12/28となると、年の瀬も押し詰まったという気分になる。リハビリに行く。病院もこの日で1/3までお休みとあって、患者が押し寄せている。だがリハビリ士は、施療をしながら世間話をする。正月にどこかへ出かけるか、と。ははあ、この人は出かけるんだなと思ったから、こちらの話しを少しして、あなたは? と問いかける。案の定、妻の実家の豊岡に行く、妻と子らは一足先に今日出かけ、自分は明日出発する。話しぶりから、関西は僻遠の地のように感じているようだ。
驚いたのは、私の実家は岡山の南部と話したとき、オカヤマってヒロシマの向こうかこっちかと聞いたことだ。そうか、岡山に住んでいるものにとって、たとえばトチギとイバラキは? っていうと、どっちがどこにあるという位置関係がわからないのかもしれない。そうだね、ヒトはその暮らしの中で直接関わりのないことについては、慮外のこと、僻遠の地と思っても致し方ない。
ではなぜワタシは、そうした地理的な位置関係を熟知しているか。今の学校ではどうしているのか知らないが、小学生の時には、日本列島の河川や山脈、大きな湖沼や古くからの街道、都道府県の位置、あるいは特産物など地理的な「知識」を、今思うと、まるでクイズのように覚えたものだ。今はネット検索をすればすぐにワカル。検索すればすぐにワカルことを覚えてどうするというのが時代的風潮だ。昔風に謂うと、「知」が単なるデータになった。だがそうだろうか。
検索すればすぐワカルというのは、必要になったら検索すればいいということを意味する。だが、闇雲に覚えていたことが、あるときパッと閃いて目下のデキゴトと結びつくという経験をしたことはないだろうか。ただただ覚えるというのは、その覚える事項の意味合いがワカラナイことを意味する。都道府県の位置関係や、それと河川や湖沼、山脈の所在とがヒトの住むところ、暮らしを立てる知としての空間的なベースをなし、それ故に、その感知は創造力の大きな力になる。駆動力となり、現実的な時間と空間の移動という感触につながり、その感触にまつわるデキゴトに接したときにリアルを持って受け止める触覚を育てる。知っているということは、その筋の触覚のセンサーを持つことになるのだ。
もちろんそれは国内の地理的な関係事項ばかりではない。世界の国名とか面積的な大きさとか、人口的な規模などにも通じること。私たちは何かコトが出来し必要に応じて、その地のことを意識するようになる。そのときには、ただ単に地名や人口規模とか広さといった大きさばかりでなく、デキゴトにもつ地理的データが起ち上がり、ヒトの営みが経済的・政治的・軍事的・文化的な色合いを添えている豊かさを感じる。今年の大きなひとつでいえばウクライナがそうだ。ロシアの侵攻によって、それまでまとまりのない茫洋とした国家と思われていたウクライナが、一挙に国民国家としての堅固な集約点をもって動いている。人々の、というかヒトの営みが連綿として受け継いできたコトが、良くも悪くも浮き彫りになる。それにワタシが深い関わりを持つことが実感できるのも、ワケ知らずわが無意識の中に溜め込んできた「データ」があったればこそだと、振り返って思う。
冒頭「クイズ的に覚えてきた」と記したのは、幼少期のヒトの好奇心に導かれていたことを指していた。それにとりかかろうとする時機に、「検索すればワカル」と水を掛けられると、たぶん自分の好奇心がつまらないことに見えてきて、消し去ってしまうであろう。「検索すれば代わる」というのは、データ検索を覚えたすっかり大人になったヒトのいう言葉であって、それが如何程に浅知恵であるかは、己の知恵・知識がどれほどに無意識の裡に身につけたことによって支えられているかを忘れた振る舞いかに目をやれば、判る。わが身の来し方を振り返り往き来して参照してこそ、そう感じられる。そのココロは、ワタシには見えていないことがずいぶん多い、である。
「知」が単なるデータになった。だから、データの使い方を直に教育せよ、アタマの使い方を訓練した方がよいというのが、今風な学校の風景だろう。だがそうだろうかとワタシには疑問がついて回っている。
いつだったか、私の高校の同窓生で車の設計・製造を生業にしてきた男がいる。彼が現役の時、ドイツの自動車会社の幹部たちと言葉を交わしたとき、経営者が車がどのように設計・製造されているかに頓着しないで、製造経費をどのように詰めろと指示命令しているのを観て、驚いたと話してくれたことがあった。そのときは、ヨーロッパと日本との製造現場と経営者との立ち方の違いを論題にした場であったから、謂わば会社の中の分業が経営者の戦略的な視線を養い、現場は現場でその指示命令を受けて工夫を凝らす素養を培っていると終わった。だが、データとその使い方との教育の方法を巡るコトで、それを思い出した。
会社経営では、経営者の市場を踏まえた戦略的思考が要求する無理難題を製造現場がやりくりして凌いでいくことによって、全体としてうまくいっている/破綻するということになろう。だが、それぞれの領域の担当者間で暗黙に了解している、謂わば無意識の働きによって乗り越えている部分が結構多く、そのことに関知しないで済むのは、運びが順調なときだけなのだ。
一人のヒトが自らの無意識部分を分けて取り扱うことはできない。「データを覚えるのに等しい」とそしられる知恵・知識も、それを覚えている間にどのような世界認知の文法作用が働いているか、ワタシは知らない。子どもが言葉を覚え使いこなせるようになる間に、複雑な文法作用を身につけ、時に間違って、へえ子どもって面白い発想をすると笑いを得、ときにバカだなあと嗤われて心裡で修正を加えてゆくことは、多くの親が、そして多くの子ども時代のワタシが経験したことである。それを私は不可思議と呼んでいるが、ヒトというのは、身の内奥でそういう不可思議なメカニズムを働かせながら、言葉を操る方法を覚え、ヒトの社会の群れに身を投じていっている。その無意識の部分を、ただ単に機械が代替するようになったというだけで、データ処理として切り離して処理していいものとは、思わない。
こうも言えようか。データ部分を機械任せにするというのは、アタマのデータ処理部分を外部化することだと。外へ出してしまったとき実は、それを内部処理していたときの無意識的に醸成していた世界認知の奥行きもまた、内部から放逐されてしまう。そうして、データを処理する方法が教育されて養われる部分が、果たして放逐されてしまった部分を補うだけの奥行きを保つかどうか。ヒトの意識する部分の方が、無意識の部分よりも遙かに少ないと自覚しているワタシにとっては、明らかに深みは失われ、浅薄になると思う。ヒトがそう変わっていくこと自体は止められないが、つまらないデータを外部化しただけでなく、ヒトのセカイをとらえる深みをも失うことだと知っておかねばならない。古語古典を読み書きしていた時代の人たちの内奥の深みを、現代のワタシは失ってしまっているという自覚と重なって、それは申し訳ないことをしたと私は思っている。ワタシもまた、ピンポイントの今を生きているに過ぎないのだね。
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