2023年6月10日土曜日

お知らせ

 お知らせ

 このブログ制作者のPCが先月下旬から故障し、記事をアップできなくなりました。つきましては、下記のサイトに統合して継続することにしましたので、恐れ入りますが、そちらをご覧くさだるようお願いします。PC故障の顛末や今も四苦八苦していることも記しています。長くご無沙汰していたことをお詫びします。

 https://blog.goo.ne.jp/fjtmukan

 なお、上記サイトは継続しますので、今後ともよろしくお願いします。

2023年5月23日火曜日

「まつりごと」が日常になるには?

 ゼレンスキー・ウクライナ大統領が突然訪日したことで、一挙にG7に衆目が集まり、評判が上がりました。御膳立てをした岸田首相は助演男優賞という格好です。評判のお裾分けなのに支持率が上がって、早速解散の話に政界雀たちは囂しくおしゃべりをはじめました。でもなぜゼレンスキーの来たことが、私たちの関心を惹きつけているのでしょうか。

 日々攻防が伝えられる戦場の最高責任者がやってきたという野次馬の目が大方を占めていると私は感じます。どうやって来たのだろう。飛行経路を秘匿してやってこられるものなのだろうか。フランス政府の専用機を借りていたいうが、飛行途中で(ロシアやそれに味方するどこかが)それを撃墜するというのは、明らかに第三次世界大戦の引き金を引くことになる。この来日のさまが劇的ではないかと興味関心を惹き寄せる。

 何をしに来たのか。当然支援をより鞏固に取り付けるため、兵器・弾薬をより多く援助願いたいため、できればこれまで中立的立場に立ってきたグローバルサウスの国々もウクライナを支援するように願いたいため。リモートでG7に参加するといっていたけど、実際現場に足を運んで顔を合わせる方が間違いなく「効果」的だ。いかにも元俳優だっただけのことはある。

 でも、野次馬の日本人が・・・と考えていたところへ、TVの画面から「広島の人たちにとっては・・・」とゼレンスキーの原爆資料館などの訪問を報道するアナウンスが続き、おやおやヒロシマもついに「広島の人たち」のことになっちゃったのかと、当事者性の狭くなったことに気づかされた。ヒロシマの人たちとしては、78年前の広島と現在のウクライナを重ねてみていたでしょうし、ゼレンスキーは現在の広島を復興ウクライナの将来に重ねて言葉にしていました。そのズレが懲りない人類史を著しているようでした。

 それで気づいたのですが、G7の首脳たちを案内した広島・平和公園の戦没死没者慰霊碑が、あなた方を待っていたのよと語りかけているように思えました。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しません」という碑文は「主語が曖昧」とか「原爆を落とされた日本人が口にする言葉じゃないだろう」などと非難を受けていました。でも、G7の首脳が口にする言葉としてなら相応しい。主語が曖昧なことを特性とする日本語が実は、人類史的な「反省」を表現していたということが浮き彫りになりました。だがね、G7の首脳たちが裏表なくこの碑文のいうように振る舞ってくれればですがね。

 広島という平和を願う地で兵器調達の話をするのは似つかわしくないという意見もTV報道は伝えていました。どうして? と思いますね。G7に要望するゼレンスキーの兵器支援要請は、文字通り直面するウクライナの戦争を戦前前の状態に戻す。ま、クリミアをどうするかで子細の差異は生じるでしょうけど、大雑把には昨年の2月22日以前の状態に戻れば、ロシアとの和平交渉にウクライナも同席することになるでしょう。先ずロシアが撤退すること。逸れなくしてウクライナに譲歩を迫るとすると、中国の台湾侵略は止めようがありません。ここで俄然私は、当事者になったように思います。ウクライナの趨勢が、台中関係の帰趨を制することに直結していると私は考えています。もちろん私のウクライナ贔屓を隠すつもりはありません。ウクライナの人々は、日本の私たちと似たような暮らしのレベルを持ち、似たような社会習慣の上に日々を送っていたと感じているからです。例えば日本の沖縄や南西諸島に、かつて宗主国であったからといって中国が軍を派遣するようなことがあれば、如何に何でもそれは許せないと戦うしかないと思っています。ウクライナに於けるロシアの立場を少なくとも侵略開始前に撤退させることができないでは、台湾どころか沖縄さえ日本は、護ることができない。そう思います。切実な当事者です。そういう意味で、ゼレンスキーの訪日は的を射ていたし、それが広島でヒロシマとイメージを重ねてG7首脳に要請したこと、インドの首相と会談したことは効果を持つと感じました。

 こうやって、当事者性をきっちりと位置づけていさえすればいいのですが、巷の評判がもっぱらドラマをみている観客としての視線で形づくられるのはどうなんだろうと、判断を保留したくなります。いやそれでも、ウクライナへの心情的な共感は身の裡に培われているよといえば、そういうものかと思わないでもありませんが、野次馬では矢っ張り力になれないのではないかと心配です。

 そういう意味では、ブラジルの大統領が「待っていたけどゼレンスキーが来なかった」と会見しなかったことを「残念がって」いましたが、第一報は、ルラ大統領がゼレンスキーとの会見場に現れなかったというものでした。どちらが真実か分かりませんが、ロシアの言い分にも耳を傾けろと常々主張してきたブラジルの大統領ですから、ゼレンスキーもぎっしりつまった日程を無理して開けてでも会談しようとしなかったのかもしれません。

 ただルラ大統領が、「G7の場ではなく国連で話し合うことでしょう」と言っているのは、「正論」でしょう。だが国連総会でロシアの撤兵を決議しても、どこ吹く風のロシアです。そもそもウクライナに兵を進めたのが、国連憲章違反ということもブラジルの大統領が知らないはずはありません。国連がもはや調停や調整で力を持たないことは、誰もが知る事実です。つまりルラ大統領にすれば、言ってみただけだったんでしょうよ。これは、偏狭になるかどうかではなく、どういう位置でこのモンダイの当事者なのかを明確にさせないと遣り取りできないことだと言えます。

 さてG7は終わり、それぞれの日常へと首脳たちは戻っていきました。ゼレンスキーは無事に戦場へ戻ったんでしょうね。お祭り騒ぎをして、後はまた日常が戻ってきたというのでは、G7は(私たち庶民にとって)文字通り「政/まつりごと」。庶民にとってはハレの場、選挙と同じでちょっとした気晴らしの時を過ごしたに過ぎない。そうそう、消費したってわけさ。「政/まつりごと」が庶民にとって日常にならない限り、庶民が政治の当事者になることはない。そう見切ったワタシが、今も私の身の裡に潜んでいます。

2023年5月22日月曜日

気分が左右している政治動乱

 安田峰俊『八九六四――「天安門事件」から香港デモへ[完全版]』(角川新書、2021年)を読んだ。天安門事件といえば中国民主化の兆しと受けとっていましたから、その弾圧やその後の権威主義的統治の推移を見ていると、民主主義香港の圧倒的制圧とか台湾侵攻の危うい動向も一連の情勢として視野に入る。それはまた、天安門事件のことを概念化することになります。大きな潮流の中においてみると、あの時中国は現在の統治体制へと舵を切ったとみえ、翻って中国の民主化は、あの事件の時にアメリカが経済的関係の利害から中国を見ていて(民主化を)見誤ったと受けとってしまいます。そうやって私も、天安門事件のことを胸中に収めてきました。

 ところが本書は、ルポライターの安田峰俊が天安門事件に「かかわった」人たちを、その二十数年後とか三十年後に訪ね、8964のとき、何処で何をし、何を考えていたか、その後それはどう変わったかに着目しながらインタビューをして全体像を描き出そうという試みです。それは、八九六四を軸にして人生と世界を浮かび上がらせます。言葉にするとつまらないことをいっていると見て取りながら、天安門のヒーローとして名を馳せた自分の後世に伝えるお役目として己に課している人もいます。あるいは安田自身が、言葉だけが軽々と繰り出してつまらない人だと見切ってインタビューを打ち切った人の姿も現れます。

 そうしてその一文一文が、概念的な把握を簡単に覆して、ワタシのセカイ認識をあらためさせるようです。このリポライターの視線と記述の手順と、その背景に横たわる人間観や社会観、世界観の奥行きが深いからか。やはり鏡としてワタシを映してページを繰る手を誘うのです。

 安田峰俊は、北京のその現場にいた人たち、遠く離れた東北部やチベットや南部にいた人たち、日本に留学していて民主化を支援していた人たち、アメリカにいて後に国籍を取得した人たち、あるいはいろんな経緯を経て台湾に落ち着き、今も大陸の若い人たちと遣り取りする機会を持っている大学教授と辿ってゆき、最後を香港の雨傘運動とその後の国家安全法の施行と人々の沈黙などを、運動の細部に目を配りながら関わった人々の心裡の欠片を組み合わせていき、中国は今どうなっているかを描き出しています。

 そうやって振り返ってみると、世界の動乱は何を内発的な契機として起こっているかワカラナイ。みている人にワカラナイだけでなく、その場にいる人にもわからないということが浮き彫りになります。渦の中にいては自らのしていることを見て取れることができないと言えるのかもしれません。ルポライターというのは、その現場にいながら、なおかつ、ステップアウトして全体像をとらえるために、細部にインタビューを重ねて、歳月を隔ててイメージを総合していく作業をしているのだなあと敬意をいだいています。その手際に感嘆の溜息をつきながら、ワタシのセカイの欠片を一つ塗り替えている。それが読後感です。

2023年5月21日日曜日

専門家ってなあに?(3)ローカルこそが普遍というパラドクス

 ひとは大雑把に「専門家」という言葉を用いる。その意味する所が何であるかは、時と場合とひとによって異なってくる。その内実は「知的権威」と私は考えているが、大抵は「肩書き」で以て判断している。大学の教授であるとか、建築設計に携わってきたとか、政府の防疫機関の研究者として従事しているという「肩書き」である。

 コロナ禍がはじまった頃、TVのコメンテータとして随分たくさんの感染症の研究者や防疫機関の専門官や医師が出演し、いろんなトーンで喋っていた。その中の女性の専門家は、初め登場した頃には素顔の地蔵通りのおばちゃんという風情であった。何度も登場するうちにだんだんおしゃれになり、髪かたちも変え、顔つきまで洗練されてきた。彼女の話よりも、その様子の変化の方が話題になっていた頃、私と同年の老爺の一人がいかにもインチキ臭いものを目にしたように、彼女のことを「何が専門家だ。バカなことをしゃべってやがる」と口汚く誹った。「えっどうして?」と訊いた。彼は「あんないい加減なこと」と何を指していたのか分からないが、みるのもイヤだという風情であった。

 自分の聞きたくないことをいかにも専門家面して喋るコメンテータも結構いるから、彼女もその一人に祀りあげられたのかもしれない。だが、出演して喋っていることとは別に先述の私のように様子が変わってくることに注目していると、「専門家」というよりは「タレント」の成長記録のように感じている。ありきたりのことを喋ったりするとか、いかにもワタシは知っている(アナタは知らないでしょうけど)という気配が漂ったりすると、何言ってやがんでえと反発を感じることもあろう。

 TVプロデューサの方は「肩書き」で「知的権威」を感じて出演願っているつもりでも、視聴者は、タレントの一人として受け止めるから、その言葉と振る舞いに何の「知的権威」も感じないこともあろう。すると、何でこんなヤツがと反発を食らう。もっとも私と同年の老爺は、功成り名遂げた風の学歴と職歴といった経歴を持つから、エライ人ではある。すぐにひとを馬鹿にして反発するキライもある。だからなぜこの人が当の「専門家」に反発したのかはワカラナイ。知りたいとも思わないからそれっきりにしたが、ひとが何に「知的権威」を感じるかは、人それぞれによって大きく異なることだけは確かである。

 じゃあ、一般的に「専門家」といっても、話が通らないではないかと反撃を食らうかもしれない。そこが、大雑把にとらえる「ことば」「概念」のお蔭で、いちいち騒ぎ立てないで私たちの世間話は通じているのである。

 だから「実践人生80年」の専門家としての私は、それだけで胸を張っていいのであるが、それだけでは胸が張れないと思っている。どうしてか。ただただ生きてきただけだからだ。やはり専門家というのは、知的な何かが加わらなければならない。実践人生80年に知的に加味することとは「批判」である。カントは「実践理性批判」と記した。

 批判というのは「文句をつけること」と近年の学生さんはとらえるようである。だから人の提出したレポートを批判するというのは、喧嘩を売ることと考えている。「そんな失礼なこと」と大真面目で教室で質問したり批判したりするのを排撃するのに立ち会ったことがある。そりゃあないよと、当の教室の秩序を取り仕切っていた私は、質問や批判をした学生をかばった。すると、教師がそういうことを奨励するのはもっとケシカランと口撃を受けた。

 カントがそういう意味で使ったかどうかは知らないが「批判」というのは、対象を見つめ言葉にしてその輪郭を切り分けることと私は考えている。つまり「実践人生批判」というのは、わが人生の過程で身に堆積してきた感性や感覚、好みや思索、判断などの、ほぼ無意識に沈潜している一つひとつを言葉にして取り出し、その由緒由来を探ることである。意識に浮上させ、その由緒由来というからには、対象の出自来歴の淵源を辿ることになる。

 カントさんは「人間の理性から直接導かれる道徳があるはずだという確信から出発」(1)したという。それを彼は「定言命令」と呼んでいるから、理性が直接命令すると考えている。そして「実践理性批判」では快や欲望からくり出されてくる「命令」は、「快のために・・・」「欲望を満たすために・・・」何かを行うというのは「仮言命令」だとして、理性の命令ではないと言葉にしたのであった。そしてさらに、「習俗や宗教といった特定のローカルなルールが道徳の源泉であると当たり前に考えられていた時代において、道徳を普遍的な視点から規定しようと試みました」(2)と「普遍性」を所与のこととして論展開をしている(上記の(1)(2)はマイクロソフトの生成AIcopilotの回答したもの)。

 だがなぜ「普遍」が所与のことになるのか、なぜ「人間の理性から直接導かれる道徳があるはず」と決めつけることができるのか。そこが私には、ワカラナイ。「ローカルなルールが道徳の源泉」というのを(専門家は)「倫理」と呼んで「道徳」特別するらしい。とすると却って、ワタシ自身の身の形成過程から考えると、倫理こそが身の無意識に刻まれたワタシの規範の源泉である。それがローカルのものではなく普遍的なことへと繋がるべきであるというのは、いろいろなローカルが交通し、ぶつかり合って調整が加えられ、その堆積から生み出されるものではないだろうか。

 80億人もいる人類からすると、80億通りの倫理が身に刻まれ、大雑把に国民国家的に地域分けしても200余のローカルがあり、それらが互いにぶつかり合って共有する「なにか」があるとか、「なにかがあるのがのぞましい」という観念が共有される。それが「普遍」だとすると、普遍というのは、永続革命の果てに夢見るあらまほしき姿である。悲願であり、それがある地は彼岸である。

 カントはその哲学を通して「神を殺した」といわれている。だが、キリスト教的な唯一神の幻影に呪縛されているように見える。そのカントさんからみると、ローカルなセカイで身に刻んだものを「仮言命令」と呼ぶかも知れない。だが、ヒトの生成と径庭を自然存在として考えると、世界宗教的な普遍性を彼岸において、でも間違いなくローカルそのものの人類史を歩む航跡こそが、身の心も一つにして生きている「人生批判」の視座なのではないか。

 ローカルこそが普遍というパラドクス。人の頭脳というのは、理知的に言葉にするから、パラドクスを生きることを必然としたのであった。 

2023年5月20日土曜日

専門家ってなあに?(2)わが実践人生批判

《市井で遣う「専門家」とは、「その道での知的権威」というほどの意味である》と書いた。これでは、随分補足条件が付く。「市井で遣う」場合って何か。「その道」って謂うのは、どのレベルか。

 こんなふうにいうと、どうだろう。空間に於ける自分の位置を表現するのに、住所表示で表す。路地や車道もあれば、大通りや幹線道路で道筋を説明することもできる。一丁目、二丁目という行政区画で示す方が判る場合もある。だが市町村単位とか都道府県という大きさが必要な場合もあれば、国民国家単位やもっと大雑把な広域地域を用いる方が歩いている道筋の研究対象によって有効なケースもある。つまりいつ、何処で、誰が、何のために、誰に対して居所を尋ねているのかによって、応じ方は異なる。「専門家」と呼ぶにしても、その人やその研究に、誰が何処に身を置いて「知的権威」を認めるかによって、流動的である。

