2022年8月17日水曜日

子を見捨てて信仰に走る母の心

 安倍銃撃事件の容疑者・山上徹也の、母親との関係がどうであったかがわからない。むろん母親の犯罪ではないから、それを子細に調べて報道するというのは、如何になんでも(プライバシーにかかわって)酷い。でもそこを明らかにしないで今回の事件の「真相」を見ることはできない。報道はその「難局面」を乗り越えるために、旧統一教会のマインドコントロールという物語を間に挟み込んで(母親の心情に触れずに)事態の真相へ迫る道筋を選び取っている。だがこれも、自由な社会に於ける自由な信仰という舞台の上では、どう見ても旧統一教会の方に理屈は傾く。捜査当局は当然その「真相」には触れないか、裁判で触れても、公にはしないであろう。だから.どう始末したらいいか、物語りが創作できるまで「精神鑑定に回す」措置にしたと、以前触れた。

 山上容疑者の心持ち(恨み辛み)が、なぜ母親に向かわず旧統一教会に向かったのかが、まず最初に私の突き当たる疑問だが、それは容易に氷解する。どんなに非道い親でも、親は親、子は最初に刷り込まれた親に付き従う子ガモのようなもの。大自然の摂理のように受け止めるからだ。これは私の身の裡に堆積する一般論で山上母子の個別性を理解しようとしているからだ。でもこの理解の仕方は、報道者もその読者視聴者も、次元こそ違え、みなさんその自分の個的心情に於ける一般論で受け止めて「理解」したつもりになっているのだ。だから「理解」のズレは起こるし、一つ提起されれば、必ずといって良いほど反対論が定立され、お互いに謂いたいことを口にするばかりで「討論」とか「議論」にならない。外野でみているワタシとしては不毛だという思いが募る。

 では、どうして母親は子を見捨てて信仰に走ったのか(山上容疑者は逆に親のような立場で兄妹を支えようとしたのか)。母親の心持ちに於ける大自然の摂理はどうなったのかと疑問符は、形を変える。これもまた、ワタシの内部での一般論に足がついた地点で「理解」しようとするのだが、そこがなかなか「理解」に達しない。

 でもねえ、母親が子を見捨てると謂うが、そもそも母親が子を育てるというのにどれほどの大自然の必然性があるのかと問うてもみる。そりゃああるでしょう。どんな動物だって親が子を育てる。もちろん中にはタシギのようにメスは卵を産むだけ、それを抱卵して孵し、幼鳥を育てるのはオスの役割って鳥もいるから、子育てを母親限定のメニューとみる一般論は必ずしも成立しない。それに、岸田秀という精神科医がもう半世紀も前に言ってのけたが「人間は本能が壊れている動物である」という。それからすると、大自然の摂理という一般論の根拠を編み直さなければならない。

 つまりここで、「子を見捨てて信仰に走る」というのを一般論で橋渡しして、「マインドコントロール」と「理解」するのは(当事者の感性や感覚を無視するという)無理があると私は感じる。報道が不十分と思うのだが、そこを簡単に乗り越えているエッセイを見つけた。《アメリカで600万人が「地球平面説」を信じる理由》と表題を打っている「東洋経済オンライン8/15号」に紹介されているジョナサン・ゴットシャルの所論。

 《私たちの心の機能を奪う「陰謀物語」》という小見出しを付けているので気づいた。私たちは「理性」でモノゴトを理解していると思っているがそうではない。「理性」のいちまい下層に五感とか六感というのがあり、それら感覚諸器官を一つにまとめ上げているのが「こころ」である。つまり、私たちがいろんな情報に接してそれを受け容れるかどうかはまず感覚諸器官が受け止める。「理知的な情報」は「理性」という一般論から入ってくるかもしれないが、「こころ」が受け容れたときに、「腑に落ちる」とか「納得する」と感じる。つまり感覚諸器官が我がこととして「理解」するとき「理解」の地に足がつくのである。

 こう考えて見ると、リアリティというのが危うくなっていると思う。情報がどのように人の体に入ってくるかを考えると、バーチャル映像やITやゲームなどが介在すると実感という「感性」そのものに変化を与える。新奇さに、まず驚く。面白い。これまでに味わったことのない妙な感触に、戸惑いもする。それは、メンタルな豊かさが膨らむというだけでなく不安定さをもたらす。それまでに培って身に堆積してきた「感性」が揺さぶられる。その感性は、たぶん同時に安定点を確保しようとする裏筋の衝動も気づかぬうちに動き始めているに違いない。その一つが、「自分が感じたリアリティが正しい」という確信を安定点とすることである。時代的な価値多様化と相対化の動きもそれにドライブをかけた。

 先にあげたジョナサン・ゴットシャルのエッセイ《アメリカで600万人が「地球平面説」を信じる理由》がそれをよく示している。全米人口の2%が「地球平面説」を信じているという。真偽の判断が「感性」をベースにするとなると、それも「理解」できなくはない。わが足元の大地が時速1600kmで自転しながら時速10万㌔余で太陽の周りを回っているという「話し」は、わが身に体感できることではない。だからこそ、天動説が地動説に転換したのをコペルニクス的転回と名付けたのだと受け止めてきた。私はそれ(地動説)を信じることができた。その根源には、わが身が感知できないことが「大宇宙」「大自然」「世界」には数多あるという(どちらかというと)仏教的自然観があったからだ。むろん加えて、学校で学んできた大自然のことやそれを説き明かしてきた人類の歩みを知的に「理解」し、それらが「わからない」と思ってきた大自然とワタシのカンケイをより強固に結びつける知的理解になっていたからだ。

 そしてこの歳になって私は、あらためて西欧的自然観からする「世界理解」よりも、ヒンドゥー的/仏教的自然観からする「世界理解」の方が現代という時代を「理解」するのにより優れていると(そこはかとなく)思っている。それは、「世界」を見ているワタシという視点を外さないこと、そのワタシのもつ視界は「世界」のほんの片隅でほんの一人のヒトの感じ取った「せかい」に過ぎないこと、ということはヒトの数だけ「せかい」は描き出され、その共有されている断片部分だけが「世界」として語られていること。つまりワタシの「せかい」はほんの一瞬の人の口にする断片であり、「世界」にとっては取るに足らないことであるが、ワタシにとっては掛け替えのないオモシロイ思索であり現実そのものだということ。

 だから私は、山上母の「子を捨ててでも信仰に走る母の心」を覗いてみたいと願う。母が記者会見をするというのを聞いて、楽しみにすると同時に、「息子のことは心配していない」という週刊誌見出しに感じた違和感は何に由来するのだろうと、自問自答しているのである。

 宮部みゆきあたりが小説に紡いでくれたら、感性的にはワタシは納得するだろう。そう思いながら、日本総人口の2%といえば250万人か、これくらいのヒトが「地球平面説」を信じているだろうかと考えると、やはり日本の(仏教的)自然観と、教育の浸透度からすると、もっと自然科学の明らかにしたことに信頼を置いているような気がする。

 それが、旧統一教会への信仰を深めることと繋がりがあるとかないとか言える立場にないが、山上母の心の移ろいが現代社会の「謎」を解く一つの鍵にかかわっているような感触を持っているのである。

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