2022年8月29日月曜日

底惚れか底慕うか

 元首相aを銃撃したyが、なぜ母親に恨み辛みをぶつけようとしないのか、あるいは、ぶつける言葉を発しないのか、ずうっと疑問であった。今でも疑問ではあるが、ひとつ思い当たる心根を描いた小説なのかなと思い当たった。青山文平『底惚れ』(徳間書店、2021年)。最近、中公文学賞を受賞したというニュースで思い出した。

 惚れた腫れたを口にできない世の人の出逢いは、江戸ものの作品にはつきものだが、想う人と思いを受けとる人の(立ち位置による)すれ違いが生み出すデキゴトが、これまた悲劇的な命運へ向かってしまうってことも、ままあったことと読むものの心持ちには響くから、その綱渡りを見るように頁を繰る。そして、心底に残る爽やかさの感触は何であろうかと、作品から離れて、わが心裡へと視線は移っていく。

 主人公のわが身の感触にしかわからない底惚れが心を打つのは、その思いがそれとして伝えられないこと。あるいは、酒乱の夫から逃れた女房にとっては妻仇討ち(めがたきうち)と思われる出逢いが、じつは酔いからとっくに冷めて申し訳なかったと酒立ちをしている亭主とわからないという悲哀。読者はいわば神の目を持ってそれを見ているから、そうだよなあ、当事者にはそういう成り行きはわからないもんだよなあと余計切なくなる。

 それを見ている視点をもっと退いて眺めてみると、底惚れと人の振る舞いの関わりにいくつかのポイントがあるように思う。

(1)持続的な人の振る舞いには、底惚れに近い(人に対する)固い思いが重しのように必要なのかもしれない。

(2)それは本人も気づかない無意識界に起因し、倫理的と言っても良いようなある種の制約を振る舞いに課す。

(3)言葉にしないことによって、いっそう上記の倫理性が(神の視線で見ている観察者には)異彩を放つ。そうか、求めて求められない、不可能性の上の探求が持つ人の営みの神々しさか。色即是空、空即是色だ。

(4)ひょとすると、満たされては空無。まさしく「関係的実存」は、このようなものかもしれない。

 こうやってふり返ってみると、yの母親に対する思いが「底惚れ」という言葉では似つかわしくないが、「底慕う」というのに似たような無意識だったかもしれないと腑に落ちる。その切なさが市井の庶民には感じ取れるから、yに対する非難がタテマエ的には発せられるが表だって現れない。非難はもっぱら旧統一教会とそれに結託とか元首相aとかそのご一統の政治家たちは、(関係的実存の)人の切なさという無意してきた政治家たちに向かっている。言葉にするかどうかの端境から見ると、旧統一教会識界に感官のセンサーが届いていない。もっと表層の、欲望を手に入れる、欲求を満たす、願望を叶えるという充足リアル界に身を置き、意識を据え、関係の実存が底堅く保たれる気高さを感じ取る感覚を持ち合わせていない。これが現在日本の統治者のスタンダードである。彼らはわが身をふり返らない。自らの振る舞いを照らす鏡がマス・メディアや文春砲という暴露告発メディアにしかないから、その場凌ぎの歯止めしか目に入らない。言を左右にし、ブログを見てくれとごまかし、綻びた部分の繕いで精一杯の政治活動に勤しんでいる。

 関係的実存に暮らす私たち市井の民は、彼らを反面教師として、時代の(情報化社会という)流れに乗らなくても、人の対する底堅い思いを持っているかと自問し、わが振る舞いの身のこなしに果たして倫理的制約を課しているかに自答する暮らし方をしなくてはなるまい。

 お前さんはどうよ、と私も自問する。自答しようとして、おっと、あぶない、あぶない。言葉にしてしまうとするりと気高さが空無へと抜けていってしまいそうだ。ははは。

0 件のコメント:

コメントを投稿