 市井の民が「その道での知的権威」を認めるのは、その人の関心の在処と傾け具合に応じて、定めがたい。そう考えると、いかにも判った風に「専門家」ということばを遣うことが可笑しい。だが、時と場合と人とによって流動的である「概念」を、いかにも共有しているかのように用いることによって、ワタシたちの内心の多様性とか差異の些末にこだわらずに言葉を交わし、思いを交わしている。それが人なのだ。それが、言葉なのだ。

 ところが言葉を交わす毎に、その微細な違いを意識の次元で捉えることによって、みている世界の違いや拠って立つ感性や感覚の差異が浮き彫りになり、「違い」の次元が明らかになる。それは、人それぞれの感性や感覚、身に刻んできた無意識の壁がつくっているイメージや思索の次元の違いを鮮明にすることになる。それによって逆に、相互の意思疎通を深めることにもなる。神は微細に宿るというのは、こういう動態的事象をさしていると私は思っている。

 つまり市井の人の「知的権威」とそうでない人の端境は、制度化されている「肩書き」と違って曖昧模糊としており、「権威」という言葉に含まれる「上位-下位」の優劣すら分からないものである。市井の民は、知意識的な次元で「知的権威」に敬意を感じているとしても、実は市井の民の身からほとばしり出る言葉が知意識的な次元とは異なり血意識的な鮮烈さをもっていて、「知的権威」を揺さぶるということも案外多いものだ。

 人は、なぜジブンがそれに「権威」を感じるのか判らないままに、知的なものに畏敬の念を抱き、血的な反応に嫌悪を抱いたりする。そこには、社会的な制度とか時代的な気風の作用がある。それが言葉を覚え振る舞い方を身につける過程で、周りの大人たちから、あるいは同世代の取り巻く環境からいつ知らず伝えられ、わが身に刻まれてきている。

 だから、わが身そのものが、自分でもワカラナイ不可思議のセカイとなっている。それを解き明かす必然性は、人の暮らしにはないのかもしれない。その根拠が判らなくても暮らしていけるからだ。だが、わが身の裡の不可思議セカイを感じると、そこに人類史が堆積していると感じられる。わが身のそれは、仮令一端であっても、紛う方なく全人類史のひとつである。しかもそれは、人類だけでなく全生命体の歩んできた35億年の過程の集積的現在である。

 わが身の裡の不可思議を見つめる目が、ヒトがどこから来て何処へ向かっているのかを問う専門領域の「関心」と同じ知的興味につき動かされ、ひょっとすると同じ地平をみているかも知れない。そう思うと、ただ不都合なく暮らすだけではなく、ヒトが抱くようになった好奇心につき動かされてヒトのクセを精一杯発揮していってやろうじゃないか。それは面白そうだと、ワクワクする。これはワタシの現在。

 市井の民が「その道の知的権威」と地平を同じうするには、「その道」を「わが道」に位置づけることだ。先に、市井の老爺であるワタシは「人生80年の実践人生批判」を生きてきたといった。つまり当事者である。「わが人生」の専門家である。「人生批判」というと、人生に異議申し立てをするように聞こえるかもしれないが、そうではない。わが身の感性や感覚、好みや選好、思考・思索・判断が何を根拠にそうしているのかを考えること。つまりわが身の生きてきた形跡を振り返って、わが身の現在のそれらを対象として見つめ言葉にすること。それを「批判」と呼んでいる。そうして意識化することは、間違いなく当事者の、身に堆積した全人類史の探求である。

 こうして、当事者として位置づけたとき、門前の小僧は、ありとあらゆる専門家の知的好奇心の成果をわが身のこととして「研究」対象とすることができる。もちろん「専門領域」の境内からみると、ワタシのそれは門前の小僧の振る舞いであるが、でもそれによって怯むことはない。「わが道」としてはまさしくワタシが生きてきた「実践人生批判」として屹立するところだと感じているのである。 

2023年5月19日金曜日

専門家ってなあに?

 昨日の本欄、「専門学者たちは人の言説を一つひとつ住所登録しながら、歩一歩とコトを進めるから、つねに根拠に遡ることができる」と勢いに任せて書いた。だが、専門学者というのも、もっと子細に分けることができるし、誰が誰に「専門家」というのかと口にするのかも、組み込まなければならないと、友人の指摘で考えた。

 友人は「あなたは生徒の前で専門家でないと言えたのか?」と私に問うた。「もちろんそう問われれば、私も門前の小僧だと応えたであろうけど・・・」と応じて、そう言えば教室の生徒は私を知的権威とみていたなと振り返った。

 現役教師であったときの私は、「教師-生徒」関係が「指導-被指導」として成り立つためには「教壇の高さがなくてはならない」と象徴的に口にしていた。生徒が教師の権威を認めていなくては、生徒は授業の間机に付いていることができないからだ。でも子細に考えてみると、生徒が教師の何に「権威」を感じるかは、小中高という学齢によっても違うし、子ども関心の置き方によっててんでんばらばらである。

 だが概ね高校生ともなると、知的権威に関心を傾けてくる。教師が身に堆積してきた「知識」がそれ相応の言葉に乗せて繰り出される。日々積み重ねられ繰り返される知的資質を受けとりながら、生徒は教師のそれに権威を認めたり、逆らったりする。高校生と言っても、学校毎に通う生徒の知的関心の層は異なるから一概には言えないが、概ね私が身を置いた高校では私の「知性」に敬意を表してくれたから、先に述べたように「門前の小僧」であることを公言することはなかった。

 だがもし生徒が「先生は今教えている歴史の専門家ですか」と問えば、「いい質問だ」と応じて、門前の小僧だと思うに至ったワケを話したであろう。そう振り返ってみると、「専門家」というのも誰が誰にそう問うのかによって応え方は違ってくる。高校の生徒が問うのは「教科の専門家」であろうか。世界の歴史の専門家はすっかり地域毎、時代毎、あるいは政治や経済、文化などの主題に分節化されている。高校の教師は「世界史」という教科にするとジェネラリストである。世界の通史を総覧して紹介する。謂わば各地域の関係の変遷を大雑把に摑み、そこで展開された事実の由来と根拠を加味しながら観てきたように話す講釈師である。その段階では「知ること」、すなわち「知識」の多さが「知性」と受け止めている。

 だがそうした関連本を読んでいると、事実に関するデータの多さよりもその由来や変遷の推移をとらえる「論脈」や「歴史哲学」が底流していることに気づく。統治権力争奪の正統性をもっぱら記すのが「正史」の伝統であったが、視点を庶民に置いて記すとか、統治と反統治の争いという次元ではなく、人の暮らしの中で紡いできた習俗や風説、民話ということに焦点をあててその推移を目に留めるというのは、専門家ならずとも関心を傾けることができる。そういう人生観というか世界観というか、物の見方にかかわる視線の鋭利さを「知性」というのではないかと、「知識」からの離陸のときに感じていた。つまりそういう関心を持って人の辿ってきた航跡を眺めると、判らないことを知ることより、ワカラナイことを判ること、般若心経に謂う「無無明亦無明尽」こそが、知性の神髄であり、にもかかわらず生きている限り、知り尽くそうと関心を傾けることが知性の動態的在り様の正しさだと考えるようになった。

 言うまでもないが私は歴史を専門にしてはいない。入口としては経済学であったが、やはりそれも門前の小僧。哲学や倫理学、心理学や精神分析学などのどれもこれも入口ばかりを覗いて、境内に入ることなく市井の老爺になってしまった。人間論だけは身を以て踏襲してきたが、「人間学」と言えるような、古今東西の関連する知的蓄積を住所登録して歩き、その先の一歩を刻むというレベルにまで高めてはいない。まあ言うなれば「実践人生批判」を終生行ってきたと「イワレタイ」と、雨ニモマケズを気取って思っている。

2023年5月18日木曜日

生成AIは庶民

 生成AIの「進化」が著しい。わずか半年で一挙に広がった。検索から文章作成、画像や音楽に至るまで、プロの仕事を取って代わるかもしれないと弁護士や新聞記者、大学の教師らも、本気で位置づけを考えはじめている。新聞もTVの番組も、この生成AIをどう使ったら、人間の下僕にしておけるかを検討しているように見える。

 レイ・カーツワイルが、AIが人間を超えると2045年のシンギュラリティを提起したのは(調べてみると)2005年、それを10年ほど遅れて私たち庶民が耳にし、コンピュータが人を越えると言ったって所詮人工物の範囲じゃないかと、人の知恵を最高位に置くことにためらいはなかった。ところが、2045年より20年以上も早く、生成AIが人並みの言葉で当意即妙に応答する。レスポンス(応答する)というのがレスポンサビリティ(責任)の語源と思っていたが、この生成AIはもちろん責任はとらない。今日(5/18)の新聞でもこう書いている。

《回答する過程がブラックボックスで、なぜ間違えたのかわからないという問題も残る》

 なんだ、これって、私たち庶民と同じじゃないか。私らも、なぜ自分がそう感じ、そう思い、そう考えるかを、いちいち根拠を明らかにしているわけじゃない。

 専門学者たちは人の言説を一つひとつ住所登録しながら、歩一歩とコトを進めるから、つねに根拠に遡ることができる。実際、引用の出典を明記して先へ進む。だが私たち庶民はことごとくについて門前の小僧。井戸端会議であり、世間話。耳学問、流言蜚語の吹き溜まり。何時、誰が記した何からの引用なんぞはどうでもいいじゃないのと、気に入ったことを身の裡で繋いで、自分の思いや考えを繰り出している。

 言葉で言えば、ワタシはブラックボックス。生まれおちて後の人類史的に遭遇する環境のことごとくを身の裡に堆積させ、その感性や感覚、好みや危険察知感覚をベースに、世界を感知する「こころ」に集約し、言葉にして日々おしゃべりに興じている。大宇宙の向こうの方と同じように、身の裡のブラックボックスは、ワカラナイ不思議世界だ。

 とすると、生成AIがブラックボックスだと誹ることはない。ふつうの庶民と同じ、ただ、当意即妙であることが、いかにも「物知り顔」をしているから、ついつい騙されてしまう。これも、TVに登場するコメンテータと同じようにみていれば、いいじゃないのと思う。たしかに入力されたことは忘れないという才能は、動物的である。それらを総合して繰り出してくるというのは、いかにも優秀な人間のようである。だが、全くの刷り込みによると考えると、情報統制された北朝鮮の人たちとか、厳しく制約されたロシアの人たちと同じ「可能性」もありうる。オレオレ詐欺の番頭が仕込んだ生成AIだと、案外上手く行くとほくそ笑んでいるかもしれない。驚くことじゃないよね。

 ヨーロッパ各国が生成AIを禁じたり、制約を国際的に取り決めようというのも、大雑把にみていると随分せこいことを考えてるんじゃないかと思えてくる。そもそも知的所有権というのを勝手に決めて、おカネがなければ使えなくなったというのも、可笑しい話だ。別に中国の肩を持つわけじゃないが、もし知的所有権というのなら、先ずヨーロッパは、羅針盤や印刷術や火薬の使用権をきっちり払ってから、云々しなさいよと思う。

 日本だってそうだ、って話をどこかで聞いたことがある。日本が中国に知的所有権の話を持ち出したら中国側から、漢字の使用権はどうするの? と問われて、沈黙したって、落語のような遣り取りだった。

 ヨーロッパが知識人を上位においている。これも権威主義じゃないか。中国の権威主義的資本主義をリベラル資本主義が批判しても、私たち庶民からすると目くそ鼻くそを笑うような話だ。似たり寄ったり、科学技術という人類史的成果に特許権という制約を掛けて、カネを支払う特定人類しか使えないようにしてしまった。それでいて、環境破壊だ、気候変動だと、あたかも人類全体が罪深いことをしているように言うのは、ちょっと違うんじゃいかと、ワタシのヒト感覚は訴えている。

 そうやって考えてみると、生成AIは、やたら記憶力がよく、情報総合力のある庶民の一人ってことじゃないか。なんでそう考えるの? って重ねて根拠を問うと、どう応えるだろうか。ブラックボックスです、って言うのだろうか。

 マイクロソフトのAI、copilotに問いかけたことは先日記した。「あなたは経済の専門家です。失われた三十年を回避するために行うべきであった構造改革とは何でしたか」と問いを投げかけると、「私は専門家ではありませんが・・・」と始まる回答が打ち出されて感心した。謙虚だからというのではなく、いかにも耳学問で情報を収集総合した庶民ですって感触が、よく出ていると思ったわけ。それにこの生成AIには、読み込んでいる情報の出典(?)が、「日経デジタル、プレジデントonline、yahoo」などと表示されていた。たいしたものだ。

 面白いのは、問いかけるとすぐに応える。さらに問いを重ねると、それにも応じる。この遣り取りは、まるで人と言葉を交わしているように思える。ワタシの狭い世界にどんどん嵌まっていくような危うい感触と狭い世界を開いていくように見える生成AIの情報収集範囲が、アンビバレンツなワタシのセカイを表しているようで、面白いと感じているのかもしれない。まず自問自答する自己対象化の作業が唯一生成AIに勝るワタシの取り柄ってことかもしれない。

 生成AIと付き合うには、思考スタイルの違う市井の若い庶民と話しているという距離がいいのかもしれない。

2023年5月17日水曜日

日本の『失われた三十年』から何を学ぶか(2)日本経済の構造転換って、なあに?

 2023/05/11のブログ記事に続けます。バブル崩壊に際して行うべきであった日本経済の構造転換とはなんでしょうか。マイクロソフトの「AI を利用した Web向け copilot」に再度こう訊ねると、日経電子版やプレジデントonlineなどを参照して、こんな応えが返ってきました。


Q:あなたは経済学の専門家です。失われた三十年を回避するために1990年代以降に日本が行うべきであった構造改革とはなんですか。

A:経済学の専門家というわけではありませんが、失われた三十年を回避するために日本が行うべきであった構造改革について、私なりに説明してみます。

  失われた三十年とは、1990年代以降、日本経済が低成長に陥り、国際競争力や生活水準が低下した期間のことです。この原因は、バブル崩壊後の金融危機や不良債権問題、少子高齢化や人口減少、グローバル化やデジタル化に対応できなかったことなどが挙げられます。

  日本が行うべきであった構造改革とは、経済の活力を取り戻すために、市場の自由化や規制緩和、イノベーションや新産業の創出、社会保障や税制の改革、教育や人材育成の強化などを行うことです。これらの改革は、企業や個人の競争力を高めるとともに、経済成長を持続可能にすることを目指します。


 見事簡略にまとめています。これについては、4/11に私が皆さんに送った「2023年5月28日(日)第傘期 36会seminar のご案内」に対するオオガさんからの返信が、さらに広く現情勢を捉えて的確に検証するようです。まずそれをご紹介します。

***

 フジタさん/4月13日

 返事が大変遅くなって申し訳ありません。桜もすっかり萌葱色の葉桜となって、小庭の草木も冬を完全に征服したようです。夜は8時を目処に布団に入り、自然の夜明けに目を覚まされています。今朝5時の空は黄砂の影響が明らかでした。北京の空は日本の比でなく、孫の学校は昨日は休みだったそうです。

 フジタさんが出状したメールにトキさんやkeiさん等の返信が早速あったようで、当然、皆さんはフジタさんの至誠を判ってないはずはありません。トキさんの少しはにかんだ、申し訳なさそうな福顔が思い浮かびます。ミヤケさんから連絡がないのは気になりますが、暫くは、会合のあり方は変わろうともフジタさんに頑張ってもらわねば、会の品格?を損ないかねません。

