毎朝、起きて着替え、お茶を一杯飲んでから血圧を測る。185/73.これは高い。前日は136/76だ。やっぱり薬を飲み忘れたなと思う。前夜寝る前、ふと、あれっ薬飲んだかなと、一瞬思いがよぎった。二重に飲むよりは1回忘れた方が良かろうと思ったから、「やっぱり」となった。
そのことをカミサンに話すと、「監理してあげようか」という。
ははは。カミサンもときどき飲み忘れている。「そうか、じゃあ、あなたのは私が監理することにしようか」と返して、また、ははは、となった。
そのとき頭の片隅を、パッとかすめるものがあった。
なんだ?
うん、案外、いいアイデアかもしれない、と思ったのだ。
どうしてか?
山の会の山行のリーダーを務めるときと、誰かが案内してくれる山行に参加するときとで、心持ちの置き方がかなり大きく違うからだ。この違いって何だろう?
リーダーがルートを間違えるわけにはいかない。着いてくる人はたいてい、自分が今どこにいてどこへ向かっているかを意識していないことが多い。つまり山行に於ける自己対象化をリーダーに預けて、その他のことに心持ちを傾けている。リーダーは、山行参加者の集団的自己対象化を一身に背負っている。
ただ単にルートを踏み間違えないことだけではない。同行者の歩度をみてペースを整えたり、あるいはそれぞれの体調を見極めることまでからんでくる。極端に言うと、山行参加者一人一人の一挙手一投足の一つひとつに対して意識的になることが必要になる。大げさに言うと、神の目のように俯瞰的にみているかどうかを、リーダー自身が自己チェックし、意識的に持たなければならない。それがリーダーの緊張感になる。
リーダーは、自分のことにかまけている暇はない。だから、自分の力量の6,7割でガイドできるくらいの余裕がなければ、なかなかムツカシイ。でもついつい、精一杯歩いてしまうんだね。
(1)それをクリアするために、下見をする。一度下見をしていれば、ルートを間違える気遣いを、それほどしなくて済む。
(2)山の会の会員なら、何度も一緒に歩いて、歩行力量も、ペースもおおよその見当がつく。これは、カルチャーセンターで一般募集する山行と違って、格段に緊張感が和らぐ。まして一般募集のときは、20人という制限でさえ主催団体の(もっと増やして下さいという)圧力を押し返さなければならなかった。
(3)サブリーダーについてもらう。サブリーダーに先頭を歩いて貰い、ルートに対する緊張を全部預けてしまう。こうすると、ペース配分、休憩の取り方に注意を傾けることができる。
とは言え、山の会の山行では、おしゃべりしながら歩くせいもあって、ついつい注意が散漫になる。かといって、そうした楽しみを欠いては、山歩きというより修験者の修行になってしまう。
もう一つ落とし穴がある。私はそれを瞑想状態と呼んでいるが、山を歩いていると、意識は明晰だが何も考えていない状態に陥ることがある。ランニング・ハイとかクライミング・ハイと呼ばれることと同じかもしれない。頭の中が空っぽになっている時間がある。これが、いつも後で思うのだが、何とも言えず心地良い。2時間3時間という歩行が苦もなく過ぎてしまっている。無我の境地ってこういうことだろうかと、いつも思う。
これが、病みつきになる。このために山へ行っているのかと思うほど、心が惹き込まれる。そしてこうなると、ルートも体力の状態もすっかりどこかへ跳んでしまって、そこに身をいることだけで十分に満たされ、それがいつどこでどういうことを意味するかなんて、まったく頓着していない。ふと気づくと自分がどこにいるのか判らなくなって、山で迷ってしまうというのも、これによって起こる。
迷うというのは、自分を見失うことだ。人は自分をみている外部的視線、超越的視線をもつことによって、辛うじて「じぶん」を保つことができている。言葉を換えていうと、世界のどこに今存在しているのかを意識する(マッピングする)ことによって、人は「じぶん」を確認することができるのだ。
もちろん、どちらがいいかはわからない。瞑想状態にあるときの方が、心地良いといわれれば、その通りだと感じる。でも「じぶん」を見失わないことも欠かせない。これは、薬を飲めばいいのか、飲まなくて血圧が上がったまんまでもいいのか、どちらがいいかと聞かれているような気がする。ひょっとすると齢を重ねて血圧が上がるのは、ごく自然なこと。それに伴って体に様々な障害が発生し、病を得て、いずれ死に到るということも、自然な成り行きとしては、ヒトのありようとして好ましい。
私の無意識に、かくあるべしという体に関する理念型があって、それから逸脱しないように薬を飲んでいるに過ぎないのだなと振り返る。でも良く考えてみると、なぜ、いつ、どんな理念型をワタシが持ったのか自問すると、これがわからない。まさしく成り行き。週刊誌の見出しに「薬は百害の元、飲むべからず」という特集記事があると、そういうこともあるよなと共感するわが内心があるのを感じている。私の理念型というのも、ずいぶんいい加減なものなのだ。
そのいい加減な服薬の監理を、他者を経由して行うというのは、案外自己をマッピングしているという意識を外部化するのに、いいのかもしれない。「監理してあげようか」というカミサンの動機とは、ムキが逆になっているような気もするが、そうやってモノゴトをヒトに預けるというのは、ご本体がますます瞑想状態に近づいて気分良く過ごすことになる。年寄りのありようとして好ましい。そんな気もしている。
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