安倍元首相銃撃事件の報道が、いまや旧統一教会と政治家とのカンケイのモンダイに移行している。政治家は、いかにも今風の政治家らしく、「知っている限りでは関わりはない」とか「そういう反社会的団体とは知らなかった」と、逃げ場を用意したものの言い様で、いつまで経っても変わらない無様な姿をさらしている。降りかかる火の粉を払うって感じで受け止めているんだね。
だが私の胸中で蟠っているのは、二つあった。
その一つは、山上容疑者が「精神鑑定」に回されていること。理由の説明は目にしていない。どうして旧統一教会への恨み辛みが安倍元宰相に向かったかが、ふつうの判断では(銃撃までとの距離は)飛躍がありすぎるってことなのか? 私には、そうは思えない。
事後の報道をみていても、そう的外れではなかったんだと腑に落ちる思いがしている。とすると(と、ここで私の探索眼が目を覚まして)、山上容疑者が元宰相を狙撃するのに相応しい物語を制作するまでの時間稼ぎなんじゃないか。このまま司法の場で安倍銃撃の経緯をあからさまにしてしまうと、山上容疑者の自白する物語りが元宰相を大きく傷つけてしまう。それは避けたいと(法務大臣が言ったかどうかは分からないが)検察の思惑が透けてみえる。逆に言うと、元宰相は、いかにも生前の振る舞いに相応しく忖度を働かさせている。「死せる孔明(諸葛)、生ける仲達を走らす」の図ってワケか。
もう一つは、山上容疑者の母親がどうして(困窮極まる)子どもたちを放っておいてまで一億円もの生活費を献金してしまったのか。なぜわが子のことを構わないで済ませることができたのか。また山上容疑者自身、一言も母親に恨み辛みを述べていない。なぜなのか。この母と子のカンケイはどうなっていたのか。そのことに踏み込んだ報道は,これまた目にしていない。せいぜい、叔父の元弁護士が坦々と(母親について)控え目に説明しただけである。
なぜ報道しないのか。むろん母親が容疑者ではないからプライバシーに配慮しなければならない制約はあろう。だがこれに踏み込まないと、旧統一教会が多額の献金をさせたという物語だけがひとり歩きして、献金した母親はただ単にマインドコントロールされた被害者ってことにされてしまう。もしそういう扱い方をしているとヒトはみな悪くないが、宗教とか制度とか運不運とか、外部がモンダイってことになる。でも、そうなのかい?
母親にとって旧統一教会は避難所であったように思う。献金が多額かどうかよりも、手元にある金にはこだわらずに献金に回すことが、彼女の心持ちの安らぎに通じていたのではないか。もしそれを悪いって(マインドコントロールを)批判するのであれば、視線は単に献金額の多寡だけに向いてしまう。あるいは、その献金が旧統一教会の政治資金として使われたという使途不純金てことにとどまる。でもそんなことに口出しはできまい。
もし山神容疑者の母親の心の避難所(アジール)が必要だったのだとすれば、今の日本社会では、そうしたモンダイにどう社会的な救済システムがあるのだろうか、結局母親は捨て置かれる以外に身を救う道はなかったのではないか。旧統一教会が悪いってコトだけで片付けてしまうと、山上容疑者やその母親のような問題を抱えた人たちは,ではどう生きることができたのか方途を失ってしまう。
そんなことをボンヤリと考えていた今日(8/9)の朝日新聞社会面に「深流」というコラムを起ち上げ、「家庭崩壊 渇望した母の愛」「困窮の陰 送り続けたエール」と見出しを付けた連載記事がはじまった。山上容疑者の辿った径庭が取材者の目を通した断片ではあれ明らかになってくると、私の探索眼の物語りも浮かび上がってくる。それを主軸にして今の社会を生きるヒトの物語を覗いてみたいと思う。
避難所とかアジールというと、一時の気休めのように思えるかもしれないが、必ずしもそうではない。そこにいることそれ自体がワタシをかたちづくるってコトもある。もっと拡げて言えば、仕事だって社会的なお役目だって、似たようなものだ。そこにいる自分が,心安らげ、落ち着くとしたら、それこそがアイデンティティであり、ワタシなのだ。そういう意味では、避難所=アジールというのは、ヒトの実存を意味することなのかもしれない。親と子というカンケイに身を置くことができなくなるヒトだっていても不思議ではない。ヒトが物語を必要とするときに、わが身の救済だけが視界にあり、その余のカンケイが眼に入らないとしたら、それによって見捨てられるヒトをも社会的に救済しようとするインフラ物語りが必要になってくる。それは、誰が紡ぐのか。どう紡ぐのか。それと今回の銃撃事件は関係がないのか。
そんなことを、わがアジールで考えるともなく思っているのです。
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