昨日のブログ記述の行きがかりで、「恥を忍んで身をさらす」と書き付けた。この「恥」って何だろうと自問がまた夢枕に浮かんだ。
最初に思い浮かんだのは旧約聖書にあるエデンの園。アダムとイブが草陰に身を隠したのをみて、神は二人が禁断の実を食べたことを知った。これはヒトが羞恥心をもったこと。他者からみた自分を意識したことの象徴。つまり禁断の実を食べ(知的であ)るということは、自己を対象化して他者の目でとらえ、それを内化して己自身の有り様を思い定めることとみていた。この他者が、キリスト教世界では神という絶対的他者である。絶対神を持たない自然信仰的なアジア世界に於いては身近な他人となって、謂わば世間となる。絶対的他者に照らすと絶対的な戒律が浮かび上がる。だが、世間に照らすと状況によって移ろう規範となって、ひと言では定めがたいところとなる。
世間の規範に照らした人のありようとして「体面」とか「面目」とか「名誉」ということが重んぜられるが、これらはいずれも他律的に表現されたもの。世間の規範そのものが移ろいゆくものであることからすると、多分に流動的で、アダムとイブの「羞恥心」という内発性に比肩する「矜持の根拠」がみえてこない。「旅の恥は掻き捨て」という風に世間を出たところでは、規範はどうでもいいこととしてあしらわれる。時代が変わってその世間が少し大きくなるとタテマエとホンネとして二重帳簿的に併存して、「恥の文化」そのものも二枚舌や面従腹背の様相を呈してくる。
そのような「恥」なら、忍ぶほどのこともあるまい。恥をさらして天真爛漫に、あるがままに生きていけばいいじゃないか、とさえ思う。「恥をおもわば命を捨てよ、情けをおもわば恥を捨てよ」という言い習わしは、名誉とか体面を重んじることに由来する「恥」なのであろうか。もっと内心の「矜持の根拠」があるのじゃないか。
大野晋の『古典基礎語辞典』には「はじ」の項目は、ない。だが「はし【愛し】」という上代語の解説があった。
《夫・妻・子・恋人・弟などに感じる愛着の情。愛らしい、可憐だ、いたわしい、慕わしいの意を表す。それらの愛情の対象となる人にかかわる物事、地域、山や道などの場所に対しても同じように用いられ、まれに自分自身をいとおしむ気持ちにも用いられた。》
全然言語学的な背景なしでいうが、「はじ」は、この「はし」から派生したのではないか。そう考えると、日本人の「恥」の「矜持の根拠」になるように思った。「恥を掻く」は、「はし(愛し)を欠く」に通じる。「恥知らず」は「はし(愛し)知らず」である。人や場や物事について、それを重んじ、いたわしく思い、いとおしむ気持ちならば、それが初めは「世間」という顔見知りの間の「関係を愛おしく思う心持ち」に発するものであっても、いつしか時代の移り変わりによって顔見知りの延長として、人間とか人類に対する愛着と敬意に広がり、近代的な市民社会の概念にも繋がる。またこれは、絶対神の戒律というよりも、状況や社会関係に、場を代え、次元を変えて柔軟に適用できる包容力のある「矜持の根拠」となる。そう思って、ひとつわが心裡で発見したように感じている。
だが「恥を掻く」が、名誉や体面、面目を失う意となると、「はし(愛し)」の延長上に置くことができない。これは社会関係に於ける己の立ち位置の基盤が崩れることを意味している。当人の内発性の次元のひとつ(己をいとおしむ気持ち)に端を発するとしても、はるかにそれに加えて、社会通念からの解きほぐしがたい成り行きによって積み重ねられてきた人生行路の堆積がある。つまり人は、起源に於いて「はし(愛し)」から出立するとしても、その所属する集団やかかわる社会、世界の規範や規律、制度的に定着した賞賛や栄誉によって衣装を纏い、「己をいとおしむ気持ち」自体が変容を遂げ、またそれが「関係の網」のベースを整え、そこに於ける面体や面目が初源の内発性を遙かに凌駕して、その人の矜持を固く縛り付けることになる。
何年前であったか、元阪急の福本豊が「立ちションベンもできなくなる」と国民栄誉賞を辞退したことがあった。これも、社会的栄誉が矜持を変容させることを象徴的に表現している。つまり、恥は衣装のように外から着せられることによって生じるものである。それが簡単に脱げない。恥の起源にあった「はし(愛し)」が身の裡深くに沈潜してしまって意識されない。あるいは、沈潜しているというよりも、「はし(愛し)」はあからさまに表現すべきことではなく、心裡深くにしまいおくという作法が、人と人との関係に於いて培われてきた。私たちの身に堆積している文化は、そのように奥ゆかしい。
それを隠しもせず、露わにして、恬として「恥じない」時代になってきた。これは今、二通りの振る舞いに分かれる。
ひとつは、福本のように、縛り付ける規範に対する忌避として表現する。社会一般には「奇人」と呼ばれることになるが、彼の胸中の矜持はものの見事に堅持されている。
もうひとつは、近頃の国会答弁にみる政治家の弁明や対応。とぼけているのか恥知らずなのか、「記録にあるが記憶にない」といってみたり、不正献金が指摘されると「返還した」と釈明する。これが法をつくり執行する人たちの振る舞いである。どこに矜持があろうか。
ま、そういう時代なんだね。そういう文化になってきたんだね。思えば遠くへ来たもんだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