んだせいで、帰りの足取りは本当に千鳥足。前へ進んでいるつもりなのに、身体はゆっくりと左へ傾く。バランスを取って倒れまいと左足が前ではなく左へ踏み出す。車の通りがくわめて少ない道だから良かったものの、道の半分くらいを右へ左へ揺れ動きながらのご帰還であった。

 何時に帰ったかわからない。風呂に入っていない。歯を磨いていない。パジャマに着がえるのがようやっとだったようだ。服を脱ぎ散らかしている。財布をみると、お金は昨日のまんま。支払っていない。こりゃあまずい。誰かが立て替えてくれているようだ。皆さんへのメールで、誰が立て替えてくれたのかと問い合わせる羽目になった。一番の若手で金銭処理に長けた方から返信が来た。幹事役のMさんが全額クレジットで支払い、私たちは1月に支払うということになったという。よかった。

 飲み過ぎて今朝は身体の動きがよくない。半分残している窓の掃除もとりかかる気持ちにならない。本を読んでいるとうつらうつらとしてしまう。そうだ年賀を仕上げなくてはならない。デザインと文面はできているが、印刷すると色が黒っぽくなってプリンタのノズルが詰まっているのかもしれない。ところがノズルの清掃を命ずる「プリンタ」の「設定」を開くが、「テストプリント」は文字ばかりで色合いが出て来ない。

 何度かやって、こりゃあプリンタがいかれたかと思う。もう5年にもなるか、前のプリンタが故障して修理に持っていったら、修理チェックだけで8000円が要り、それに修理費用がかかる。その説明をしながら、もし新しいプリンタを買うのなら、1万円以下でありますよと言われ、新規更新したのだった。5年も使うと部品もとってなく、壊れるものと業者は考えているようだ。まさしく使い捨て時代なんだね。

 朝早くから出かけていたカミサンが帰宅し、それをみせると、黒っぽい霞がかかったようなのも悪くないんじゃないというので、それで印刷にかかったところ、プリンタから出て来る毎にだんだん色合いが明るくなり、6枚目歩度からはモニター画面の色と同じようになった。なんだ、カラー印刷をするのが久しぶりってことで、暫く使わなかった色のノズルにインクが固まっていて、使うほどに改善されてきたってことか。

 こうして、年賀は無事に印刷が済み、住所の記載も終わった。ボーッとして過ごした割には、ひと仕事したような気分になった。

2022年12月23日金曜日

若気の至りと新しい時代

《冬至の今日は日の出から日没までの時間が9時間44分。明日からは、着実に明るい日中時間が長くなる。身が軽くなるのも、気分と相関している。/古稀時代とおさらばして傘寿時代へ身を移す。そう考えると、身も心も軽くなる。》

 こう記したのは、1年前の冬至の日。4月の事故以来リハビリをつづけ、ようやく前向きの気分が湧いてくるのを感じていた。そして4月下旬になって四国のお遍路に出かけ、2週間ちょっとで「飽きて」帰ってきた。思っていたより疲れが溜まっており、帰宅後しばらくは何もする気が起きなかったが、5月下旬にはすっかり元に復したように思い、デュピュイトラン拘縮の左手掌の手術をすることにして、心臓の事前チェックや検査を行い、それはそれでモンダイがみつかり年を越えて子細検査を行うことになった。一病息災ってことだね。

 こうして7月中旬、全身麻酔の手術をした。医師の判断では順調に手術も終わり、翌日には退院という運び。後はリハビリに通うようになった。ところが、手術部位の、強張りが解けない。確かに拘縮して縮まっていた部分は伸びるようになったが、指を折り曲げると、手の平に指先が付かない。人指し指の痺れは未だにつづいている。2週間毎に診察する医師も、首を傾げる。カミサンは手術の失敗じゃない? というけど、そう医師に確認するのは、とても怖くてできない。

 ただ2週に3回受けるリハビリは、わずか30~40分ずつだけど、一進一退、長い目で見ればほんの少しずつ効果があるようには感じている。でも、もう5ヶ月を過ぎた。左手掌が少々不都合でも山歩きには支障なかろうと、元気な頃なら思ったであろう。だが、身体のバランスは以前より不安定になっている。ストックを握るのに、指が手の平に付かないのでは、親指と人差し指に挟んで止めているだけ。小指や薬指がきっちり締まってこそ力も入るというもの。つまり左ストックを持っている意味がなくなる。平地を歩く分にはなくても構わないが、山歩きに右手だけでは心配になる。

 小指と薬指の拘縮を何とかしようと思った。痛みがあったわけではない。酷いときは残りの指も曲がってしまうことがあるというのに脅かされたわけでもない。寿命とどちらが先かはワカラナイと思っていた。ただ、「人もすなる手術というものを我もしてみんとてするなり」という軽い気分だった。先ずは利き腕だけでもやってみて、うまくいけば次は右手を考えていた。確かに拘縮した指は伸びるようになった。だがまさか、縮まなくなるとは思ってもいなかった。傘寿になるという身の程を知らない若気の至りであった。

 握力を測った。左手は15ほど。右手は30に少し足らない。確か還暦の頃の身体計測で図ったときには40ほどで、ずいぶん弱くなったなあと思った覚えがある。手術しようがするまいが、これじゃあ身体を支えるどころじゃない。左手掌の強張りが解けないのも、伸びた指が曲がらないのも、わが身そのものが、もうリミットよといっているのかも知れない。「治す」というのは、モデル型にすることではない。身にそぐう動きを常態にすることだとすると、今の左手掌のそれは、ほぼ「治っている」と言えるのかもしれない。

 1年前の「古稀時代とおさらばして傘寿時代へ突入する」気分の軽さは、振り捨てるしかないか。手掌の拘縮手術は古稀時代の若気の至り、傘寿時代はもう、そんな好奇心で手術でもしてみようかというほど、身体が若くはない。つまり回復するってことがないんだよと言っているのかもしれない。ならば、今の手掌の常態に身を適応させて、新しい年を新しい、初めて体験する傘寿時代として受け容れて過ごしていくほかない。

2022年12月22日木曜日

ヒトの動態的プロセス

 このブログ記事、「脳幹から紡ぎだされるオマージュ」(2020-12-20)と「言霊の実存性」(2021-12-21)を読んで、こんなことを考えた。

 1年経って忘れていたと慨嘆したことを、2年経って同じように繰り返す。でも考えてみると、夢枕朔太郎の喰い・飲み・咀嚼した萩原朔太郎の言霊を、覚えているとか忘れているという次元で取り上げている限り、少しも身に染みこんでは行かない。

 考えてもみよ。私たちが口にした食べ物が、どう咀嚼され、どう消化され、如何にして吸収されて身についたものとなっているか。その過程を意識の俎上に乗せることができるか。それは38億年の生命史の中で培われ、自ずからなる身の働きとして行われて初めて、ヒトは、その余のことに意識を傾けて暮らしていくことができるのだ。

 とすると「知・情・意」と分節してヒトの活動を表現するのは、ほんのうわっペリのこと。その活動の底に流れている自動化されている生命体としての働きこそヒトの本体だと、上記の文章を読んだ3年目のワタシは思うようになった。

 でもヒトはごくごく表面的なありようで世の人と関わり、それが世間的な世を渡る手立てを交換手段として手に入れる。評判や権威や権力などがそれにまつわって力となるから、ついついそちらに気を取られて、それを本体の活動だと思ってしまう。そう思って表面的なヒトの活動の解析と解釈に力を入れ込んできたのが、科学や哲学などの欧米的な理知的活動であった。

 それとは別の道を歩いてきたのが、アジア的なヒトの考察であった。私が経験的に目にしてきたのはヒンドゥと仏教と儒教や道教の系譜にしか過ぎないが、アジア的自然観と私はひとまとめにして呼んでいる。つまり自然観が欧米のそれと違う。私がここで言う自然観とは、宇宙を含む世界の中のワタシとその世界をみているワタシとの位置づけ方である。

 それは、起点からして食い違う視点を、一つにして感知し、意識しているわが身の不思議を通してとらえ返そうとする試みである。それをしてもしなくてもヒトは生きていける。にもかかわらず、その不思議に心傾け、のめり込んでいく身の裡の衝動を感じている。つまり、世界を見て取りそこに己を位置づけてみようとしているワタシを、さらに違った次元のワタシがみているという不思議。その、とどまるところを知らない感情、思念、想像という人のクセの動態的プロセスを、いまワタシは歩いていると実感している。

2022年12月21日水曜日

沈黙と自問自答と空無

 NHKの番組に「ドキュランドへようこそ」というのがある。その「沈黙の意味を模索して修道院の十日間」(12/16放送)というのをみていて、あることを長い間、私が勘違いしていたかもしれないと思った。

 番組は、「体験型ジャーナリスト」がイギリス国教会の修道院を訪ねる。十日間一緒に生活し、修道女たちの来歴や今の思いなどを紹介する。その中でジャーナリストが

「食事のときに沈黙するのは、なぜ」

 と問うのに対して修道女が答える。

「沈黙していると自問自答がはじまる。」

 その自問自答の中に、神と言葉を交わす瞬間があると、修道女はつづける。そのときに、あっ、とわが胸の片隅に閃いたことがあった。

 まだ30代の頃、栂池から白馬乗鞍を経て白馬岳に上り、唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳、爺ヶ岳を経て針ノ木岳まで縦走し、針ノ木の雪渓を下る単独行をしたことがある。夜行列車で行ったろうか。3泊だったか4泊だったか。山小屋の食事の世話にならず、自炊だったから、食事付きの方々とは部屋は別だったから、シーズンなのに空いていた。だが初めのうちは歩いている間中、仕事のことや家庭のこと、何かわからないが胸のうちが収まらないあれやこれやが胸中を去来し、何とも煩わしいというか、五月蠅い山行になった。

 沈黙と自問自答とは思わなかった。ただひとつ、帰らずのキレットを通過するときには(懊悩は)空無であったなあと後で思うことがあり、後半になる頃には身体が疲れ切っていたのであろう、一向に爺ヶ岳のピークにさしかからず、これかと思うとまた先にピークが見えるというのにじらされて「クソジジイ」と悪態をついていたことが鮮明に浮かび上がる。それも自問自答だといえばその通りであり、悪態はまさしく神に向かって付いたものであり、神からの応答があったとは思わなかったが、今思うと、バカだなあ、そんなこと自分で始末しろよと嗤っていたに違いない。

 いや、おおよそ、その山歩きを「沈黙」とは思っていなかった。むしろ後になって、帰らずのキレットを通過するときの澄明な意識こそが「瞑想」であり、「沈黙」とはこういうものだと思ったのであった。

 だが、修道女の言葉を聞いて思い当たった。その縦走中の胸中に繰り返し木霊した煩わしいほどの自問自答こそが「沈黙」であり、神と言葉を交わしていたことだと感じたのだ。あれは「考える」などということではなかった。次から次へと湧き起こっていたのは内奥の断片であった。歩一歩に付いてくるように湧いてくる憤懣の欠片が、ちょうど泥水を浴びて浴びてすっかり心が草臥れて憤懣自体も洗い流されてしまったかのように、疲れに変わり、「クソジジイ」と大自然に悪態をつくように清められたと言おうか。

 私にとっては、まさしく大自然こそが神であり、それに悪態をつくことでわが身の懊悩は奥底から浄化され、爽やかな心持ちで針ノ木雪渓を降った。神がわが懊悩を引き受けて下さったと信心深い人なら言うのだろうか。

 縦走を果たした達成感も、振り返って思えば、これで帰途につくんだという日常に還ることへの安堵感が身を軽くしていたことと同義ではなかったか。達成感というのは、わが意思が設定したささやかな「目標」の到達点。だがその行為は、わが身の日常に鬱積する(何がどうしてそうなったかわからない)憤懣が山行という非日常に身を置いて自問自答を繰り返すことによって浄化されてゆく。

 山へ入れば、そのあと1週間は体調が良いという経験的体感も、その頃に気づいたのではなかったかと、あとづけて思う。あの「体調が良い」というのは山行のもたらす(心底の)浄化作用をさしていたのではないかと、神の業を感じることさえするようになった。病みつきになったのである。

 今私は、何も考えていないこと、アタマが空っぽであることを「沈黙」と思っている。だが自問自答が「沈黙」だとすると、「沈黙」はずいぶんと煩わしい。その煩わしさは、じつはわが身の内奥、つまり無意識が未だ騒がしいからであって、歳をとるとわが無意識もいろいろと心得てか穏やかに鎮まってくる。

 何を心得るのかって?