 フジタさんから戴いたメールに対して、小生の異見はほぼありません。特にパンデミックは「天啓」と受け止めるべきとは全くその通りだと思います。このことを前提に、keiさんの素朴で至当なご下問のGDPについては、(たかがGDP、されどGDP)と考えることが大切だと思います。<うちらあの人生わいらあの時代>は戦争中の艱難辛苦を実感することもなく、戦後の高度成長期―バブル期とその崩壊に至るまで、分厚い中間層の真綿の中で、総じて心地の良い人生だったと言っていいのではないでしょうか。旧ソ連の脅威の無くなった世界に後進国であった中国をILOに引き入れ、正しくアメリカ一強の完成を図ったものの、裏目に出て鬼子を世に放ってしまうことになってしまいました。その中国が「中進国の罠」から抜け出ることができないままに、インドに人口で抜かれ、高齢化も進み、多分中国はアメリカをGDPで追い抜くことはなくなったでしょう。アメリカが世界の警察国家の旗を降ろし、中東を中心に世界が流動化して、いまや「サブサハラ」の国々も纏めて「グローバルサウス」なる是々非々の第三勢力の中心がインド。このインドはかっての宗主国である英国を22年にGDPで抜き去り、ドイツに次ぐ世界で五位となった。27年には日本、ドイツをも抜いて三位になることは確実。勿論人口が全てではないが、大きな要素であることには変わらない。くどくど記しましたが、GDPは日々の生活実感に直結はしないが、激動の時代にその中身を冷静に解剖しておくことは、次世代にバトンを渡す傘寿世代には欠かせないと思う。GDPは経済活動の結果の数値化であったとしても、弾け散るその中身は社会保障、安全保障、少子化対策、国土強靱化、エネルギー問題、文化、科学技術、等々日本人として生きてゆくあらゆるテーマに直結する。

 フジタさんの言われる資本家社会的市場経済は終焉しないでしょうが、特に日本においては経済社会構造のパラダイムシフトを指向する必要がある。サービス業も製造業も労働生産性を上げて、一定のインフレに耐えうる労働分配率を高めてゆくことは必要不可欠です。同時に今更ブータンではないが、日本の芳潤な伝統を活かし、日本に相応しいQOLを確立したいものです。

 フジタさんの言われるポストコロナ世界において、コロナを天啓として受け止め、この次世代に引き継ぐ<うちらあの人生、わいらあの時代>が今やるに相応しい36会を創り上げてください。名古屋の田舎から勝手放題を申しました。言い足らない点もありますが、関東の黄砂を気遣いながら、自愛されますように念じています。 オオガ記

***

 オオガさんが(たかがGDP、されどGDP)と記したGDP。その一角を占める規制緩和やイノベーションについて、PRESIDENT Online(2023/05/15)の記事が目に止まりました。湯之上隆《技術者が「日本の半導体の凋落原因」として国会で陳述したこと》。筆者は1980年代に日立製作所において半導体の微細加工技術開発に従事していたが、日本の半導体凋落に伴って退職し、同志社大学の専任フェローとして研究生活を送ったのち微細加工研究所の所長を務めていて、一昨年国会に呼ばれて意見を聞かれた専門家。半導体については、中国との取引に関わる半導体のサプライチェーンの再編が政府で取り沙汰され、台湾企業の鴻海が熊本に工場を設置し、政府が何千億円かの支援をするとなっている。その前段の国会の聴聞でした

 子細はこの人の著書を参照して貰いたいが、彼が退職することになった日立製作所時代の半導体製造にみる「ガラパゴス化」が表現されています。世界の半導体生産に於いて当時、日本企業は世界トップ10社の6社くらいを占めていた。今は1社だけ。日本企業の半導体は大型の汎用コンピュータ用の半導体で耐用年数が25年と際だっている。ところが世界の趨勢は80年代半ば頃からPCの大量生産時代。耐用年数が5年ほどの、安く手軽に製造できる半導体に席巻された。なにしろ年々加速度的に技術が更新される世界。耐用年数が長くても、それを搭載する機器本体の更新速度が速いから、25年もの長期物は無用の長物となります。にもかかわらず、「世界に誇る技術」を切り換えることができず、日本の半導体生産は凋落していったというのです。この辺りは、半導体生産にかかわっていたと思われる、ツナシマさんやマサヒロさんに伺ってみたいものです、

 先のブログで紹介した岩崎博充の記事「日本人は「失われた30年」の本質をわかってない)」(2020/01/26東洋経済online)は、

《構造改革に対して消極的であり、積極的な研究開発に打って出ることができなかった。/日本はある分野では、極めて高度な技術を持っているのだが、マーケティング力が弱く、それを市場で活かしきれない。過去、日本企業はVHSやDVD、スマホの開発といった技術革新では世界のトップを走ってきた。しかし、実際のビジネスとなると負けてしまう》

 と経営面の弱さ、新しい趨勢を読み取る戦略的視野に欠けると指摘する。

 加えてそうした企業経営に補助金を出して、当面している問題を先送りする政府の業界支援策。株式市場には「PKO(Price Keeping Oparation)相場」という言葉があるそうな。政府が補助金で株価を保持することを揶揄する響きを(私は)感じるが、相場師たちがそれを揶揄っていたのかどうかは分からない。政界・財界・官僚が現状保守のスクラムを組んで、新しい芽を摘むことさえやってきた。それをガラパゴス化と呼んでいる。私には「島国根性」の代名詞のように聞こえます。

「日本の科学技術力も1989年前後には世界第3位だったのだが、2015年にはすでに第9位」と岩崎は指摘しています。別のonline記事では、「既得権益を守るために、IT乗り換えを潰した」とする事例が紹介されていました。ひとつは、堀江貴文のライブドアがフジTVやソニーの買収を企図したこと。それを政府、財界が寄ってたかって潰ししてしまったと。そう言えばホリエモンは、何かの会計不正で逮捕拘留されたんではなかったか。「もし(フジTVやソニーを任せていれば)ホリエモンなら、netflixやiphonの対抗機種をつくれていたかも」と期待を持ったことを記しています。あるいはまた、Winyという音楽や映画を無料でダウンロードできるソフトウェアの技術を開発していた金子さんという天才のことを述べている。「P2Pという技術、SkypeやBitcoinに使われている」技術だそうだ。その金子氏を微細な案件で逮捕して、これも潰してしまったと記しています。この真偽は検証していないが、なるほどそうまでして業界と現体制を護ろうとするのはよくある話とこれまでの長い政財官界史を振る返ると思っています。

 鋳物の鋳造に携わってきたイセキさんがseminsrで見せた「こだわり」に感じたことを記したことがああります(2021-8-21「36会第二期第12回seminarご報告(5)大自然への敬意が消えていた」)。そのとき私はもっぱら「自然」との関係で、彼の述べる「鋳物工業」を考えていたのだが、チラリと彼が零した言葉が頭の片隅をよぎりました。

「安けりゃいいっていうけど、どれほどの技術がその製品に籠められているか(発注元の大企業にも)みてもらいたいんだよね」

 そうなんだ。日本経済風土は、すっかり資本家市場経済脳になってしまっている。経世済民という語源の清新はどこかに吹っ飛んでしまった。そこそこ豊かな暮らしをしているバブル遺産の食い潰し世代は、それを忘れていますね。経済計算だけをして、技術もそれを担う技術者をも、海外へ駆逐するか、列島から消滅させてしまうっていうのは、「教育は百年の計」ということに相反している。だがそういうモンダイを誰も考えていないってことを慨嘆する言葉であったと、今思います。

 keiさんが「どう私たちの暮らしに関係してくるの?」という問いに応えるまでには、まだまだ距離がありますが、「失われた三十年」の日本人の体質には、だいぶ迫っているんじゃないか。やっぱり「日本人の不思議」と改めて思う次第です。

2023年5月16日火曜日

特別扱い

《外国人も「特別扱い」しない》と一面トップに大見出しをつけた記事が載った。朝日新聞(5/14)の1面と2面を使った「多民社会tamin shakai」という企画記事。群馬県大泉町にブラジル人を受け容れ、後にベトナムやネパール、アジア出身とその家族も加わり、今人口4万人の2割を占めるという。1万人ほどだ。「お隣の群馬太田市にも1万2千人の外国人が暮らす」とある。こちらの市は人口が22万人だから、比率でいえば5%というところだが、日本全国の2%に比べると各段に多い。大泉町はヨーロッパとほぼ似たような様相と言えようか。その大泉町の取り組みや抱える「共生模索の35年」を追っている。そのリードに「数年後には人口の1割になる」と、日本全国の問題として取り上げる記事。つまり読者であるあなたも当事者よって呼びかけている。

 これはseminarが2月来取り上げてきた問題と重なる。BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」として提起したのも、なぜ日本人はガイジンを「特別視するのか」が発端。それに対して大泉町は「特別扱い」しないと臨んでいるという。だが、やっていることには、文化の違いを解消しようという細かい尽力がみられる。ゴミ出しのルールの外国語表記や日本語教育に力を入れ、「言葉が通じれば本人の努力で道が開ける」とみる。つまり「特別扱いしない」ということは、「特別に意識して気を配る」ことを介在させる。労働力としてガイジンを擁している企業も、一緒に交流するイベントを催して人々が言葉を交わし、文化の相違を身で感じる試みをしている。この経由点の、行政や企業や地域活動家の「特別に意識する」が実は、「外国人に適応を迫る」というだけでなく、在住している日本人も(外国人に)適応していく努力を必要とすることを意味している。

 従来、郷に入っては郷に従えと思ってきた。異質なガイジンを鬼神のように受け止めてきたから、何かワルイことが起こると異質なものの闖入によって引き起こされたと考えるのは、原始時代のセンスをそのままナイーブに押し出すだけ。畏れ敬うという次元を「振る舞い方の作法が違う」と受け止め、その違いを補正して行くには、これまでの伝統社会が保持してきた以心伝心の方法では上手く行かない。文化・振る舞いの違いを言葉にし、遣り取りを交わす場を設定して、ぶつけ合う必要がある。

 実は日本人どうしだって、そういう問題を抱えている。大雑把に言うと、伝統文化は気心知れた空間に住まう(立ち居振る舞いや作法を共有する)人たちが、(個々人の差異は当然にしてあるものだから)互いに頃合いを測りながら差異を察知して振る舞い方を調整する作法であった。大相撲の立ち合いのようなものだ。何度も仕切り直しをし、呼吸が合った所で立ち合いが始まる。

 苦言も直に言えば角が立つという伝統的対人作法は、それに相応しい場が設定されなければならないことを意味している。苦言を言い交わすということは、それに対する審級者を必要とする。身分社会の場合は、お上がそうであったし、街場に於いては長屋の大家がいなくてはならない。四民平等となった平場ではどうであったか。あるときまでは亀の甲より年の功が効き目があった。そう言って考えてみると、このあたりまでは権威主義社会であった。お上とか、大家とか、年の功と謂う権威が共有されていたから、そこにいる人達が審級者となって場をつくり、争い事を始末してきた。だが近代の民主主義社会は、その権威も取っ払ってしまった。

 近代というのは、そもそも異質な人たちが空間を共にして構成する社会である。狭い「くに/郷里」を出るだけでも文化作法の違いに驚いていた。近代社会になって列島中の人々の往き来が激しくなった。人々の気質も考え方も変わってきた。そこへさらにガイジンが参入する。呼吸を合わせて立ち合うという作法さえ知らないものがいても不思議ではない。

 さらにこんなモンダイもある。近代が進んだ都会地となると、法的規制が唯一の共通言語のようにみなされる。ゴミや騒音に問題を感じてお隣に注意をすると、逆恨みの逆襲を受けたという事件も起こっている。その発端は、どこにそういう法的規制があるのかということから始まっている。私有権では片づかない。「迷惑条例」を設える。でもそれに強制力が伴っていない。罰則が付いていても、お役所がそれを発動しない。発動しても、軽微な罰金だったらそれを支払っても、条例違反をして稼ぐ方が得だと居直る人もいる。政治家をみていたらよくわかるが、法に反しなければ何を非難されることがあるかと居直っている。あれが、他者モデルだ。

 争い事を街場で始末するには審級者がいるが、かつての長屋の大家は、いまや物件の所有だけ。お上は上意下達の機関としての町内会を利用するばかり。強制力はマイナンバーカードにしてから発動しない。ポイントでおカネをもらえるならマイナカードを登録しようかと欲得尽くで誘うだけ。国民の品性を落としている。国家がマイナンバーカードを使って一番有効に作動させたい収入の全量把握の、一番のターゲットである富裕層の人たちは、3万円程度の端金には目もくれない。やっと最後の切り札で「義務化」などと言いだしている。でも行政実務がお粗末で信頼性が全くない。使うにはつい腰が引けてしまう。事ほど左様に、日本の国家権力は富裕層に遠慮がちである。それに似通った地方政府が、強制力を発揮する力も持たされず、時と場合と人を見て居丈高になったり、知らぬ顔の半兵衛を決めこんだり、モンダイを先送りしてしまう。街場の異質さの争い事の場もつくらず、始末もできない。これって、法治国家なんだろうか。

 町内会も古くさいお祭りなどは仕切るけれども、新しく参入してくる市民に対しては、旧来の慣習に馴染んでくれと、空間占有の優先権を主張する。新規参入してくる方が「郷に従え」という。自分たちが変わろうとはしないから、揉め事の仲裁や調整には役に立たない。当然ギスギスする。町内会はお上の権威を背景に、「市町報」配布の下請けをしているだけだ。

 機能的な人と人との社会関係には、法規制以前に言葉を交わし差異を調整していく当事者としての関係がなくてはならない。それがコミュニティってものだ。どちらがイイかワルイか以前に、互いに言葉を交わして心地よく暮らして行くには、法的な規制に沿っているかどうかよりも、互いにどうしたらいいかを共に考えていくスタンスが必要なのだ。その場をつくるのがコミュニティである。

 以心伝心は、その気風がいわずとも共有される時代の言葉である。暮らし方が多様化し、人それぞれの好みが押し出されて当然という社会規範の社会では通用しない。バブル時代を経て豊かになった所為もある。共有していたはずの気風は雲散霧消した。そこへ労働力不足という産業社会(富裕層)からの要請もあって、ガイジンを入れざるを得ない。あとはでも、各自治体で頑張ってねというだけの国策では、奴隷労働じゃないかというガイジン労働者への非人間的な扱いが起こるのは当然と言えば当然。

 明治維新から155年にもなる。敗戦から77年にもなる。一億総中流も経験した。食糧ばかりか日用品まで海外製品に依存する暮らしをしている日本人が、相変わらず人見知りをして内気に閉じこもるのは、不思議である。それならブータンみたいに辺境の地にあってほとんど制限的にしか人の出入りがないような「国」にしてしまえばいい。ブータンは、経済的な発展と豊かに暮らすことのズレを意識して、対外的な交通を制限している。

 それなのに、インバウンド観光客の増加に期待を寄せ、大谷翔平の活躍をまるで日本人の誇りのように伝える。だったらいい加減日本人も、ガイジンという言葉を取っ払うほどに「文化大革命」をしてみなさいよと思ったりもする。それの第一歩は、自分たちの文化を一つひとつ対象化して、遣り取りする場を平場に設けるしかない。私が今手がけているseminarがその一つだと思ってきた。だが、先月から書き散らしているように、傘寿を超えた年寄りには、もう無理だとワタシは見切りをつけている。

 それともこれって、戦中生まれ戦後育ち世代特有の「国民性」なの?

