今日(12/14)の新聞に自民党議員が政治資金パーティの収入を誤魔化していた件で、東京地検が「議員を任意聴取」が報道されている。カミサンが「アベ=スガ時代にはなかったね」というから、自民党の国会議員の規律が緩んだといってるのかと思ったら、違った。アベ=スガ政権のときには、政権が検察の動きにまで口を挟んでいた。それがキシダ政権になって変わったねといっていたのだ。
そうだね。思えば行政文書の書き換えというとんでもない不正に対して何度も訴追の働きかけがあったにもかかわらず、遂に不起訴にしてしまった。検察の面目もあるから、その後の機会も袖にして頬被りをした。桜を観る会についてもそうだった。政権が行政権力の総力を挙げて不正をひた隠すということが、世界最強のエリート集団と呼ばれた日本の官僚をすっかり腐らせてしまった。当然のこと、政治家もまた、似た穴を掘って腐りきっている。そう、市井の民は感じていて、政府を信用しない気分に身の裡が満ちあふれている。
行政権力の総力を挙げてということでいえば、法務省が何の合理的な説明もなく法解釈を変えて、政権の好都合な逸脱的政策を成立させた集団的自衛権の運びもそうだった。あれがアベ政権の最大の功績と湛える国際政治学者も多々いるが、憲法解釈も含め、正面からの議論を回避して、ご都合主義的に当面を糊塗する便法のパッチワークで基本的な政治方針をずらしていく手法は、ほとんど中国の強権国家が採っている法の支配と似たようなものだ。アベ=スガ政権のそれをリベラル法治主義と呼ぶなら。強権法治主義とさして変わるところがない。
法の支配というのは、政治権力の上に立つ超越的視点を持つことによって、恣意的な振る舞いを制約することであった。そういう意味で法務省の法解釈は、ある意味専門家としての独立性を矜持とする、揺るぎないこととして尊重されてきたと言える。中国の習近平は「法の支配」を柱のひとつに掲げはしたが、その適用は恣意的である。薄熙来に端を発する中国の汚職摘発は、確かに法の支配であったが、それは政敵を葬るという習近平の恣意的な目的のために発動せられた。習近平のそれは政治的目的のために法を作り替えるものでもあった。二期を限度とする国家主席への衆院をするというのは、プーチンがやはり同様の手口で4度も大統領の地位に就くのと同じである。
日本に於ける法の支配は、そうした政治的意図や被告発者の身分などに関わりなく一般的に適用されるものとして、国民の信頼を得ていた。それを反故にしたのが、アベ=スガ政権だったということだ。欧米風の研究者にいわせれば、東アジア的統治の風土が日本にもずいぶん色濃く残っているじゃないかというかも知れない。
しかしまだ、中国と同じレベルに至ってはいない。中国では、民主活動を支援する弁護士やメディアの関係者を拉致し、長期間にわたって拘留隔離し、ほとんど廃人同然にして釈放するということが後を絶たない。2017年、大富豪である肖建華が香港の超高級ホテルから中国政府公安部によって拉致され、未だに消息不明になっているというのも、習近平への批判的態度と絡めて報道されている。ロシア関連でも、謀殺されたり、あるいはアレクセイ・ナワリヌイのように、謀殺は免れたものの帰国後逮捕され禁固刑を受けている。
日本のアベ=スガ政権も流石にここまでには至っていないが、あと一歩敷居を踏み越えれば、法の支配は同じようなものになってしまう。戦後77年、日本の民主制度の根幹のひとつになる法の支配の背骨を腐らせてきたのが、近年の自民党政権だと言える。
統治権力を握るものは、自分たちが何をするかわからないと考えて、国の操縦を任されていると自戒することを求められている。そのブレーキとなるシステムが法の支配であるアベ=スガ政権のような統治が常態になると、如何に民主主義政体とは言え、法の支配を騙る強権的暴力統治になってしまう。
何となく決断力がないように振る舞うキシダ政権を好ましく思ってしまうというのは、たくまざる喜劇というほかない。政治家も官僚も、日本の政治に関心を持つ人たちは、法の支配という矜持を、もう一度わが胸に問い、日本国憲法の志を思い起こしてほしいと思う。
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