 世の中って、こういうものよ。ワタシのできるコトって、こんなもんだね。ほらっみてごらん、世界ってわからないことに満ちあふれている。ワタシが如何に取るに足らないゴミみたいなものか。心煩うコトゴトのたいていのことに、心裡の始末が付いてきている。

 せいぜい自問自答がクセになって、日々あれやこれや気になることを引きずり出しては言葉にしている。それがまた、心裡にわだかまることを綺麗さっぱりと洗い流してしまう。空っぽ。空無の世界に馴染みつつある。

2022年12月20日火曜日

師走も下旬の空っぽ

 もう1年も終わりに入った。でも年々、年を越すことの「画期的」な趣は薄れている。外的な、他の人と共有する時間によって時を経ていることを認識する「年を越す」というより、わが身の日々の不都合に出くわして歳を意識することが多くなった。つまり外的であった時間が内化して、一年周期の大きな時の進みよりは、日々、月々の変わりように驚くことが多く、もはや一年という単位は、すっかり遠ざかってしまった。

 辛うじて「画期」を保っているのは、暦とカミサンの習性。マーケットのクリスマス・セールや歳末売り出しのチラシや旗が歳末が近づいていることを知らせる。同じようにカミサンの年越し準備が始まるので、そうか、窓の掃除をしなくちゃならないな、年賀状をつくらなくてはならないと知らされる。ようやっと重い腰を上げる。

 賀状の写真を選んでいて、今年を振り返る。四国のお遍路にも行った。カミサンの嗜好に合わせてあちらこちらに出かけている。それらを貫く棒のようなものはあったか。カミサンは鳥と植物。だが私は、それらについて門前の小僧。

 では、わが門内のコレということはあるのかとなると、何にもない。ただ歩くだけが趣味の行き当たりばったりだったと、結論的に行き着く。気取っていえば「遊行」というだろうけど、歩きながら何をしてるのと自問すると、ホントにな~にもない。空っぽ。

 そう言えば、私の父は雅号を虚心としていた。若い頃からそう自署していた。絵画や俳諧ではなく書道だったが、漢籍や仏教に大きく心持ちが傾いて、それらの言葉を条幅や色紙に認めている。「虚心」か。私の空っぽと同じなのか、似たようなことか。それとも、似て非なるものか。父の心裡を推しはかってみようとは思う。だが、なにしろ37年前に鬼籍に入っている。訣れて後の、そろそろ倍、私は生きてきたことになるか。思えばホントに遠くへ来たもんだ。遺品といえば、8年前に彼岸に渡った私の弟が編集した「遺墨集」があるばかり。本当に推察するほかなく、仕事をリタイアして後の坦々とした父の佇まいを思い浮かべて、「虚心坦懐」とはああいう風情であったなあと思い当たる。この四字熟語は私の好みに合う。「空っぽ」は虚心坦懐。そうであったらいいな。

 そうして、今年一年の物語を探り、年賀を仕上げた。はじめ、宮古島へ行ったことなどがちらついたが、一点に絞ると、やっぱり吉野山を訪ね、最奥の西行庵に行ったことか。あの、行き詰まりの斜面を少し沢に降りた地にポツンと小さく佇む西行庵は、「空っぽ」ならば、これだけで十分、お前なんでそんなに身に纏い、飽食し、温かさに包まれて唯々諾々と過ごしているかと、質朴の槍で胸を衝かれた思いであった。

 断捨離とはものを片付けることではない。そんなことは遺品整理、不要品一斉処分で子や孫がやってくれる。それよりも、今の暮らしそのものが、如何に余計なものに取り囲まれ、それに身が馴染み、快適でない不都合は改善して、よりいっそう外からの厚着を纏う方向へ向かっている。どこへ向かっているかを直視せよ。

 人は一人、手ぶらで死ぬ。齢傘寿になってみれば、もはや古来稀を通り越して、古来空無の領域に入っている。暮らしを質朴に整え、心も空っぽにしてみると、西行の辿り着いた境地にほんの少しながら近づけるかもしれない。そうしたら、彼の詠ったことが感じられるのではないか。

 〽年長けて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山

 歌に誘われたわけではないが、秋には掛川の中山峠近くに宿して、紅葉狩りの風情を味わった。「いのちなりけり」というのが、命あってこそとみれば、こうして中山峠を越え、箱根の山も乗っ越すことができると、私の「遊行」の風情に近い。足腰をもって歩くだけが取り柄のわが身に思い当たった。

 とても空っぽにはできないわが心裡ではあるが、ひとつゴミを拾って捨てたかな。ちょっぴり怪しいが、そう決めた。

2022年12月19日月曜日

生きてきた世界の違い

 12/4のseminarに久しぶりに出席したツナシマさんが、フジワラさんの奨めもあって「80歳の風景」を口にした。そのなかで「科学など理知的に勉強してきたことは何だったんだろうと思うことがある」と、まるでデカルトがコギト・エルゴ・スムの入口に立ったようなことを話していて、オモシロイと思ったが、こちらの耳が悪いのか、場を取り巻く賑わいがかき混ぜるのか、よく聞き取れなかった。そこで、ツナシマさんに「当日のスピーチを文章に起こしてくれないか」と依頼した。

 程なく送られて来た彼の「テーブル・スピーチ 80歳の風景」は、しかし、私の関心事には触れてなく、彼の「純粋な技術論文や技術専門雑誌、経営・行政に関連した記事を300~400字程度に要約する仕事」に触れ、論文が「知・情・意」をキーワードにしてとらえると氷解することが多くなった感触を綴っていた。これはこれで、考えるところが多く面白いと思った。

 だが、ツナシマさんと私の生きてきた世界が違うせいだろうか、どこから絡んでいったら、彼の問題意識と私の関心事とについて、言葉を交わし合うステージがつくれるか、うまくつかめない。でも彼が表現した文脈の底に流れている理知的世界への疑問符は、ひょっとして私のそれと共通するところがあるのではないか。そんな感触をもっている。

 このツナシマさんの文章は当初、2023年1月22日(日)の次回seminarで皆さんにお配りしようと思っていた。だが、それよりまず、36会seminarメンバー全員へのe-mailで共有して、あれこれのご意見を、その共有メールで交わした方がよいと思い、皆さんへ送信した。

 それに対して早速、トキさんがコメントメールを一斉送信してきた。コメント内容はともかく、こういうリスポンサビリティが彼の交際術の優れたところだ。それに対してツナシマさんから謝意を表するメールが来て、その中で「席上とメールの文章に不一致を感じた方がいらっしゃるかも知れません」と「追伸」が記されていて、私のseminar当日抱いた感触が的外れではなかったように感じた。また、トキさんへの謝辞の中に、文脈は別として「われ思うゆえに我あり」とあったので、遣り取りをつづけていけるように感じている。

 ただ「知・情・意」を、わが身の内部で総合的にとらえることを考えている私にとっては、それぞれを分けて理知的世界の状況を見て取るのでは、もの足らない。私は理知的世界をどうとらえてきたか、情に絡む部分をどうあしらってきたか、意が強く働くとか働かないというのは何を意味するのか、そういうことがひとつひとつ丁寧に取りあげて、どういう時にどのような視線でそれらをぢyモンダイにしたかを見ていかないと、世界のデキゴトについて思っている主体のワタシと世界との関係が取り出せない。そんな風に考えている。

 たまたま1年前に書き記した記事「コペルニクス的転回」があったので、それを参照して貰いたいと、皆さんには添付して送った。ちょうど、ツナシマさんたちと共に過ごした高校生活世界から離陸する時代のことに触れている。さて、これが糸口になって、私たちの生きた時代が浮き彫りになるかどうか。

 ツナシマさんは《「意味論」の世界では、言葉は不便な道具で「事実・真実」「発話者」「発話の受け手」に不一致が存在する》と、遣う言葉が彼我において同じ意味合いであるかどうかも疑ってかかる必要があることを意識している。私は似たようなことを、東浩紀に倣って「郵便的誤配」と受けとっているが、それも踏まえて、ゆっくり時間を掛けて言葉を交わしていきたいと思っている。ともに80歳になる。80年もの間の、高校生活という、それもツナシマさんと私とは過ごしたポイントが大部分すれ違っていたことを思うと、ほんの一瞬の共有部分しかないと思わないでもない。だが、たぶん同じ時代の空気を吸って生きてきたという大舞台の共通性がベースになる。意味合いの違いなどに心配りしながら、ズレたところを知らないフリをしないで、取り出しながら、遣り取りできると面白いと思う。

 トキさんはそんなことはメンドクサイというに違いない。そうなんだ。歳をとると、それまで何でもなかったことがメンドクサクて、もういいやってなってしまう。日々それを感じながら、でも放っておけない。私の悪いクセなんですよね。

2022年12月18日日曜日

所有という不思議な自画像

 朝日新聞(12/17)の「悩みのるつぼ」に「女性・20代」の「家中に母の本 収集癖直すには」という悩み相談があった。我がことをいわれているようで、はははと笑った。

 相談はこういうこと。

《家中が本だらけ、生活に支障を来すほど/父も私も「これ以上買うのは止めて、本を整理して」というが、反省するふりをしたり、ムキになって言い返したり。/「一番気に入らないのは、買った本をほとんど読まずに満足していることです」》

 と、ちょっと愛おしさの絡んだ「お怒り」を含んでいる。生活に支障を来すというのは、辺り構わず置くものだから足の踏み場にも苦労するということか、それとも、家の中の「主婦」の居場所というのが特定されておらず、逆に、台所でもリビングでも共有部がすべて主婦の居場所だからそこへ置く。それがメイワクってことか。

 20代の娘ならば、母は50代か。母というのが、「仕事は絵本専門の図書館で司書のパート」というから、まだ働き盛り。本を持つのは半分、職業・病とも言える。この娘さんも読書好きという。母親とは読書領域が異なるのかもしれない。何で絵本如きをと思っているのかもしれない。「父も」という母の連れ合いの登場の仕方がなんとなく「女性20代」の味方よという程度に感じられ、ま、自分の稼ぎの範囲で買う分にはしょうがねえなあと父は母のクセを諦めている気配も感じられ、微笑ましくもある。

 娘さんの軽い怒りが、読みもしない本を何でこんなに買うのよという感触に起因しているのが、わが胸にちょっと突き刺さる。

 今でこそ、もっぱら図書館で本を調達して買うことは少なくなったが、仕事をしているときは、本を買うことが少し趣味のようであったと振り返って思う。少し趣味というのは、暮らしを傾けるほどまではいかなかったってこと。

 でも、この投書者の娘さんの母親のように、読みもしないのに買ってくるって非難されるのに近かった。図書館へ足を運ぶ暇がなかったこともある。本屋へ立ち寄って書架をみていると、タイトルだけで面白そうと思う。目次をみて、ある部分だけでも読んでみたくなる。手に取った本の著者が参照した本がさらに目に止まり、それにも関心を惹きつけられ、とりあえず購入するという具合だ。領域も広がる。本の全部よりも、関心部分だけの記述が気になって手に取り、これもとりあえず購入する。所有欲なのかなと思ったこともある。でも考えてみると、ご贔屓のチームが試合に勝ったか負けたかだけでも知りたいとか、ゲームの勝敗のスコアを知りたいとか、選手の得点だけとか、ホームランを打ったかどうかだけを知るというのと同じかもしれない。

 あるいは、これは私のクセなのだろうが、目次を見、「はじめに」とか「序章」と「終わりに」を読んで概略を摑むと、もう読んだ気になって、(後は暇なときにでも読めばいいと)積ん読状態になる。それが積み重なると、一時の状態が常態になる。

 図書館を頻繁に利用するようになって気づいたことがひとつある。購入した本よりも、図書館から借りだした本の方を、返却期限を気にして早く手に取ることが、結構多い。貧乏性かな、これは。購入した本は、いつも後回しになる。所有することが読むことと、気持ちの上では重なっている。買って手に取ったときすでに半分読んだ気になっているようなことだ。これは、ご贔屓の選手が活躍すると、あたかも自分がシュートしたように誇らしく思うのと同じなのではなかろうか。一人のファンが、ご贔屓選手の写真やカードをもっているだけで心が満たされるように、本を持っているだけでうれしい。これって、なんだろう。ヒトだけのクセなのだろうか。他の動物にもこういうことってあるのだろうか。

 カミサンは「活字依存症だね」とあっさりと片付けた。絵本だぜって、私は思う。活字依存症はむしろワタシがそう。これは、手元に活字を持っていないと落ち着かない。2,3時間の散歩に出るときも、リュックに一冊本を入れておく。どこかで読みたくなると、ベンチに座って本を読むのが素敵じゃないかと思うからだが、そうやって散歩の途中で本を読んだことはない。電車に乗るときには必ず本を開く。半醒半睡、同じ頁を何度も読んでたりしても、本を手放せない。これが活字依存症だ。本を所有しておくだけというのは、またちょっと違うんじゃないか。

 そういうとカミサンは、そうだね、本を持たなくなったのはスマホを持つようになってから。本の代わりにスマホのニュースなどをみてるという。依存対象が代わっただけであった。

 そうやって考えてみると、本の所有にせよ、活字依存症にせよ、ご贔屓チームや選手の「推し」にせよ、結局ご自分の自画像を描いているようなことだ。クセといっても良い。「本の収集癖」というのもそのひとつだとすると、その始末をつけろと外からいわれるのは、オマエ人間ヤメロといわれるようなことかも知れない。フリをしてはぐらかしたり、ムキになって逆らったりするのは、思えば、当然のこと。20代の娘さん、母親にどうにかしろといわないで、こりゃあダメだわと諦めるか、さっさと見切りをつけて家を出るかした方がいいんじゃないか。私は、そう思った。

