団地の大規模な給水管給湯管更新工事は終わったが、その工事のためにわが部屋片付けようと移したものの始末が、まだ終わっていない。パソコンやレコードプレーヤーなどの物(ブツ)は大分片付けたが、若い頃からの印刷物や本、資料などは、まだまだ溜まったまんまにしてある。時折、暇に任せて手に取って仕分けしようとするが、その都度、え、何でこんなものがと思うものに目がとまり、それはそれで考え込んだりしてしまう。その結果、片付けは一向に進まない。
ひとつ、こんなメモがあった。誰かの本を読んでいて、気になったので書き置いたのであろう。
《人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによって、いろいろな色調のものがある。例えば春の野にさまざまな色どりと草花があるようなものである。/私は、人には表現法がひとつあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文を書きつづける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた。》
「数学なんかをして……」とか、「フランス語で書き付ける」とあるから、岡潔かなと思うが、わからない。だが、このメモを、いつ頃、どういう時に、何に気を惹かれて書き置いたのだろう。じっくり読みながら、経てきた径庭に思いは巡る。
(1)「人の中心は情緒である」に気持ちが動いた時機は、打ち寄せる波のように何度かあった。
そのうちのひとつが、西欧渡りのガクモンの門前に立って本を読んでいた頃。近代的な機能主義に違和感が膨らみ哲学的な領域に関心を傾けていた。柳田國男や西田幾多郎に触れたのはその頃だった。これもまた門前の小僧に過ぎなかったが、「理性」の底に流れる身の習いとどう折り合いをつけるかに呻吟していたと言っても良い。1960年代の中頃だったか。
(2)「人には表現法がひとつあればよい」と強く感じた時機もあった。
1970年前後の時機。夜間高校の教師として口に糊しつつ、日々生徒や教員との遣り取りに追われて走り回っていた頃。こんなことで一生を送るのかと胸中に煩悶がわいていた。その転機になったのを象徴したのは「教育土着」という言葉であった。これは九州柳川で伝習館3教師の処分反対活動をしていた武田桂二郎に触発された埼玉の支援集団「異議あり!」の造語であるが、人はどこで生きていようとも、同じモンダイに出逢い、同じ煩悶をし、同じように道筋を探って生きていくものだと受け止め、肚を据えたことがあった。
これは私にとって、身を置く現場のモンダイに向き合うことが人類史的なモンダイに取り組むことそのものだと感じ取る大きな転換点となった。あちらこちらに気持ちが跳んで、何が「じぶん」の行く道なのか、気持ちが定まらなかったことが、これで安定点を見いだした。
(3)「私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文を書きつづける以外、何もしなかったであろう」が、上記の「安定点」を示唆していた。
上記集団「異議あり!」は、もっぱらエクリチュールを通じた活動をしていた。月2回刊行の謄写印刷の機関誌を発行し、当初は埼玉県内に、後の全国紙として展開し、2006年までつづけた。謂わば文章によるおしゃべり。これが今もつづいているわけだ。
(4)「スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないこと」というのが、起点となるとともに、ちょっとグレーゾーンを残している。
「スミレがただスミレであればよい」というのは、わが身が「germ」という観念に通じる。germというのは通常「黴菌」と日本語に訳される。取るに足らない邪魔っ気。この世にとって私はまさしくgerm、とカンネンすることが基点になった。これは、じぶんを卑小に位置づけて外からの非難攻撃を躱す居直りではなく、世界に「じぶん」をマッピングすることであった。(2)と重ねていうと、この現場で生きる。ここがワタシのセカイだという見切りであった。
グレーゾーンというのは、その後につづく部分。世界にどう影響するかどうかは、germにとってあずかり知らぬことではあるが、「影響があろうとなかろうと……あずかり知らぬ」とは考えていない。germにはgermの意気地があった。蝶の羽ばたきがいつしか風のそよぎとか薫る風のきっかけになるかもしれない。「あずかり知らぬ」というより「きっかけになるかもしれない」という漠然とした繋がりを、未だに心の片隅で意識している。スケベ根性と若い頃なら呼んだかも知れないが、歳をとった今はほのかな希望。スミレとはちょっとニュアンスが違う。
ま、そうだね。germはスミレとはいかないね。植物になぞらえれば、ヘクソカヅラかオオイヌノフグリ、あるいはママコノシリヌグイという辺りが、音の響きとして相応しいであろうか。ふふふ。
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