2022年8月27日土曜日

言葉と人柄と信頼

 1年前(2021-08-26)の記事、「法的言語と生活言語の齟齬の現在」を読んで、旧統一教会と自民党政治家との関係について、一つ考えることがあった。

 いま旧統一教会が非道い団体であると思われているのは、生活言語世界からの見立てである。銃撃犯yの母親について語る(統一教会に対する)恨み辛みは、聞くだに同情を誘う。自民党の政治家が言を左右にして困惑しているのは、旧統一教会の何が違法なの? と法的言語で語るのと、選挙のときに支援してくれる人を(所属団体などを吟味して)誰何することはできないというのは、生活言語である。

 言を左右にしていると思われるのは、彼らが法的言語と生活言語の都合のいい部分を適宜使って自己防衛をしているからだ。彼ら政治家が法的言語に通じているのは、庶民から見ると当たり前だが、法に反しなければ何をやっても構わないというのは、ヤクザの台詞だ。法的な枠組み以外に社会的な規範があり、それをやっちゃあお終いよという限度が、法的な限界の内側にある。庶民の生活言語は、その曖昧模糊としてはいるが、しかしきちんと了解している規範に基づいている。近頃、同調圧力といって人々の言動に規範がないかのように考える人たちがいるが、それは頭でっかちの知意識人の考え方だ。庶民は、別に同調圧力というのではなく、そりゃあ常識だよと思っている。

 旧統一教会と「今後一切の関係を断つ」などと政治家が口にしても、ほんとかなと信じられないのは、その言葉の軽さ、身勝手さが、身の振る舞いから透けてみえるからだ。じゃあどうすりゃいいの? と当の政治家は思うかもしれない。法的言語と生活言語の使い分けを自分がどうやっているのかを、自分に問い、一つひとつ吟味しながら自答して行くしか、道はない。

 ほんの少し遡ってみてみると、安倍=菅=二階時代の自民党は、上記ご都合主義言語満載の展示場であった。言葉が信用できない。この人たちにとって言葉は、自分の意思を表現するものですらない。彼ら自身が自分の言葉に信を置いていない。その人たちの仕切る政府が選挙を通じて多数の支持を得てきたから、今の社会に於ける多数の庶民の言葉も、そういう頼りなさというか、虚ろな響きを当たり前としているのかもしれない。そう言えば『言語が消滅する前に――「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』(幻冬舎、2021年)という哲学者の対談を収録した本があった。これも、私と同じように、虚ろな言葉の蔓延が世の中を覆ってしまう感触をとりあげていた。

 政治世界の言語ってそういう(虚ろな)ものさと見極めるのと、自分もそういう政治家の列に並んでいていいのだというのとは、違う。人の思いと言葉とが齟齬することは、市井の民は長年の(わが身の)経験で十分感じて知っている。だが、言葉と振る舞いとで「関係を紡ぐ」とき、虚ろでいいのだと思って言葉を発していると、そういう浅い付き合いが身の回りに蔓延り、身がそれに馴染んでしまう。それは心の習慣となり、そういう人柄をつくる。人柄とは、その人の紡ぎ出す「カンケイ」の醸し出している雰囲気であり、つまりご当人にはわからないが、周りの人々の「反応」を鏡にして感じられることだと言える。

 言葉は、どんな場面で誰から誰に向けてどのように発せられるかによって、意味合いもニュアンスも伝えようとする内容も異なってくる。だから政治家といえども、法的言語の一面しか持ち合わせていないわけではないし、私的場面でも虚ろな言葉を発し続けているわけではない。だが、政治家が政治家として繰り出す言葉は、公人としての人柄を全面的に体現する。今の情報化時代といわれるご時世、私人としての政治家の有り様というのはほとんど認められていないから、全身政治家として振る舞わないといつ文春砲に撃たれるかわからない。

 これはいつも意識的に「政治家」であることを求められるのだが、今の政治家たちの振る舞いと言葉を見ていると、とても尊敬に値するようにみえない。「言葉が消滅する前に」だけでなく、「振る舞いが目も当てられなくなる前に」も、言い及ばなくてはならない。それも、トランプさんやプーチンさんなどを見ていると、国内政治だけでなく、国際的な政治場面でも同じようなことが横行していると言えそうだ。

 とは言え、断片しか知らないが、メルケルという方もいた。語り口それ自体が尊敬と信頼を醸し出す。あるいはフィンランドの37歳の首相のように「私も人間です」と涙しながら「息抜きもしたい。(人生を)楽しみたい」と訴える言葉を聞くとき、私たちは、私たちができる以上のことをしてくれと要求しているのかと、自らの言葉をふり返ってみる。それはそれで尊敬とは異なるが(人として同じ現実を生きている)誠実さに信頼を置くことのできる響きがある。

 今の日本の政治家たちに、そのような人柄にかかわる尊敬や信頼を感じることができるだろうか。日本のシンクタンクといわれてきた官僚組織に(政治家はだらしないが官僚組織がしっかりしているから日本は大丈夫だという)かつての「信頼感」は抱けるだろうか。言葉よりも、立ち居振る舞いに於いて(つまり身体性において)評価する(日本の)「人を見る目」が是非とも復活してほしい。

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