 もっとも新聞の、回答者である文筆業・清田隆之は、次のようにいう。

《母の本語りに耳を傾けてみる。……本は…知識や物語へのアクセス権、未知との遭遇、変化や成長の可能性など……》

 つまり、家庭の平和と本の知的優位性を持ち上げて、あくまでも正しい物言い。でも、そんな高尚なことじゃないんじゃないか。もっと卑俗な、ヒトのクセって方が的を射てんじゃないかと私は思う。

2022年12月17日土曜日

ついつい歩きすぎ

 昨日も晴れ渡る。朝カミサンを見沼田圃のマルコのボランティアに車で送ったついでに、マルコ脇に車を置いて七里公園の方まで歩くのもオモシロイかなと思い、お茶と少しばかりのクッキーを持って歩いた。

 鷲神社近くの樹木の養生畑ではシジュウカラがたくさん飛び交う。幼鳥も混じっているのか。地面に降りて何かを啄んでは木の枝に飛び移り、また地面に降りる。賑やかだ。キーッ、キーッとうるさいのはヒヨドリ。椋鳥は黙って灌木に残る木の実を食べている。風もなく日差しは暖かい。冷やい空気が歩く身には心地良い。東縁の水路の水は多く、昨日の雨が多かったことを窺わせる。向こうからやってきたご夫婦が「こんにちは」と声をかける。黙って通り過ぎようとした私も慌てて「こんにちは」と挨拶を返す。畑の向こうからキェーッ、キェーッというキジの鳴く声が聞こえる。首から提げた双眼鏡で畑と加田屋川沿いの雑木林を眺めるが姿を見ることはできない。

 東縁の向こう岸の少し小高いところに東屋と草地がある。何だろう行ってみようと、見沼自然公園のところから橋を渡って、鷺山公園の南方へ向かう。おっ、青少年野外活動センター、「冬期閉鎖中」とある。キャンプ場のようだ。炊事場、トイレ、食事ベンチなどもあって、敷地の東側は畑、南側は雑木林、西側は見沼東縁を挟んで見沼自然公園が広がっている。車の駐車場はないから、北側の鷺山公園にでも止めるのだろうか。落ち葉が敷き詰めて、散歩には気持ちがいい。

 センターの北側は細い車道を挟んで鷺山公園になる。車道脇の園地は公園と地続き。降りて、公園の池を回る。池は釣り堀になっているのか5,6人の人が釣り糸を垂れている。一人大きな網で池に落ちたメタセコイアの落ち葉を掬って取り除いている。大変ですねと声をかけると、いろいろと喋りかけてきた。

 メタセコイアの落ち葉はね、やがて沈んで底に溜まってヘドロとなる。池を死なせてしまう。掻い掘りは? しないしない、ほらっ、池の中央からボコッボコッと水が湧き出してるみたいなのが見えるだろ、あれ、空気を入れてんだよ、ヘラブナのために。夏は噴水もあるからね。市はね、ヘラブナを養殖して毎年放流してるんだよ、釣り人のために。えっ? いやいや、釣魚料金なんてとらないよ、釣り堀じゃないんだから。市民が愉しむ場所ってワケだね。えっ、この落ち葉掬い? こりゃあ、ボランティア。そうだね、せめて入漁料でも取って環境整備にでも回せばいいだろうけど、市だからねえ、」できないんだろ、そんなこたあ。と作業の手を休めずに、面白そうに話す。

 もう一度東縁に戻って、七里総合公園の方へ歩く。車道を3本横切るが、車の通りは、そう多くない。おっ、チョウゲンボウが北から南へ、ちょうど用水路に沿うように飛んでいった。上空にさしかかり、陽光を背にしてスーッと飛ぶ姿は、透き通るように綺麗だ。ウィークデイとあってラニングをする人も少ない。散歩をする人はいるが、土日のようには多くない。畑にツグミがいないかと思いつつ土手から見沼田圃の中を双眼鏡で探すが、今年はなぜかツグミがいない。早いときは11月にみたものを、どうしたことだろう。

 七里総合公園も人気は少なく、北の端までいって東屋でベンチに腰掛けお茶を飲み持参のクッキーを食べる。10時40分。天気に誘われてちょっと歩きすぎたかな。スマホを持ってきていないことに気づいた。もし車を置いたところへの帰りが12時頃なら、カミサンを乗せて帰ってやれる。そう思ったが連絡のしようがない。ま、向こうへ行ってからでいいや。

 帰りに同じ道を通るのは野暮ってものだ。加田屋川沿いに分だルーロがありそうだから、そこは踏み込む。ほんのときどき、散歩している人たちとすれ違う。ややっ、向こうに散歩しているのは山羊ではないか。ほほお、おもしろい。追いついた。珍しいですね、山羊の散歩なんて、と声をかける。60年配のおじさん。山羊が腹を壊しててね、餌を食べないんでね、野の草ならどうかと思って連れ出したのという。周りには青々とした草が美味しそうに茂っている。だがみていると山羊は、笹とか、枯れた蔓草の茎などを頬張る。おじさんに話すと、そうだね、水分がない方がいいようだね、笹や竹をバリバリ食べてるよ。何歳くらい? うん、山羊は寿命が7年ていうんだがこれは2歳。もう繁殖にはいる年齢ですよtろ、楽しそうに話す。よく懐いていて、温和しい。だけどね、この山羊の知っている人と会って、こうやって立ち話をしていると、お父さんを取られてしまうと思っちゃんのかねえ、間に割り込んで角を突き出したりするんだよと、可愛くて仕方がない風にいうのが、可笑しい。

 加田屋側沿いの道はそのまんま見沼自然公園まで繋がる最短もルートであった。そこからマルコまでも25分足らずで帰り、12時前だったので、マルコの作業場を覗くと一人人がいた。近づいてカミサンのことを聞くと、もう帰ったという。ならば、近道をたどるとどこかで拾えるかと思って、水路追いの道をたどったが、とうとう出逢うことなく帰ってしまった。後で聞くと、トイレを借りるために国昌寺に寄り道をしたという。たぶんそこで追い越したんだね。2時間45分の散歩。ちょっと多すぎたね。

2022年12月16日金曜日

ヘクソカヅラのあずかり知らぬこと

 団地の大規模な給水管給湯管更新工事は終わったが、その工事のためにわが部屋片付けようと移したものの始末が、まだ終わっていない。パソコンやレコードプレーヤーなどの物(ブツ)は大分片付けたが、若い頃からの印刷物や本、資料などは、まだまだ溜まったまんまにしてある。時折、暇に任せて手に取って仕分けしようとするが、その都度、え、何でこんなものがと思うものに目がとまり、それはそれで考え込んだりしてしまう。その結果、片付けは一向に進まない。

 ひとつ、こんなメモがあった。誰かの本を読んでいて、気になったので書き置いたのであろう。


《人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによって、いろいろな色調のものがある。例えば春の野にさまざまな色どりと草花があるようなものである。/私は、人には表現法がひとつあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文を書きつづける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた。》


「数学なんかをして……」とか、「フランス語で書き付ける」とあるから、岡潔かなと思うが、わからない。だが、このメモを、いつ頃、どういう時に、何に気を惹かれて書き置いたのだろう。じっくり読みながら、経てきた径庭に思いは巡る。

(1)「人の中心は情緒である」に気持ちが動いた時機は、打ち寄せる波のように何度かあった。

 そのうちのひとつが、西欧渡りのガクモンの門前に立って本を読んでいた頃。近代的な機能主義に違和感が膨らみ哲学的な領域に関心を傾けていた。柳田國男や西田幾多郎に触れたのはその頃だった。これもまた門前の小僧に過ぎなかったが、「理性」の底に流れる身の習いとどう折り合いをつけるかに呻吟していたと言っても良い。1960年代の中頃だったか。

(2)「人には表現法がひとつあればよい」と強く感じた時機もあった。

 1970年前後の時機。夜間高校の教師として口に糊しつつ、日々生徒や教員との遣り取りに追われて走り回っていた頃。こんなことで一生を送るのかと胸中に煩悶がわいていた。その転機になったのを象徴したのは「教育土着」という言葉であった。これは九州柳川で伝習館3教師の処分反対活動をしていた武田桂二郎に触発された埼玉の支援集団「異議あり!」の造語であるが、人はどこで生きていようとも、同じモンダイに出逢い、同じ煩悶をし、同じように道筋を探って生きていくものだと受け止め、肚を据えたことがあった。

 これは私にとって、身を置く現場のモンダイに向き合うことが人類史的なモンダイに取り組むことそのものだと感じ取る大きな転換点となった。あちらこちらに気持ちが跳んで、何が「じぶん」の行く道なのか、気持ちが定まらなかったことが、これで安定点を見いだした。

(3)「私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文を書きつづける以外、何もしなかったであろう」が、上記の「安定点」を示唆していた。

 上記集団「異議あり!」は、もっぱらエクリチュールを通じた活動をしていた。月2回刊行の謄写印刷の機関誌を発行し、当初は埼玉県内に、後の全国紙として展開し、2006年までつづけた。謂わば文章によるおしゃべり。これが今もつづいているわけだ。

(4)「スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないこと」というのが、起点となるとともに、ちょっとグレーゾーンを残している。

「スミレがただスミレであればよい」というのは、わが身が「germ」という観念に通じる。germというのは通常「黴菌」と日本語に訳される。取るに足らない邪魔っ気。この世にとって私はまさしくgerm、とカンネンすることが基点になった。これは、じぶんを卑小に位置づけて外からの非難攻撃を躱す居直りではなく、世界に「じぶん」をマッピングすることであった。(2)と重ねていうと、この現場で生きる。ここがワタシのセカイだという見切りであった。

 グレーゾーンというのは、その後につづく部分。世界にどう影響するかどうかは、germにとってあずかり知らぬことではあるが、「影響があろうとなかろうと……あずかり知らぬ」とは考えていない。germにはgermの意気地があった。蝶の羽ばたきがいつしか風のそよぎとか薫る風のきっかけになるかもしれない。「あずかり知らぬ」というより「きっかけになるかもしれない」という漠然とした繋がりを、未だに心の片隅で意識している。スケベ根性と若い頃なら呼んだかも知れないが、歳をとった今はほのかな希望。スミレとはちょっとニュアンスが違う。

 ま、そうだね。germはスミレとはいかないね。植物になぞらえれば、ヘクソカヅラかオオイヌノフグリ、あるいはママコノシリヌグイという辺りが、音の響きとして相応しいであろうか。ふふふ。

2022年12月15日木曜日

ご近所の頃合い

 給水管・給湯管の農更新工事が予定通り完了し、工事後の瑕疵チェックと修復にとりかかった。来週には工事事務所も閉じ、プランニングから5年越しの事業が終了する。いや、見事であった。

 私が理事長としてかかわったのは、ほんのその取っ掛かり。事業費を整えるための修繕積立金の値上げを策定し、大まかな工事計画を立てて、コンサルティング会社の選定をするところまでであった。その後、工事計画と予算を立て、入札をしてもらい業者選定を行う。その後に子細の工事の行程表をつくり、住居パターンをいくつか選んでテスト施工をする。その上で、共用部分から始めて5棟の居宅部分へと工事を進める。

 その都度、区切りのいいところで説明会を開く。総会を開く。棟毎に居宅部分の工事工程の説明と個別のリフォームとかの要望も受ける。同時に工事費用の、共用部から専有部への一時的な流用と、不足費用を各居宅から徴収することなどの了承を得て手順を決める。

 これらの面倒なことを、一年任期の理事会が引き継ぎ、滞りなくすすめることができたのには、30年余の理事会運営で培った自律管理の気風があったと思う。ことに修繕専門委員会という諮問機関をおいて、修繕に関する専門的な眼を養い、蓄積してきたことが大きかった。厭わず、その面倒な計画を立て、理事会へ答申してきた人たちのご苦労が、いまさらながら居住者の信頼をうるのに威力を発揮したと感心している。ましてコロナ禍の2年半の間にこれだけのことを進めるために、特段の配慮も必要であった。

 工事業者の居宅への立ち入りが1週間ほどになることから、その間、誰かが居宅にいなくてはならない。トイレは使えない、風呂はどうする、鍵はどうすると、居住者の方は、心配することが多々あった。例えばトイレは、日中は管理事務所のを用いる、朝取り外したものを夕方には取り付けて使えるようにする。工事業者の手間暇を掛けた気配りと目配りが行き届いていると実感できた。作業員の仕事の丁寧さ、仕上げのチェックも一つひとつ工事監理者が行っている。

 1号棟から5号棟まで、何しろ半年間も業者が団地の一角に事務所を構え、資材置き場を据えて出入りするのだ。彼らからしても、工事をしている居宅だけでなく、始終意詰められているわけだから、応対の言葉も丁寧になる。住民に比べると孫のような若い人たちが、細かい作業に頑張っている姿を見るのは、社会が団地にやってきて実演販売をしているようで、新鮮な風が半年間吹き抜けていくようだった。

