2022年8月30日火曜日

自分が「こころ」の主人なのか

 昨日のつづき、「人に対する底堅い思いを持っているかと自問し、わが振る舞いの身のこなしに果たして倫理的制約を課しているかに自答する暮らし方」について考える。この自問自答は、いま思い浮かべている「こころ(わが心)」の感触は本当に自分のものかと問うことにつながる。世の中の(なにがしかの)メディアにマインドコントルールされているんじゃないかと自問自答するワケだ。

 旧統一教会批判が高まる日本のメディアに対して韓国の統一協会会員たちが「宗教弾圧だ」と批判するデモを行なっている画像を見ると、マインドコントロールって何だろうと思う。いま誰かに「あなたは誰かにマインドコントロールされているか」と問われたら、そんなことはない、バカにすんじゃないよと応えるに違いない。

 なぜそう言えるんだろう。「こころ」の感じている世界との関係は、わが身の感じる痛みや不快感、心地よさや快感など、五感の感受した(個体的)感覚を「ワタシのセカイ」として総合的に受け止めたものだから、他の人の個体性とはっきりと異なると、身体的自律性を前提にしている。デカルトの哲学的思考の出立点、「我思う故に我あり」と同じように受け止めている。

 だが、そのワタシもセカイも、私が生まれ生育してくる間の環境がわが身に降りたって堆積し形を成したものという「個体的物語り」に変換してみると、「無意識」とフロイトの呼ぶ「混沌の海」が揺蕩っていることを感知できる。それを腑分けして無意識から引きずり出しコレと言葉にすることができれば、それはすでに無意識から意識の世界へ登場したことになる。「こころ」というセンサーは、無意識界と意識界の端境のところで言葉になる前のイメージ界を表象する。目や耳、鼻や舌、皮膚などの諸感官から飛び込んでくる外部世界が、ワタシという個体の身として総合的に感受したセカイとのカンケイ。その言葉にならない思いが「こころ」(わが心)として感じられる。不都合なものは捨象しているかもしれない。あるいは逆に、不都合なものだけで憎悪を募らせているかもしれない。そこは混沌の海に踏み込んで見なければ誰にもわからないことだが、無理矢理言葉にすると、断片となり、嘘っぽくなって身の底から絞り出してきたものとは違ったこととして表に出る。色即是空、空即是色だ。

 このテーマが江戸の物語として提示するのが相応しいのは、時代のメディアが格段に肌身に近いからだ。メディアというのを歩行にとってみると、せいぜい籠か馬、ときに牛だ。手紙というのも、一つひとつ手書きだし、それを読むのもそれなりの修練を積まなければならない。今となってはメンドクサイことが一つひとつわが身を長年練り上げて備えてきた力によっている。それがやっと、読み取る(書き取る)作業として外からやってくる。読むという行為それ自体が、ワタシの無意識界をかき混ぜ(外からの刺激と対照させて)意識界へ引きずり出してくる作業である。恒につねに自らの無意識を意識化する振る舞いとなる。

 わが言葉がわが思い(イメージ)を表現するのに、いつもずれが生じる。深いところの思い(無意識)が浮かび来る思い(イメージ)に似たように重なっているかどうかは(むろんのこと)わからない。だから人を見るのに、言葉よりも振る舞いに、つまり身のこなしに重きを置く作法がうまれた。と同時に、わが無意識もワタシにはとらえられない。だから、わが身をふり返る。言葉だけでなく、振る舞いを対象化して自省することによって、少しずつ無意識と「こころ」のズレからワタシを知り、「こころ」と言葉のズレをみて、「カンケイ」をとらえ返す。

 今の時代を考えると、写真や画像がイメージそのものとしてわが身に降り注いでくる。その一つひとつを「考え」ている暇はない。言葉さえ、音として心地良く響く。誦経のようにその意味がわからないことが余計に音の連なりとして荘厳さを感じさせたりもする。演説などは、何を言っているかというよりも、その響きが決断力を感じさせたり力強さを伝えたりして、それが心地良いと感じさせる。振る舞い同様に人柄というイメージの好感を盛り込んでいたりする。むろん逆様に感じ取ることも、大いにありうる。その画像に恒につねに晒されて、ワタシの感官はつくられ、鍛えられ、磨かれている。だがそれが、本当にワタシのものなのかどうか。ワタシの「こころ」の主人は私なのかといつも吟味しながら言葉にしていかないと、勘違いしてしまう。基本は、ワタシの感性や思念は、これまでに出逢った環境の(つまり世間の)感性や思念の凝集されたものであり、その凝集過程で(これまた出逢って蓄積された、各個体特有の感性・思念回路を通過して)偏りを持った私の固有性をもっている。その根柢にあるエロス性が「底惚れ」であり「底慕う」に当たる底堅さである。そこまで感知する感性や思念が到達しないと、環境の提供する刺激的なイメージに翻弄され、己を見失う。それをマインドコントロールと呼んでいると思えた。とすると現代社会に生きる私たちは基本的に、時代と社会のマインドコントロールを受けている。そこからの離脱をどう果たすかが、yの銃撃事件で浮かび上がっている主題なのではないか。

 それを根柢の無意識界でどうワタシがみているかは、引き出すように取り出してみなければわからないし、取りだした感触やイメージが無意識をそのまま反映しているかそうでないかも、また、わからない。それを無理矢理言葉にすると、あっコレちょっと違うなあと思うことはよくあること。だから、私自身がワタシの(無意識界の)ことをわかっていないと思うことは、しばしばだ。だから口にしないで(人への、あるいはコトへの)底堅い思いを探り当て、保ち続けることが、無意識につながる率直な「こころざし」を持続するエネルギーの源となる。それが「底惚れ」「底慕う」なのだと感じたわけであった。

 つまり、ワタシはわが心の主人なのかという疑問を抱いていて、ワタシの主体性を保ち続けようとする生涯続く営み。それが生きるということなのだと思っている。 

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