2022年8月3日水曜日

切り取る窓の懐かしき狭さ

 以前にも登場してもらった、半世紀来の友人・マサオキさんから今月号の手紙が届きました。往復葉書の三面半を使ってビッシリと手書きの文字。その文字数、約2800字。地球温暖化といわず「地球暑熱化/激甚級気象」のこと、コロナウィルスの変異のこと、サル痘のこと、豚熱や鳥インフルに感染した動物の「処分」のこと,安倍首相暗殺のこと、東京五輪と理事の収賄と電通のコト、利権の祭典ということ、竹田理事の越後屋騒動の裁判費用はJOCが全額負担していること、安倍元首相の国葬も電通が取り仕切っていること、マサオキ・ガーデンへようこそ、といった風情です。

 そして先月号の「ささらほうさら・無冠」に関連して思う所を認めています。その一節に次のような文面があり、私の自問自答に刺激スイッチが入りました。


《家永三郎の『日本文化史』(昭和34年間の岩波新書)を再読していたら、これは得たりの一文に行き当たりました。彼の文芸に関する潔癖さが窺われます。曰く

「江戸後期の町人芸術は一時のなぐさみものにすぎなかった。作者もみずから〈戯作者〉の名に甘んじ読者の好みに迎合することを恥としなかった……人生と真剣に取り組んで内的情熱を傾けて創作に当たろうとするまじめさを持っていなかった……高邁な思想がなく現実の勇敢な取り組みにも欠けているとすれば、いきおい奇を追う傾向に堕するのは免れ難い結果である……」

 どうです正鵠を射ているでせう。私の自称戯作もまさに仰るとおりであり、こう言っては何ですが、こちらのもくろみ通りの評言が六十年も昔から届いているのです。ですから「あそびをせんとやうまれけむ」などと言って持ち上げたりおだてたりするのはいくら気のおけない仲とはいえ、いけませんね。持ち前の鋭い筆法で薙ぐに何の躊躇もこれあらん。》

      *

 これは、2022/6/30の本ブログ「遊びとしてのエクリチュール」に対する彼の返書。くすぐられて悦ぶ人でないことは先刻承知ですが、ここに彼の強い現代社会への批判、私への皮肉が籠もっていると私は読んでいるわけです。そこへ、今日は少し踏み込んで考えてみましょう。

 家永三郎は、1960年代の古典的なアカデミズムの人物と私の中のイメージが焼き付いています。二つ記憶に残る印象深いデキゴトがありました。

 1961年に彼の講座「太平洋戦争論」を聴講しました。一般教養です。教室は満席。教授の声が静かに響いています。ノートに書写する音がするだけの雰囲気には圧倒されます。だが私は、馴染めませんでした。彼は、90分の授業分相当の「原稿」を書いてきて,それを句読点を含めてゆっくりと読み上げ、書き取らせるだけの授業だったのです。もちろん教授と言葉を交わしたいと思ったわけではありません。だが、歴史学の天上界から響いてくる声は、田舎から出てきて東京の文明文化に驚嘆している18歳にとっては、接点を見つけるのが難しい。これじゃあ,本を読むのと同じじゃないか。まさしく天の声。そして私の予感通り、その翌年に岩波書店から『太平洋戦争(論)』として出版されました。

 今思うと、アカデミズムの門前に立っている小僧に、丁稚は雑巾掛けからはじめなさいと身を以て教えていたのでしょうね。戦争に突入した親世代に抱いていた不審感を学問的に解き明かして詰めていく絶好の機会でもありましたね。でも、お前さんたちを相手にするに足りるかどうか、初っぱなに篩にかけられたように感じていました。この授業が端緒になって、教育学部にいた私の知人は家永教授に心酔し、4年終了後に文学部日本史専攻に編入したほどでしたから、私の受け止め方が門前の小僧としての自覚を欠いていたとは思いますが、大学に幻滅した一つの体験でした。

 もうひとつは(上記のことから1,2年後の)学園祭のときのこと。家永教授が講演をし、終わって後の質疑応答で誰かが「社会主義国(中国やソ連))の人民民主主義はどうして民主主義と言えるのですか」という趣旨の質問をしました。それに対して家永教授は「(社会体制が異なると)基本的な考え方が違ってくる」と応じて、「真理を見極めることの重要性」を展開しました。なぜか(社会主義を擁護しようとしているが)煙に巻かれたように感じました。当時マルクス主義では当然視されていた「前衛論」を前提にしているんだなと(私は身の裡で)教授の言説の文脈を構成していました。でもそれを口にしないで、「前衛性」を援用しようとして、言葉が曖昧になってしまったのだと。

 当時、「新日本文学」の論壇では、保守派にせよ共産党にせよ結局東大新人会が日本の進路を決めるという(戦前の)統治の構図をめぐって遣り取りがありました。また、花田清輝と吉本隆明の戦争責任論争もすでに終結していたのだから、それらに触れないで太平洋戦争を論じるのを不思議に感じてもいました。結局この人も(東大新人会系統同様,統治者サイドの)雲上人だと受け止めたのですね。

 この人は「人民」をみていないと直感したのだったと、今ならまとめることが出来ます。それが、マサオキさんが引用した「文化論」によく現れています。

 家永氏は「江戸後期の町人芸術は一時のなぐさみものにすぎなかった」と貶しています。取るに足らないというのでしょうか。「なぐさみもの」の何が悪いと、浅草に入り浸り剽げて一発芸を見せて笑わせていた同郷の仏文科の友人を思い浮かべている。文化を論じるとき、町人のなぐさみものになっているってことをどうとらえどう評価するかは、欠くことの出来ない視線です。すでにそのとき、柳宗悦の「生活芸術論」も提起されていたのに、芸術を何か人の暮らしとかけ離れた高踏な領域の創造活動と家永氏は考えていたようにみえます。

「読者の好みに応じて迎合する」〈戯作〉の展開も、時代を映す鏡ではないでしょうか。それを「まじめさ」(を欠く)という庶民の生活感覚に還元して評価しようとする家永氏の芸術センスは「高邁な思想」が、何だか大真面目な統治センスに浸されているように、私には感じられてしまうのです。まるで近代のプロテスタントの倫理学者のような匂いさえしてきます。でもそれは、市井の民の暮らしを視界においてヒトの暮らしを考える視線をもっていません。まるで武士の物語でこの世の経世済民は語り尽くせると思っているようです。と、マサオキさんの引用だけを読んで思っています。

 たまたま私は、時代の文化状況を考えるサークル活動に属していましたから、先輩たちが「授業に出るのはバカだ。本を読め」という世間話の言葉の方が、心裡に迫って私の行動規範になっていったのかもしれません。ここですでに私は、アカデミズムから脱落していたのですね。学問の武士である家永氏のありようが、商家出自の私に馴染めなかったのは、無理もないことだったのかもしれません。私にとって大学は、統治的な社会階層に属する人たちの言説や振る舞い、そこへ辿り着こうと歩く人たちもあれば、いろんな層の人々によって構成されている世の中の、独特の一角を占めて身を立てようとする人たちもいれば、すでにそこに身を置いて学生を応援する街の年寄りもいる。その存在にわが身が照らし出されて驚きの日々を送っていました。地方と都会の落差もさることながら、わが身の来し方が堆積して身に刻まれている。そのわが身が、そういう諸相が混じり合っている社会にどう位置するか。おろおろと勝手を探って右往左往していたのでした。(つづく)

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