 5年の間に彼岸に渡った居住者も何人かいる。一緒に理事をやった人たちであったり、同じ階段の方だったり、自治会報で、あるいはご近所の知らせで、えっ、あの人なくなったんだ、つい先日階段を出たところで言葉を交わしたよとか、いつも奥さんに付き添って散歩に出ていたけど、あの頑丈そうな旦那さんの方が亡くなったの? と訃報は耳に入る。同じ階段の方の場合はお悔やみにいったり言葉は交わすが、コロナ禍もあって葬儀はほぼひっそりと行われたことを後で知る。団地全体が年を重ね、世代交代も進んでいる。

 団地というのは、そういう距離がクールに取られていて、親密な人の付き合いとは違った趣を持つ。関わり合い事柄については子細な向き合い方をする。しかしその余のことは、それぞれの傾きや好みに沿ってご随意にという頃合いが、団地の中でようやくうまく取れるようになったのかなと思っている。建設から33年。建物の寿命の半ばを過ぎた。こちらは余命幾ばくという年齢になった。後のことはよろしくと、誰にいうともなく言っておきたいと、ふと思った。

2022年12月14日水曜日

法の支配という矜持

 今日(12/14)の新聞に自民党議員が政治資金パーティの収入を誤魔化していた件で、東京地検が「議員を任意聴取」が報道されている。カミサンが「アベ=スガ時代にはなかったね」というから、自民党の国会議員の規律が緩んだといってるのかと思ったら、違った。アベ=スガ政権のときには、政権が検察の動きにまで口を挟んでいた。それがキシダ政権になって変わったねといっていたのだ。

 そうだね。思えば行政文書の書き換えというとんでもない不正に対して何度も訴追の働きかけがあったにもかかわらず、遂に不起訴にしてしまった。検察の面目もあるから、その後の機会も袖にして頬被りをした。桜を観る会についてもそうだった。政権が行政権力の総力を挙げて不正をひた隠すということが、世界最強のエリート集団と呼ばれた日本の官僚をすっかり腐らせてしまった。当然のこと、政治家もまた、似た穴を掘って腐りきっている。そう、市井の民は感じていて、政府を信用しない気分に身の裡が満ちあふれている。

 行政権力の総力を挙げてということでいえば、法務省が何の合理的な説明もなく法解釈を変えて、政権の好都合な逸脱的政策を成立させた集団的自衛権の運びもそうだった。あれがアベ政権の最大の功績と湛える国際政治学者も多々いるが、憲法解釈も含め、正面からの議論を回避して、ご都合主義的に当面を糊塗する便法のパッチワークで基本的な政治方針をずらしていく手法は、ほとんど中国の強権国家が採っている法の支配と似たようなものだ。アベ=スガ政権のそれをリベラル法治主義と呼ぶなら。強権法治主義とさして変わるところがない。

 法の支配というのは、政治権力の上に立つ超越的視点を持つことによって、恣意的な振る舞いを制約することであった。そういう意味で法務省の法解釈は、ある意味専門家としての独立性を矜持とする、揺るぎないこととして尊重されてきたと言える。中国の習近平は「法の支配」を柱のひとつに掲げはしたが、その適用は恣意的である。薄熙来に端を発する中国の汚職摘発は、確かに法の支配であったが、それは政敵を葬るという習近平の恣意的な目的のために発動せられた。習近平のそれは政治的目的のために法を作り替えるものでもあった。二期を限度とする国家主席への衆院をするというのは、プーチンがやはり同様の手口で4度も大統領の地位に就くのと同じである。

 日本に於ける法の支配は、そうした政治的意図や被告発者の身分などに関わりなく一般的に適用されるものとして、国民の信頼を得ていた。それを反故にしたのが、アベ=スガ政権だったということだ。欧米風の研究者にいわせれば、東アジア的統治の風土が日本にもずいぶん色濃く残っているじゃないかというかも知れない。

 しかしまだ、中国と同じレベルに至ってはいない。中国では、民主活動を支援する弁護士やメディアの関係者を拉致し、長期間にわたって拘留隔離し、ほとんど廃人同然にして釈放するということが後を絶たない。2017年、大富豪である肖建華が香港の超高級ホテルから中国政府公安部によって拉致され、未だに消息不明になっているというのも、習近平への批判的態度と絡めて報道されている。ロシア関連でも、謀殺されたり、あるいはアレクセイ・ナワリヌイのように、謀殺は免れたものの帰国後逮捕され禁固刑を受けている。

 日本のアベ=スガ政権も流石にここまでには至っていないが、あと一歩敷居を踏み越えれば、法の支配は同じようなものになってしまう。戦後77年、日本の民主制度の根幹のひとつになる法の支配の背骨を腐らせてきたのが、近年の自民党政権だと言える。

 統治権力を握るものは、自分たちが何をするかわからないと考えて、国の操縦を任されていると自戒することを求められている。そのブレーキとなるシステムが法の支配であるアベ=スガ政権のような統治が常態になると、如何に民主主義政体とは言え、法の支配を騙る強権的暴力統治になってしまう。

 何となく決断力がないように振る舞うキシダ政権を好ましく思ってしまうというのは、たくまざる喜劇というほかない。政治家も官僚も、日本の政治に関心を持つ人たちは、法の支配という矜持を、もう一度わが胸に問い、日本国憲法の志を思い起こしてほしいと思う。

2022年12月13日火曜日

監理するという視線

 毎朝、起きて着替え、お茶を一杯飲んでから血圧を測る。185/73.これは高い。前日は136/76だ。やっぱり薬を飲み忘れたなと思う。前夜寝る前、ふと、あれっ薬飲んだかなと、一瞬思いがよぎった。二重に飲むよりは1回忘れた方が良かろうと思ったから、「やっぱり」となった。

 そのことをカミサンに話すと、「監理してあげようか」という。

 ははは。カミサンもときどき飲み忘れている。「そうか、じゃあ、あなたのは私が監理することにしようか」と返して、また、ははは、となった。

 そのとき頭の片隅を、パッとかすめるものがあった。

 なんだ?

 うん、案外、いいアイデアかもしれない、と思ったのだ。

 どうしてか?

 山の会の山行のリーダーを務めるときと、誰かが案内してくれる山行に参加するときとで、心持ちの置き方がかなり大きく違うからだ。この違いって何だろう?

 リーダーがルートを間違えるわけにはいかない。着いてくる人はたいてい、自分が今どこにいてどこへ向かっているかを意識していないことが多い。つまり山行に於ける自己対象化をリーダーに預けて、その他のことに心持ちを傾けている。リーダーは、山行参加者の集団的自己対象化を一身に背負っている。

 ただ単にルートを踏み間違えないことだけではない。同行者の歩度をみてペースを整えたり、あるいはそれぞれの体調を見極めることまでからんでくる。極端に言うと、山行参加者一人一人の一挙手一投足の一つひとつに対して意識的になることが必要になる。大げさに言うと、神の目のように俯瞰的にみているかどうかを、リーダー自身が自己チェックし、意識的に持たなければならない。それがリーダーの緊張感になる。

 リーダーは、自分のことにかまけている暇はない。だから、自分の力量の6,7割でガイドできるくらいの余裕がなければ、なかなかムツカシイ。でもついつい、精一杯歩いてしまうんだね。

(1)それをクリアするために、下見をする。一度下見をしていれば、ルートを間違える気遣いを、それほどしなくて済む。

(2)山の会の会員なら、何度も一緒に歩いて、歩行力量も、ペースもおおよその見当がつく。これは、カルチャーセンターで一般募集する山行と違って、格段に緊張感が和らぐ。まして一般募集のときは、20人という制限でさえ主催団体の(もっと増やして下さいという)圧力を押し返さなければならなかった。

(3)サブリーダーについてもらう。サブリーダーに先頭を歩いて貰い、ルートに対する緊張を全部預けてしまう。こうすると、ペース配分、休憩の取り方に注意を傾けることができる。

 とは言え、山の会の山行では、おしゃべりしながら歩くせいもあって、ついつい注意が散漫になる。かといって、そうした楽しみを欠いては、山歩きというより修験者の修行になってしまう。

 もう一つ落とし穴がある。私はそれを瞑想状態と呼んでいるが、山を歩いていると、意識は明晰だが何も考えていない状態に陥ることがある。ランニング・ハイとかクライミング・ハイと呼ばれることと同じかもしれない。頭の中が空っぽになっている時間がある。これが、いつも後で思うのだが、何とも言えず心地良い。2時間3時間という歩行が苦もなく過ぎてしまっている。無我の境地ってこういうことだろうかと、いつも思う。

 これが、病みつきになる。このために山へ行っているのかと思うほど、心が惹き込まれる。そしてこうなると、ルートも体力の状態もすっかりどこかへ跳んでしまって、そこに身をいることだけで十分に満たされ、それがいつどこでどういうことを意味するかなんて、まったく頓着していない。ふと気づくと自分がどこにいるのか判らなくなって、山で迷ってしまうというのも、これによって起こる。

 迷うというのは、自分を見失うことだ。人は自分をみている外部的視線、超越的視線をもつことによって、辛うじて「じぶん」を保つことができている。言葉を換えていうと、世界のどこに今存在しているのかを意識する(マッピングする)ことによって、人は「じぶん」を確認することができるのだ。

 もちろん、どちらがいいかはわからない。瞑想状態にあるときの方が、心地良いといわれれば、その通りだと感じる。でも「じぶん」を見失わないことも欠かせない。これは、薬を飲めばいいのか、飲まなくて血圧が上がったまんまでもいいのか、どちらがいいかと聞かれているような気がする。ひょっとすると齢を重ねて血圧が上がるのは、ごく自然なこと。それに伴って体に様々な障害が発生し、病を得て、いずれ死に到るということも、自然な成り行きとしては、ヒトのありようとして好ましい。

 私の無意識に、かくあるべしという体に関する理念型があって、それから逸脱しないように薬を飲んでいるに過ぎないのだなと振り返る。でも良く考えてみると、なぜ、いつ、どんな理念型をワタシが持ったのか自問すると、これがわからない。まさしく成り行き。週刊誌の見出しに「薬は百害の元、飲むべからず」という特集記事があると、そういうこともあるよなと共感するわが内心があるのを感じている。私の理念型というのも、ずいぶんいい加減なものなのだ。

 そのいい加減な服薬の監理を、他者を経由して行うというのは、案外自己をマッピングしているという意識を外部化するのに、いいのかもしれない。「監理してあげようか」というカミサンの動機とは、ムキが逆になっているような気もするが、そうやってモノゴトをヒトに預けるというのは、ご本体がますます瞑想状態に近づいて気分良く過ごすことになる。年寄りのありようとして好ましい。そんな気もしている。

2022年12月12日月曜日

お天気に誘われて

 このところ快晴が続く。思えば関東地方の冬は、乾季。朝9時にはブログ記事を書き上げたので、散歩に出ることにした。どこへ行こうか。見沼田圃の自然公園まで行って、帰り道はそのときの調子で考えて良かろうか。

 家を出てから、そうだ、お昼を家で摂るなら2時間半の散歩だが、自然公園まで行くと弁当を持たなくちゃならないなと思う。駅近く、見沼田圃入口傍のEAONスーパーへ立ち寄る。飲むヨーグルトとあんパンを買う。お茶は持ってきているから、これで万全。

 日曜日とあって大間木公園のグランドの野球場はソフトボールの練習をする年寄りチーム、社会人チームは試合をしている。よたよたと走っているのは60代後半かな。同じ年齢にしては捕球も送球もぴちっとキリのいい身のこなしをしている人もいる。ノックをしている人は、なかなかうまい。捕球したボールを受けとるキャッチャー役、そのボールを受けとってノッカーに渡す人、ちゃんと分業ができていて、チームの重ねてきた年を伺わせる。試合をしているのは、その反対側のフィールド。ピッチャーはぐるぐると体の横で手を振り回してから投球するから、ソフトボールの熟練者。結構球も速い。打つ方も野手の後ろの方まで飛ばす。内野ゴロは上手に一塁手に送球している。どちらのチームも、若い人から高齢者までいる。町内会だろうか。どこかの会社のームの対抗戦だろうか。

 いつものように調節池へ行ったのでは芸がない。今日は通船堀から東縁に抜け、それをたどって川口自然公園に向かう。公園の池では釣り糸を垂れている人がたくさんいる。幼児と低学年らしい子どもを連れた一家が、葦原の脇で何かを見つけ、姉が「おかあさん、すご~い」と声を上げる。小さな子を連れた父親がやってきて、葦の一本を手折る。カマキリの卵でもついているのか。小さな子に持たせ、母親がカメラのシャッターを切る。池脇の木立には木の名札が掛けてある。サクラやケヤキはすぐわかる。カツラ、シラカシ、イチョウ、ユリノキなどを木肌で区別できるようにみるが、すぐに忘れてしまう。

 墓参りをしてきたのだろうか、妙宣寺から出てきた高校生くらいの女の子を含めた家族連れ四人が自転車で東縁沿いの道へ出て行った。浦和-越谷街道を渡り大崎清掃工場の焼却灰の処分地の脇を通って大崎公園の裏へ出る。この焼却灰処分地には、名前がついていない。2mの高さの金属の塀で囲っている。