2023年5月15日月曜日

選択的耳働き

 四国のお遍路をしていて国道や県道を歩くことが9割ほどだった。後の1割が遍路古道といわれる昔ながらの遍路道。大雨などで道が崩れて「通行禁止」になった古道もあった。あるいはトンネルが抜けるようになって古道はすっかり遠回りとなった所もある。標高差をクネクネと曲がって上り下りする車道をショートカットする古道もあった。それもしかし寂れ、うっかり入口の案内標識を見落とすと車の通る脇を歩かなければならなかった。案内標識があったからといって、そちらに入るとトンネルではなくその上の山を超える古道に入ってうんと遠回りになることもある。かと思うと、古道は尾根の向こう側にある次の札所に着くのに、車道を行くと山裾をぐるりと回り込んで3倍も遠回りになる。この見極めはネットで取得した地図では分からない。地理院地図をスマホに取得してルートをチェックしながら歩いているお遍路さんもいた。なるほどこうすると、「遍路道保存協会」の設置している標識が距離と静けさを示すガイドになる。

 できるだけ静かな道を歩こうとは思う。だが、毎日平均30kmで遍路プランを立ててあると、山道の古道に踏み込むには、それがどれくらい遠回りになるか摑んでおかないと、予約した宿に辿り着かない憂き目に遭う。中には徹頭徹尾遍路古道を歩く人もいる。こういう人は野宿をしている。古道には「遍路休憩所」と名付けた東屋が設けられていたりする。トイレもあり水も確保できる。風は吹き抜けるから、東屋の中でツエルトを被ったりテントを張ったりする。安上がりに遍路する若い人には有難い施設である。

 傘寿の私には、もうとてもそのような歩き方はできない。車道を歩く。それでもできるだけ静かな方がいいから、少々遠回りでも新しい道路よりは旧道を選ぶようにした。当てにしていないが、お遍路カフェもそんな道沿いにあったりして、面白い話が聞けたりする。とは言え、国道や県道の主要道を歩くことが多く、狭くとも歩道があれば有難く、ない所は道路脇に必ずつくられている排水路の蓋の上を歩く。時々感じる身の危険には、すでに触れた。でもそれ以上に「音がうるさくなかったのか」と聞かれた。

 それを振り返ってみると面白いことに、騒音にはすぐに馴れて、気にならなくなった。車の走り寄り走り去る騒音を、耳が危険を含めて取捨選択しているかと思うほど、気持ちにとどまらない。車自体もトンネル内のトラックとすれ違う危険を感じるような場合を別とすると、ほぼ意識に上げることなく、身の判断に任せてやり過ごしていたと思う。これは、耳の働きではないか。環境のすべてに意識を向けることなく、重要度というか必要度に応じて意識外へ追いやって、肝腎なことに気持ちを集中できるように働いている。有難い耳働きである。

 これが、家へ帰ってきてからの日常に生きていると思うことがある。私はいつごろからか、もうずいぶんになるから忘れてしまったが、リビングの広い食卓の半分くらいを占めて毎日パソコンに向かっている。十年以上にはなる。それ以前は私の部屋に籠もっていた。そうだ、2011年の3・11のときはその小部屋でPCに向かっていや。ぐらぐらっときて、本棚が倒れたらこれは大変だと部屋の入口に立って様子を窺ったことを覚えている。

 以来リビングで過ごしている。週に2日くらいは向こう側でカミサンがTVを観ている。ときどき「うるさくない?」と聞く。五月蠅くない。ボーッとドラマの筋を追いながらPCを打っていることもある。でもPCで書く中身に気が向かうとほとんどTVの音は消える。もちろん遍路の騒音よりこちらが先だった。こうした日常が十年ほど続いていたから車道歩きの音も気にならなかったのかもしれない。耳働きを鍛えていたってわけか。

 あるいはこうも言える。山歩きを瞑想と同じだといつか言ったことがある。意識は鮮明。足元の凸凹や岩場の足の置き場、手指の摑む所などは一つひとつ、本当に一挙手一投足の動きに気持ちが集中している。だがそこに、外のことは入り込めない。雑念を抱きながらそういう所を歩くと、ホントに思わず知らず転落することになる。そうして歩いていると、あっという間に時間が経ってしまう。2時間も3時間も歩いて、えっ、もうそんなに時間が過ぎているのかと気づいたことは何度もある。これは俗にクライミング・ハイとかウォーキング・ハイと謂われる状態ではないかと思うが、私はそれを瞑想だと思ってきた。

 集中していると、時間はすっかり空間に吸収されてしまう。もちろん躰のつかれも、その間は感じていない。それがあるから、すぐまた山へ行きたくなるのかもしれないと思ってさえいる。

 こうしたウォーキング・ハイの身の習いが、若い頃から積み重ねられ、仕事を辞めてからことに、時間の制約抜きに放浪するような山歩きをしてきたことで、耳働きまで鍛えていたってことじゃなかろうか。いや、うれしい発見であった。危険の感知さえも身の習いにできれば、もっと過酷な環境に身を置いても、生きては行ける。いまさらそんな必要も覚悟も要らないけれども。野宿のお遍路も、あと十日ほどのフィナーレを飾るには面白いかもしれないと思ったりしている。

2023年5月14日日曜日

ショータイムということ

 東京ドームへ「巨人-広島戦」を観に行った。雨の中、三々五々というより駅出口から列をなして押し寄せる。まだ試合開始の1時間前。知り合いから観戦チケットをもらった。カミサンは生憎、軽井沢の探鳥会の予定と重なった。探鳥地が雨になれば東京ドーム、と様子を窺っていたようだが曇りと分かって、私が友人と行くことになった。

 西武ドームの西武―阪神戦を観にいったのは、いつであったか。交流戦だから6月になっていたと思うが、西武ドームの屋根と壁の広い隙間から吹き込む風が冷たく感じられた。三塁側阪神ベンチの上の辺りにあった席で、ファール玉が飛び込んできやしないかと気をもみながら観戦した覚えがある。その時は明らかに試合を見に行っていた。

 ところが東京ドームは、試合の勝敗は二の次、ここに身を置いていることが面白いという雰囲気。まさしくショータイムであった。これは、何が違っていたのだろうか。

 試合は延長12回にもつれ込み、試合開始の14時から19時頃まで5時間以上をすごして飽きもせず、面白かったねえと話ながら地下鉄に乗って帰宅したのであった。巨人の逆転サヨナラホームランで終わったから巨人ファンは大喜びであったが、私は面白い試合を観たと思っていた。相棒は広島の出身。チケットの席は巨人ファンサイド。

 チケットには「ロイヤルウィング・バルコニー席」とあった。相棒が事前に調べた所ではと話してくれたことだが、年間契約になっているロイヤルの中央部席は300万円、一塁ベース辺りまでと、内外野を分けるポール辺りまでと230万円、170万円とランクがあるらしい。巨人のホーム戦は年間65試合だから2席セットのその料金は46000円ほど。貰ったというが、外野寄りのバルコニー席だって1席13000円ほどだよと驚く。ワンドリンク付きのビールが一杯では終わらなかったのは、貰った席料が無料ってこともあったかもしれない。

 バルコニー席からは球場全体が見渡せる。55000人定員のドームの特定箇所の席を除いて概ね埋まっている。声援も鳴り物も制限解除になったから応援はラッパも含めて賑やかである。それ以上に、外野席の上を覆うディスプレイとその音量は、音というよりも響きである。ずんずんと躰に伝わって身の奥底から会館が引き出されてくる。何日か前に観た映画館に感じた快適さが甦る。そうか、映画館も、あの画面、あの音量、あの響きがともなって感じられているのだ。野球も、同じ。全体が見渡せる高見から観ているのはベースボールゲームに違いないが、それにまつわる声援、選手の一投一打、捕球と送球、走塁とアウトセーフの判定など、進行する一挙手一投足に5万近い観衆のあげる溜息や応援、ときに一瞬の静謐。これらの間を埋めるように、ディスプレイ画面が移り変わり、繰り返され、大声のジャイアンツ応援のメッセージが流される。

 西武ドームで何年か前に観戦したのは、間違いなく野球の試合であった。派手な解説もなかった。だが東京ドームは、野球ゲームを観ている人たちが参加するショータイムとして構成されたエンタテインメントである。そう思うようなつくりであった。

 観ていて、私自身の野球を見る目が変わってきたのかと思うような気もした。どちらが勝つか負けるかはどうでも良い。選手のプレイの動き、身のこなし。優れた体幹の俊敏な動きが球を捕り傾く躰のままに送球してアウトを取る。見事なファインプレイ。かと思うと、駆け込んだ一塁がセーフとなったのに対するビデオ判定の要請。その瞬間の内野手のベースタッチと打者の駆け込みのどちらの足が早くベースに着いたか。繰り返されるビデも画像。ほんの一瞬早く野手の足が着いている。塁審のセーフの判定が覆る主審の手が上がる。途端に湧くわーっという声援。ゲームの進行にかかわるきわどい動きばかりではない。イニングの変わり目毎に位置に着く野手が、キャッチボールを何度か繰り返す。それが攻撃イニングに動かなかった躰を緩やかに動きモードに変えていく、身体技法のようにみえてきた。

 これらも、ご贔屓チームかそうでないかと敵味方分類をしてみていた野球ゲームを、明らかに人の身のこなしとしてどれほどの水準に達しているかを観て愉しむというレベルになっていると、後で思った。これは、近頃の大リーグ中継TVの大谷効果とでもいおうか。解説の仕方が、ゲームの勝敗はそっちのけにして大谷の振る舞いや選手としての身のこなし・技法に関心を向けていることに影響されているのかもしれない。

 地下鉄で帰る途中、乗り継ぎのホームに広島ファンのシャツを着た5歳くらいの男の子と8歳くらいの姉を連れたお父さんがいた。「残念でしたね」と挨拶をすると「いい試合でした」と返ってくる。男の子が広島の一番バッター菊池の赤シャツを着ている。「菊池のファンなんだ」と声をかける。「打てなかった」とチャンスにヒットが出なかったことを口にする。「でも2安打もしたじゃないか。よく打ったよ」と慰めて別れた。この子たちの目も、変わってくるのだろうか。

2023年5月13日土曜日

相変わらず

 公安委員会から「お知らせ」のハガキが届いた。運転免許証更新に必要な「認知機能検査」のお知らせと表書きしたある。圧着したあるページを開けてみると、《集合日時、検査場所、検査手数料、持ち物など》が記されている。

 相変わらずだなと思う。毎日が日曜日のような私でも、このところ飛び飛びであるが「予定」が入っている。来週だけでも、野球観戦、歯医者、ワクチン接種、勉強会、ストレッチ、知り合いの来客と6つも入っている。もちろん一つひとつは短時間で済むこともあるが、勝手に変えられるものではない。それなのに、「○月○日○時○分、○○警察署に集合」と決めつけてくる。呼出状だ。「免許」を授けているという居丈高な姿勢が相変わらず「お上」だなあと思わせる。そう言えばドラマでも、「公安」というのは「刑事捜査」を問答無用で押さえつける役回りをしている。絵に描いたような「お上」である。

 国土交通省の退職上級役人が民間の事業に天下りすることを相変わらずやっていて、組織ぐるみだと新聞が報じている。報道は「公務員法違反」と言っているにもかかわらず国土交通大臣は「違法とは言えない。再発防止に努める」と平身低頭だ。与党の傍流政党の大臣だからなのか、イヤそうじゃあるまいとわたしら庶民は心裡で読み取っている。彼らは、相変わらずなのだ。彼らだけではない。私らも相変わらずなのかもしれない。この相変わらずが積み重なって(無意識の)身の習いとなり、変化が必要な状況に接しても身を固めて縮こまってしまう。

 そうだ、これだ、と思った。失われた三十年の「日本人の不思議」は、相変わらずを心地よしとしてきた日本人の無意識が、ガイジンに対する斥力を強く働かせ、見知らぬ都会人が移住してくるのを「都会風を吹かすな」ととらえ、抑も1980年代の経済隆盛の折にも科学技術の振興には力を入れたものの、その基底部分を大きく培う所へまでは思いが及ばず、1985年のプラザ合意で(アメリカからの要請に応えて)円高ドル安へ舵を切り替えるときにも、じつは産業構造を高度消費社会向けに切り換えていかねばならないのに、一つひとつの産業部門への補助金とか融資とかでジャブジャブと資金を投入できるようにして、構造転換を図るのではなく、延命措置を施す。結局遊ぶ資金を不動産に向け、バブルの崩壊を引き起こした。これも、「相変わらず」のなせる業であった。イヤそれ以上に、、そういうことは当時から指摘されていたのに、政界・官庁・産業界の鉄のトライアングルが「相変わらず」のまま出合ったが故に、ますます狭い状況適応的・場当たり的な弥縫策を講じて問題を先送りするだけになってきたのではなかったか。無責任の体系と丸山真男に言わしめた日本組織の特性が、本当に身に染みこんで抜けなくなっている。一人一人が、その構造の下で無意識に染みこませて人柄を形成するから、それが何世代も通じて国民性になってきた。「お上」のすることを「しょうがねえな、奴ら」と思いながらも、直にワタシに振る掛かる災厄になるまでは、「知らぬ顔の半兵衛」を決めこむ。それが庶民ってものよと気取っている。気が付いたら傘寿になってわが身を守るのに精一杯。後に続く世代に全部ツケを回してしまうことになった。「後は野となれ、山となれ」って、山歩きの好きな私ならそれでも構わないが、子や孫に山で暮らせ、海で生きよとは育ててこなかった。

 そう考えてみると、山で暮らし海で生きるとは、ワタシたちが子どもの頃に見た風景ではないか。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と言ったこと、そのものではないか。「帰れない山」のブルーノが「山で牛を飼って暮らしたかっただけなのに」といったのと、同じではないか。ワタシたちはそれを忘れて、別の夢を見て走っているんじゃないか。目を覚ませと、コロナウイルスが呼びかけ、異常気象が扉を叩き、失われた三十年が如実となって人類史に問いかけている。そう思えてならない。

2023年5月12日金曜日

日本の『失われた三十年』から何を学ぶか(1)先ず指標の確認

 3月seminarの「日本人の不思議」が不評でした。参加の皆さんの関心外であったようだ。それについてこの欄の2023-03-28の記事「seminar進行者の心得べきこと」で一つ、こう反省しています。

    《keiさんから「GDPが増えたら私たちの暮らしにどういう変化が生まれるの?」という疑問が提示され、特派員氏の取り上げた日本の経済的停滞をもっときっちり考えてみようという提案もあった。これも30年史を振り返るときに、いきなり社会的な当事者問題に飛び込む前に共通認識としておくべき客観的事態であるように思った。つまり、【返信4】と【返信6】にあったオオガくんの指摘する日本社会の当面している事態を、事実関係だけでいいから押さえてすすめる必要があった》

 世情「失われた三十年」と謂われている事実だけでも共有してから話に入るべきだったと考えたわけです。そこで先ず近頃流行のAIに訊いてみました。GAFAMの一角、マイクロソフトの「AI を利用した Web向け copilot」は、こう答えてきた(冒頭のナンバーは引用者がつけた)。

   *

     失われた三十年とは、日本経済がバブル崩壊後の1990年代初頭から低迷を続けた約30年間のことを指す言葉です。この期間には、以下のような経済指標の変化がありました。

    1、名目国内総生産(GDP):1990年に2.4億ドルだったのが、2019年に5.1億ドルになりました。米国は3.5倍、中国は37倍になったのに対し、日本は1.5倍にとどまりました。

    2、国民1人当たりのGDP:1990年に1.9万ドルだったのが、2019年に4万ドルになりました。G7中6番目の低水準でした。

    3、平均賃金:1990年に3万6748ドルだったのが、2020年に3万8514ドルになりました。この30年で日本は4.4%増とほぼ横ばいだが、米国47.7%増、英国44.2%増、ドイツ33.7%増などと差は大きいです。

    4、貧困率:1990年に11.6%だったのが、2018年に15.7%になりました。主要国では高い方でした。

    5、消費税率:1990年に3%だったのが、2019年に10%になりました。

     以上のように、失われた三十年は経済成長や所得水準、格差問題などで他国に大きく遅れをとる時代でした。

   *

 要領よくまとめています。でも、AIは事実をも間違えると言いますので、東洋経済onlineの「経済ジャーナリスト・岩崎博充の記事(2020/01/26東洋経済online、日本人は「失われた30年」の本質をわかってない)」が指摘する事実項目を参照しました。次のように9箇条をあげています。


    ●平均株価(日経平均株価)……3万8915円87銭(1989年12月29日終値)⇒2万3656円62銭(2019年12月30日終値)

    ●株式時価総額……590兆円(1989年年末、東証1部)⇒648兆円(2019年年末、同)

    ●ドル円相場……1ドル=143.4円(1989年12月末、東京インターバンク相場)⇒109.15円(2019年12月末)⇒134.83(2023年5月)

    ●名目GDP……421兆円(1989年)⇒557兆円(2019年)

    ●1人当たりの名目GDP……342万円(1989年)⇒441万円(2019年)

    ●人口……1億2325万人(1989年、10月現在)⇒1億2618万人(2019年、11月現在)

    ●政府債務……254兆円(1989年度、国と地方の長期債務)⇒1122兆円(2019年度末予算、同)

    ●政府債務の対GDP比……61.1%(1989年)⇒198%(2019年)

    ●企業の内部留保……163兆円(1989年、全企業現金・預金資産)→463兆円(2018年度)


 この両者の「名目GDP」には、1990年と1989年、ドル表示と円表示の違いがありますので、ドル/円相場も調べてみました。1989年は1$=138円、1990年は1$=144円ですから、AIも間違えてはいないようです。因みに2019年は1$=109円。2023年現在の1$=134円は、1989年に近いですね。

 もう一つ違いがあります。東洋経済の経済ジャーナリストは株価や政府債務、企業の内部留保金に目をつけていますが、AIは平均賃金、貧困率、消費税を拾って、経済格差に目を留めています。keiさんの「わたしたちの暮らし」を組み込むと、AIの示す指標も大切になります。

 AIは海外先進国との対比をしているのに対し、経済ジャーナリストは日本の国内指標だけです。でも本文中で海外との対比をして云々しています。そこを簡略に拾うと次のように書いています。

