森田真生『僕たちはどう生きるか――言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社、2021年)を読む。コロナウィルスがはじまった頃からほぼ1年間の、独立(数学)研究者・森田真生の暮らしの日誌。文芸誌『すばる』に連載されたものが本になった。
京都に拠点を構え、2人の子どもを育てながら、子どもの言葉、振る舞いをみつめ、日々の変化を面白く受けとる。コロナで保育園が休園したり、オンラインのかかわりが入り込む。庭に「もりたのーえん」をつくり、土をつくり、植物を育てる。その方法を知人に教わり、そこに集まってくる虫の変容を子どもと共に観察し、驚きを記し、それまでの自分の知らなかった世界が開かれてゆくことに感嘆の言葉を紡ぐ。それにかかわる本の言葉を拾って転回のバネにする。まことにピュアな思考を辿っている。文体自体が、エコロジカルという感触を醸している。
《エコロジカルな自覚とは、おびただしく多様な時間と空間の尺度があることに目覚めることである》
という言葉が、バクテリアやミトコンドリアの単位から眺める視線が、セミやカブトムシ、チョウの幼生や変態の移り変わりの観察と重なって、私たちの日常の思考を見つめ直すモメントを構成していく。
《環境破壊/その最たる原因は/農業である》
という言葉に出逢う。それを「もりたのーえん」の現実においてほぐし、野菜と草の特性と土の関係の考察へ視線を向け、さらにそれと昆虫種(害虫)の大量発生と(関係)へ転回する。つまり「おびただしく多様な時間と空間の尺度を」を往き来する言葉の飛翔が、ピュアに、つまりわだかまりなく転がっていく。これ自体がエコロジーであると静かに声にしているように行間に感じる。数学者って、こういうセンスを身体的ベースとして持っているんだ。この身に染み付いた感性があってこそ、夾雑物にまみれたこの世のコトゴトを数値化して取り出して本質的に提示する技法をものすることができるのだろう。
でも著者は決して、モノゴトの純粋な形に目をやって、夾雑物をみていないのではない。
《(人との会話の中で)現代の「不気味さ」について語る。……サルトルの『嘔吐に』……本来隠されていたはずの「存在」そのものが露出する不気味さ。……コレまで常識とされてきた物の見方が崩れていくなか、不気味さに蓋をするのではなく、不気味さを直視していくこと。目眩と酔いの先にこそ、まだみぬ風景が開ける》
と、夾雑物にまみれることを厭わない姿勢を感知しながら、
《……ところがいまや、人間活動を支える環境は決して所与でないことが明らかになってきている。……あらためて自分たちが住む「家」を営んでいくための「思想」、……既存の枠組みが崩れていく酔いと目眩の経験の先に、新たな自己像を描き出していくのだ》
と、わが身と離れずに言葉を紡ぐ心持ちを記している。
たとえば、腐葉土を(子どもと共に)その道の専門家に教わって、つくる。そして、こう言う。
《木枠のなかで密接した落ち葉は、何度も踏みつけられて密集していく。これにバケツで繰り返し水をかけ、最後にビニール・シートをかぶせて密閉しておく。「密」な環境が微生物たちの活動を刺激していく》
コロナの感染拡大を抑える「3密」の作法が、天然世界の作法に反していると感知して、こう続ける。
《生物が密集すれば、様々な感染が起こる。細菌やウィルスに感染することもあれば、アイディアや思想に感染することもある。不安や恐怖が伝播することもあれば、あたたかな感謝の気持ちや生きる喜びが伝染していくこともある》
と、愉しそうに受け止める。
著者の周囲を行き交う人たちの(国の内外を問わない)言葉を聞いていると、類は友を呼ぶという言葉が浮かんでくる。みごとに優れた人たちがごくごく自然に集うべくして集っていく。著者が持っている固有の雰囲気が、他の人たちに伝染してでもいるかのように、似た者同士が引き合い、言葉がスパークしてさらに(やわらかい言葉を生み出して)スパークするように転回していく。ティモシー・モートンの詩を引用して著者の思いを広げていく記述は、ピュアな知的世界が自然と渾然一体となって開けていく景観をみているようである。
37歳の若い人が、このように世界をとらえて歩いていると知るのは、悲嘆することばかりじゃないと老い先短い年寄りにも希望を抱かせる。
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