 広い畑ばかりの間を通っていると、後ろから来た軽トラが車道に出る手前の家の前で止まる。70代くらいの女のお年寄りが軽トラから大根を二本手に持って家へ入る。それが大きい。一本は1㍍以上もありそう。青々とした大根葉も大きくうまそう。大根の身の方もはち切れんばかりに張っている。門から出てきた。中から「ありがとう、いつも」と声が聞こえる。

「すごい大根ですね」

「大きくなりすぎてね、売り物にならんのよ」

「まずくなるんですか」

「そうじゃないのよ。大きくなるほど甘くなる。美味しい。でもね、出荷する箱に収まらないの。今年は天気が良くてね、大きくなり過ぎちゃった」

 規格外の大きいのは、ご近所に配るか自家消費にするという。

 東縁の更に東側の台地の樹木の養生を生業にしている畑の間を抜けて歩く。少し前まで木に一杯つけていた柿の実も大半が収穫され、いくつかが木に残されているだけになった。かわって夏みかんや柚がたわわに実っている。ここは静かな灌木と樹林の間をほとんど人に会わずに歩けるから、散歩道としては心地良い。この道を通って、100mほど先で北への道をとると、いつもの通りに出ると見当をつけて、初めての道へ踏み込む。迷ってもオモシロイ。できるだけ迷い道に踏み込むように心がけるが、もうほとんど迷うことはない。

 2時間ちょっとで見沼自然公園についた。12時を少し回っている。ベンチに腰掛けてお昼にする。家族連れや年寄り夫婦がゆっくりと散歩している。ときどき強い風が吹く。天気が変わるのだろうか。向こうの芝地の広場には、テントを張って小さな子を遊ばせている。芝地に寝っ転がって本を読んでいる人もいる。陽が眩しいだろう。その脇には、凧揚げをしている父親の周りで二人の子どもがキャアキャアはしゃぎながら、揚がっているたこを取ろうと空に手を挙げ、飛び上がるように跳ねている。暖かい日差しが穏やかな日曜日の舞台を整えている。

 今日は少し遠回りをして帰ろう。市立病院に近い方へ向かい、途中から案山子公園に寄って東縁沿いに帰る道を通ることにした。ここも初めてのルート。市立病院の建物は大きく、ランドマークになっている。芝川をどこかで渡らねばならないが、その橋が市立病院の傍にはあることは知っている。その手前にあるかどうかは知らない。でも知らない道を歩くのは、それだけで気持ちがいい。とっくに上着にしていた羽毛服はリュックに仕舞い込んでいる。

 あった。車の向かう方向を見ると橋がある。ここで芝川を越えることができる。この橋を抜けると東縁に出る。まるで人気のないところをたどって案山子公園へ向かう双六のようだ。ドンピシャリ。何度も歩いたことのある東縁沿いのルートに乗った。

 案山子公園は隅の方を通り抜けただけ、東縁沿いの歩道に乗る手前で、野菜を売る農家の出店が開かれていた。ずいぶんたくさんの品を並べている。日曜市だね、これは。ブロッコリーと泥つき葱を買いリュックに入れた。

 そこから家まで1時間。2時20分頃に家に着いた。3万99歩、22.km。歩いている時間が4時間27分の散歩であった。

2022年12月11日日曜日

羞恥心の起源

 昨日のブログ記述の行きがかりで、「恥を忍んで身をさらす」と書き付けた。この「恥」って何だろうと自問がまた夢枕に浮かんだ。

 最初に思い浮かんだのは旧約聖書にあるエデンの園。アダムとイブが草陰に身を隠したのをみて、神は二人が禁断の実を食べたことを知った。これはヒトが羞恥心をもったこと。他者からみた自分を意識したことの象徴。つまり禁断の実を食べ(知的であ)るということは、自己を対象化して他者の目でとらえ、それを内化して己自身の有り様を思い定めることとみていた。この他者が、キリスト教世界では神という絶対的他者である。絶対神を持たない自然信仰的なアジア世界に於いては身近な他人となって、謂わば世間となる。絶対的他者に照らすと絶対的な戒律が浮かび上がる。だが、世間に照らすと状況によって移ろう規範となって、ひと言では定めがたいところとなる。

 世間の規範に照らした人のありようとして「体面」とか「面目」とか「名誉」ということが重んぜられるが、これらはいずれも他律的に表現されたもの。世間の規範そのものが移ろいゆくものであることからすると、多分に流動的で、アダムとイブの「羞恥心」という内発性に比肩する「矜持の根拠」がみえてこない。「旅の恥は掻き捨て」という風に世間を出たところでは、規範はどうでもいいこととしてあしらわれる。時代が変わってその世間が少し大きくなるとタテマエとホンネとして二重帳簿的に併存して、「恥の文化」そのものも二枚舌や面従腹背の様相を呈してくる。

 そのような「恥」なら、忍ぶほどのこともあるまい。恥をさらして天真爛漫に、あるがままに生きていけばいいじゃないか、とさえ思う。「恥をおもわば命を捨てよ、情けをおもわば恥を捨てよ」という言い習わしは、名誉とか体面を重んじることに由来する「恥」なのであろうか。もっと内心の「矜持の根拠」があるのじゃないか。

 大野晋の『古典基礎語辞典』には「はじ」の項目は、ない。だが「はし【愛し】」という上代語の解説があった。

《夫・妻・子・恋人・弟などに感じる愛着の情。愛らしい、可憐だ、いたわしい、慕わしいの意を表す。それらの愛情の対象となる人にかかわる物事、地域、山や道などの場所に対しても同じように用いられ、まれに自分自身をいとおしむ気持ちにも用いられた。》

 全然言語学的な背景なしでいうが、「はじ」は、この「はし」から派生したのではないか。そう考えると、日本人の「恥」の「矜持の根拠」になるように思った。「恥を掻く」は、「はし(愛し)を欠く」に通じる。「恥知らず」は「はし(愛し)知らず」である。人や場や物事について、それを重んじ、いたわしく思い、いとおしむ気持ちならば、それが初めは「世間」という顔見知りの間の「関係を愛おしく思う心持ち」に発するものであっても、いつしか時代の移り変わりによって顔見知りの延長として、人間とか人類に対する愛着と敬意に広がり、近代的な市民社会の概念にも繋がる。またこれは、絶対神の戒律というよりも、状況や社会関係に、場を代え、次元を変えて柔軟に適用できる包容力のある「矜持の根拠」となる。そう思って、ひとつわが心裡で発見したように感じている。

 だが「恥を掻く」が、名誉や体面、面目を失う意となると、「はし(愛し)」の延長上に置くことができない。これは社会関係に於ける己の立ち位置の基盤が崩れることを意味している。当人の内発性の次元のひとつ(己をいとおしむ気持ち)に端を発するとしても、はるかにそれに加えて、社会通念からの解きほぐしがたい成り行きによって積み重ねられてきた人生行路の堆積がある。つまり人は、起源に於いて「はし(愛し)」から出立するとしても、その所属する集団やかかわる社会、世界の規範や規律、制度的に定着した賞賛や栄誉によって衣装を纏い、「己をいとおしむ気持ち」自体が変容を遂げ、またそれが「関係の網」のベースを整え、そこに於ける面体や面目が初源の内発性を遙かに凌駕して、その人の矜持を固く縛り付けることになる。

 何年前であったか、元阪急の福本豊が「立ちションベンもできなくなる」と国民栄誉賞を辞退したことがあった。これも、社会的栄誉が矜持を変容させることを象徴的に表現している。つまり、恥は衣装のように外から着せられることによって生じるものである。それが簡単に脱げない。恥の起源にあった「はし(愛し)」が身の裡深くに沈潜してしまって意識されない。あるいは、沈潜しているというよりも、「はし(愛し)」はあからさまに表現すべきことではなく、心裡深くにしまいおくという作法が、人と人との関係に於いて培われてきた。私たちの身に堆積している文化は、そのように奥ゆかしい。

 それを隠しもせず、露わにして、恬として「恥じない」時代になってきた。これは今、二通りの振る舞いに分かれる。

 ひとつは、福本のように、縛り付ける規範に対する忌避として表現する。社会一般には「奇人」と呼ばれることになるが、彼の胸中の矜持はものの見事に堅持されている。

 もうひとつは、近頃の国会答弁にみる政治家の弁明や対応。とぼけているのか恥知らずなのか、「記録にあるが記憶にない」といってみたり、不正献金が指摘されると「返還した」と釈明する。これが法をつくり執行する人たちの振る舞いである。どこに矜持があろうか。

 ま、そういう時代なんだね。そういう文化になってきたんだね。思えば遠くへ来たもんだ。 

2022年12月10日土曜日

「無知の知」と世界

  ワタシの感性や感覚や思考の根拠を自問自答すると行き着く先は、人類の起源になる。いつ、どこで、どのようにして人類が群れ、所有の観念が生まれ、家族とか個人になっていったのかは、文化人類学者や考古人類学者がいろいろと思い巡らしているが、ワタシの根拠となると、とどのつまり、自分で思い巡らすところからはじめるしかない。80年も生きてきた私の身に放り込まれた人類史の有象無象が、ワタシの感覚観念の根拠となっていることだけは間違いない。しかもそれらの大半は、無意識に刻まれていて、言葉に説き起こすことができるかどうかもわからない。わが身の裡側への探索である。

 学問を業としてきた人ならば、ここで、何を明らかにするか、どう明らかにするかと目的と方法をはっきり打ちたてて、すでに学問世界で積み上げられてきた足跡をたどり、その最先端にわが考察を付け加えるべく取りかかるのであろう。だが、市井の老爺には、そんなメンドクサイことは、とてもできない。

 唯一つできる方法は、わが身と心持ちの赴くままに、思いつく一つひとつの断片について、人類史がどう歩んできたかを言葉に起こしてみること。このブログで私が日々やっていることである。狭いワタシの知見や了簡も露呈する。養老孟司のいうバカの壁もワタシ風に披瀝することになる。恥を忍んで身をさらすというのではない。わが身の感性も感覚も思索も、それが人類史のもたらしたものであってみれば、忍ぶ恥こそバカの壁。それは、私の生まれ育ちとその時代と社会の然らしむるところであって、つまりそれこそ、わが身に刻まれた人類史の有象無象そのものである。もしそれが恥ずかしいことであれば、人類史が恥じることと居直ることしか、市井の老爺にはできぬ。

 ソクラテスが言ったという「無知の知」を、自分が知らないということを知ることと解釈することが多い。「自分が知らない」というのを「世界を知らない」というニュアンスでとらえている。ワタシは、これがソクラテスの謂わんとすることと同じなのかどうかはわからないが、ちょっと違う風にとらえている。

 物事に接したときに「わからない」という触覚が働く。これがワタシの「世界」の触感である。ワタシと「世界」との位相の違い。ワタシが「世界」と触れ合っているところで、かろうじてワタシはセカイをとらえている。「知る」と謂うことと「分かる」と謂うことが違う。ワタシは「世界」をとらえることはできない。ワタシが「わかった」と感じていることはワタシのセカイであって、「世界」はその外に壮大に広がっている。ワタシの実感としては「世界」と触れ合ったときに「わからない」と感じられることでしか、感知できていない。だが逆に「わからない」と感じることは「世界」の端緒に触っていることでもある。その「わからない」先に踏み込んで「わかる」ことにでもなれば、ワタシのセカイが、またひとつ広がる。そういう意味で、ワクワクして、できるだけ「わからない」ことに出くわすことを愉しみにしている。

 つまりワタシにとって「無知の知」とは、「わからないことに触れること」である。「わからない」ことを知覚して、ワタシのセカイから食指を伸ばして、知らない「世界」へ少し踏み込む。でも徒手空拳でそれはできないから、すでにその「世界」に身を置いている先達の知見を目にし耳にすることで「わからない」ワタシを発見することを積み重なる。では、その先達とはどのような人か。それがまた、わからない。思わぬところに先達がいる。無意識にわが身に染みこんだ権威が、案外つまらない人であったりもする。これも一人一人、その領域に応じて身の裡に聞きながら見定め、あるいは訂正している。

 ただ、「わからない」ことさえわからないことがある。わかったつもりになっていることを、ワタシが素通りしてしまうのだ。これはワタシの無意識の領域に収めてしまっていることだから、わが身を吟味することでしか剔抉することができない。「無知の知」を「自分が知らないということを知ること」というのは、たぶん、このケースのことではないかと思う。

 これがワタシの解釈と同じかどうかがわからないと言ったのは、世界のとらえ方が違うように感じるからだ。それはニュアンスの違いなのか、決定的な違いなのか、私自身はどっちでもいいように思うから、踏み込んで差異を明らかにしようと思っていない。だが、それ自体は大きな問題になると思う。こうして日々書き流している断片を、本当に人類史の初源からたどりながら、わが身の裡から引き出してみようかというテーマが浮かんだ。オモシロイ。そう言えば近頃、「全人類史」とか「地球生命体の歴史」といった人類史や生命史の総括的な著作が、目に止まる。これは私の好みが、観るべきものを見つけているのか、それとも社会的な共通する風潮が流れているのか。ワタシは結構、通俗だから世間的な風の流れがついて回ってきているのかもしれない。これも検証するとオモシロイかもしれないが、今となってはどっちでもいいことだし、メンドクサイから手をつけない。