《アメリカの株価がこの30年で9倍…ドイツの株価指数もざっと7.4倍になっている》

《世界経済に占める日本経済のウェート●1989年……15.3% ●2018年……5.9%、その凋落ぶりがよく見て取れる/アメリカのウェートは1989年の28.3%(IMF調べ)から2018年の23.3%(同)へとやや低下/中国のウェートは2.3%(同)から16.1%(同)へと急上昇/新興国や途上国全体のウェートも18.3%から40.1%へと拡大》

 つまり、名目額でみると「国内総生産は順調に伸びてきたかのように見えるが」この30年間の世界経済の成長規模に照らすと、日本の停滞は際立っているというわけです。

 そう言われて考えてみると、今傘寿を迎えている私たち世代が還暦の定年を迎えたのは2002~2003年。まだ「失われた十年」でしたから、十分バブル時代の余韻に浸っていました。それが実は、日本経済の構造的転換を押しとどめる役を果たしていたのだと、21世紀になって指摘されるのでした。(つづく)

2023年5月11日木曜日

不思議に手が届かない

 今日も映画を見に行った。この五月に公開された『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父を主人公に賢治が創作に踏み出した航跡を辿って、生きた時代の気配を取り出している。宣伝チラシに書かれるような「家族愛」とみると平凡な作品。だがそこからどう飛躍するかと思ってみると、だがちょうど昨日のイタリア映画『帰れない山』の残像と重なって、ちょっと面白い発見があるかもと期待した。

 長男が家業を継ぐという時代風潮がある中で賢治に教育を受けさせる父の視線は、明治という時代の、新しいコトに挑戦する気配を身に混在させている。映画はその父の子である賢治とトシ兄妹の不思議世界への飛翔がトシの死によって中断されたことを契機に、父親が主体となって(賢治の世界を)読み取る世界となり、父の微細な変わりようが不思議世界への扉に手を掛ける時代の変化。父を主人公とみるとここでお話は終わる。

 だが16歳の賢治が青年になっていく大正時代の日本はWW1(第一次世界大戦)の勢いを得て(国としては)世界の一等国になっていく調子づいた時機であり、社会的には所謂デモクラシーという文化的な変化を迎える時代であった。適応せざるべからずという気風があったのか、父親が息子賢治の世界を追う(継承流転の物語としては逆転した)姿が描かれる。

 子どもの頃から宮沢賢治の作品を読んでいた私は、異世界へ入っていく彼の語り口に強烈な印象を抱いていた。誰が書いたものか彼の評伝を読んで、小学校の教師をしていた頃、野原に児童を連れ出ていて、何かのインスピレーションに取り憑かれてか子どものことを忘れて異世界へ入り込んだとイメージが広がってわが心裡に沈んでいた。この映画ではそういう異世界は描かれない。

 賢治がトシの死に際して狂気のようにホッケの太鼓を叩くシーンが差し込まれている。だが、これもなぜ、宮澤家の浄土真宗を捨てて、かくも深く日蓮宗に傾倒していったかは、読書遍歴と現世利益の、仄めかされるほんの欠片のような僅かのイメージでしか示されていない。

 賢治が、創作以上に力を注いでいた土地の改良や暮らしの改善のために働いていたと思われるが、彼が農民の暮らしを軸に据えてヒトの生きるということの意味を問い始めた過程も実は余り描かれていない。彼がチェロを何時どこで弾くようになったのかもわからないまま、集まった農民の大人や子どもたちが彼の作詞した歌を、彼の弾くチェロ似合わせて歌うプロットが描かれる。これは「帰れない山」の山に籠もる一人の主人公ブルーノの姿を彷彿とさせる。「帰れない山」はブルーノの幼い頃からの友人がその父親の思いを受けとるとともに見届ける運びを物語にしている。だがこの「銀河鉄道の父」は、その息子が腰を据えようとした原点を父親が感知し見届けるお話であった。

 その辿り着いた地点に置かれたのが、「雨ニモマケズ」。賢治の末期の枕元で父が訥々と詠いあげる「雨ニモマケズ」は、父・役所広司の声音に伴って観るものの心に響く。土地を改良し田を耕し畑を起こして食べものをつくって暮らしていくしかない農民を原基に据えてともに生きるようとする賢治の願いが、諄々と静かに伝わってくる。

   ……

  アラユルコトヲ

  ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ……

  東ニ病気ノコドモアレバ

  行ッテ看病シテヤリ

  西ニツカレタ母アレバ

  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

  南ニ死ニサウナ人アレバ

  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

  北ニケンクヮヤソショウガアレバ

  ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ……

  サウイフモノニ

  ワタシハナリタイ

 ヒトが生きる基底はここにあるぞと賢治が発見し、明治の前半期に生まれ日本の近代化と共に市井の民として生きてきたその父が、子を亡くして永久に心裡に刻むしかない形で受け継いだ神髄。それが映画「帰れない山」のモチーフと重なるのであった。父親が「宮沢賢治全集」を手にして映画は終わるが、「ほれ、手にして読んでけれ」と世の中に受け渡しているように見えた。

2023年5月10日水曜日

無近代の「帰れない山」

「あれはきっと、あなたに合っている」とカミサンが友人から紹介された小説を映画化したイタリア映画『帰れない山』(監督・脚本:フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン、2022年)を観た。久々に面白かった。同名の原作小説はパオロ・コニェッティの著作。

 このところ私が縷々書き綴っているワタシを主題化したような物語。というより私が、そう読み取ったのかもしれない。いろんな切り取り方があると思うが、二人の主人公のうち一人が「山に小屋を建て牛を飼って暮らしたいだけ」と呟いて山に引き籠もりになる。もう一人が「人生の中心に須弥山という高い山があり、周りに八つの山がある。そのどちらに上るのが(人の生き方として)いいか」と問う。前者が須弥山に登り、後者が八つの山に登っているという設定。須弥山に籠もるのを許さないのが近代の社会システムとそれに適応して生きるしかない人々の関係。私は後者を生きており、ワタシは前者を心深くに抱いて(思えば遠くへ来たもんだ)と呟いている。

 こうも言える。後者はヒトが人間として生きる姿、前者はヒトとして生きる「自然(じねん)」の姿。今私たちは、人がつくりあげた人工的関係の中でヒトとしての原基を忘れている、と。映画は、しかし、気づいていないだけで、原基を失っては生きていけないとも語ってみせる。崩落した山小屋を土台から建て直す。石を組み上げ、素材をロバに積んで運び上げる。その営みのことごとくがヒトの手によることが如実に描かれる。それが逞しくも楽しいと感じている二人の関係を浮かび上がらせる。ヒトが生きることの基底を為している営みは忘れるようなことではなく、身の深くに沈潜し無意識となり気づかれないだけだというようである。さらにそれは父子の相剋、母子の包摂、夫婦の関係をも重ね合わせ、イタリア・アルプスの山の景観とトリノの街の喧騒を対比的に舞台にして、時代相を表現する。須弥山をとるか八つの山をとるかという択一の話ではなく、ヒトは人に包摂され、親から子へと受け継がれていく。人類史そのものが描かれている。それを忘れているのは近代の暮らしそのものに浸っているワタシである。

 ワタシは、私自身がなぜ山に惹かれ登り続けてきたのかという問いを反芻しながら、壮大な景観を身の裡に感じている。つまり近代の暮らしの恩恵に浴してほくほくしている私を、ヒトとしてのワタシの身が、それってどこか間違ってるんじゃないのと訴えているような感じがしているのだ。

 それと同時に、『〈戯作〉郁之亮御江戸遊學始末録』の作者の記した《自称「小説」謹呈の御挨拶》の「無近代」を重ねてイメージしている。この作家・鈴木正興こそ「山に小屋を建て牛を飼って暮らしたいだけと呟いて山に引き籠もりになる一人の主人公であり、それを時代や人生にマッピングして喋喋しているワタシは八つの山を経巡る私なのだと腑に落としている。

 どんな切り口を以てしても、面白く見えることができる面白さを湛えていた。見終わって駐車場の入場チケットを見たカミサンが急いで車に向かった。3時間無料の時間が迫っていた。なんと上映時間はコマーシャルを含めて2時間40分にもなっていた。随分と尺を気にしないでつくられていたんだと、これにも無近代を思った次第である。

2023年5月9日火曜日

他者と失われた三十年

 3月seminarの「お題」でBBC東京特派員・ヘイズ氏の「日本人の不思議」を取り上げた。彼が日本駐在中の30年間に日本は大きく様変わりした。1990年代初頭にはバブルに沸き「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を自認していたのに、30年後のいまや先進国から滑り落ちようとしている。人口減少という事態も明らかに分かっていたのに、外からの人を受け容れようとしない。これを不思議として、なぜなのかと問うたわけだ。

 このseminar展開については3/27と3/28の当ブログ記事に記している。これは不評であった。ほぼ参加者の皆さんは、この「お題」に関心を示さなかった。「そんなこと、お前に言われたくないよ」とか「イギリス人よ覚えておけ!」という(ガイジンに対する)感情的反発の声だけが大きく、なぜそう反発するのかに踏み込まない。福井県池田町の広報誌に掲載された「池田暮らしの七ヶ条」についても、そこへ移住してくる人に「都会風を吹かすな」という池田町住民の警鐘にもまるで心当たりがないかのように、「何で殊更そんなことを取り上げるのか。公平じゃない」と、その話題自体が不愉快というあしらいを受けた。

 あっ、何か私が大きな勘違いをしていたんだ。これじゃあseminarじゃないよねと私は店じまいを考えた。

 このヘイズ氏の「日本人の不思議」にワタシなりの答えを出したいと思ったのが、一昨日から書き記している「2%の世間話」と「原風景と時代の変化と年を取ること」である。概ねこの二つのエッセイを書いて、不思議を解き明かしたつもりになっている。

 つまりヘイズ氏の問題意識に波長を合わせて応えるなら、こういう風に言えようか。

 日本人は長年、その地勢的な特徴から囲われた地で、見知った人々と以心伝心と言っても良いような気配の中で暮らしてきた。それはたぶん、異質な人たちやまるで文明文化が違う集団と日々接して緊張を保つ欧米人が暮らしてきた環境とは大きく異なっていた。

 先ず主語を頭に置いて自らの意思を表明することが優先される欧米の言葉遣いとも異なる。主語が曖昧、状況適応的、場の空気に合わせるという日本人の振る舞い。島国根性と悪口を言われることもあったが、海が防壁となって、方言を含めて似たような言葉を話す人たちとしかかかわらないで一生を過ごしてきた人たちにとっては、知らない言葉を話す人たちをガイジン、つまり他者として心許せない(かもしれない)人たちと警戒心を抱くのは、ごく自然である。

 その感覚は逆に、つねにグルーミングをして同調共感を共にする振る舞いを生み出しもする。自分が今身を置いている場の空気を読んで、それに適応すること。自分の意見を言葉にするよりも場の気配を察知することが優先される。そういう関係に於いては、同調性の感情や共感性の感覚が心裡では常態となって身に染み付く。それが無意識の身をつくる。身の習いとなり、それがまた心地よいという身の習いを再生する。空気を読むとか気遣うという他人との関係を感知するセンスが振る舞いの基底にいつも流れていて、それがまた日本の文化の固有性をつくっている。他人は他者と違って、ベースを共有している。

 だからこそ逆に、他者(=異質な人やガイジン)に接したとき好奇心も湧くと同時に警戒も生まれる。好奇心と警戒心は、見知らぬ相手に向き合う心持ちの裏表。好奇心は主として見知らぬ人がもつコトの異質性に目を向けている。警戒心は見知らぬ人の(推しはかることのできない)心裡を畏れている。知らないことを歓迎もしたいが掻き乱して貰いたくないというアンビバレンツな感情が生まれる。

 見知らぬ存在が親和的か敵対的かという次元で向き合う物語は、民話でも語られてきた。鬼であったり神であったりする。それは身の習いとなった「気配を察知する」ことの及ばない鬼神の領域、異界である。人はそれを自然と読んで畏れ敬ってきた。私たちの暮らしの源泉であると共に見知らぬ災厄をもたらす力を揮う。そうした両義的な自然に取り囲まれ、安逸に暮らすのを、広い世界の側からみて「島国根性」と名付けた。水と安全を只だと思っている安穏さを茹でガエルと誹る人もいた。

 だがお気楽に暮らすのを誹られては、人は何のために生きているのかさえ、疑いたくなる。日本に暮らす庶民大衆が茹でガエルになったことを誹るよりも、その暮らし方を護る為政者や政治機構の方を指弾するべきではないのか。のほほんと生きる庶民を非難するセンスこそが現代国際政治の混沌を示しているように思えてならないと、いま振り返って思う。

 しかし高度経済成長を遂げ、ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる国際的位置に身を置いた日本の政治家や財界団体や企業経営者が、相変わらず「島国根性」の根っこを身に染みこませていて日本的経営の優秀性に得意然とし、1990年代以降の構造改革に乗り出そうとしなかったことは、不思議と言えば不思議。身の習いといえば無意識の躰の習慣が露呈したと言えるのかもしれない。ここに目を留めたエッセイが、BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」であった。

 バブル崩壊後の、所謂「失われた三十年」の一つの要因が、この「日本人の不思議」にあるというヘイズ氏の直感は、私に言わせると当たらずとも遠からずに思える。それについては、この後折を見て一覧するが、問題はバブル時のような日本になった以上、島国根性に居直って「同調性の感情や共感性の感覚」でやっていくことは適わなくなった。それらがどれほど「他者」を意識させ、その後、異質性を組み込む関係作法として人々の身に染みこんだか。いや、それを怠ったからこそ、いまだに外国人を「ガイジン」扱いし、「池田町の七ヶ条」を発信するような所業を続けることになっているんじゃないか。取り敢えず、そう思っている。

 でも愚痴っているんじゃない。むしろ日本は今というかここ30年間、大きな転換に迫らる事態になっていると思う。それが実行できないのは、「日本人の不思議」に大いに関係がある。加えてコロナ禍で、それを切実に感じる。都会に人口が集中しすぎている。人口減少に直面している農村も、変わっていく必要がある。それには、うちらぁの人生、わいらぁの時代がつくりだした経済一本槍の思考様式を変えることも含めて、ちょ面している問題を直面する問題を、長期的な視野で以て一つひとつ取り上げて、考えていくときなのではないかと真に思う。(つづく)

2023年5月8日月曜日

原風景と時代の変化と年を取ること

 世間話のグルーミングを「心地悪いと受けとっている私のワタシをいつも感じる」のは、なぜか。そこに気づいた「もう一つ次元の違うところの私固有のワケがある」とは、何を指しているのか。

 ヒトは、置かれた関係に於いて変わる。ワタシのメンタルな安定点も移ろって構わないと思うようになった。若い頃は、どうしてこうも定まらないのだろうと、モノゴトに向き合ったときのジブンの判断の揺れ動きに不甲斐なさを感じていた。雑誌を彩る評論家たちの言説がきっぱりとした決断に満ちあふれているのを読んでは、この人たちは知識を積んでこう言えるようになってるんだと羨望の目で見ていた。それはしかし、ヒトや世界を実体的にみていたんだといつしか考えるようになった。関係的に見ることによって、身も心も移ろうということを受け容れるようになったのは、20代の半ばだったろうか。

 その頃わが身に起こった衝撃的な心の震えを忘れることができない。結婚して近所の家具屋でいくつかのものを買った。ソファが運び込まれてきたとき、動悸がひどくなりなぜか心がざわついて落ち着かなくなり、梱包が解かれる前に返却を申し出てそのまま持ち帰って貰ったことがあった。どうしてあんなに動揺したのか、その後ずうっとワカラナイままに棚上げしてきた。

 そうして半世紀以上を経て今、それに一つの解をみている。ソファを買った私の意識が、子どもの頃の身に刻まれたワタシを裏切っている。その落差を埋め合わせる覚悟も観念も持ってないよという躰の反応が、心の震えになったと思う。結婚という新しい暮らしに、それまでの生活様式を変えるってことは、よくある話。だがそれには、ただ単に外見的な形が変わるってことだけではなくて、それまでの暮らしの中で躰に染みこんでいる身の習いが、その外見的な形の変化を「自然(じねん)」として受け容れる移行過程が欠かせないのだろう。それに気づかないまま、アタマが切り替わっててもカラダがついていかない。その落差が心の震えとなって現れたと思う。「自然(じねん)」として受け容れるというのはアタマの意識、即ち観念である。

