2022年8月20日土曜日

社会への信頼を高めることが社会インフラの整備

 平井玄に倣って銃撃事件の加害者をy、被害者をaと呼ぶことにする。固有名を呼ぶほど彼らのことを知らないということ、さらに(私は)固有のこととして考えようとしていないという理由だ。

 ことにyの、決して底辺層に生まれたわけでもないのに、辿った軌跡の苛烈さは私怨をぶつける相手を探したくなるほどのものであったと「粗筋」だけでも思う。そして、日本の社会で子どもを放置して信仰にのめり込む親を持ったときに、その子どもを救済する社会的なインフラは整っているか、それはどんなものかと思案しているからである。

 図書館から借りだしていた本に目を通して、ここならyのようなことは起こるまいと思った。堀内都喜子『フィンランド幸せのメソッド』(集英社新書、2022年)。この本の「あとがき」が書かれたのが2022年の4月、ウクライナの戦争が始まってまだ2ヶ月も経っていないとき。当の侵攻したロシアのお隣にいて、これまでつねにその脅威を気にして、抜け出せない地政学的な位置で振る舞ってきたフィンランド。筆者はしかし、ウクライナ戦争を意識して書き下ろしたわけではなく、その地で5年ほどを過ごしてきた間の目撃録を認めたから、日常生活における社会的インフラを感じさせる記述が随所に記されている。

 このブログでも、2020-2-3「文化的・平和的に「防衛」を考えよう(4)人口減少時代の社会イメージ」において、その年、2/1の朝日新聞で「フィンランド 理想郷?」という企画記事にふれて関心を示している。このときは、36会seminarの「日本の防衛」にかかわって書いたから、フィンランドという国の人口規模550万を意識し地方自治をイメージして、

《今私たちに提示されているフィンランドの教訓とは、私たちの暮らしにかかわることを自分たちが決定する自治の実現とみることができます(記事は全然そういうことに触れていませんが)》

 と、自律的自治の風潮に思い及んだところで、終わっている。

 本書で特記されているのは、政治家が若いことと女性が多いこと。首相が30代の女性というのはよく知られているが、現閣僚19人のうち、30代と40代の閣僚が13人を占める。国会の5政党の党首がいずれも女性ということも、日本との対比では目につく。要するに、男だ女だということが問題にならないほど「人」として関わり合っている。それほどに、性差に関する社会意識には平等・対等が行き渡っている。当然出産もあろうし、育児や家事も家庭においては問題になるはずだが、それさえも性差を乗り越えるほど社会的な気風が成立しているとうかがわせる。

 今の30代後半女性首相が誕生した頃どこかのメディアが(日本風にいえば貧窮院の母子家庭という)彼女の生い立ちに触れて揶揄ったとき、この首相は「貧窮院育ちの子どもでも首相になれるというこの国を誇らしく思う」と切り返したと著者が間近に目にしたことを記しているが、そうしたことに(ほぼ)一縷の社会的偏見も介在しない社会的気配は、長年の伝統的気風が作用しているのではないかと私は思った。

 だが、そうではなかった。ほんの半世紀前までは性差別も大きかったし、賃金格差も日本と同じくらいあったようだ。その社会が、女性の社会進出をほぼ百パーセント達成し、大学院まで医療費や教育費は無償、18歳を過ぎれば子どもは家を出て自律し、学生も若干の給料をもらって自活できるという社会的インフラが整っている。障害を持った子どもも皆他の子たちと一緒に学校生活を送る。概ね16時を過ぎると仕事を終えて帰宅することを社会的基本として保育園や学童保育も整っているとなると、yが誕生する懸念はおおむねないということになる。yのことも含めて困窮する者の社会的インフラがどうなっているかと私の関心は焦点が絞られていたが、そうではないことに気づく。私のイメージする「社会的インフラが整っている」というのは、暮らしに於ける社会への信頼度が高いということなのだ。むろん一つひとつの「暮らし」の子細に関してどうなのかは具体的には問題となるが、社会全体がそうしたことに関して「懸念」しなくてやっていけるというのが、社会的に行き渡っていてこそ、「社会インフラが整っている」と言えるのだと思った。

 気候や自然環境、人口規模の多寡はもちろんモンダイとなる。だが、もし日本の人口が多いからといってフィンランド風の社会形成を渋るとすれば、ちょうど中国が日本の十倍の人口を抱えて「権威主義的な統治支配は致し方ない」というのと、同じである。だが子どもの政治への関わりをどうしているかをみると、そうした社会的気風を醸成するのは、自律的な自治を基本として社会的活動を作り上げていく過程に拠るのだとわかるように感じる。子どもも社会成員の一人であることを基本に、彼らにも社会的な問題に口出しする機会を用意し、彼らの発案する施策を真剣に検討し、可能なものは実施するという日常的な社会参加の政治的振る舞いこそが、大切だと教えている。

 旧統一教会を巡って曖昧模糊とした口舌をまき散らしている日本の政治家を見ていると、日本は道遠しと思わざるを得ない。でも希望の端緒はみえていると思った。

0 件のコメント:

コメントを投稿