2022年12月9日金曜日

「わからない」という鏡

 映画『長江哀歌』の録画をみた。三峡ダムが閉鎖になる直前にこの地を訪ねたこともあって、そのときの現地の人たちの暮らしがどうであったのかに関心を持ってみた。仕事を求めて各地からやってきた人たちが、飯場で一緒に過ごす様子が描かれ、他方で、仕事に出たまま2年間も音信がない夫を遠方の省から訪ねてきた妻もいて、三峡ダム建設の狭間に底流して揺れ動く人々の心持ちを描き出している。

 ところが、夕方、一杯聞こし召してから寝っ転がってみた所為もあってか、何を意味するのか、よくわからない場面が、いくつか現れる。なんだろうあれは? という自問を残したままになった。それが、夜中に夢枕に浮かび立つ。

 わが妻子会いたいといって訪ねてきた男の、宙に浮いたような心許ない立ち位置が、三峡ダムによって立ち退きを迫られ、新しい移住地へ移りゆく住民の心裡と重なって、この土地全体を覆う気配となっている。どうして妻子が遠方からこちらへ来ることになったのかもわからないまま。なのに、「もうお前の子ではないと警察が決めた」というやりとりがあり、わが胸の内の「?」は膨らむ。

 他方で、遠方から働きに来て、その日その日を過ごして博打を打つ、酒を飲み、麻雀に時を過ごす、工事現場で事故にあって同僚に見送られていく人々。かと思うと、2年間も音沙汰のない夫が「社長」と呼ばれる現場工事を請け負うエライさんになっていて、どうも愛人もいるようだ。この夫の昇進のワケもわからない。その夫に会うことができた妻との遣り取りの場面は、ことばにできない/しない妻と夫の互いの蟠る胸中を画像に仕立てていて、なかなか味わいがあったが、妻が「好きなひとができた。離婚してほしい」といって長江を下る上海行きの船に乗る。この唐突さも、「?」のひとつ。

 いや、夫に会う前日の夜、泊まっているところの近くに建てられていたオブジェが、まるでロケットを打ち上げるように火を噴いて天高くへ上っていった場面は、何を意味しているかわからなかった。後に「離婚」を切り出すときになって、ひょっとするとあの時の妻の心持ちが、オブジェが飛び立つように夫を離れて飛び去る決意を固めたのかなと後付けをした。

 この作品の第3部になって、冒頭の妻子に会うためにやってきた宙に浮いた男が、やっと妻に会える場面が登場する。妻の兄の借金を返済するために子である娘が働かされていると、これも後付けでわかる。ここもまた妻が夫と共に帰るとは言わない。この夫婦の間も微妙で、私の「?」に加わる。

 こうしてみてくると、この作品というか映像作品も小説もたいてい、物語り全体を通じて、解きほぐしていくワケであるから、後付けでやっと「わかる」というのは、むしろ自然だと言える。ふだん、わかったつもりになって先を見ている。だから、おやっ? と思うのは、みている自分の思い込みを修正している。あるいはまた、それが映画を見続ける原動力にもなっている。それが胸中で瞬時になされているから、ほとんど気にしないで観すすめてしまうのだが、この「?」というところが、映画との出逢いとして大切なのではないか。それはワタシが鏡に映っている瞬間であり、逆に映画の制作者側から言えば、観客が世界と出逢っている場面なのだ。

 今朝になってネットに出ている『長江哀歌』の粗筋を読んだ。上述した「アニの借金のカタ」にとられて妻子が長江中流域に来ていることもわかる。遠方から出てきて2年も音沙汰のない夫が「社長」と呼ばれているしごとが、違法立退かせを生業にしていたとも記されている。長江にかかる新しい大橋の完工記念であろうか、たぶん省のお偉いさんが号令を発すると橋とそれに連なる全体の電飾が点灯され、華やいだ気分が盛り上がる。その合間に沈むように、関わる人々の哀切な佇まいが静かに横たわる。不思議な感触をもたらした作品であった。

 という私の「?」を今朝になって、カミサンに話した。はははと聞いて、「あなた観ているとき、いびきかいてたよ」と笑った。いやはや、言葉もない。

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