 それに気づいたのは、四国のお遍路。昨年は15日間で「飽きて」しまった。御朱印を貰って次の札所へ歩くお遍路が、なんだか馬鹿馬鹿しくなってイヤになったのだ。後で気づいたが、ひどく疲れてもいた。毎日平均26kmを歩くことに身が耐えられなかった。ところが今年、「嗚呼ワタシは信仰心がないのだ」と二つ目の札所で気づき、(私にとっては)札所のスタンプラリーでいいのだとカンネンしたせいか、19日間のお遍路を毎日30km平均で歩くことができた。歩くという躰の無意識に依存する行為が、ワタシのカンネンに大きく連動している、心身一如だと感慨深く私は受けとっている。

 これを少しく一般化すると、こんなことが言える。身の外部である時代の様相の変化にどう適応してゆくかというとき、ワタシの無意識である躰が何を身の習いとしてきているのかを等閑視できない。ジブンが何に固執し何を安定点と感じているかを意識の表層に浮かび上がらせることなくしては、ワタシのこだわりや傾きに気づくことなくすっかり人柄になってしまう。加えて、年を取るほど身も心も意思も融通が利かなくなる。

 ヒトは安定感や安心感、心を落ち着かせる気配を包む目に見えない領界を持っている。心地よく感じる気配の端境は、若い頃には薄く弾力がある。それが新しい体験に適応し、身の裡から噴き出してくる好奇心に応じて動態的に広がり深まっていく。けれども年を取るにつれて端境の薄膜は身の習いが積み重なって定着し弾力を失ってしまう。頑固になり、交流範囲も狭まり動態的関係に身を置くことが少なくなる。居心地が悪く新奇なことに適応できなくなる。新しい事態に付き合うのがメンドクサクなる。私自身がそうなっていっていると感じるし、私のほぼ同年齢の友人たちを見ていると、本当に感覚が凝り固まって頑固になっている。ことに現役時代を社会的に高い地位で自信に満ちて過ごしたヒトは、外の言葉が耳に入らない。池袋で車の運転をして死亡事故を起こした「上級国民」のように。

 そんなことを言ったのにはワケがあります。それについては、また次回にしましょう。(つづく)

2023年5月7日日曜日

2%の世間話

 世間話って何だろう。井戸端会議、茶飲み話、世間話と知り合いと挨拶のように交わす言葉の遣り取り。お天気のこと、健康・体調のこと、身近な人の様子や動静、噂話など、知り合いとの関係を保つのに意味のある振る舞い。グルーミングと動物学なら呼ぶであろう。交わされる言葉よりも、そのときの立ち居振る舞い、声のトーン、タイミング、リズム感、遣り取りの響きのもたらす体感が、コミュニケーションを司っている。

 ということは、寄り集う人々の無意識が交わす「関係」が、その遣り取りに現れるってことか。ヒトとチンパンジーのDNAの相違は約2%といわれる。ヒトのコミュニケーションの大部分、98%が外の動物たちと似たようなものであっても不思議ではない。というよりも、人が交わす言葉は、残りの2%なのだから生物学的に総体としてみれば動物と大差ないといえるが、もっとも遅く動物と分岐した2%こそがヒトとしての身体感の全体を統括して立ち居振る舞いを差配しているわけだ。

 言葉もそうだが、その展開である社会的文化の諸形態・諸様相、序列・規範・秩序・制度やそれらが醸し出す誇りや妄想も、2%とは言え積年の死に代わり生き代わりして身の習いにしてきた。それらの無意識に定着させている立ち居振る舞いも、言うならば無意識の交わす「関係」に顔を出す。

 だからなぜそのような世間話をするのかは、当人はもちろん、それを見て解析する人にもワカラナイ。それを分析してコレコレコウだと説明することも、2%のもたらした観念や思念、あるいは身体感の然らしむるところである。つまり分からないことを手探りでああでもないこうでもないと、堆積した人類史の航跡に思いを致して愉しんでいるのだ。学者の専門知も、全人類史や全動物史、全生物史に位置づけてみると、単なるヒトのクセに過ぎない。2%の世間話と大差ない。

 その世間話が、私は苦手である。それは、自らの身体感の深くに沈んで無意識となっている身の習いが、一体どのような由来を持っているのかと自問自答しようとしてきたワタシのクセ。その仕業である。躰の無意識に無頓着な振る舞いに、身の裡がざわざわと騒いで落ち着かない。ジブンの振る舞いにだけかというと、そうではない。ヒトの振る舞いのコトゴトにジブンが映し出される。ヒトの無意識の振る舞いに感じる違和感は、ワタシの無意識が私の意識世界に浮き上がってくる瞬間である。

 その時に感じる違和感をその人にぶつけるのは、明らかに筋違い。でも世の中を見ていると、この筋違いを口にして差別したり怒りにしてぶつける人たちの何と多いこと。その振る舞いもヒトの無意識のなせる業だと思うと、嗚呼この人はエライんだと受けとる。

 ちょうど何年か前に池袋で車を暴走させて歩行者母子を殺した「上級国民」と呼ばれた高齢運転者のことを思い出す。頑として自分は間違っていない。車がワタシの操作を聞き入れなかったと言い張った。彼は、ジブンを鏡に映してみたことがなかったのではないか。自分に対する自信が、母子を殺してしまったことをも別次元のこと考えさせてしまうお粗末。車に問題はなかったと判明してからも、「だとすると申し訳ない」と他人事のように謝罪するのをみると、世間話に露呈する無意識の「自信」「確信」「安心」「安定」は、ただ単にワタシのセカイだけを全世界と言って憚らない「慢心」「傲慢」と同じじゃないか。ワタシだけが良ければ他のヒトがどうであろうと関係ないという我利我利亡者の世界観ではないかと、トランプ元米大統領の#ミーファーストを重ねている。

 こうしてワタシにとっては、世間話が世界を捉えることとひとつになる。ただ単なるグルーミングとみるのは、考える次元をヒト相互の関係の調整的視点から眺めているだけ。それは、語りかける一方のワタシとアナタの関係の身の裡を満たそうとする振る舞い。それに応答するグルーミングの言葉も、世間話を受けとる他方がワタシとアナタとの関係を調整する言葉。それを心地悪いと受けとっている私のワタシをいつも感じる。それがワタシの世間話が苦手な理由だ。

 そうだから、それを一つひとつ俎上にあげて、わが身のこととして無意識を掘り起こし、とりあえず意識の俎上に浮き上がらせる。そうしていて、もう一つ次元の違うところの私固有のワケがあると気づいた。それはまた後に記しましょう。(つづく)

2023年5月5日金曜日

日本国憲法の精神て何だ?

 3日は憲法記念日であった。相変わらずなのか、中身が少しは変わっているのか、9条を守るというのに、「議論なき9条」と朝日新聞は見出しをつける。どうして議論がないのか。とっくに現実政治は「敵基地攻撃能力」に行っているのに、「歯止め形骸化の危機」ととぼけた心配をしている。とっくに「形骸化」しているじゃないか。それどころか、行政が立法を領導し、もはや立法を片隅に押しやって与党がすっかり行政府になってしまった格好だ。こんな状態に於いて「歯止め」なんていうのは、お飾りとしての憲法という現役政治家の常識に気づかないフリをしているのかな。この日本国憲法で育った私たち戦中生まれ戦後育ち世代は、「憲法」って国の基本法じゃなかったんだ、単なる近代国家のお印なんだと、今更ながら学校教育で刷り込まれた憲法概念の根拠を問い直したりしている。

 日本国憲法を「変えるか否か」世論調査をした結果らしいが、変えない方が良い55%、変える方が良い37%とグラフを交えて記事にしている。だが、「世論」の気分の推移を知って、何がどうだと言いたいのだろうか。そんなことより、何を根拠に「世論」がそう変わっているのか、それは近代民主国家の理念や概念をどう揺るがしているのかを考えた方がいいんじゃないか。そう思ってしまう。

 コロナウイルスのパンデミックが、まずグローバリズムを痛撃した。ヒトって可笑しいんじゃないか? と天の声に聞こえた。つまり国民国家の仕組みだけはそのままにして生産と交換の市場経済をグローバル化しようってのは、とどのつまり資本市場の優勢な人たちのご都合に合わせて世界を席巻しようってコトではないのかと、疑問が突きつけられた。それに対する答えは出されていないよね。往来の途絶もワクチンの開発自体も国民国家市場経済単位だったし、そもそもCOVID-19に対する対応対策を国際協力をすることさえできなかった。これは、当時のアメリカの大統領トランプの所為って言うより、トランプに代表される資本家市場経済システムの我利我利究極形態の然らしむるところだった。つまり喧伝されてきたグローバリズムの装いが剥ぎ取られ、国民国家単位の我利我利が力関係を併せて剥き出しになった姿だ。グローバリズムの装いって言うのは、資本家市場経済の交換システムは武力の行使によらず、交換市場に於いては皆対等平等で公平っていう理念だ。だが公平じゃない。平等でもない。交換市場に於いてはカネの力がついて回る。カネさえあれば平等で公平という条件付きだったってコトをついつい忘れている。

 理念てそういう条件つけて打ちたてるもんじゃないよね。

 とすると何かい? 最初に「国富論」を示したアダム・スミスってヒトが提唱した自由主義市場経済ってのが、条件つけるのを忘れてたってコトかい?

 いやいやそうじゃないよ。アダム・スミスは、抑もは倫理学者。彼の頭の中には、当時の社会常識であったキリスト教的倫理感に満ちあふれていた。ほとんど空気のように無意識に潜在していたから、態々条件をつける必要もなかったというか、思い及ばなかったわけさ。でもすぐにその資本家市場経済の化けの皮は剥がされた。弱肉強食、優勝劣敗の現実がイギリス中を覆った。富というかおカネの有無が力関係の源泉、それを文明の差異を超えて調達してきて市場に放り込むには、文明の衝突を辞さない力業が欠かせない。それをバックアップしたのが後の国民国家となる近代国家の原初形態、帝国だったわけだ。

 マルクスが下部構造・上部構造と動態的な作用序列をつけたが、資本家市場経済がそのシステム単独で動いたことなんかなくて、恒につねに、帝国や国家権力とともに、究極のところでは武力と共に歩調を合わせて歩んできたってワケさ。だから世界大戦とその後の冷戦に至るまで、基底部分には経済的競争が横たわっていた。社会主義は上部構造で補填できると考えていたようだったが、結局、独裁制による強権支配しか道が残らなかったね。神が死んだ後の近代的理性優先の頭でっかちが先行して、おおよそヒトの世界の自由闊達な姿とはまるで違った世界を創り出してしまった。

 では自由社会はそうじゃなかったか。理屈で見ていると、あたかも資本家社会システムが独立して公平平等なカンケイを築いてきたかのようにみえる。それを理念化して、経済的競争なら平和で公平で対等と、力の強い者の統治的立場に身を置いて専門家たちが喋喋してきただけ。力の無い私たち庶民は、1990年代初頭までの、一億総中流高度消費社会までは浮かれていたが、その後はすっかり社会が優勝劣敗になってしまって、コロナウイルス・パンデミックで気づかされたってことだね。

 そのコロナウイルスで目が覚めたのか、気が触れたのか、プーチンの戦争が始まった。これでついに、WWⅡの戦後世界政治体制は完璧に崩壊した。思い返すと、日本国憲法は、WWⅡに対する人類史的反省が「憲法」という形に盛り込まれたものであった。GHQ民政局の若手研究者が、命令を受けて僅か1週間で仕上げた草案であったが、そこにはアメリカ本国ですら実現していない人類史的叡智を結集した民主的条項を含め、何よりも「戦争放棄」という人類の悲願を盛り込んだ。その教育を、後の口さがないナショナリストは「押しつけ憲法」と狭隘な概念で誹ったが、その教育を受けた私たちにとっては、人類史の築いた理念として身の裡に染みこんできた。それがあったから、現実社会の不条理も、非合理も、未来に向けて克服すべき課題を浮き彫りにしているようにみえ、たぶん男女平等も、最低限の文化的生活の保障も、現実生活においてきっちりと実現させてきた(と思っている)。

 その戦後体制が、プーチンの戦争ですっかり損なわれ、見る影もなくなってしまった。どうやったらウクライナの戦争が収まるか、まるでワカラナイ。ロシアが和平に応じる地平は、どう考えてもウクライナが認められる地平ではない。いやそればかりか、それを認めたら国民国家の独立性さえ、強権国家の意の儘にして良いという結果にしかならないから、核を持たない追随国家はその領域さえ保障されなくなる。ウクライナばかりを応援して他の紛争地域を無視していると非難されても、ウクライナの戦争の落ち着きどころは、直に追随国家の存廃にかかわる。

 ここでの本題に接続してまとめると、もはやWWⅡの人類史的反省などは蒸発してしまっている。いや、だからそれを忘れて現在の問題に向き合えといっているのではない。WWⅡの人類史的反省が、1990年頃まで生き残ったのは、冷戦が、何が人類にとって正義かを世界に問う形で命脈を保ってきたからである。だが、トランプの登場に見られるように、いまや正義は我利我利の#ミーファーストになりつつある。バイデンの装うタテマエもいつまで持つか頼りない。つまり人類は、WWⅡで(日本やドイツが負けたことによって)垣間見えた「反省」という共通理念を、失ってしまった。

 どうやってこれを立て直したらいいか、見回す限り政治家の顔が浮かばない。学者たちもどういう理念を打ちたてて世界をイメージしているのか、私は知らない。ただ、庶民のワタシたちが、どうこの世をイメージするかが問われていると自問自答するのであれば、カクカクシカジカと描き出せるかもしれない。もう専門家にも頼らず、ワタシらで暮らしの欠片を拾い集めて、土台から立て直しをするかと思案した憲法発布76年でした。

2023年5月4日木曜日

ハレの葬儀

 叔父が亡くなった。厳密には叔母の連れ合いなのだが、叔父と呼ぶ以外の呼び方を知らない。昭和2年生まれの96歳。大往生と言ってよいと思う。ふくよかな顔つきと躰でカラオケが得意。人の話に耳を傾ける静かで開放的な気性もあって、人当たりは柔らかい。比翼連理とはよく言ったもので、同い年の叔母も静かな気遣いの人。おおよそ大阪のおばちゃんとは思えない品のいい穏やかな人柄、子どもがいなかった所為もあって、甥姪にもよく声をかけて往き来が多かった。似たもの夫婦と言うが、何十年も夫婦でいると佇まいが似てくるのだ。

 亡くなって振り返ってみると、触れ合った回数はそんなに多くない。たぶん記録を取っていなくても、子どもの頃を別とすれば、お爺さんお婆さんの葬儀や法事、私の父母や父方叔弟妹である叔父叔母の逝去や法事で出合って言葉を交わす、あるいは私が実家に帰るときの往還についでに立ち寄ることがここ30年くらいの間に何度あったか。そのたびに文字通り旧知の間柄をぽいと飛び越えて、昨日別れて今日またあったような気分で言葉を交わす。それが血のつながりという身に刻まれすっかり無意識に落ち着いている関係感覚の御蔭だ。磊落な叔父が私の父が亡くなった三十七年前に瀬戸大橋の建設工事に土木屋としてかかわり、海の底にケーソンを掘り橋脚を支える土台を築く話などをしていたのは思えば、彼が定年で引退したばかりではなかったか。私は技術的な面白さに惹かれた感触を覚えている。

 たぶん従兄弟姉妹たちともそういう機会に顔を合わせ言葉を交わす程度の往き来であったが、叔父の葬儀を機会に顔を合わせ、私と同じように年を取っているのに、昔の呼び方で○○ちゃんと言ってしまうのを少しも可笑しく思わないで口にしてしまう。年を取ったことを含めて近況を交わす。個が人もいたことを初めて知ったり、孫が生まれたばかりという一回り年の離れた従兄弟のスマホの写真を見せて頬を崩すのを見て、そうか、まだそういう年かと改めてこちらの高齢を思う。それも、叔父叔母と甥姪の関わりの御蔭である。

 態々遠方から来てくれたと礼を言う叔母の、耳や目がまだじゅうぶんしっかりしているのに驚き、そう言えば父方の祖母は101歳まで長生きであったと思い出す。棺を花で埋め尽くし(これでお訣かれです)と言おうとする葬儀司会の声を堰き止めるように、叔父の顔に手を添えて叔母はおいおいと声を出して泣く。しばらく泣きたいだけ泣かせてやってよというふうに、取り囲んだ皆は静かに見守る。

