このブログ記事、「脳幹から紡ぎだされるオマージュ」(2020-12-20)と「言霊の実存性」(2021-12-21)を読んで、こんなことを考えた。
1年経って忘れていたと慨嘆したことを、2年経って同じように繰り返す。でも考えてみると、夢枕朔太郎の喰い・飲み・咀嚼した萩原朔太郎の言霊を、覚えているとか忘れているという次元で取り上げている限り、少しも身に染みこんでは行かない。
考えてもみよ。私たちが口にした食べ物が、どう咀嚼され、どう消化され、如何にして吸収されて身についたものとなっているか。その過程を意識の俎上に乗せることができるか。それは38億年の生命史の中で培われ、自ずからなる身の働きとして行われて初めて、ヒトは、その余のことに意識を傾けて暮らしていくことができるのだ。
とすると「知・情・意」と分節してヒトの活動を表現するのは、ほんのうわっペリのこと。その活動の底に流れている自動化されている生命体としての働きこそヒトの本体だと、上記の文章を読んだ3年目のワタシは思うようになった。
でもヒトはごくごく表面的なありようで世の人と関わり、それが世間的な世を渡る手立てを交換手段として手に入れる。評判や権威や権力などがそれにまつわって力となるから、ついついそちらに気を取られて、それを本体の活動だと思ってしまう。そう思って表面的なヒトの活動の解析と解釈に力を入れ込んできたのが、科学や哲学などの欧米的な理知的活動であった。
それとは別の道を歩いてきたのが、アジア的なヒトの考察であった。私が経験的に目にしてきたのはヒンドゥと仏教と儒教や道教の系譜にしか過ぎないが、アジア的自然観と私はひとまとめにして呼んでいる。つまり自然観が欧米のそれと違う。私がここで言う自然観とは、宇宙を含む世界の中のワタシとその世界をみているワタシとの位置づけ方である。
それは、起点からして食い違う視点を、一つにして感知し、意識しているわが身の不思議を通してとらえ返そうとする試みである。それをしてもしなくてもヒトは生きていける。にもかかわらず、その不思議に心傾け、のめり込んでいく身の裡の衝動を感じている。つまり、世界を見て取りそこに己を位置づけてみようとしているワタシを、さらに違った次元のワタシがみているという不思議。その、とどまるところを知らない感情、思念、想像という人のクセの動態的プロセスを、いまワタシは歩いていると実感している。
0 件のコメント:
コメントを投稿