2022年8月11日木曜日

ゲシュタルト固着と物語り

 1年前に2本の記事をアップしている。「ゲシュタルト崩壊と物語」(2021-08-10)と「言葉を脱ぐ」(2021-9-1)。前者はアメリカの女子体操選手シモーネ・バイルズが「絶対女王」といわれながら「決勝を出場拒否」したというオリンピックの話し。後者は、石山蓮華という若いエッセイストの「言葉を脱ぐ」という雑誌『新潮』に乗ったエッセイに触れている。

 シモーネ・バイルズは競技中に「自分は何?」という疑問にとらわれた。石山蓮華は街の声を拾うレポータの(下請け)仕事をしていたとき、声のかけ方からインタビューの項目まで事細かく指示されているとおりに運ぶことに「自分でなくなっている」と気づいて「言葉を脱ぐ」ことを覚えたという話し。いずれも、世の中の人とワタシとのおおきな乖離を感じ、自問自答することからはじまっている。シモーネ・バイルズの場合は、観衆やアメリカ国民の期待やコーチや他の選手たちの様子や言葉が、有形無形の形でワタシに迫ってきて、己を見失う。自己像が、周囲からの声にかき消されてつかめなくなっている。石山蓮華は(結論ありきで)借り出される(画面構成上の飾り)仕事をしているワタシに違和感が膨れ上がる。これは、自己像が明らかに周囲のカンケイからかかわってくるイメージと齟齬して、呑み込まれそうで不快になる。「言葉を脱ぐ」ことでその状態から脱出する話しは切実である。

 これを、ワタシという形(ゲシュタルト)が崩壊するとみて、あれこれ感懐を述べたのが、ブログの記事であった。この時、崩壊しているのがワタシという個体と思ってはならない。シモーネ・バイルズにしても石山蓮華にしても、ワタシを軸として形成しているカンケイの全体が崩壊していると感じ取られているのである。そう受け止めることによって、では私にそう感じられないのは、なぜか。彼女たちそれぞれのモンダイはそれを観ているワタシの(立ち位置と紡ぎ出しているカンケイの)問題にもなる。彼女たちのモンダイにどう私は位置しているかを見定めて私たちは、世の中の主体として立ち現れ、世の中のモンダイに向き合うべく自問自答をそれぞれにはじめることになる。

 さて自己像と周囲の関わりとの齟齬でゲシュタルト崩壊に出遭って《「自分が何をしているのかわからない」と惑泥》するのを避けるのと逆の道筋を辿ることもある。形(ゲシュタルト)に固執するのだ。自己イメージからするともっときちんと(社会的に)遇せられていいはずなのに、どうしてこんなに不遇なのかと自問自答するとき、頑なに自己イメージに固執して遇しかたを過っているのは周りの方だと、外部へ攻撃の矛先を向ける場合だ。

 元首相銃撃事件が起きたとき私は、朝日平吾のことを思い浮かべた。中島岳志『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房、2009年)を読んだときの感懐は、このブログ「ゾクゾクと神経がささくれ立つ」(2015/2/6)に詳しく記しているが、朝日平吾が自身の鬱屈を溜めに溜め、安田財閥の安田善治郎を殺害して自らも命を絶った顛末である。これが引き鉄になって一月後に東京駅での原敬暗殺事件が起き、その後昭和のテロやクーデターの時代へとなだれ込んでいった。橋川文三風に言えば、「大正デモクラシーを陰画的に表現した人間のように思われてならない」朝日平吾のように、今回銃撃事件の山上徹也も、「失われた平成時代を最下層から率直に表現した人間」にみえたのであった。

 その背景を取材したコラムの連載が朝日新聞で始まったが、3回の連載が終わって、なんだか肩透かしを食らったような気分だ。このコラムの2回目の半ばに《「信頼していた者の重大な裏切り」に気づいた》と山上容疑者は(ツイッターに)書き、次のように続けているそうだ。《俺も人を裏切らなかったとは言わない。だがすべての原因は25年前だと言わせてもらう。なあ、統一教会よ》と枕を振っておいて、「アカウント名によく似たタイトルのゲームソフト」の粗筋とか、「ツイッターに頻繁に登場する(サイコスリラー)映画」の紹介をして、山上容疑者の感想を記す。

《2回も観てしまったぜ》《悪の権化としては余りにも,余りにも人間的だ》

 このコラムはこう続ける。「そして、映画を見た直後、火炎瓶を携え、ある場所に向かった」と、旧統一教会の総裁のイベントに出席しようとし入場できなかった、去年8月のデキゴトを記す。まるで映画の主人公になりきったような心持ちに聞こえる。

 これでは、朝日平吾の溜めた鬱屈に似ているというより、映画に感化された模倣犯だ。いや、模倣犯でもいい。山上容疑者の心裡の自己イメージが映画の物語と同一化して固着している。その後は、銃器や弾薬の製造に向かい、標的が旧統一教会幹部から安倍元首相に向かったというゲームのような展開になり、山上徹也の鬱屈と安倍銃撃というデキゴトが、物語の粗筋に変化してしまった。

 何処で(私は)肩透かしを食らったのだろうか。

 コラムの2回目半ばまでは山上容疑者の歩いてきた、決して貧しいとは言えない暮らしの出立と父親の自殺、母親の旧統一教会への入信、その結果として取り残された兄や妹を抱えての困窮と鬱屈に話しは向かっていた。さもありなんという時代的共感を踏まえていたから、母親がなぜ子どもを放置したまま入信してしまったのかは取材されると期待して記事を待った。だが、母親の信心の行方は、昇華したまんま。また、山上徹也自身の恨み辛みがなぜ母親へ向けられなかったのかも、触れないまんま。全部サイコスリラー映画に同一化して,展開するから、その後の話しは一般論になって、容疑者自身の鬱屈はどこかへ消えてしまった。

 そうなのだ。私は、山上徹也の個別の物語を期待したのだ。朝日新聞は8/9の26面全面を使って「山上容疑者の生い立ち」を年表にしたり「山上容疑者の41年」の記事にしている。だが、海自を退職した2005年から後の2019年までのことは、「アルバイトや派遣の仕事を転々とした」「同僚と交わらず,車中で一人昼食をとる」「孤独を嘆き、苦しみ、その原因が教団にあると考えていたようだ」と数行でまとめている。つまり一般論なのだ。

 ここを踏まえないと、ただ単に「危ない男」というイメージが屹立して,いつまで経ってもわが身の日常や径庭とスパークしない。つまり私にとっては、山上神容疑者も事件も、その後の社会の大騒ぎも、単なるひとつのドラマとして通り過ぎてしまう。そんな感じがする。

 ふと、同じ日の同じ新聞の最下段にある「週刊女性」のコマーシャルが目を留まった。《追跡取材 安倍元首相銃撃事件山上徹也容疑者 献金”自己破産”の母は「今も息子を心配してない」》

 とある。ええっ? そうかい? 心配してないって、息子は達成感に満たされているってこと? それとも、こんな事件を起こしてもまだ、息子の行為と自分のやったこととのカンケイがつかめてないってことか?

 そうか、そうだろうね。息子のことを気遣うような母親だったら、いくら自分の魂の救済といっても、3人のわが子の暮らしを眼中に入れない信仰に、身を投じるようなことはしないよね、とわが身の「物語り衝動」が噴き出しそうであった。

0 件のコメント:

コメントを投稿