2022年12月27日火曜日

年寄りの小言

 やっとモンダイ大臣を更迭することになった。政治資金に端を発し、選挙のときに息子が本人に代わって襷を掛けて選挙カーになるなどの不正が指摘されてきた。任命したキシダ首相は「本人が説明責任を果たして」と言い続けて、とうとう年を越すかという段になって更迭を決断した。何でこうなるのか。

 モンダイ大臣が自民党の派閥推薦で任命したからだ。つまり、この大臣を任命したのはキシダ首相ではなく、当の大臣の所属派閥のボスだった。キシダさんには、罷免権も形式的にしかなかったと言える。だから首相は本人に「説明責任を果たせ」と言ったのであろうが、キシダ首相自身がなぜ彼を任命したのか、説明責任を果たさなければならなかった。にもかかわらず、あたかも他人事のように「説明責任」が本人にあるような振る舞いであった。そうか? 

 大臣の登用が派閥推薦できまるのであって、じつは首相にはない。それを政治家もメディアも、その情報を受けとる人々も知っているから、だれも「説明責任をしろ」という首相の言葉をヘンだとは言わない。まるで、国会政治スクラムでも組んだみたいに、メディアも連日そういう報道に満たされていた。つまり、タテマエがすでに形骸化して行き渡り、ホンネのところで実政治が運んでいる。だからキシダ首相も、ホンネで「ワシャ知らんもんね。ちゃんと説明しなはれ」と他人事にように言って何憚ることはなかった。スクラムメディアも、それをよく知っているから、そのことをモンダイにしない。

 アベさんの時は首相自身が最大派閥、モンダイがあればその大臣の推薦派閥が責任を持って始末しなさいと派閥の領袖に要求することができた。だから彼は、罷免する必要はないと突っ張ればそれで済んだ。今のキシダさんにはその力がない。ますます下世話週刊誌の報道に振り回され、私ら庶民は、政治世界の人々はすっかり腐っていると再認識している。

 これは、何だ? 何を取り替えねばならないのだろうか。タテマエをタテマエとして取り戻して、ホンネを恥ずべきこととして抑え込む道か、または、派閥の領袖が選んで大臣に送っているってことを、周知のこととしてではなく明らかな御正道、つまりタテマエとして掲げて、それに遵って派閥の領袖に「説明責任を求める」。首相の任命責任がカタチだけしかないのなら、そんなものは屑籠に入れて、裏の密談とか取引とか根回しというのを表側に引っ張り出して、それをタテマエと一致させる。裏表をひっくり返せばいい。恥ずかしがることはない。トランプもそうだし、プーチンもそうだ。#me-firstを堂々と掲げてくれた方が、反対する方も論議が回りくどくなくていい。

 たぶんこれは、「恥の文化」といわれた日本文化が覆る、決定的な臨界点に来ているのだと私は思う。それはじつは、欧米渡りで入ってきた近代的な理念が、じつは単なるホンネを覆い隠す外套でしかないという日本人のタテマエ理解を正面に押し出す。人ってのはそんなメンドクサイ上着を纏ってしか他の人と向き合えないメンドクサイ文化を創り上げてきてしまった。

 日本ではそれを、タテマエとホンネ名付け、表と裏の二枚の意思疎通経路をとってきた。人が表で喋るのはタテマエ。それを聴く方はそのホンネを推しはかる。あるいはそれを忖度する。上司のホンネを察知・忖度して対応する下僚こそが出世をするに相応しいという文化が、ここ1200年もの長い間の錬磨を経て、列島全体に行き渡り、時代的な変奏を加えて作り上げられてきた。

 それが、もう無用の長物だということを明らかにしたのが、グローバル世界のトランプさんの振る舞いであり、アベさんのモリ・カケ・サクラであった。いや、いくらなんでもあからさまな、と感想をしたのは戦中生まれ戦後育ちの私たち、すでに後期高齢者の老人たちであった。知識人という人たちは、ご自分の纏っていた衣装と現実政治のズレを調整するのに懸命に理屈を繰り出すが、もう誰もそんな専門家の声に耳を傾けようとはしない。

 じつはほとんどの国民は、王様は裸だと知っている。王様も裸で何が悪いと居直る。でもそれでは、いくらなんでも恥ずかしい部分が丸見えじゃないのとメディアも騒ぐから、忖度したかつてエリートと呼ばれた下僚は、恥ずかしい部分を削り取って見えないようにした。下僚に仕える木っ端役人が、手を染める罪の大きさに心を傷め自らの命を断つ。そのことを問われた元エリート下僚も王様も、ワシャ知らんもんね、を貫き通した。王様は晩節を汚すこともなく、まぐれ当たりの手製銃に斃れ、その非業の死という部分だけが王様の裸を知っていた国民の心を打ち、国葬儀にうなだれたってのが、一幕の終わりとなった。

 これはしかし、ホンネとタテマエの交代劇であり、じつは日本文化の大きな転換点を画するデキゴトであった。背景にグローバルな、理念と目前実益の交代というもっと大きな交代劇が展開していたから、主役たちはいよいよ恥知らずに突き進むことができたってワケだ。

 そのことをどうして感知できたか? ワタシらは旧世代。押しつけられた日本国憲法の理念を身に染みこませて、それを実現することが日本の進むべき道と信じて、戦後の経済一本槍の世界を渡ってきた。それはそれなりに現実化したから、誇らしくもあった。だからタテマエとホンネという使い分けすら脇に避けて生きることができた。ホンネにタテマエの外套を着せるなんて恥ずかしいとさえ思った。そうした身に染みた世界の見立て方をしてきたから、上記の交代劇がよくみてとれる。すでに引退して渦の中に巻き込まれていない。傍観しているものにとって、渦中の混沌は、面白く、かつはっきりとみてとれるのだ。 

 こうして俯瞰してみると、もはや戦後民主主義の着ていた外套はすっかり剥ぎ取られ、経済一本槍で過ごした戦後政治現実の最良の部分を継承していると自称するキシダ首相は、すっかりホンネをさらけ出して「説明責任を果たして下さい」と、ご自分に任命責任など存在しないことを、恥ずかしげもなく口にするようになった。彼も時代の波に揺られて変わりゆくご自分の姿が見えないんだね。言葉と有り様のズレがアベさんほどうまくない。ワタシらは外套を脱ぐよりも人間の皮を脱ぐのが先になるから、行き詰まりを感じないで彼岸に渡る。これからの人が大変なのかどうかは、わからない。

 人として恥ずかしいことはしないでねというお袋の小言が、ちっぽけな世間を気にして生きる人の卑小を思わせていた、だが案外、人類史に照らして恥ずかしいことはしないでねと、現実世界の舵を取る世界の政治家たちに言えるのかもしれない。年寄りの小言として。

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