 こんな調子では、とても人類史的初源からたどるなんてつづかないよと内心の声が聞こえる。そうだね。ま、それも身の裡、仕方ないよねとワタシの意識が声に出す。「世界」がわからないというのは、ワタシがわからないというのと同じなのだから。

2022年12月9日金曜日

「わからない」という鏡

 映画『長江哀歌』の録画をみた。三峡ダムが閉鎖になる直前にこの地を訪ねたこともあって、そのときの現地の人たちの暮らしがどうであったのかに関心を持ってみた。仕事を求めて各地からやってきた人たちが、飯場で一緒に過ごす様子が描かれ、他方で、仕事に出たまま2年間も音信がない夫を遠方の省から訪ねてきた妻もいて、三峡ダム建設の狭間に底流して揺れ動く人々の心持ちを描き出している。

 ところが、夕方、一杯聞こし召してから寝っ転がってみた所為もあってか、何を意味するのか、よくわからない場面が、いくつか現れる。なんだろうあれは? という自問を残したままになった。それが、夜中に夢枕に浮かび立つ。

 わが妻子会いたいといって訪ねてきた男の、宙に浮いたような心許ない立ち位置が、三峡ダムによって立ち退きを迫られ、新しい移住地へ移りゆく住民の心裡と重なって、この土地全体を覆う気配となっている。どうして妻子が遠方からこちらへ来ることになったのかもわからないまま。なのに、「もうお前の子ではないと警察が決めた」というやりとりがあり、わが胸の内の「?」は膨らむ。

 他方で、遠方から働きに来て、その日その日を過ごして博打を打つ、酒を飲み、麻雀に時を過ごす、工事現場で事故にあって同僚に見送られていく人々。かと思うと、2年間も音沙汰のない夫が「社長」と呼ばれる現場工事を請け負うエライさんになっていて、どうも愛人もいるようだ。この夫の昇進のワケもわからない。その夫に会うことができた妻との遣り取りの場面は、ことばにできない/しない妻と夫の互いの蟠る胸中を画像に仕立てていて、なかなか味わいがあったが、妻が「好きなひとができた。離婚してほしい」といって長江を下る上海行きの船に乗る。この唐突さも、「?」のひとつ。

 いや、夫に会う前日の夜、泊まっているところの近くに建てられていたオブジェが、まるでロケットを打ち上げるように火を噴いて天高くへ上っていった場面は、何を意味しているかわからなかった。後に「離婚」を切り出すときになって、ひょっとするとあの時の妻の心持ちが、オブジェが飛び立つように夫を離れて飛び去る決意を固めたのかなと後付けをした。

 この作品の第3部になって、冒頭の妻子に会うためにやってきた宙に浮いた男が、やっと妻に会える場面が登場する。妻の兄の借金を返済するために子である娘が働かされていると、これも後付けでわかる。ここもまた妻が夫と共に帰るとは言わない。この夫婦の間も微妙で、私の「?」に加わる。

 こうしてみてくると、この作品というか映像作品も小説もたいてい、物語り全体を通じて、解きほぐしていくワケであるから、後付けでやっと「わかる」というのは、むしろ自然だと言える。ふだん、わかったつもりになって先を見ている。だから、おやっ? と思うのは、みている自分の思い込みを修正している。あるいはまた、それが映画を見続ける原動力にもなっている。それが胸中で瞬時になされているから、ほとんど気にしないで観すすめてしまうのだが、この「?」というところが、映画との出逢いとして大切なのではないか。それはワタシが鏡に映っている瞬間であり、逆に映画の制作者側から言えば、観客が世界と出逢っている場面なのだ。

 今朝になってネットに出ている『長江哀歌』の粗筋を読んだ。上述した「アニの借金のカタ」にとられて妻子が長江中流域に来ていることもわかる。遠方から出てきて2年も音沙汰のない夫が「社長」と呼ばれているしごとが、違法立退かせを生業にしていたとも記されている。長江にかかる新しい大橋の完工記念であろうか、たぶん省のお偉いさんが号令を発すると橋とそれに連なる全体の電飾が点灯され、華やいだ気分が盛り上がる。その合間に沈むように、関わる人々の哀切な佇まいが静かに横たわる。不思議な感触をもたらした作品であった。

 という私の「?」を今朝になって、カミサンに話した。はははと聞いて、「あなた観ているとき、いびきかいてたよ」と笑った。いやはや、言葉もない。

2022年12月8日木曜日

編集趣旨が変わる

 9年間つづけた山の会の山行記録を本にまとめようとしている。400字詰めにすると2000枚ほどになるから、一冊というわけにいかないと分冊にすることにした。「東京人」という雑誌の大きさで、3~4分冊かなと依頼している編集者はいう。いや、任せますとお願いした。

 文章を読んでもらいたいと思って、写真は入れないと考えていた。ところが編集者は、

《文字ばかりでは重くなってしまう。特に内容が山行ですので、ビジュアルがあったほうが、読み手は内容に入りやすいのではないでしょうか。ただ、写真の数が増えれば当然ページも増えることになり、そのあたりは進行しながら入れたり捨てたりするしかないように思います。とりあえず、入れたい写真をピックアップされておいてはいかがでしょうか》

 と返事が来た。

 9年間で170山ほど。1回に40枚くらいとしても6000枚ほどの写真から200~300枚を選ぶことになるか。一山に2枚くらいか。この選択を開始した。まず64GBのUSB一カ所に集める。一つに入らない。年度毎にファイルをつくって、その年度の山行記録写真から4,5枚ずつ移し、他を削除する。午後を使ってやっと1年分の3分の1を片付けた。この調子だと12月いっぱいかかりそうだが、ま、それはそれで仕方がない。

 でも写真をみていると、山を歩いたときのことがまざまざと甦る。確かに文章を読むより想起力は大きいかもしれない。でもやっぱり写真を入れると、文章は読まないで済ませそう。編集趣旨が変わってしまうけれども、それはたぶん読む人の所為ではなく、筆力の性のようにも思える。致し方ないというのは、ここのところかもしれない。ゆっくりと山行を反芻しながら、師走を過ごすことになる。

 午前中は、予約した本が届いたというので、図書館へ受け取りに行った。ついでに書架の本で目についたものを、ベンチに腰掛けて1時間ほど読んで過ごしてきた。空は雲ひとつない晴天。風もなく、少し冷たいくらい。日差しの中に入ると寒くない。歩くとほかほかと暖かく、むしろ日陰を選んで行くの気持ちいいほどだ。

 おっ、もう5時を過ぎた。今日の仕事はここまで。

 〽あとは~焼酎~を呷るだけ~

 と誰か唱っていたなあ。50年前の話だ。

2022年12月7日水曜日

何が壁になっているのか?

 東洋経済オンラインの2022/12/3に、石浦章一の意見として《公園の池の水抜いたら「死の池」に…衝撃の実態 魚が消え、鳥が来なくなった意外な原因》という記事が掲載されています。白河の清き流れに棲みかねて昔の田沼いまぞ恋しきと言っているわけでもなく、どっちもどっち、《「保護」と「保存」と「保全」》をきちんとわけて考えていきましょうと言っているだけの「意見」でした。『日本人はなぜ科学ではなく感情で動くのか』という著書を出版された脳科学者のようです。

 つまり、この方の考える一般の日本人は、《「保護」と「保存」と「保全」》の区別もせずに遣り取りしているから、「科学」の探求成果をきちんと見きわめ評価査定することができず、それを活用するべき現実政策に於いて、右往左往するかむちゃくちゃなことをしていると言っています。もっとも「一般の日本人」と言うだけではなく、「一般の科学者」といっているのかも知れません。なにしろ「東大名誉教授」という肩書きです。たとえば仲正昌樹にいわせると、東大法学部は他の大学の法学部とは違う。日本の法道徳を決めているのだそうです(仲正氏がそれを良しとしているわけではありませんが)。私は名誉教授というのは、社会的な枷から解放されて知的人格そのものが感じていることを放言すると思っているのですが。

 だから私は、悪口を言っているわけではありません。この方の語り口は、結論的でなく、方法論的です。公園の池の水を抜いたら何十台もの捨てられた自転車が始末され水は綺麗になった。だが魚が棲まなくなった。言うまでもなく魚の棲む池の方が好ましい(この、好ましいというのは感情の発露なのですがね)。なぜこんなことになるのか。外来種は駆除すべきというのは正しいか、と話しは転がる。

 このブログの「自然(じねん)が好ましいのはなぜか?」(2022-11-21)で私も、自然保護のリテラシーについて述べ、「混沌」を好ましいと受けとる感覚を磨こうと、これまた結論のない方法的提示に終わっている。結論というのは、そのモンダイ現場に直面している人にしか出せないものというセンスが、この名誉教授にもあるのでしょうか。

 外来種についてこの方はこう述べています。

《「生物多様性、大事ですね」「里山、大切ですね」など……この錦の御旗を与えると、「外来種を駆除しましょう」とおおよそみんな喜んで乗ってくる。だが外来種だって、持ち込まれた場所で必死に生きているだけ。だから、そういう2つの別々の考えがあるものを皆さんで議論して、どうしたらいいかを決めることが重要なことなのです。》

 ここで、二つの考え方の違いが、どういう次元の違いから生じているかに踏み込んで行かないとならないのに、しかしそこへは入り込まないまま、「皆で議論して」とリテラシーを中途で放棄しているように見えます。一般国民はこの程度のこともわきまえていないと思っているのでしょうか。

 次いでこの方は、「自然エネルギーの落とし穴」と小見出しを振って、太陽光パネルでサハラ砂漠を覆ったらと仮説を提示し、それが引き起こす上昇気流と竜巻に言及しています。原発もそう、潮力発電も同様と、人工的な構築物が一長一短を持つことを述べて、《「保護」と「保存」と「保全」》を熟知していきましょうと述べて、終わっています。

 でもこれって、議論を問題が発生した初期に引き戻すだけで、ここまで諸種のエネルギーを使ってきた経験の蓄積を組み込んでいません。「皆で議論していきましょう」では、何も言わないのと同じです。

 あるいはもう一歩踏み込んでいるのなら、「皆で議論なんかできていない」現状をどうするのか。良いこともあれば悪いこともあると提示するのが「科学」というのなら、それを政策に組み込んで実行過程に映しているのは政治です。まず、その政治が「科学」を尊重せず「感情で動いている」というのでしょうか(私はそうだと思っていますが)。とすると、なぜそうなっているのか。そこまで言及してこその、名誉教授のモンダイ提起ではないでしょうかね。もちろん、政治家は世論の、つまり一般国民に訴えるために言葉を紡ぎ、一般国民は「感情に動かされて」モノゴトを判断するから、そうなるのだと名誉教授は考えているのかもしれません。

 私は一般国民だと思うから、ひと言いわせて頂くが例えば、利害得失を勘案することは「感情的に動く」ことになるのでしょうか。「私の利害」だけでなく、「皆の利害」を判断するというのがクールで好ましいのでしょうか。とすると「皆の利害」という「皆」とは誰を指しているのでしょう。それらについて「科学」はどう言葉を繰り出しているのでしょうか。そんな疑問が、次々と浮かんできます。

 それらを自問自答するのが、わたしの世の中リテラシーなのですが、名誉教授さんは、このところをどう考えているのでしょう。「科学」を取り扱う側の人たちが、ご自分の科学研究の言い及ぶ範囲を限定しないで、すべてに発言する根拠を手に入れているように言明することが、まず当事者性としての問題だと私は思っています。私にはわかっている。だが一般国民は「感情的に動いている」とみているのだとしたら、それはどういう立ち位置の違いから生じているのか、「科学」的立ち位置の方が、「感情的」に動く立ち位置よりもより正しい判断に近いというのを、どう説明するのでしょう。とても興味があります。

 ま、東洋経済オンラインの解説であれこれ考えていても仕方がないですね。そう思って図書館に『日本人はなぜ科学ではなく感情で動くのか』を検索したら、ありました。予約順、3番目です。ひと月ちょっと待てば借り出すことができます。

 それに眼を通してから、あらためてこの問題を取り上げてみましょう。

2022年12月6日火曜日

蛇紋岩の露頭

 高山植物の花の山を歩いて、蛇紋岩という言葉を知った。尾瀬の至仏山とか北上の早池峰山だ。至仏山の固有種、オゼソウ・タカネバラとか、早池峰山の固有種といわれるハヤチネウスユキソウ・ヒメコザクラは、その山が蛇紋岩でできているからときいた。蛇紋岩は、植物が育つには厳しい条件をもっている。植物に必要なカリウムやカルシウムの量が少ない、貧栄養の土壌。一方、過剰に摂取すると有害なニッケルやマグネシウムが多く含まれている。これらの悪条件を乗り越えることができる植物だけが生き残れる。そのために「固有種」が生まれたという。