 いやじっさい私は、この歳でこのように別れを惜しむ夫婦の姿を見たことはない。先に比翼連理と言ったが、子どものいなかったこの二人は、じつに仲良く過ごした。叔父が退職後は海外へ何度も脚を伸ばした。5年ほど前に千里の居宅を引き払って二人してサ高住に引っ越す世話をした姪は、海外旅行の写真がタイトルつきで百冊は超えていたと言うから、百回は行ったということか。「今度な、モン・サン・ミシェルへ行くんよ。一番行きたいおもうてたとこ」と声を弾ませていたのは80歳を超えてたんじゃなかったか。そういう姿を見ていたから、叔母の泣く姿を、そうか、こういう夫婦の歳の取り方もあるんだと感嘆してみていたのであった。

 こうして、通夜と告別式と骨揚げと初七日を済ませて帰ってきた。突然の2日間の、しかも連休中に伊丹空港近くのホテルに泊まり、慌ただしく過ごした。身の奥底から関わりが噴き出して、原点と現在とを軽々と結びつけるハレの時間を過ごしてきた。

2023年5月2日火曜日

デキゴト・ハイク

 朝新聞を読んでいたカミサンが「大高取山って行ったことある?」と聞く。「いや知らないなあ、どこ? それ」「越生だって」。というので地図を取り出して調べてみたら越生駅から歩き始めて越生駅へ戻ってくるルートがある。新聞は「越生アルプス」と名付けて市の観光協会が売り出し中というもの。連休にどうぞというワケか。約4時間。じゃあ行ってこようと電車に乗った。

 9時には歩き始めていた。いくつもルートがあって、どれを辿っているかスマホでチェックしながら登山口へ入り、かなりの急登をずいずいと上る。やはりまだ脚の筋肉が戻っていない。疲れる。途中で三人追い越した。ストックを出したのは急登が終わる頃。バランスの悪くなった高齢者には四輪駆動が矢っ張り心強いと思いながら、1時間半。大高取山に到着。英語でおしゃべりしている女性ハイカーが二人。静かにしてくれよと思うが、もちろん言わない。

 ここから桂木観音まで尾根を縦走する。ここまでは車道が通っていて展望台が設えられている。この車道を辿り途中で山道に入って尾根上を辿って越生駅へ向かう予定だった。ところが、小学生の集団が、クラス毎であろう、3,4組に分かれて上ってくる。先頭の教師らしいのが「こんにちは」っていうもんだから、後に続く子どもたちが、こんにちは、こんちは、ちわ、と五月蠅い。それに気を取られていて、山道へ入り損ねた。地図には、その下にも越生へ抜ける山道があるように記されている。車道をショートカットする道に入り込み抜ける。ところが、出た車道が地図の車道とは違うようだ。

 ちょうどそこへ軽トラがやってきた。運転していたお年寄りに尋ねると、「山の帰りかい? 何処へ帰る?」と聞く。「ん?」とは思ったが東上線の駅名をいうと、「越生駅じゃなくてその二つ坂戸寄りの東毛呂駅の方がわかりやすい」と教えてくれた。ま、いいか。こうして東毛呂駅に着いた。行程3時間余。

 軽いハイキングだったなあと思いつつ電車に乗ろうとしたら、スマホと一緒にポシェットに入れていたパスケースがない。なんてことだ! 落としたのだ。これまでにも二度、そういうことがあった。一度は北海道の山を歩いたとき。紛失届を出して、クレジットカードなどを再発行して貰った。もう一度は、サクラソウ自生地を歩いたていとき。この時は、ないことにすぐ気づき、歩いた行程を戻って落ちているのを見つけた。これで、三度目だ。

 東毛呂駅には駅員がいない。外のタクシーの運転手に交番の場所を尋ねる。隣の駅にあるという。電車でそちらへ行き、駅前交番で「遺失物届」を出す。受付番号を記したカードを出し、見つかったら入間警察署へ取りに来ることになりますがいいですかと聞かれ、よろしくとお願いして駅のホームに上がり帰宅の電車待ちをしていた。と、スマホの電話が鳴る。越生の交番からだ。落とし物が届いているという。もちろんすぐに取りに行くと返事をして、下り電車に乗った。

 届けを受けた東毛呂交番はすぐに近場の交番などに「遺失物届けが出た」ことを、私の連絡先電話と共に流したのだろう。すでに落とし物を受け付けていた越生交番が私に電話をしてきたってことか。いや、良かった。

 越生交番は駅から1㌔ほどの距離にあった。受付カードと引き換えにパスケースを手にすることになった。何と落ちていたのは、まだ登山口に入る前の街中。拾ってくれた人は「お礼など要らない」と名乗らずに立ち去ったとお巡りさんは話してくれた。いや、本当に良かった。二度あることは三度あるというより三度目の正直と言うべきか。

 拾った人の正直? いやいやそうじゃないよ。私がすっかり末期高齢者になったってことの正直な表出ってことよ。

2023年5月1日月曜日

「ささらほうさら」の源流(7)常識派

 さて、ここからが「顕現する世界」の本題。昨日の作家・鈴木正興の《『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』に添付した《自称「小説」謹呈の御挨拶》で本作品以上に興味深い台詞》の《……結局その抗弁の勢いに気圧された常識派の方の自分が寄り切られ、「勝手にさらせ」と匙を投げてくれた御蔭で内訌は収まり……》が示している「(1)この作家の全生涯」が、私のワタシに鋭く突き刺さってくるのです。

 この小説の第一段で郁之亮が御江戸遊學に向かう出自と条件が描かれている。武家の「冷飯食いの三男坊」、「自らの性向自体も何ぞの組織や枠組みに組み入れられるのを良しとせぬ傾き……父や兄の如く藩の禄を食む処世の道は真平御免」、「この土地、この家系にあってが少しく破天荒」と勝手に生きよという条件を由来を含めて縷々述べる。そしてさらに自然環境に言い及ぶ。「空の紺(あお)、地の緑(あお)、そして地平の縁辺で両者を画する山々の青(あお)、まさにあおに彩られた広闊さ」を披瀝する。

 この既述は、実は江戸時代の風景叙述というばかりでない。私たち世代、戦中生まれ戦後育ちの幼い頃に見て育った風景である。身に染みこんでいる。遠くに離れて「ふるさと」を感じる。言葉を換えれば「原風景」なのだ。しかもこれをこの作家は「あおによし」と総括表現し、おっ、と読者のするすると読み進めた歩調を立ち止まらせる。

 そうか、そうだったのか。それでこの郁之亮の家名が「奈良」氏なのか。しかも棲まう所を「下奈良」と称する。何ともにくい仕掛けではないか。大和の文化的伝統を背負う血筋、それも遙かに遠く時代を経て「下」に位置していると設定する。もうこれだけで、この作家の全人生がすっかり身に染みこみ堆積する無意識と共に投げ出され、さらにそこから遙か遠くへ来たもんだという予感を組み込んでいる。

 この予感を感知すると、この後の展開がことごとく現代批判と読み取れる。というか読むものの視線にいつもワタシを映す鏡が現れて自問自答を余儀なくさせる。むろんワタシがこの作家と原風景を共に見ているという感触がそうさせるのだが、それはなつかしさと共に、身を裏切って普遍世界へ離陸しようとしてきたわがタマシイの原点を身よと迫る厳しさをもっている。「戯作」と銘打つ。「面白ければ良い」と、中華文明の古典を繰り出しながら駄洒落にまじえ、西欧文化を引き合いに出して揶揄う。普遍に離陸なんて言ってないで身柄ともども列島を捨て去って放擲してしまいなと呼びかけているような物語りの先行き。これは手厳しく私の小市民性に突き刺さってくる。

 郁之亮の遊學始末録は、この作家の原風景にはじまって妄想の世界に遊び、その行く末を仄めかして終わるのであるが、このユメのような話の行間にこそ、批判の神髄は籠められる。しかもそれを意図していないと強調するスタンス自体が、ストーリーに意味を認める近代思考の人性の貧しさを剔抉して、目に晒すのである。

 いやこれでこそ「ささらほうさら」の源流空間文化の二重焦点の一つに慥かに位置すると確信させる深さを湛えているとあらためて思う。それは鏡となってわが人生をも照らし出し、小市民の日々の暮らしの拘りや傾きがひょっとすると身の裡に潜むわが原風景から遙かに離陸していることを衝いているのではないか。その時の感性や感覚、痛みや傷み、それによって培った世界をみる視点の基本、原点を裏切っているんじゃないか。

 何を思うことがあろうか。何を考える必要があろうか。それらは、まさしく遊び、御江戸遊學が郁之亮なら、現代世界のコトゴトを遊びとして堪能する。それだけで十分生きてきたと振り返る。それが人生ってもんよ。あとはここまでの加護を天に感謝するってことだねと、この作家は提示してくれている。

2023年4月30日日曜日

「ささらほうさら」の源流(6)顕現する世界

 ワタシを通じてセカイが現れていると感じるのが「ブンガク」だと私は思っている。いうまでもなく読む側のブンガクであって、世上一般に謂われる文学とは違うかどうかはワカラナイ。4月のささらほうさらの会で講師を務めた作家・鈴木正興が、その作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』に添付した《自称「小説」謹呈の御挨拶》で本作品以上に興味深い台詞を吐き記している。

《……さて、その後期高齢者界に入域したての頃、小生、これは何をどう血迷ったのか、己が卑小な分際や能力も弁えず、生涯にたった一度でもいい「小説」というものを書いてみたいと、まあいずれとんでもないことを思い立ったのであります。若い頃からごくごく狭い交流範囲内でいづれ拙い雑文、駄文の類いを結構書いてきた経験はあるのですが、何を今更耄碌し掛かっているこの期に及んで「小説」だなんて一体どういう風の吹き回しなのでせう。「おい、オメエ、小説ってのはなあ、今までのどうでもいいような雑文と違って創作の分野に入る歴としたゲージュツなんだぞ」と自分で自分の血迷いを思いとどまらせようとしたのですが、「なにおー、ゲージュツでねえ小説があったっていいじゃねえか。なあに、年寄りの冷や水と揶揄されようが構やあしねえさ」といっかな忠告を聞き入れてくれず、結局その抗弁の勢いに気圧された常識派の方の自分が寄り切られ、「勝手にさらせ」と匙を投げてくれた御蔭で内訌は収まり、斯くして自称「小説」の筆を執り始めた次第です。……》

 本作品以上に興味深いポイントを拾うと、こんなところが浮かび上がる。

(1)上記引用には(この作品に籠められた)この作家の全生涯が現れている。

(2)この後段の自問自答は、人がどのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようとしているか、その端緒が表現されている。

(3)このような径庭を経て読者の前に現れた「小説」は、すでに作家の生涯とは別物となり、それ自体として読者にも作者にも向き合っている。

 この(3)を「後始末記」として話したのが、今回のささらほうさらの会であった。

 まず(2)から解説する。

 私たちヒトがどういう風に物事を腑に落として納得しているか。実は作家自身は「なぜ小説を書くのか」を腑に落とす必要はない。(1)のような内発性が腑の裡から湧き出てくるのだから、(2)はまったく読者へのサービスである。読者は小説をどう読むか。これは作家が口を出す領域ではない。どう読まれようが、作品はそれ自体が社会的な他者であり、読まれずに神棚に飾ってあったって枕代わりの積ん読になっていても作品は作品である。だからその作品の出来に驚いて、

《さて質より量のこの大冊は……態々計測してくれた所によると厚さ、1.1×10ミリメートル、重さは6.5×10²グラムもあり、中味は寝っ転がって読むに相応しいお気軽なものなのに余りに厚いは重すぎるはでとてもじゃない寝っ転がっては腕が三分と持たないとの由》(「始末録」p1)

 と厚さ重さを量って驚きと歓びを表す人も現れる。この作家は、さらにそれを上回り、

《因みに偏執的なまでの統計数字の好きな私ゆえこの冊子に収容された蟻の如き文字の全長を計算したところ約2200メートルと出た。JR川口駅から南行車両に乗ると荒川、新河岸川両鉄橋を渡って東京都北区域に至る距離だ。またこれを水平方向でなく垂直方向で高さとして考えると雲取山の頂を下に見ることになる》

 と「小説」にびっしりと埋め込まれた文字列の距離の壮大さを計って戯(おど)けてみせる。このジョークもまた、この作家の身を挺した一面を反映しているのだが、それはまた後に記すことにする。

 ではなぜ読者は「どのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようと」するのだろうか。抑も「ワタシの自然(じねん)」というのは、何か?

 人が何かを納得する内的な経路には、そりゃあそうだよなあという共感というか心に響くものがなくてはならない。必ずしも同感というのではない。そうだよ人ってそういう異質なものへの関心がどこかに潜在しているんだよねと響くものがないと、まるで他人事になってしまう。人の納得の経路は単線ではない。複数の、相反する動きも人の胸中には組み込まれている。それは経験であったり、どこかで触れた知識であったり、何時知らず身に備わって身の裡に潜在しているコトゴトであったりする。小説を読むとその一つひとつが表現を通じて取り出されてくる。その感触が、自分の発見であったりするのが、面白い。むろん「発見」というのは言葉で意識することとは限らない。ワクワクするのも、ハハハと笑うのも、ヘエと感じるのも自分の発見である。こういうことがなくては、読む甲斐がない。

 いやこのワタシの「自然(じねん)」は、小説を読むことに限定した話ではない。人が世の中と接してそこに生起するモノゴトに関心を傾けるのは、ことごとくそのデキゴトにジブンが映し出されるといっても良いほど、ワタシと世界は深く関わり、緊密に相互の関係を紡いでいる。ワタシはセカイの現れなのだ。それが人の心裡と環境や情報との結びつきである。もしこれがなければ、その世界は単なる素知らぬ外部となりワタシにその存在すら感知されない。感知されると、見知らぬ世界となったりジブンにはワカラナイ世界となり、そのようなこととして身の裡に潜在するようになる。世にあふれる情報や専門知は、それを伝える「権威」に介在されて人の裡側に入り込み、さまざまなことが相乗していつしか人の無意識に定着する。それが「自然(しぜん)」である。それは、したがって、人の数だけ「しぜん」があることを意味する。私からすると、私のワタシ以外の他者のワタシが無数に(というか世界には80億人の数だけ)存在するわけだ。

 ところが読書というのは、意識的に私が触れる他者のワタシである。本を読むとき、最初の50ページくらいが一番力が要る。この本が何をなぜどう扱っているのか、まるで見知らぬ人とであって、その人とワタシとの接点を探るのに、思いが総動員されるからだ。ようやくその接点が感じられる頃、読者はその作品の世界にすっかり惹き込まれ夢中になっているか、イヤこれは読んでもしょうがないと見切りをつけるかしているというわけだ。もちろん小説に限らない。映画でもドラマでも、最初の部分で(制作者側から謂うが)接点をつくらなければ視聴者に見放されてしまうから、関心を惹き寄せるためのいろいろな仕掛けを講じる。それと同じだ。ここにワタシの「自然(じねん)」が介在している。

 作家・鈴木正興は「ごくごく狭い交流範囲内」の読者に向けて、手書きの《自称「小説」謹呈の御挨拶》を「まえがき」か「あとがき」かの代わりに添えたのは、作家としてのデビューを、ワタシの「自然(じねん)」と受けとってよという「近況報告」でもありました。そう受けとらないと、なんだよ「あとがき」を書くなんて、村上春樹と同じじゃんと(2年も村上に先んじているのに)思われてしまうことへの恥ずかしさ出合ったかと思うほどだ。作品は出来上がって読者の手に渡ったときには、作家とは別の人格を持つものだからですね。

 それを知っているから、作家・鈴木正興は「後始末記」で、読者から寄せられた「感想」などを記したを紹介しながら、その最末尾に《感想文の番外篇としてもしこの作品が誰か別の人が書いたものだとして私がその読者だとしたらどんな感想を持っただろうと考えるのも悪くはないのでそうしてみる》と前置きして、こう記す。

《私の場合はこいつはいけてるとばかりその日から数日間読み耽って早々に完読しちゃってると思う。なぜならこの小説、自分の書き方の流儀にぴったりだし、殊にはドレミファソラゴトの音感が私の身体的波長に符合しているからだ。早々の完読後こんなふううなものだったら儂にも書けるかもしんねえ、死ぬまでの執行猶予期間中に何とか書いてみてえもんだと寝不足気味の目をしょぼつかせながら独言(ひとりごつ)したものである》

