2022年12月3日土曜日

何があるかわからない

  明日、新橋でseminarを予定している。昨日、講師のミコちゃんから電話。珍しい。どうしたのか? 

「親戚の人が亡うなってね。八王子なんじゃ。うん、日曜日が葬儀になってな、急いで帰っても間に合わん。ごめんな」

「いえいえ、わかりました。こちらで何とかします」

 そういう年代になったのだ、私たちは。突然何があっても、不思議ではない。そんなことに動じていては、ここまで年を重ねてきたことに申し訳が立たない。やります、やります。

 その後、ドリさんからメールが来た。

「ミコちゃんが当日出られなくなったというのですが、seminarはやりますか?」

 と、講師がいなくなったことを心配している。そして付け加えた。

「スズさんから電話があってね、どうするんじゃろうと彼女も心配してる」

 実はスズさんとドリさんは、ミコちゃんが講師を務めて「80歳のわたしの風景」というお題で話しをするというのを、ミコちゃんの連れ合いが嫌がっているために、講師を止めるといったのを、わたしらが加勢するから講師やろうと応援団を買って出たのであった。その応援団のはしごが外れてしまったので、自分たちにお鉢が回ってくるのを心配したのだろうか。早速私は、参加の方々に返信した。

《講師は未定(目下交渉中)ですが、お題は「80歳の風景ーーわたしの連れ合い」をテーマに、フジタが司会をしていろいろとお話を伺いたいと思います》

 seminarはすでに高齢者の近況報告会になっています。「お題」をどう設定するかにも、いろいろと言い分はありましょうが、ミコちゃんが設定した「80歳のわたしの風景」というのは、万能です。どんなときも、誰が講師であるかどうかにカンケイなく通用するテーマです。

 ただそれを、どう切り出し、誰に話を振って、どう繋いで行くか。そこを心しないと散漫な世間話に終わってしまう。それでいいじゃないか、という声も聞こえないわけではない。だが、でもそれだけでは、何だかねえと私は感じる。これは、何だろう。

 ただの世間話で終わっても、その響きは身に残る。だがそこに起こる波紋が、どのような振動を持っていたか、どう響き渡っていったかいかなかったか、そういうことを気にすることが、言葉を交わす意味を明らかにする。意味とは存在に関する自己確認。世界に触れる人間の作法。そう思うから、問いを吟味する。

 そのときじつは、自問自答する。まずわが身に問うことが、インタビュー風に他者に問いかけ、その応答によって物語を紡ぎ出す作業の出発点となる。最初の自問自答の深さ、奥行き、広がりが、インタビュイーの応えの深さ、奥行き、広まりを決める。〈良く問うことは、半ば答えること〉という俚諺は、そのことを示している。

 ではまず、「わたしにとって連れ合いはどうみえているか」。

 う~ん、どう応えていいか、わからない。いまの時点だろ? 連れ添って、ここまで歩いてきた、歩き方がどうであったかによるよな。

 比翼連理じゃないが、家内事業的に仕事をしてきたのであれば、仕事とそのパートナーという意味でも、連れ合いは欠かせないわが身の一部となっているはず。毎日の作業で触れ合っている中で、どんな場面でどちらが主導し、どちらが何を任せっきりにしてきたか。そこに衝突はどう生まれ、どう解消してきたか。もしそれが、でも(生まれ育ちの異なる文化を持つ)他人よという齟齬を来していたとすると、それは仕事に対して良くも悪くも、どういう意味を持ったろうか。それは、現在のわたしにとって「(わたしの中の)別の私」になっているだろうか。

  そう考えると、家内事業的でなくても、似たように考えられるのではないか。「家族」という単位で社会に向き合ってきたのか、ワタシという単体で社会に向き合ってきたのか。「家族」として社会に向き合うといっても、「夫/妻」の間の(文化的差異による)齟齬を、どの段階でどう折り合いをつけて社会へ乗り出したのか。夫婦の生活歴とともに、子どもの成長に伴う社会との接点にも、どちらがどう振る舞って「家族」の面体を保ってきたか。子どもたちへどう文化は継承されていったか。

 それら子細に立ち入って、皆さんの歩き方を浮き彫りにしてこそ、私たち世代の有り様が、語り出せるのではないか。いやこれは、ムツカシイかな。世間話なら、触らないでやり過ごすことも、傷を掘り当て、傷口をあらためるような振る舞いとなっては、心穏やかに語り合うってことにはほど遠いseminarとなる。でも「(私にとっての)連れ合い」を語るということは、実は、それほどに(個人にとっては)危ういモンダイとなる。

 だから、オモシロイのだ。

 となると、ここ一年ほどの間に連れ合いを亡くしたお二人さんにインタビューすることから初めて、毒気を抜き取り、彼岸の連れ合いに語りかけるように存命中のご苦労に感謝を献げることから話して貰おう。まだ連れ合いが健在の方々には、胸中で問答をして頂いて、いかにも偶然の運びのように話せる方には話して貰う。そういう手順を踏んで、少しずつ語り出せる雰囲気を高めていくのが、一番いいかもしれない。

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