 蛇紋岩じゃないが、高山植物の女王といわれるコマクサも、風の強い砂礫地という悪条件の中で育つ。他の植物が寄りつけないから生き延びることができたというわけだ。固有種の花を見つけて喜んでいた登山者の裏側に、その花の根を生やした土壌と気候条件があり、生き残りをかけた懸命の働きがあった。そこまで思いが及ぶと、固有種の生育を自然のすべてにおいて見て取ることができる。

 人を見るときに、そこまで私の視線は及んでいるか。とてもとても、といつも思う。

 12/4の朝日新聞「悩みのるつぼ」に人生相談の投書があった。ちょっと長いが、全文を収載します。相談者は「女性 70代」。

《一昨年夏、5年半の闘病の末に他界した夫は、優しく誠実で、ジェンダーの意識も備えた最高の人でした。「気持ちは言葉にしないと伝わらない」が持論で、日本の男性には珍しく、ことある毎に私を褒め、「私の人生で最高の幸せは、あなたと結婚したこと」とまで言ってくれました。/私たちは高校の同学年で、部活も同じでした。それぞれ県外の大学に進んだとき、近くに住んでいることがわかって再会して交際を始め、25歳で結婚。一人娘も家庭を築きました。/義母の介護は私にとって大変でしたが、仕事から帰宅して疲れていた夫も精一杯向き合ってくれました。つらい介護でしたが、夫はとても真摯な姿勢で臨んでくれました。/こんな悩みがぜいたくであることは重々承知しているのですが、余りに言い夫だったが故に亡くなった反動が大きく、日が過ぎたら薄らぐと思いきや、むしろ苦しさが強まります。家中に飾った夫との楽しかった2ショット写真を見ながら、日に何度も泣きながら話しています。娘夫婦は気にかけてときどき来てくれますが、夫への思いはどうしようもありません。気を紛らわせようとジムへ行ったり、勉強や趣味を再開したりしていますが、やっぱり一人になると夫を思って苦しくなり、涙があふれるのです。一体どうしたらいいでしょうか。》

 これを読んで、そうだね、そういう夫婦もあるよねと思って通り過ぎることもできます。こんなに思ってもらえてご亭主は幸せじゃない、と思うのもありでしょう。「いったいどうしたらいいでしょうか」などと言わないで、泣きたいだけ泣けばいいじゃないかと一切放下のように処方箋を繰り出すこともできるでしょう。あるいは、「回答者」の美輪明宏のように「あなたが悲しみに明け暮れて泣き続けるのは、よくありません。毎日、とにかく明るく楽しく生きるように務めて下さい」と励ますのも、悪いとは思いません。

 それはちょうど、至仏山の固有種の花開いているのをみて喜ぶのと同じです。見られる花にもし心があるとすれば、開花冥利に尽きると思うかもしれません。

 だが、善し悪しは抜きにして、この投書者の、涙に明け暮れる振る舞いに、人と人がかかわり合うもっとも源の源泉が宿されている。それが何であるかという問いが、胸中に起ち上がる。それに少しでも近づくことができれば、そこに露頭している蛇紋岩を見つけることができるかもしれない。あるいは、その条件の中で生き延びてきた固有植物がもつ生命戦略の勁さに触れることができるかもしれない。

 そうすることができると、その探求に踏み込むワタシの現在にピリピリと響く共鳴音を感じ取ることができるかもしれない。あるいはさらに、現代という時代が、粗末に扱っている(人と人との関わりに於ける)社会的な何かが浮き彫りになり、コミュニティの構成に意識的な要素を付け加えることができるかもしれない。そう感じたのでした。

 あるいはまた、人の本性に迫る考察の入口になるかもしれない。人と人との関わりに於いて、2年以上経っても涙が止まらない、歩んできた痕跡の「おもい」の花が開く。それほどの花を開かせた蛇紋岩がどのような質を保ち、相互にどのような厳しい条件を湛え、尚且つそれこそが幸いして花開く「おもい」となったのか。それが「涙」であるのは、言葉にならないものを言葉にするとウソになってしまうからだ。

「気持ちは言葉にしないと伝わらない」とは近代知的世界が掲げてきた旗印でもあります。そのとき同時に実は、ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という厳しい限定も生まれていたはずなのですが、機能性が重視される社会システムに気圧されて、いつしか忘れ去られていました。だがここでは、「沈黙」に代わる身の振る舞いとして表現されています。その源は、何だろう。それが私の自問の正体です。

 投書に戻ってみましょう。

 源の泉は、共に過ごした暮らしの長さにあるのでしょうか。同時に、高校の同学年とか同じ部活であったという同時代の同じ文化に身を浸してきたことが、身に刻んだ共通感覚とそれを共有してきた存在という心持ちの安定感なのだろうか。この話を聞いた友人のフミノ君は、「(夫婦の)相性が良かったんだね」と口にした。そうだね。でもここでとどまれば、固有種の花を愛でたのとかわらない。もう一歩踏み込んで、心裡のどこに「涙」の源泉が育まれたのだろうか、そこへ触れたい。

 でもそこに踏み込むのは、当人にしかできない。「優しく誠実で……とまで言ってくれた」という漠然とした記述では、ベターハーフでしたと言うのとかわらない。義母の介護に対して「精一杯向き合ってくれた」夫ということも、じつは、「大変であった介護」を鏡に映すようにして行った自己評価ではなかったか。善し悪しは別としてというのは、胸像の自己評価が悪いということではなく、そのように人は自らを他者に映してみていくしかないからです。ただ私たちに出来るのは、創造力の世界で、この「女性 70代」の心情の奥底に降りたって、わが身と重ねて「涙」の源泉となる「関係」の紡ぎ方を切り分けて取り出してみることではないか。

 そこへ踏み込んでこそ、「女性 70代」の個人的体験が、社会的な人間の考察として甦ってくるように思えるのです。そうか、これが蛇紋岩か。そうか、こんな厳しさにはこのように対応してヒトは生きているのか。そう考えていくことが、何より自分を対象にして世界を解きほぐしていく道程だ。そんな感じがしています。

2022年12月5日月曜日

言葉にならぬ周縁

 何かを感じ取っているのに、それが言葉にならない。人の心の奥底の感覚器官の一番要にあるものが、ひょんなことで露出して、おっ、と思ったのに、おっ、のまんまに胸中にとどまって、なかなかほぐれない。昨日一日、その状態が続いていた。今朝もまだ残っている。

 そのまんまに、今朝は片道5㌔を歩いてリハビリに行く。曇りの予報だが、ちょうど我が町の上の空一面に、今にも雨になりそうな黒っぽい雲が広がっている。外へ出てとって返し、折りたたみ傘をリュックに入れる。12月らしい寒さが頬に当たって姿勢が少ししゃっきりする。

 向こうから秋田犬を散歩に連れ出した人がやってくる。秋田犬が私をみているようで、私もそちらへ目をやる。目が合った。横を通り過ぎると、秋田犬が立ち止まり、リードを曳いたご主人が先へ行くのを引き留めるように私を見つめている。私もたちどまり、よっ、と声をかける。リードがピクピクッと引かれて、秋田犬は体の向きを変えた。なんかちょっと、言葉を交わしたような感触。でも彼奴は私の何に反応したのだろう。リードを持っていた秋田犬のご主人が女の方だったか男の人だったか、年寄りだったか若い人だったか、私の記憶の中に全くないことに、行き過ぎて暫くして、気づいた。

 霧のような雨。着ている軽い羽毛服をみると、表面に小さな雨粒がポツポツとついているように見える。降ってきたというより、雲の中を私が通り過ぎているように思う。せっかく持って出たのだからと、立ち止まり、リュックの中の折りたたみ傘を出して、開く。どっちでもいいが、荷にならない。前方で信号待ちをしている人は傘を差していない。

 信号を渡り、幹線道路を外れてお寺の脇を進む。向こうからやってきた、黄色い傘を差した4歳くらいの女の子が立ち止まって母親を見上げ、「ホラッ差してる人がいたぁ」と声を立て、私ににっこりと笑いかける。私もつい、頬がこぼれる。

 病院は、こんな天気だのに結構人が多い。駐車場入りを待つ車が順番待ちをしている。この地域の中核病院だから、救急患者も運び込まれているが、全部予約受診の人だから、晴雨に関係なく来ないわけにはいかないんかもしれない。リハビリを終えて支払い場所も機械処理の順番待ちの人がたくさんベンチに腰掛けている。正面の表示画面に、朝、やはり機械受診で受けとった受付番号が表示される。表示画面には20~30人くらいの番号が表示され、5台の機械で支払いが済むと表示は消える。ピョロンと音がして、新しい番号が加わる。

 支払場所の近くに、チェックの制服にベストを着けた女性職員が、ずうっと立っている。デジタル処理になれない患者がオロオロするのを手助けする。5台全部に誰もとりついてないこともある。と、その女性職員がさかさかと1台の機械に近寄り、中央部から何かをつかみ出して、駐車場への出口の方へ走る。ちょうど私が待っている場所からその出口が見通せる。その職員は名前を呼びながら一人に駆け寄り、振り向いた女性に手の平の中の何かを渡している。お釣りを取り忘れていったようだ。デジタル対応ってだけじゃないんだ。

 今日は今月最初の受診だったから保険証の確認が必要であった。支払い割合が変わった十月初めはずいぶん時間がかかった。今日は20分くらい。いつもの倍くらいかなと思いながら、病院を後にした。

2022年12月4日日曜日

この国を見よ!

 「敵基地攻撃能力」を保有することに自公が合意したと報道があった。どの段階に入ったときに「敵が攻撃態勢に入った」とみなすのかは曖昧の儘という。そりゃあそうだ、敵の考えが文書で規定するほどきっちり見えたら、戦争さえ起こせない/起こらないかもしれない。

 今のウクライナ戦争をみていると、「敵基地攻撃能力」が役に立つのかと思わないわけにはいかない。

 ウクライナは、ロシアを攻撃していない。ただただ防衛に専念している。街が破壊され、生活インフラが攻撃を受けて奪い取られ、尚且つ懸命にロシアと戦っている人々。日々のウクライナ情報を見聞きする私は、彼らに敬意を感じ、ウクライナのためにわが生活が燃料の値上がりや電力不足で苦しくなろうと、これくらいは我慢しなくちゃと思ったりする。それがたぶん、ウクライナに対する欧米や自由主義諸国の援護に繋がっている。

 もしウクライナがロシアを攻撃すれば、忽ちロシア・ナショナリズムは昂揚して、全面戦争へ進むしかないとも思う。つまり戦争を始めたのはロシアであるけれども、その趨勢の主導権を握っているのは、皮肉なことにウクライナとそれを支援する人々である。

 武器を供与しているアメリカも、ウクライナにロシア領域を攻撃するミサイルは与えないと明言してさえいる。ロシアの核攻撃と、それによって展開される第三次世界大戦という核戦争を恐れている。つまり紛争当事国になることを恐れている。これが、ウクライナ戦争の膠着をもたらしていることも明らかだ。ウクライナは、その段階への主導権は、全く持っていない。これも日本の現在と同じである。でもいまさら独自の判断をして、独自の政策展開をするほどの軍事的国力をつけるってことは、ウクライナも日本も、望むことではない。

 ロシアはウクライナがロシア領を攻撃してこないのをいいことに、持久戦に持ち込み、冬を味方につけ、生活インフラを破壊して、優位に戦略展開を図ろうとしている。だがもしウクライナがロシア領域を攻撃する能力を保有していて、それを実施していたら、ロシアはたちどころに全面戦争に突入していたであろう。核の使用もしていたかもしれない。さらにもしロシアが核を使用したら、さすがの中国もロシア寄りの傍観をつづけるわけにはいくまい。ロシア制裁という欧米のロシア孤立策に、中国も(消極的であっても)味方せざるを得ないとも考えられる。中国は、平和裏のグローバリズムの中でこそ、アメリカを凌ぐ経済大国への道を歩むことができる。そういう立場にいるからだ。

 さてそこで、日本の場合だ。日本は核を持っていない。たとえアメリカから借用する形で持つことがあっても(そんなことをアメリカが認めるとは思えないが)、アメリカの同意なしに反撃的に核を使用することができようはずもない。ということは、核を持とうが持つまいが、近隣の核を持つ中国や北朝鮮を「敵」として「敵基地攻撃能力」をもつことは、敵による核先制攻撃誘因となる結果を招く。それは間違いなく想定できる。

「敵基地攻撃能力」を持っていると宣言することは、それが抑止力として働くよりも、(敵が)攻撃意志を持った段階からごく近い時間で核攻撃に移ることを蓋然化する。つまり、開戦を決意したときから全面戦争に突入すると思われる。

 もし北朝鮮が、単独で開戦を決意した場合、それはほぼ間違いなく自国を滅ぼす決意をしてかかるだろう。その戦略戦術の進みようは想定しても、さしたる意味を持つとは思えないが、日本がウクライナの現在に陥ることは、まず間違いない。

 もし中国が台湾併合を掲げて武力攻撃を開始したら、アメリカが留め男になって仲裁する以外に、その戦争をとどめる力は、世界のどこにもない。今のアメリカの台湾政策を見ている限り、そういう展開は考えられない。よほど中国の国内事情が逼迫しない限り、中国が台湾を巡って武力攻撃に踏み切るとは思えない。

 中国の台湾武力攻撃をきっかけに、北朝鮮が独自に先端を開く可能性はありうる。北朝鮮の独立自尊は、韓国を眼中に置いていない。それは、韓国の文在寅政権のときの応対の仕方をみていると如実に感じられる。放っておいても韓国は北朝鮮に追随すると(何を根拠にしているか、経済的な実力を考えるとわからないが)、先見的にみなしている。そういう尊大さが、振る舞いの行間に見え隠れしている。つまり北朝鮮の独自攻撃は、米中戦争の間隙を縫って韓国を併合し、日本との戦争を仕掛けて、核保有国としての優位性を国際的に承認させることにおかれる。アメリカよ、こちらを振り返れってわけだ。

 さてそうした東アジアの情勢を考えると、日本が独自に振る舞える余地は、さほどない。アメリカの戦略戦術に付き従って、対応するしかない。とすると、「敵基地攻撃能力」を喧伝するのが得策とは思えない。「敵が攻撃態勢に入った」と判断するのが、日本側にあるからだ。たとえアメリカの敵の攻撃体制探索能力に拠るといえども、実際に「敵基地攻撃」が行われてしまえば、どちらが先に弾を撃ったかの遣り取り、つまり藪の中になる。

 それが、核攻撃を早めるだけの効果を招くであれば、むしろウクライナのように、ただひたすら攻撃を受け、国内への上陸を阻止するためにのみ反撃をし、その戦いざまを世界の世論に訴えて、耐えに耐える。それ以外に、WWⅡの「敵国」である日本がウクライナのような支援を得ることはムツカシイのではないか。

 そんなことを思った。

2022年12月3日土曜日

何があるかわからない

  明日、新橋でseminarを予定している。昨日、講師のミコちゃんから電話。珍しい。どうしたのか? 

