2022年12月28日水曜日

三位一体のワタシ的理解

 食卓について「父と子と精霊の御名において、アーメン」と祈りを捧げて食事をはじめる場面を映画などでよく見てきました。キリスト教のいただきますだなと受け止めてきました。文化人類学の本を読んでいて、違った文明・文化の地に育つ宗教や考え方も、ヒトの暮らしの根源に於いては、相共通する要素があり、それが形を変えてそれぞれの地の言葉になっているのだと思うようになりました。食卓の祈りの言葉がどういう意味を持つのか、いろいろなキリスト者の解説を読んできました。父は神、子はイエス、イエスの時代にはなかった観念とか、精霊は聖霊だとか諸説ありましたが、神を男としたことによって発生した概念だとか、処女懐胎の不可思議を組み込んだ合理性を保つためにつくられたカトリックの教義だとかあり、三位一体が何か、キリスト教の信仰をしていないものにとって感性の奥底を刺激するものに出逢うことはありません。縁なき衆生かと思うばかりでした。

 それがふと寝床で思い起こり、わが胸中でひとつになって氷解するように感じたことがあります。それをほぐしてみました。ま、謂わば、ワタシ流の自然信仰的「三位一体」とは何かをお話ししようというわけです。

 閃いたのは、父=過去、子=未来、精霊=現在、という見立てです。三位一体というのは、その、時制で表現したわが身の、心身一如。わが身に受け継がれているのは、いうまでもなく父性原理や父権主義的なジェンダーから自由な、生物学的な生々流転の継承だ。つまりワタシの現在に、過去も未来も一体となって存在しています。

 キリスト教では、旧約聖書由来の父権主義的なジェンダー意識がすでに埋め込まれています。また、それとも関係するが、身体と魂を別物ととらえ、魂に永遠性を託す発想も埋め込まれています。だがワタシの自然信仰では、それはことごとくワタシに体現された「時間」で表現される「空間」的実在がひとつになって、次の世代へと受け継がれてゆくヒト的=文化的連続性なのであって、性も実存も、あるがままにワタシなのですね。どなたかの言葉を援用すると、動態的存在なのです。

 以上が、今朝の寝床で私のアタマに閃いた「三位一体」の腑に落ちた実感でした。それがキリスト教の教義とかその解釈と符節を合わせているかどうかは、まったく感知しないのですが、たぶん、この辺りの実感を身の土台のところで共有するキリスト教徒たちが、思いついた言葉なのではないでしょうか。あるいはこれがベースに於いて実感できるから、その人たちは言葉を信仰しているのではないかと思います。キリスト教徒の胸中は、知りませんけど。

 こういうワタシ的理解を口にすると、それは一知半解、もっとちゃんと古今の言説を参照しなさいと、その筋の方々は言うに違いありません。そうなんだよね。門前の小僧はついに境内には踏み込もうとしませんでしたってワケだ。でもね、三位一体というキリスト者が謂っている言葉の意味を確定して新説を提示したいわけじゃないんですよね。ただ、キリスト者とワタシとがまったく違うセカイに身を置いているとも思わないのですよ。どこかに接点がある。その接点のところからほぐしていけば、同じ地面に足をつけて暮らしているとワカル瞬間がある。そんなことを思っています。

 あっ、ワカルというのは、ワカリアウっていってるんじゃないんです。相互の理解が大切って、向こうさんにも理解を求めているわけではなくて、ワタシが異世界の方々をリカイできればいいのですから、一知半解も全解も、向こうさんに伝わらなければ、殆(あやう)いだけで終わります。ただもしどなたかこれを目にして、一知半解だなと思われるか違いましたら、いや一知全解はこうだよと教えて下さるとありがたくは思いますがね。

 今のご時世もあるのでしょうか。近頃やたらと、身を護ることに意識を傾け、つまりそのために外からの言葉を攻撃的に受け止め、攻撃されると痛いだろうなと思うから、だったらやられる前にやってしまおうと、先制攻撃事態とかいって飛び道具を調えようとする気配が濃厚になっています。ウクライナになっては大変だと、対岸の火事に敏感に反応していますよね。中にはスズキムネオさんという方のように、ロシアの言い分もリカイしなくちゃいけませんよと取りなす方もいますが、なぜ彼がロシアの肩を持つのか、その根拠が少しも披瀝されない。ただただ、ロシアを悪者にしていいのか、NATOだってアメリカだって、こんな不埒なことをしてるじゃないかと言い募ってばかりです。そんなことを言わないで、何でロシアに肩入れするのかを、心情のベースに降りたって、わが身の裡と響き合うように語り出せばいいのにと、岡目八目は思います。あ、ちょっと、卑俗へ近づいてしまいましたね。

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