最初にこの本を手に取ったのは、物理学からアプローチする哲学の本だと思ったからです。アダム・ベッカー『実在とは何か』(筑摩書房、2021年)。この本は、副題的に(表紙に)こんなことを書き込んでいます。
《量子力学に残された究極の問い/「量子革命」から100年、問うことすらタブーとされてきた難問をめぐり、二十世紀最強の科学者たちの論争をたどる。/今最も熱い論争がここにある/Adam Becker What is Real--The Unfinished Quest for the Meaning of Quanntum Physics》
量子物理学じゃあ歯が立たないなと思いつつ読み始めましたが、その量子論が成立する過程のここ百年に及ぶ論争を繙いて、あたかも量子論そのものがコレといって提示してみせるものではなく、「世界」を見て取る切り口を示すような哲学だと解いているように、読めます。まだ全部読み終えていませんから、ほんの門前の小僧のちょっと見なのですが、物理学者たちの最先端の遣り取りも、私たち庶民が突き当たり、それなりに自分を納得させていく「世界理解」とかわらないんだなあと興味深く思っています。
主としてアルベルト・アインシュタインとニールス・ボーア(デンマークの理論物理学者、量子論の育ての親と言われている)の「コペンハーゲン解釈」を巡る何十年にわたる遣り取りの記述は、量子論そのものよりも、その思索と表現とその遣り取りが為される舞台に登場する物理学者たちの「理解/無理解」と「誤解/新しい発見」という右往左往を浮き彫りにし、しかもその有り様が私たち庶民の「情報」「認識」「腑に落ちる」のと似たような功績を辿っていることを示している。
この著者・アダム・ベッカーがどういう方なのか知らないが、科学領域に関して私が門前から橋渡しをして境内を垣間見させてもらったことで言えば、ジョージ・ガモフ、カール・セーガンに次ぐ、3人目の案内者だ。つまり門前の小僧にとっては、量子物理学の中味そのものよりも、その世界を語る語り口、即ち哲学が、どのように、どこまでわが身の感じてきた世界の感触と重なり合っているか、重なるとまでは言えなくても、響き合うものを感じ取れるか。
(1)ボーアは表現が苦手であったらしい。書くものは難解、本人も何が言いたいのかよく分かっていないが、でも、言わねばならないというポイントはあって、とりあえず書く。あるいは口述論議したものが文字にされる。とにかくよく推敲を重ねて、様子を整えて提出する潔癖な方であったのに、そのエクリチュールは何を言い合いのか、よく読み取れない。だが後になって、本人が言っていたのはそういうことかと腑に落ちるポイントを突いていた、とか。
(2)それに対してアインシュタインは簡潔明快に述べることをしたが、それがボーアのコペンハーゲン解釈を否定しようとする狙いと読み取られ、指摘する論議の要点に踏み込めない扱いを、しばしば受ける。
(3)取り巻く,やはり物理学者たちは、ボーアやアインシュタインの論理の穴を見つけて探求し、当人たちが言い及ぶことができなかった論点を明快にしてゆくのだが、多くの人たちは、アインシュタインの批判に対して,ボーアが何を言っているのかは分からないが、アインシュタインの言っていることを否定したことだけは腑に落とし、心持ちを安定させて研究を続けることができた。
(4)それら量子の動きを、実験科学的に明白なエビデンスを提出できるのかどうかとなると、観察したときにだけとらえることができるというボーアに対して、観察していようといるまいと実在する(思索の渦中にある)というアインシュタインとが、遣り取りする地点で、私たち庶民の「実在」とイメージが重なってくる。
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ああ私はこの本を哲学書として読んでいるんだなと思いながら、一つ独中の感懐を記しておこうと思った。(4)の「観察したときにだけとらえることができる(量子の動き)」というのは、カメラに収めた一枚の人物像のようなもの。瞬間を切り取っている。これが、観察したときに現れるすがた。ではカメラに収めないときは実在しないのか。シャッターを切るときにしかポイントが特定できない量子の動きは、あるのかないのか。 つまりカメラに収めた人物(私)が同一人物であるというエビデンスは、何によって示すのか。人間の場合で言えば、個人を特定する科学的方法はいくつかあるが、それは目に見えるものだから。ではめにみえないとき、あの時の自分とこの時の自分とが同一であるというのを、当人は何によって「保証」しているのだろうか。というふうにして今度は、「記憶」の領域の扉が開く。こうやって次から次へと、一つの謎を解いたと思ったら、次の謎の扉が開くように科学者の論議は、積み重なっていく。それはわが身を探求しはじめたら、向こうに謎がみえてくるのと、同じと言えば同じ。ワタシも量子と同じ旅を続けているのだと一知半解どころか、一知全半壊の門前の小僧的無明の自覚をしているところです。
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