2022年12月7日水曜日

何が壁になっているのか?

 東洋経済オンラインの2022/12/3に、石浦章一の意見として《公園の池の水抜いたら「死の池」に…衝撃の実態 魚が消え、鳥が来なくなった意外な原因》という記事が掲載されています。白河の清き流れに棲みかねて昔の田沼いまぞ恋しきと言っているわけでもなく、どっちもどっち、《「保護」と「保存」と「保全」》をきちんとわけて考えていきましょうと言っているだけの「意見」でした。『日本人はなぜ科学ではなく感情で動くのか』という著書を出版された脳科学者のようです。

 つまり、この方の考える一般の日本人は、《「保護」と「保存」と「保全」》の区別もせずに遣り取りしているから、「科学」の探求成果をきちんと見きわめ評価査定することができず、それを活用するべき現実政策に於いて、右往左往するかむちゃくちゃなことをしていると言っています。もっとも「一般の日本人」と言うだけではなく、「一般の科学者」といっているのかも知れません。なにしろ「東大名誉教授」という肩書きです。たとえば仲正昌樹にいわせると、東大法学部は他の大学の法学部とは違う。日本の法道徳を決めているのだそうです(仲正氏がそれを良しとしているわけではありませんが)。私は名誉教授というのは、社会的な枷から解放されて知的人格そのものが感じていることを放言すると思っているのですが。

 だから私は、悪口を言っているわけではありません。この方の語り口は、結論的でなく、方法論的です。公園の池の水を抜いたら何十台もの捨てられた自転車が始末され水は綺麗になった。だが魚が棲まなくなった。言うまでもなく魚の棲む池の方が好ましい(この、好ましいというのは感情の発露なのですがね)。なぜこんなことになるのか。外来種は駆除すべきというのは正しいか、と話しは転がる。

 このブログの「自然(じねん)が好ましいのはなぜか?」(2022-11-21)で私も、自然保護のリテラシーについて述べ、「混沌」を好ましいと受けとる感覚を磨こうと、これまた結論のない方法的提示に終わっている。結論というのは、そのモンダイ現場に直面している人にしか出せないものというセンスが、この名誉教授にもあるのでしょうか。

 外来種についてこの方はこう述べています。

《「生物多様性、大事ですね」「里山、大切ですね」など……この錦の御旗を与えると、「外来種を駆除しましょう」とおおよそみんな喜んで乗ってくる。だが外来種だって、持ち込まれた場所で必死に生きているだけ。だから、そういう2つの別々の考えがあるものを皆さんで議論して、どうしたらいいかを決めることが重要なことなのです。》

 ここで、二つの考え方の違いが、どういう次元の違いから生じているかに踏み込んで行かないとならないのに、しかしそこへは入り込まないまま、「皆で議論して」とリテラシーを中途で放棄しているように見えます。一般国民はこの程度のこともわきまえていないと思っているのでしょうか。

 次いでこの方は、「自然エネルギーの落とし穴」と小見出しを振って、太陽光パネルでサハラ砂漠を覆ったらと仮説を提示し、それが引き起こす上昇気流と竜巻に言及しています。原発もそう、潮力発電も同様と、人工的な構築物が一長一短を持つことを述べて、《「保護」と「保存」と「保全」》を熟知していきましょうと述べて、終わっています。

 でもこれって、議論を問題が発生した初期に引き戻すだけで、ここまで諸種のエネルギーを使ってきた経験の蓄積を組み込んでいません。「皆で議論していきましょう」では、何も言わないのと同じです。

 あるいはもう一歩踏み込んでいるのなら、「皆で議論なんかできていない」現状をどうするのか。良いこともあれば悪いこともあると提示するのが「科学」というのなら、それを政策に組み込んで実行過程に映しているのは政治です。まず、その政治が「科学」を尊重せず「感情で動いている」というのでしょうか(私はそうだと思っていますが)。とすると、なぜそうなっているのか。そこまで言及してこその、名誉教授のモンダイ提起ではないでしょうかね。もちろん、政治家は世論の、つまり一般国民に訴えるために言葉を紡ぎ、一般国民は「感情に動かされて」モノゴトを判断するから、そうなるのだと名誉教授は考えているのかもしれません。

 私は一般国民だと思うから、ひと言いわせて頂くが例えば、利害得失を勘案することは「感情的に動く」ことになるのでしょうか。「私の利害」だけでなく、「皆の利害」を判断するというのがクールで好ましいのでしょうか。とすると「皆の利害」という「皆」とは誰を指しているのでしょう。それらについて「科学」はどう言葉を繰り出しているのでしょうか。そんな疑問が、次々と浮かんできます。

 それらを自問自答するのが、わたしの世の中リテラシーなのですが、名誉教授さんは、このところをどう考えているのでしょう。「科学」を取り扱う側の人たちが、ご自分の科学研究の言い及ぶ範囲を限定しないで、すべてに発言する根拠を手に入れているように言明することが、まず当事者性としての問題だと私は思っています。私にはわかっている。だが一般国民は「感情的に動いている」とみているのだとしたら、それはどういう立ち位置の違いから生じているのか、「科学」的立ち位置の方が、「感情的」に動く立ち位置よりもより正しい判断に近いというのを、どう説明するのでしょう。とても興味があります。

 ま、東洋経済オンラインの解説であれこれ考えていても仕方がないですね。そう思って図書館に『日本人はなぜ科学ではなく感情で動くのか』を検索したら、ありました。予約順、3番目です。ひと月ちょっと待てば借り出すことができます。

 それに眼を通してから、あらためてこの問題を取り上げてみましょう。

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