「親戚の人が亡うなってね。八王子なんじゃ。うん、日曜日が葬儀になってな、急いで帰っても間に合わん。ごめんな」

「いえいえ、わかりました。こちらで何とかします」

 そういう年代になったのだ、私たちは。突然何があっても、不思議ではない。そんなことに動じていては、ここまで年を重ねてきたことに申し訳が立たない。やります、やります。

 その後、ドリさんからメールが来た。

「ミコちゃんが当日出られなくなったというのですが、seminarはやりますか?」

 と、講師がいなくなったことを心配している。そして付け加えた。

「スズさんから電話があってね、どうするんじゃろうと彼女も心配してる」

 実はスズさんとドリさんは、ミコちゃんが講師を務めて「80歳のわたしの風景」というお題で話しをするというのを、ミコちゃんの連れ合いが嫌がっているために、講師を止めるといったのを、わたしらが加勢するから講師やろうと応援団を買って出たのであった。その応援団のはしごが外れてしまったので、自分たちにお鉢が回ってくるのを心配したのだろうか。早速私は、参加の方々に返信した。

《講師は未定(目下交渉中)ですが、お題は「80歳の風景ーーわたしの連れ合い」をテーマに、フジタが司会をしていろいろとお話を伺いたいと思います》

 seminarはすでに高齢者の近況報告会になっています。「お題」をどう設定するかにも、いろいろと言い分はありましょうが、ミコちゃんが設定した「80歳のわたしの風景」というのは、万能です。どんなときも、誰が講師であるかどうかにカンケイなく通用するテーマです。

 ただそれを、どう切り出し、誰に話を振って、どう繋いで行くか。そこを心しないと散漫な世間話に終わってしまう。それでいいじゃないか、という声も聞こえないわけではない。だが、でもそれだけでは、何だかねえと私は感じる。これは、何だろう。

 ただの世間話で終わっても、その響きは身に残る。だがそこに起こる波紋が、どのような振動を持っていたか、どう響き渡っていったかいかなかったか、そういうことを気にすることが、言葉を交わす意味を明らかにする。意味とは存在に関する自己確認。世界に触れる人間の作法。そう思うから、問いを吟味する。

 そのときじつは、自問自答する。まずわが身に問うことが、インタビュー風に他者に問いかけ、その応答によって物語を紡ぎ出す作業の出発点となる。最初の自問自答の深さ、奥行き、広がりが、インタビュイーの応えの深さ、奥行き、広まりを決める。〈良く問うことは、半ば答えること〉という俚諺は、そのことを示している。

 ではまず、「わたしにとって連れ合いはどうみえているか」。

 う~ん、どう応えていいか、わからない。いまの時点だろ? 連れ添って、ここまで歩いてきた、歩き方がどうであったかによるよな。

 比翼連理じゃないが、家内事業的に仕事をしてきたのであれば、仕事とそのパートナーという意味でも、連れ合いは欠かせないわが身の一部となっているはず。毎日の作業で触れ合っている中で、どんな場面でどちらが主導し、どちらが何を任せっきりにしてきたか。そこに衝突はどう生まれ、どう解消してきたか。もしそれが、でも(生まれ育ちの異なる文化を持つ)他人よという齟齬を来していたとすると、それは仕事に対して良くも悪くも、どういう意味を持ったろうか。それは、現在のわたしにとって「(わたしの中の)別の私」になっているだろうか。

  そう考えると、家内事業的でなくても、似たように考えられるのではないか。「家族」という単位で社会に向き合ってきたのか、ワタシという単体で社会に向き合ってきたのか。「家族」として社会に向き合うといっても、「夫/妻」の間の(文化的差異による)齟齬を、どの段階でどう折り合いをつけて社会へ乗り出したのか。夫婦の生活歴とともに、子どもの成長に伴う社会との接点にも、どちらがどう振る舞って「家族」の面体を保ってきたか。子どもたちへどう文化は継承されていったか。

 それら子細に立ち入って、皆さんの歩き方を浮き彫りにしてこそ、私たち世代の有り様が、語り出せるのではないか。いやこれは、ムツカシイかな。世間話なら、触らないでやり過ごすことも、傷を掘り当て、傷口をあらためるような振る舞いとなっては、心穏やかに語り合うってことにはほど遠いseminarとなる。でも「(私にとっての)連れ合い」を語るということは、実は、それほどに(個人にとっては)危ういモンダイとなる。

 だから、オモシロイのだ。

 となると、ここ一年ほどの間に連れ合いを亡くしたお二人さんにインタビューすることから初めて、毒気を抜き取り、彼岸の連れ合いに語りかけるように存命中のご苦労に感謝を献げることから話して貰おう。まだ連れ合いが健在の方々には、胸中で問答をして頂いて、いかにも偶然の運びのように話せる方には話して貰う。そういう手順を踏んで、少しずつ語り出せる雰囲気を高めていくのが、一番いいかもしれない。

2022年12月2日金曜日

お蔵入りにならず、良かった。

 映画『宮松と山下』を観た。あの香川照之の主演作品が、この夏の「(香川の)不始末」でお蔵入りしては、もったいない。いや、この作品に限らず、香川の「不始末」にピリピリして上演を控えていたり、制作予定の作品がずいぶんたくさん、葬り去られたであろうことを考えると、なんでフィクションとリアルを一緒くたにして、世間の評判に右往左往するんだよと、私は日本の興業世界の文化センスに落胆している。もちろん香川に限らず、だ。もっと世間に対する反骨精神を持てよ。

 だから、わざわざ観に行った。なんと今朝のお客はわずか5人。もったいない。映画館で観るのがいいのは、音がバッチリと身に響く。耳に聞こえるってもんじゃない。映画が映像だ、台詞だというのを簡単に超えていく。皮膚がピリピリと受け止めている。すぐに画面に没入する。

 おっ、時代劇なんだと思った。登場した香川が切られてしまう。剣劇場面が他へ移っていくと、切られた香川がのっそりと起き出す。そして次の場面の切られ役のために衣装を替えて、その場面へ駆けつける。ははは、エキストラなんだ。撮影が終わって赤提灯にやってきた香川が飲み始めた途端に、ピストルの音が響き、香川は撃たれて斃れてしまう。うん? これもエキストラなんだ。どこからどこまでがゲンジツで、どこからがオシバイなのか、あなたどう思う、と観客に問いかけるようだ。

 つまり、フィクションかリアルかの仕分けをするのは観客。でも、それをし始めた途端に、香川の置かれている不可思議な立場が浮かび上がる。おや、面白い。なかなか考えられた仕掛けになってる。その不思議感が、気持ちを集中させる。

 台詞もそうだが、余計なものを削ぎ落としている。香川照之という役者がものの見事に顔の演技で沈黙に奥行きをつけ、これは何かあるぞと観るものの触覚に「覚醒剤」を注入するみたい。その、妙な台詞の遣り取りの始末を、後の方できっちりとつけている。映画というのが仕組まれたフィクションであり、「言葉でこそ人間のコミュニケーション」と訳知り顔にいう人を蹴飛ばして、身のこなしこそが人と人と繋ぐ受け答えのツールだとみせる。削ぎ落としていることがイメージを膨らませる。フィクションでしか死ねない人間の粗末な死を、繰り返しエキストラで演じることによって、リアルの方の真実性を浮かびあがらせようという算段さえも、際立つ。

 いいなあ、この役者。うまいなあこの人。使い方がうまいんだよ。

 面白いことに、この映画は《監督・脚本・編集:監督集団「5月」gogatsu》の制作となっている。監督は3人もいる。佐藤雅彦(東京藝術大学名誉教授)・関友太郎(NHKでドラマ演出を行ってきた)・平瀬謙太朗(多岐にわたりメディアデザインを手掛ける)。この3人がどう分け持って監督を務めたのかはわからない。だが、この3人のうちのあとの2人は、佐藤雅彦に東京芸術大学で教えを請うた経歴を持っている。なるほど、そうか。それで、3人で外へ討って出ようとしたのかと下世話な類推をした。

 この映画、「サンセバスチャン国際映画祭New Directors部門に正式招待された」という。「New Directors部門」というのが、どういう意味を持っているのか知らないから、これまた類推でしかないが、《監督・脚本・編集:監督集団「5月」gogatsu》の「3人監督」というのが、ただ単に分野を分けるような平板な監督ではなく、いかにも集団でなければならない必然性を持った新しい試みだったのだろう。その辺りを探る深入りをするのも、面白いかもしれない。

 わずか1時間20分の作品だが、なかなか深い読み取りをすることのできる仕上がりになっている。それにしても、よくぞ香川照之という役者を起用したと、賞賛したいのである。

2022年12月1日木曜日

「自然(じねん)」の作法

 今日から師走。訃報が届く。コロナのせいもあって、どなたも亡くなったときに報せを貰わないままであった。2月に92歳で、あるいは3月に72歳で逝去したと、年賀ご遠慮の葉書に記されて知る。ま、それも仕方ないか。たとえそのとき報せがあっても、家族でさえ顔を見ることなくお骨になることもある。ご時世というか、弔いの形も変わる。

 ならばいっそうのこと、訃報も貰わなければ良かったと思う。電話で声を聞くこともなく、手紙やメールで遣り取りがあるだけ。いつしか、絶えて久しい。そういう友人は、思い返してみると、たくさんいる。年賀の交歓さえ絶えて、もう何年になるか。彼の人が、まったく私に関心を持たなくなったからといって、何の不思議もない。あるいはもう70歳を超えたので、年賀は出さないと書いてあったのが最後だったか。蒸発するように消えていくのが「自然(じねん)」、わが心裡としては好ましくさえ思う。

 傘寿ともなれば、いつ消えても不思議ではない。つまりわが身こそが消えていく立場。他人様のことをどうこういうことではない。

 でもね、身近にいた人が本当に消えてしまったと知ったら、これはこれで困ってしまうものだよ。好ましい「自然(じねん)」ていうのは、やはり普段はそれほど親密に往き来していない人だよ。あるいは幼い頃から一緒に過ごして育ってきた兄弟姉妹のような、わが身に刻まれた「親密さ」が慥かに感じられる人が、ポッといなくなってしまったら、どう身の裡に落ち着かせていいかわからない。その人と共に過ごして形づくられたわが身の一部が、ごっそりと削り取られたように思え、消えたことを思うだけで涙が出てきて止まらない。

 弔うというのは、死者をわが心裡の収めるべきところへ収めて鎮かに言葉を交わすというか、言葉にならない気配を交わす作法じゃないか。その作法が、葬儀ともなると、社会的儀式として執り行われて、わが身の裡に落ち着かせるのは、もっとずうっと後になる。むしろ、独り鎮かに線香を上げ、口にすることなく思い浮かぶイメージを、気配として取り交わしているような「祈りの秋(とき)」にひたる。そのときに立ち現れる「あなた」と語らっているような「とき」こそが、弔うってことだと思う。

 沈黙して横に座っている。その、共にいる感触。私のなかの「あなた」は、ワタシの中の別の私。そうした別のワタシが、いく人もわが身の裡に生まれ出て、ぽつりぽつりと思い思いに顔を覗かせる。心身一如というよりも、わが身が世界に溶け出して、一身が大宇宙と一つになったような人神一如という風情かな。

 いかにも師走の感触を湛える風情であった。