今朝2時頃だったろうか、ゴロゴロと鳴る遠雷に目が覚める。おや、寒気が入ってきたかと枕元の小窓を開ける。生暖かい風が申し訳程度に流れ込んで,昨日日中の暑さを思い出す。35℃を超えた日中に図書館への往復を歩いた。
今月20日に予定しているseminarの講師から、コロナの隆盛もさることながら,この暑さ。参加者が皆(傘寿を迎える)高齢者だから涼しくなってからにしませんかと(全員宛の)メールが来た。皆さんはどう反応するだろう。
トキくんからは、《……世の中のクーラーを全部止めれば、涼しくなるんじゃないかと(驚きの提案しながら)……体の不調で医者通い。seminarは成り行きで決めればいいのでは。コロナは峠を越すのかな》と皆さん宛の返信メール。
トシさんからは、《……とうとうコロナに感染しました。7月12日に発熱、病院に行ったらコロナの診断。解熱剤など薬をもらったら2日ほどで熱は納まりました。どこで感染したのかは定かではありませんが、10日間の自宅療養。家内もすぐに感染しました。その間の取材をキャンセルしたので今週は目いっぱい、フル操業です。こんな具合で軽症でした。セミナー開催なら出席します。》とすっかり恢復した様子。
フミノさんは、《お世話になっております。先日お昼に30分ほど傘を差しながら、日陰を探しながら歩きましたが、かなり参ってしまい年齢を思い知らされました。私ももう少し暑さがおさまるまでずらしたほうが良いかなと思います。ただし皆様にお会いすることがなによりの楽しみなので、実施が決まれば八月でも参加いたします》といつもながらの洒落者ぶりを窺わせる。さっそく男の日傘を使っているのだ。
ノリコさんからは、《酷暑の中の思案、お疲れ様です。コロナについて、高齢者は不要不急は自粛すべしとか、基礎疾患のある人は自粛すべしとか自治体によって取り決めがある様ですが、何よりも高齢者は無理をしない事では…? コロナの行末も暑さが収まるかどうかも (多分)でしか判断出来ないのであれば、無理をしない方がいいかと思います。講師の準備のご都合もあるでしょうし、私は先に延ばす方がいいと思います》と、気遣いと慎重さを忍ばせるメール。
今朝4時半前、ボタボタと庭に落ちる大粒の雨音に起こされる。気温は下がっているようだが、湿度が高く、涼しいって感じではない。でも、こうした熱波の波動を感じながら、いつの間にか亜熱帯の気候帯に移り変わっていくのかもしれない。とすると、涼しくなるのを待ってなどと言っていると、年寄りに先のない寿命と身体劣化の時間推移が立ちはだかる。
こうも言い換えることができようか。「涼しくなるのを待って」という前者は、「時間」がわが身の外部に流れている。だが後者の時間は、はっきりとわが身に内化されている。皮肉なことに、若いうちは「待つ」ことをしなくても状況を突破するだけの体力があり気力が後押しをする。そうやって忙しなく「時間」を乗り越えてきた。だが歳をとると時間はいくらでもある。外部的な「時間」から解放されてわがままに過ごすことができる。それなのに、身が待っていられない。あっという間に時間が過ぎてゆくという実感は、「時間」さえ身の裡に内化されて、身とともに滅びてゆくのかもしれない。
さてそう考えると、30℃くらいなら何でもないが、35℃を超えるとなるとちょっと手強いぞという境目のところで、いまseminarの開催を思案していることになろうか。これってまだ、「健康時間寿命」が残ってるってことか、それとも危機的状況にあるってことか。
さあ、今朝の晴天も霹靂が、seminar開始のGOサインとなるか、それとも焼け石に水となるか。歳をとると、言葉の意味合いも逆になって世間から離れてしまうようですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