2022年12月26日月曜日

分業に分断された思索

 年賀を仕上げて投函した。後は、喪中葉書をくれた方のうち、ことに親しい人のそれに、「お見舞い」を書かなくてはならない。こちらは年賀のように概ね一様というワケにいかない。亡くなった人の顔と喪に服している人の顔を思い浮かべて、文面を一つひとつ書き留める。冒頭表題を「寒中お見舞い・・・」としておいたらカミサンが、それは正月松の内が明けてからよと言われ、では「喪中お見舞い・・・」にしようかと言ったら、聞いたことがないと返された。結局、表題は置かないで書き始めることにした。

 こうして考えてみると、祝いごとというのは、人によらず大雑把にメデタイで済ませて触りはないが、悔やみごとというのは、人の顔が個々別々に浮かび上がらないと失礼に当たると感じる。どうしてなんだろう。

 祝い事は須く、人と共に言祝ぐ。皆が集まってワイワイとやるから、祝い事の当人たちやその関係の人たちも賑わいの中に溶け込んで、一向に構わない。ところが悔やみ事というのは、喪に服する一人称の方もいれば、二人称の方もいる。見舞いをするのはたいてい、三人称の立場だから、その立ち位置に気を配ってことばを遣わなければならない。その違いが、言葉遣いに現れる。

 理知的に言うと、それらは冠婚葬祭と一言でまとめられる。だが、それは、行事儀式としての習わしやデキゴトを謂うのであって、ある時代とか社会的な習俗がどのように執り行われていたか、人々がどのようにそれに向き合っていたかと考察するときには、一般的な形をとりまとめて表現することはできるであろう。だが、暮らしの中で出来する一つひとつの祝い事や弔い事を、それと同じようにみなすのは、三人称のあしらいである。

 三人称と謂っても、たとえば故人の連れ合いにとって(故人の死は)は二人称である。だが冠婚葬祭は(故人の連れ合いにとっては)一人称である。悔やみをいう友人とか知人としては、故人の死は三人称であっても、冠婚葬祭は二人称になる。共にした空間や時間によっては、連れ合い同様に一人称の立場に置かれることもある。葬祭に参列する時、人は三人称というわけにはいかない。三人称ならば、参列羽することもない。三人称というのは、それらの死や弔い/葬祭を、超越的な視点から眺めている。つまり、どの人称をまとってその場に居合わせるかは、動態的なのだ。

 理知的に冠婚葬祭を考察すると謂うとき、その冠婚葬祭の一人称や二人称の当事者の心情をひとまず脇に置いて見るとはどういうことであろうか。そのようにみるとき実は、弔いの社会的形式を論題にしているのであって、弔いそのものが、その社会集団の何を弔っているか、そこに於いて魂とか身体というのは、どうみなされ扱われているかは、別問題として脇に置かれていると私は思う。脇に置いたことがじつは、人の社会的考察に於いては不可欠の重要性をもつ。しばしばそれを忘れて理知的考察を「限定」抜きで俎上にあげて、普遍的なこととして遣り取りするから、理知的な専門家は政治家に馬鹿にされ、市井の民は、その政治家も含めてつまらない人たちだと思ってしまう。今年の秋に行われた元宰相の「国葬儀」のように、「弔う」と謂うことが抜け落ちてしまって、言葉が取り交わされるようになる。

「知・情・意」と謂うとき、それぞれが独立して社会的な分業体制の中で登場することが多いが、それらが切り離されては意味を失うほどに、世の役には立たない。あたかも、知=専門家、情=庶民、意=政治家という分業が成立するかのようにみえるが、それらがバラバラでは、ほぼ役に立たない。「知・情・意」と分節された人のクセの有り様を、どう総合的にとらえるのか。そこに言及しないでは、どんなことに関しても、何かを言ったことにはならないのだ。

 世界は人がいなくても存在すると考えるのか、考えているのは誰かを抜きにして世界は存在しないと考えるのか。そういう哲学的に根源的なことが問われている。

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