今日(8/12)の新聞に《浅草の暴力団「解散」》という記事が出ている。いわゆる「指定暴力団」ではなく、ダフ屋やテキ屋でしのぎをしている小さい地域の「暴力団」。コロナ禍とネット販売と転売規制によって、稼ぎが激減し解散することになったと記事は解説している。任侠暴力団と最強の暴力団=国家との暴力占有争いは、法の整備などで追い詰められて前者の敗北が決定的だ。
似たような状況に置かれた「暴力団」が六本木の公衆浴場の再生コンサルタントをするという今野敏『任侠浴場』(中央公論新社、2018年)を手に取った。この作品は政治的に読むと面白い。政治的に読むというのは、人を動かすモメントをどう用いているかという視線で読むこと。この作家の人間観や社会観、世界観が浮き彫りになる。
今野敏という作家は、ナイファンチと呼ばれる沖縄空手や武術のことを記し、身体の子細な動きに目配りして人を描きとることをしてきた。また、警察機構という上意下達のシステムの制約を受けながら、犯罪捜査に於ける警察官の心の動きを書き留めて、社会関係を炙り出す作品をいくつもモノしてきた。他方で、マス・メディアの現場を舞台にして、犯罪や捜査、取材と報道,スクープといった表向きの競争関係を作品のストーリー展開の緊張として描き出しながら、人の動きの地道な積み重ねや綿密さを、まるで人の暮らしの基本が身の動きにあるといわんばかりに底流させて取り出してくる。
これら一連の作品に私は「鏡を見ているような、妙な気分になって」好感を抱いてきた。今回の「任侠浴場」という娯楽的なタイトルと漫画的な表紙デザインに、おやっと目が留まった次第。そして、ああこれは政治的に読むと今野敏の現代社会批判が読み取れる、と思ったのは読後感。
六本木の古い銭湯。跡継ぎもなく廃業かと思われるのに、売れない、売りたくない、売らせたくないと、各方面の思惑が絡む。親分に話が持ち込まれる。「暴対法」などがあって、暴力団にかかわるだけで犯罪行為となる。義理と人情だけでなく道理も重んじる親分としては、扶けざるべからずとなるが、今野敏は、語り手を代貸のアニキにすることによって、ブレーキとし、常識的視線を取り込む。しかし昔ながらの経営を抜け出せない銭湯のオーナーの心持ちを揺さぶり、親分の思惑へと持ち込んでいく仕掛けこそが、政治的読み取りの妙味。そこここに、平凡にちりばめられるのは、この作家が沖縄空手から取り入れた身体技法にあると,私は読み取った。
まず掃除、片付け。だんだんルーズになる高齢化する経営者の限界も浮かび上がる。利用者の快適さというイメージに伝統的な安息空間の心持ちを持ち込むというのには、新奇なものへの切り替えを良しとする社会的風潮への批判も組み込まれる。そうして、肝心な所でほんのちょっとだが顔を出して、いや知らんよと言って姿を消す大物政治家の配置は、目下、旧統一教会と関わりを持つ与党政治家たちが、いかに「暴力的な力」を裏道に於いて揮っているかを如実に示酢ことを暗示して興味深い。彼らの「知らない」という振る舞いこそ、国家独占暴力団の神髄を表現しているとも言えるからである。「何がモンダイかわからない」というのは、与党大物政治家としては「おとぼけ」というよりも「惚け」に値する。
でもなによりも、この作家の本領発揮の舞台設定を示すのが、小さな弱小暴力団という任侠集団の世界。ここに於ける気遣いと身のこなしと立ち居振る舞いは、今時のITアルゴリズムに犯された若い衆と異なり(代貸アニキの眼を介してではあるが)、見ていて心地よいほど一意専心である。この動きの基点にすがすがしさを感じるのは、私が昭和の人間だからだろうか。
このブログの、今野敏関連の記事を一部紹介しておく。ご笑覧下さい。
* 2019-10-28「地道に探索する関係に生まれるスクープ」
* 2019-10-27「つれづれなるままに」
* 2019-10-8「基底に立つ」
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