今日から師走。訃報が届く。コロナのせいもあって、どなたも亡くなったときに報せを貰わないままであった。2月に92歳で、あるいは3月に72歳で逝去したと、年賀ご遠慮の葉書に記されて知る。ま、それも仕方ないか。たとえそのとき報せがあっても、家族でさえ顔を見ることなくお骨になることもある。ご時世というか、弔いの形も変わる。
ならばいっそうのこと、訃報も貰わなければ良かったと思う。電話で声を聞くこともなく、手紙やメールで遣り取りがあるだけ。いつしか、絶えて久しい。そういう友人は、思い返してみると、たくさんいる。年賀の交歓さえ絶えて、もう何年になるか。彼の人が、まったく私に関心を持たなくなったからといって、何の不思議もない。あるいはもう70歳を超えたので、年賀は出さないと書いてあったのが最後だったか。蒸発するように消えていくのが「自然(じねん)」、わが心裡としては好ましくさえ思う。
傘寿ともなれば、いつ消えても不思議ではない。つまりわが身こそが消えていく立場。他人様のことをどうこういうことではない。
でもね、身近にいた人が本当に消えてしまったと知ったら、これはこれで困ってしまうものだよ。好ましい「自然(じねん)」ていうのは、やはり普段はそれほど親密に往き来していない人だよ。あるいは幼い頃から一緒に過ごして育ってきた兄弟姉妹のような、わが身に刻まれた「親密さ」が慥かに感じられる人が、ポッといなくなってしまったら、どう身の裡に落ち着かせていいかわからない。その人と共に過ごして形づくられたわが身の一部が、ごっそりと削り取られたように思え、消えたことを思うだけで涙が出てきて止まらない。
弔うというのは、死者をわが心裡の収めるべきところへ収めて鎮かに言葉を交わすというか、言葉にならない気配を交わす作法じゃないか。その作法が、葬儀ともなると、社会的儀式として執り行われて、わが身の裡に落ち着かせるのは、もっとずうっと後になる。むしろ、独り鎮かに線香を上げ、口にすることなく思い浮かぶイメージを、気配として取り交わしているような「祈りの秋(とき)」にひたる。そのときに立ち現れる「あなた」と語らっているような「とき」こそが、弔うってことだと思う。
沈黙して横に座っている。その、共にいる感触。私のなかの「あなた」は、ワタシの中の別の私。そうした別のワタシが、いく人もわが身の裡に生まれ出て、ぽつりぽつりと思い思いに顔を覗かせる。心身一如というよりも、わが身が世界に溶け出して、一身が大宇宙と一つになったような人神一如という風情かな。
いかにも師走の感触を湛える風情であった。
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