2022年12月25日日曜日

毒気のマッピング

 人は言葉によっていろいろなことを伝えると言うが、言葉だけではなく、いや、言葉以上に、その背の高さ/低さ、がたいの大きさ/小ささの持つ雰囲気、立ち居振る舞いの粗雑/丁寧とか、声の高/低、響きの鋭利/平坦といった、その人の身そのものが持っている気配が伴って、コミュニケーションが成り立っている。人は言葉を聞くときすでに、相手が何を話しているかを半ば以上に察知して言葉を交わしている。それが人の多数集まる場となると、そこに屯する人々の気配が力関係を働かせて集団的空気をつくり、それへの同調を求めたり、違和感を醸し出したりする。

 つまり人は、存在感という身の「気」を働かせて、気配を交わしているのだが、多人数が集まっているところでは、気配が交雑して何やら賑やかとか、はしゃいでいたり、騒いでいるのがわかる程度に混沌とし、どの人の何がそうなってこうなっているのかさえ、わからなくなる。でも、何かひとつ集中点を持ってそこに人が集まるときは、自ずから気配が同調同期して、それがまたわが身に跳ね返ってきて、いっそう身の裡の気配を強めたりする。それが堪らなくうれしかったりするのは、(この歓びを言祝いでいるのは)独りじゃないという広がりを合わせて感じるからだろう。

 逆に、選挙の応援演説やヘイトスピーチなどに際して、醸し出される気配も、その場に居合わせた人々の集団的気配として、場の雰囲気の強度を強める。そうでなかった人も何となく同調同期して惹き込まれていってしまう。毒気に当たるのである。

 蝶の羽ばたきが竜巻を起こすとか、台風を呼び寄せるということも、そうした集団的毒気がその場にいる個々人の振る舞いから生じると、視線をフォーカスしてみせている。集団的気配地図上に個人の存在をマッピングした表現と言える。

 そのように考えると、スポーツにせよ、選挙応援の集会にせよ、イベントや野外コンサートなど、人が集まるってことには、必ずそういった集団的毒気に身を置きたいという衝動につき動かされている。おしゃべりをしながら宴会をすると、普段はそれほどウマイとも思わないお酒が度を超して飲み過ぎてしまう。これも、毒気に当たりたい衝動が然らしむるところであって、わが身のそうした衝動が潜んでいたのだなと、振り返って思う。これは、ヒトの無意識に身につけているクセとも言えることにみえる。

 それを意識化してどうにかなるということではないが、自分がそうした衝動につき動かされることもあるのだと知ると、その瞬間のわが身を見る目が備わる。時にはそれによってシラケてしまうことにもなるが、少しばかり集団的毒気から身を剥がしてマッピングする働きとなる。それがすっかり身についてしまって、たとえばストレッチ体操の講師が「はい、ここは笑顔で……」などといったりすると、それと逆の振る舞いをしたくなる天邪鬼になる。動作を巻き寿司になぞらえて「何を入れて巻きますか」などと問われると、気恥ずかしくなって、「煙に巻く」とか戯けて言ってみたくなる。困った年寄りになった。

 これも、世の中のメインのありようにどこかで「対峙」しているような、わが身の奥底の無意識が反応するのだから、いまさら更(あらた)めようもない。この反骨というか、世の中のメインの気風に同調同期したくないというワタシの毒気は、何に由来するのだろうか。もっとも手近に思い浮かぶのは、37年前に亡くなった親父の存在感。それに対する反発と、若い頃は思っていたが、歳をとって考えてみると、案外、親父自身が、出征を機に、世の中の権威や権力や、要するに主流の気風に、反発して生きる生き方へ転換したのではなかったかと思うようになった。つまり、親父への反発というのは、アタマで考えたこと。身の方はしっかりと有り様を受け継いで、息子も反骨的に生きてきたよと、彼岸の親父と言葉を交わしているような気分になっている。不思議気分の年の瀬だ。

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