映画『宮松と山下』を観た。あの香川照之の主演作品が、この夏の「(香川の)不始末」でお蔵入りしては、もったいない。いや、この作品に限らず、香川の「不始末」にピリピリして上演を控えていたり、制作予定の作品がずいぶんたくさん、葬り去られたであろうことを考えると、なんでフィクションとリアルを一緒くたにして、世間の評判に右往左往するんだよと、私は日本の興業世界の文化センスに落胆している。もちろん香川に限らず、だ。もっと世間に対する反骨精神を持てよ。
だから、わざわざ観に行った。なんと今朝のお客はわずか5人。もったいない。映画館で観るのがいいのは、音がバッチリと身に響く。耳に聞こえるってもんじゃない。映画が映像だ、台詞だというのを簡単に超えていく。皮膚がピリピリと受け止めている。すぐに画面に没入する。
おっ、時代劇なんだと思った。登場した香川が切られてしまう。剣劇場面が他へ移っていくと、切られた香川がのっそりと起き出す。そして次の場面の切られ役のために衣装を替えて、その場面へ駆けつける。ははは、エキストラなんだ。撮影が終わって赤提灯にやってきた香川が飲み始めた途端に、ピストルの音が響き、香川は撃たれて斃れてしまう。うん? これもエキストラなんだ。どこからどこまでがゲンジツで、どこからがオシバイなのか、あなたどう思う、と観客に問いかけるようだ。
つまり、フィクションかリアルかの仕分けをするのは観客。でも、それをし始めた途端に、香川の置かれている不可思議な立場が浮かび上がる。おや、面白い。なかなか考えられた仕掛けになってる。その不思議感が、気持ちを集中させる。
台詞もそうだが、余計なものを削ぎ落としている。香川照之という役者がものの見事に顔の演技で沈黙に奥行きをつけ、これは何かあるぞと観るものの触覚に「覚醒剤」を注入するみたい。その、妙な台詞の遣り取りの始末を、後の方できっちりとつけている。映画というのが仕組まれたフィクションであり、「言葉でこそ人間のコミュニケーション」と訳知り顔にいう人を蹴飛ばして、身のこなしこそが人と人と繋ぐ受け答えのツールだとみせる。削ぎ落としていることがイメージを膨らませる。フィクションでしか死ねない人間の粗末な死を、繰り返しエキストラで演じることによって、リアルの方の真実性を浮かびあがらせようという算段さえも、際立つ。
いいなあ、この役者。うまいなあこの人。使い方がうまいんだよ。
面白いことに、この映画は《監督・脚本・編集:監督集団「5月」gogatsu》の制作となっている。監督は3人もいる。佐藤雅彦(東京藝術大学名誉教授)・関友太郎(NHKでドラマ演出を行ってきた)・平瀬謙太朗(多岐にわたりメディアデザインを手掛ける)。この3人がどう分け持って監督を務めたのかはわからない。だが、この3人のうちのあとの2人は、佐藤雅彦に東京芸術大学で教えを請うた経歴を持っている。なるほど、そうか。それで、3人で外へ討って出ようとしたのかと下世話な類推をした。
この映画、「サンセバスチャン国際映画祭New Directors部門に正式招待された」という。「New Directors部門」というのが、どういう意味を持っているのか知らないから、これまた類推でしかないが、《監督・脚本・編集:監督集団「5月」gogatsu》の「3人監督」というのが、ただ単に分野を分けるような平板な監督ではなく、いかにも集団でなければならない必然性を持った新しい試みだったのだろう。その辺りを探る深入りをするのも、面白いかもしれない。
わずか1時間20分の作品だが、なかなか深い読み取りをすることのできる仕上がりになっている。それにしても、よくぞ香川照之という役者を起用したと、賞賛したいのである。
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