ワタシの感性や感覚や思考の根拠を自問自答すると行き着く先は、人類の起源になる。いつ、どこで、どのようにして人類が群れ、所有の観念が生まれ、家族とか個人になっていったのかは、文化人類学者や考古人類学者がいろいろと思い巡らしているが、ワタシの根拠となると、とどのつまり、自分で思い巡らすところからはじめるしかない。80年も生きてきた私の身に放り込まれた人類史の有象無象が、ワタシの感覚観念の根拠となっていることだけは間違いない。しかもそれらの大半は、無意識に刻まれていて、言葉に説き起こすことができるかどうかもわからない。わが身の裡側への探索である。
学問を業としてきた人ならば、ここで、何を明らかにするか、どう明らかにするかと目的と方法をはっきり打ちたてて、すでに学問世界で積み上げられてきた足跡をたどり、その最先端にわが考察を付け加えるべく取りかかるのであろう。だが、市井の老爺には、そんなメンドクサイことは、とてもできない。
唯一つできる方法は、わが身と心持ちの赴くままに、思いつく一つひとつの断片について、人類史がどう歩んできたかを言葉に起こしてみること。このブログで私が日々やっていることである。狭いワタシの知見や了簡も露呈する。養老孟司のいうバカの壁もワタシ風に披瀝することになる。恥を忍んで身をさらすというのではない。わが身の感性も感覚も思索も、それが人類史のもたらしたものであってみれば、忍ぶ恥こそバカの壁。それは、私の生まれ育ちとその時代と社会の然らしむるところであって、つまりそれこそ、わが身に刻まれた人類史の有象無象そのものである。もしそれが恥ずかしいことであれば、人類史が恥じることと居直ることしか、市井の老爺にはできぬ。
ソクラテスが言ったという「無知の知」を、自分が知らないということを知ることと解釈することが多い。「自分が知らない」というのを「世界を知らない」というニュアンスでとらえている。ワタシは、これがソクラテスの謂わんとすることと同じなのかどうかはわからないが、ちょっと違う風にとらえている。
物事に接したときに「わからない」という触覚が働く。これがワタシの「世界」の触感である。ワタシと「世界」との位相の違い。ワタシが「世界」と触れ合っているところで、かろうじてワタシはセカイをとらえている。「知る」と謂うことと「分かる」と謂うことが違う。ワタシは「世界」をとらえることはできない。ワタシが「わかった」と感じていることはワタシのセカイであって、「世界」はその外に壮大に広がっている。ワタシの実感としては「世界」と触れ合ったときに「わからない」と感じられることでしか、感知できていない。だが逆に「わからない」と感じることは「世界」の端緒に触っていることでもある。その「わからない」先に踏み込んで「わかる」ことにでもなれば、ワタシのセカイが、またひとつ広がる。そういう意味で、ワクワクして、できるだけ「わからない」ことに出くわすことを愉しみにしている。
つまりワタシにとって「無知の知」とは、「わからないことに触れること」である。「わからない」ことを知覚して、ワタシのセカイから食指を伸ばして、知らない「世界」へ少し踏み込む。でも徒手空拳でそれはできないから、すでにその「世界」に身を置いている先達の知見を目にし耳にすることで「わからない」ワタシを発見することを積み重なる。では、その先達とはどのような人か。それがまた、わからない。思わぬところに先達がいる。無意識にわが身に染みこんだ権威が、案外つまらない人であったりもする。これも一人一人、その領域に応じて身の裡に聞きながら見定め、あるいは訂正している。
ただ、「わからない」ことさえわからないことがある。わかったつもりになっていることを、ワタシが素通りしてしまうのだ。これはワタシの無意識の領域に収めてしまっていることだから、わが身を吟味することでしか剔抉することができない。「無知の知」を「自分が知らないということを知ること」というのは、たぶん、このケースのことではないかと思う。
これがワタシの解釈と同じかどうかがわからないと言ったのは、世界のとらえ方が違うように感じるからだ。それはニュアンスの違いなのか、決定的な違いなのか、私自身はどっちでもいいように思うから、踏み込んで差異を明らかにしようと思っていない。だが、それ自体は大きな問題になると思う。こうして日々書き流している断片を、本当に人類史の初源からたどりながら、わが身の裡から引き出してみようかというテーマが浮かんだ。オモシロイ。そう言えば近頃、「全人類史」とか「地球生命体の歴史」といった人類史や生命史の総括的な著作が、目に止まる。これは私の好みが、観るべきものを見つけているのか、それとも社会的な共通する風潮が流れているのか。ワタシは結構、通俗だから世間的な風の流れがついて回ってきているのかもしれない。これも検証するとオモシロイかもしれないが、今となってはどっちでもいいことだし、メンドクサイから手をつけない。
こんな調子では、とても人類史的初源からたどるなんてつづかないよと内心の声が聞こえる。そうだね。ま、それも身の裡、仕方ないよねとワタシの意識が声に出す。「世界」がわからないというのは、ワタシがわからないというのと同じなのだから。
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