 まだ子離れできない親のような風情が漂う。ひょっとするとこれは、わが子はわが人生畢生の作品と言いたい、この作家の無意識の心持ちが籠もっているのかもしれない。「生涯に一篇の小説を書いてみたい」という思いを成し遂げた全力投入の精華というに相応しい、慈しみ方である。いいなあこういう親父、と私は羨ましくも思う。いま私はこうして文章を書いているが、産みの苦しみを感じつつ絞り出すように作品を創り出したことがないからだ。しかもこの作家・鈴木正興は、この作品を「近代小説」のように読み取ろうとする私のワタシのクセを拒絶して《自称「小説」謹呈の御挨拶》で次のように謂う。

《「小説」と言うと、例えばこの世の不条理、社会の裏面、人間固有の宿痾、生と死の相剋、愛憎の悲喜劇、人生とは世界とは翻って己自身とは等々の抜き差しならぬ問題意識を内在させた仮構空間に違いなく、今そこにある現実の事象と人間の在り様を交叉させながら「ストーリー」として紡ぎ上げるものなのでせうけど、それはあくまで「近代小説」です。ゲージュツとしての「小説」です。考えてもみて下さい。そんな畏れ多いもの小生に書けるはずありません。能力的にも、また嗜好の面から。小生謂う所の「小説」はそうした近代的なものとは無縁の、まあいづれ自分の思い付きに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく、世に問うもの、人に訴えるものはこれっぽっちもありません。自分は却ってその無近代的な所が取り柄とさえ思っています。》

 そうなのです。この作家は、作品の実在そのものが総体として「近代批判」だと位置づけています。イヤそう言うと、批判対象が狭くなる。「近代」とか「前近代」という「近代」を前提にした遣り取りではなく、それを超越した(その論議枠を取っ払った)「無近代」に位置づけて、「生涯畢生」の、つまり彼の全生涯を掛けたアクションとして突き出している。それを「近代批判」と読み取るのは、「近代」にどっぷり浸かっている自己意識の読者・ワタシの所業なのですね。

 そう考えてみると、作家・鈴木正興はその存在そのものが私にとっては、全身ワタシ批判と読み取れる。付き合い始めてもう16年になる。若い頃の、何処へ向かうかワカラナイ時期のことを思い起こしながら、長くも面白くも刺激的であったなあと振り返る。それが『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』を読んでいると、ふつふつと湧き起こってくる。江戸と場を映しているが、まさしくこれは「正興生涯遊學実録」というに相応しい場面に満ち満ちている。人は生涯に一冊は小説が書けると、どなたであったか言っていたが、なることならワタシも書いてみたいと、思ったりするのである。

2023年4月29日土曜日

賑わいが煩わしい

 今日からゴールデンウィーク。まだ現役の勤め人はこういうときしか休めないから、長旅を計画し混雑の中に身を置いて移動する。えっ待てよ、私もそうしたっけか?

 二度ほど計画したことがあったことを思い出す。一度は屋久島へ行こうと計画し、飛行機の切符もとった。カミサンが日本百名山制覇をやっていた頃だったので私も付き合おうとしたのだったが、飛行機に搭乗するのに新幹線に乗るような気持ちで言ったものだから、まだ20分も前だというのに、乗れなかったことがあった。3泊4日くらいの山登りの荷物を背負ってとぼとぼと家へ帰ってきたことを覚えている。

 また一度は、勤務して三十年に一度3日間の休みが取れるというのを連休につなげて東南アジアの最高峰・キナバル山に行ったことがあった。これも、すでに台湾の山を歩いていたカミサンの発案で旅行社の企画に乗ったつもりだった。私にとっては初めての外国旅行。ところが、参加者が4人しかいない。でもそのうちの一人、アラサーの女性が旅慣れているて、現地ガイドとのすべての交渉と乗り換えなどの世話をしてくれると事前の打ち合わせに行ったカミサンが安心した様子であった。マレーシアのクアラルンプールで乗り換えてボルネオ島に渡る。そこで現地ガイドと合流し、キナバル山に上ったあとオランウータンの森とウミガメの産卵を見る観光つきであった。標高4千メートルを超えるキナバル山は面白かった。高度障害にもならず溶岩ばかりの斜面を上る達成感は、後に海外の山へ向かう跳躍台になった。それ以上に印象深く記憶に残っているのは、案内役・アラサーの女性の母親が亡くなったと現地ガイドへ連絡が入っていたことだ。じつは山へ入る直前の山小屋で知らせを受けとった現地ガイドは下山後に彼女に知らせることにしてキナバルへ登った。下山後にそれを知った彼女はすぐに特別手配した便で帰ってしまった。その後の観光と帰国は、私のお役目になった。オランウータンもウミガメも興味深かったがそれ以上に帰国までの乗り換えや手続きなどすべてが初めてのことだったから、あれこれ訊ねながらの緊張した行程が思い出される。

 たぶんそれ以外のゴールデンウィークは、子どもを連れて近場の山へ行ったくらいの日帰りの旅。混雑を承知で飛び込むことはしてこなかった。退職後もこの連休期間は現役の勤め人に場を譲るような気分で、家にいて過ごしている。

 ひとつ気づいたことがある。先日バスツアーの日帰りに行ったときのことは記したが、そのときのこと。あしかがフラワーパークの散策の折、できるだけ人混みを避けて歩いたこと。振り返って考えてみると、ワタシはヒトの群れる中に身を置くことが嫌いなのだ。観光旅行へ行きたいと思わないのは、人混みがイヤなのではないか。ヒトと群れるというのがキライなのではないか。どうしてと問われると返答に困る。ご近所の散策というと、ついつい見沼田圃に足が向く。町歩きと行っても、人気の少ない住宅街の、それも樹木が植わっている森の気配が漂う場所を選ぶようにして歩く。あるいは山へ向かう。山があるからと言うよりはヒトがいないからそちらへ足が向くのではないかとワタシのクセに気づいたのだ。

 ヒトと語り合うのがキライというのではない。夜分トイレにいって戻ってみたら自分の寝る場所がなくなっていたというような山小屋で一夜を過ごすのは勘弁して貰いたいが、ほどよい数の登山者がともに過ごすのはイヤだと感じない。この感触は何だろう。

 男ばかり五人兄弟と狭い家の中で育ったことが身の体感をつくったと思うから、群れていることに忌避感はない。だがそれが、同じような熱狂を共にしているような場であると、できるだけ遠ざかっていたいと思う。映画や演劇は席は共にしているが、抱く感懐はまったくそれぞれのものだから気にならない。だがスポーツ観戦はご勘弁の方に入る。

 この対比が教えていることは、ワタシは他のヒトと興趣を共にするというのがイヤなのかもしれない。たくさんの兄弟の中にいると、序列は自ずから生まれる。言うまでもなく年の順が一番に身につき、兄の振る舞いを真似して弟が背伸びするということも、よくある話だ。兄弟それぞれの振る舞いが受ける周りの大人たちの賞賛も、序列に加わるか。つまり似たようなことなのに同じではないという振る舞いの美意識、価値意識が身に刻まれる。少し大きくなると、なぜか、周りの評価に反発したくなる。それも身の習いになる。

 それが一人のワタシだけではなく、多数の人々のワタシに、その置かれた「関係」の中に於いてそれぞれに刻まれ、身の習いとして無意識に沈んでいく。それはいずれ、ワタシって誰? ワタシって何? と自己を問う時節を迎え一人前になっていく。

 ワタシの固有性が際立つような振る舞い、技、際立つ感性・感覚・思索・言葉。状況把握や理屈、レトリックが語り口を通して、評価を受ける。それぞれに実は社会的な力関係が埋め込まれていて、それを感知しながら「かんけい」を紡ぐのが「空気を読む」ということになる。

 それが多くの人々の共有する「かんけい」となると、何時、何処から、誰がどのように見ているかによってその時、その場の固有性である語り(ナラティヴ)が、情況の連続性と時の流れを組み込みこんで物語り(シトーリー)となり、もっと長いスパンで組み立てて歴史(ヒストリー)になると、もはやヒトの固有性というよりは社会や時代の共有する規模の壮大さに気風や風潮、世界観と呼ばれるものとなる。

 また、そうした人類史的な歩みを、神の目で見るようにして鳥瞰した世界観や価値意識が、学校教育やTV家新聞・書籍などのメディアを通じて本人の意識することなく刷り込まれ、ヒトがジブンに気づいたときにはすでに身の裡深くに沈んで無意識になっている。だから実は、イイとかワルイとかいうことではないのだ。ジブンに世界が現象している。

 私を無化していえば、ワタシを借りてセカイが現れている。ワタシからいえば私がセカイだと。イイとかワルイというませに、ワタシが事実だということである。こう考えるところに「我思う故に我あり」を位置づけると、なるほどと腑に落ちる。

 そんなところから、賑わいがキライというワタシをみつめると、ヒトそれぞれのワタシを無化するようにして世界に熱狂することを忌避しているのかもしれないと感じる。他のヒトにも、ワタシの来歴に目をやって、人類史を背負ったヒトとしてのジブンを起ち上げなさいよと呼びかけたい気持ちになる。

 その反面で、そんな理屈はないよとワタシの内心が呟く。ヒトとしてのジブンを意識するというのは、ヒトをそのように限定することだ。ただ、いま、ここに存在するジブンをヒトとして承知することが、現実存在としてのワタシ=ヒトを受け容れることだ。意識することは、意識したストーリーやヒストリーにジブンを限定して世界を狭くしてしまう。消費的であると謂われようと謂われまいと、そのように振る舞うジブンが、人類史そのもののもたらしたヒトの姿だと訴えている。

 容易に一つの物語りに収めきれない。逆に収めようとする私のヘキを発見する。この問いは、堂々巡りになるが、問い続けなければならない自問自答のように感じている。

2023年4月28日金曜日

「ささらほうさら」の源流(5)ワタシの「自然(じねん)」

 こうして半世紀以上に亘るささらほうさらの源流を総覧していると、ワタシの学生の頃からの関心の傾け方が「浮世離れ」していたことに気づきました。目前に生じているコトゴトから一歩外して、そこに振る舞う人々を眺めているような面持ちです。どうしてそうなったか。上京してきて受けたカルチャーショックで、この人たちと競り合うよりも見てみようという心持ちになったことが大きく作用しているかな。そこへ60年安保の勢いに乗って政治的に活動する人たちの、言葉はむつかしく知的だが理屈に走って宙に浮いた姿が、なんか違うなあと感じられたこと。加えてステップアウトした立ち位置が事態がよく見えると宇野経済学を入口に学んだ方法論的哲学が影響していたかなあ。人の動きを鏡にしてワタシをみる視線は、そのようにしてゆっくりわが身の習いになって行ったように思います。

 二重焦点の空間の中で私は、ささらほうさらの源流グルーピングに於ける自分の立ち位置をマッピングして自ら振る舞うようになっていました。何もかも目の前で起きていることがすべてわが身の反照に思われて、退屈はしませんでした。後に、「突出した癖の強い思想家」の強烈な攻撃を受けたとき何故、このグループを辞めなかったのかと問われたこともありました。そうかそんなふうに彼を(そして私を)みているんだと、その人の受け止め方を鏡にしてワタシを感じている私の次元を意識したことを思い出します。他人事のように眺めていたのかもしれません。岡目八目というか、門前の小僧というか。

 先にも述べましたが、「突出した癖の強い思想家」は本当に率直に自分の印象や感想をすぐに言葉にして発してしまうワルイ癖がありました。自分に正直だったのは確かです。それがしばしば言葉を掛けられた人やその関係の人たちを痛く傷つけるのも目にしました。それで顔を出さなくなった人もいました。この思想家自身が自らの言葉で傷つけたことを何年も悔やんでいたこともありました。十数年以上経って、傷つけた人が重い病で入院したと聞いたとき見舞いに行くという「謝罪」の仕方をしたこともありました。彼は日頃からあれこれと細かく日誌をつけていたようで、それを読み返しては反省することを繰り返していたようです(それと同時に、相変わらず反省もしない自分の心底に似たような振る舞いをするヒトには強烈なパンチを繰り出していましたから、大変だったろうと思います)。つねに世界から押し寄せてくる鏡を前に、そこに映るわが身の無意識と向き合って呻吟していた彼の姿。それにワタシの知らない世界を感じて、私はワタシの卑小さを思っていたのでした。

 また彼に似て癖の強い文芸評論で後に大学教授になった私の親しくしていた人が、この「突出した癖の強い思想家」のことを、「あの人には用心した方がいいよ。底のところで信頼できない人だよ」と私に忠告してくれたこともありました。ああ、どこかで同じ匂いを嗅ぎつけているんだと、私はむしろ、ともどもに私の畏敬する人であったが故に、自分が対極ののほほんとした世界の匂いを持っているんだなあと気づかされたものでした。

 不惑、知命と十年単位でワタシの自己意識を先に記しましたが、仕事現場での関わり方について私が知命の頃に身につけようとしていたのは、本を読んでも映画やドラマを観ても、先ずできるだけそのまんまを受けとることでした。作家や制作者はソレを面白い、意味あることと思ってつくっているでしょうから、その面白い(と思っている)次元が何であるかを探り当て、ソレがワタシの考える次元とどう違うか、その違いは何に由来し、その違いは世の中にどういう効果の違いをもたらすかと思案するように努めました。作家や制作者ばかりでなく、ヒトのさまざまなる舞いをそのようにみていると、わが身の中にソレに似た衝動やその萌芽があることに気づきます。それを梃子にして共感し、何故そうするのだろうと考えていくと、アメリカのトランプにしても、それに強烈に反発する左翼インテリゲンチャにしても、ワタシのセカイに位置づけることができます。もちろんワタシのセカイに組み込めない要素が多々あることはワカリますから、いつもワタシの思案は「とりあえず、こうだ」という限定つきです。ワタシの(生きている)現場ではそうだと次元を限定しておけば、いつでも知らなかったコトを組み込んで再評価し再構成することができます。生きるというのは変わることですから。

 つまり、唯一絶対神的視線からすると、いつまでも揺れ動く、不確定の思案です。でもそれが生きていることだから、致し方がないとジブンをみています。これがワタシの「自然(じねん)」であり、空っぽの本体なんですね。この「自然(じねん)」がもっぱら気に入っています。神と仏の違いをいつか書いたことがありますが、この「自然(じねん)」がワタシの自然(しぜん)、つまり神です。小僧の神様ってことですね。ははは。と笑っているのは私がだんだん仏になっていっているのだと、ちょっと思っています。なんだただの好々爺じゃないかと、大黒さんのふくれたお腹を思い浮かべながら苦笑いしている毎日です。

2023年4月27日木曜日

「ささらほうさら」の源流(4)個が自律に向かう

 個々が起ち上がったというのには、私の目にはそう見えたという視点が伴う。それを抜きにして、あたかも神がみているように「個々が起ち上がった」と客観的なデキゴトのようにいうのが、その頃までの知識人の台詞であった。もし前回紹介した、一人いたという「突出した癖の強い思想家」がそうであったら、癖が強いとも言わないし、ひょっとすると思想家とも呼ばなかったろう。

 1968年に象徴的に集約される思想情況は吉本隆明の『自立の思想的拠点』に表現されている。思想的な軸が何によって支えられているかを、それまで人類史が蓄積してきた知的堆積物をひと度チャラにして、銘々各人が自問自答することを(知識人を自称する人たちに)要求するものであった。ささらほうさらの源流となるグルーピングの、一人の「突出した癖の強い思想家」は、いち早くそれを手がけ、必死に自分と格闘していた(と、出合って後の私は受け止めた)。

 千葉県九十九里の北の方に位置する田舎町の石材店に生まれ、中学を出てすぐに東京に出てきて新聞配達をしながら定時制高校に通って国立の四年制大学に学んだ彼は、「苦学生」という言葉に汲み尽くせない世の中の抑圧と非情とを身に刻んできたと思われた。1960年すでに大学に籍を置いていた彼にとって、60年安保の政治状況の中でいろいろな政治党派の言説の渦の中にいて、流通する言葉の不確かさと空疎さに苛まれていたのではないか(と知りあって後の私は想像している)。

 1960年代の後半に出合ったとき彼は、人の口から吐き出されるいろんな言説が、何を根拠にして(そう述べて)いるのかを恒に常に問いかけた。それはまるで、自立の思想的拠点(と吉本の言う「大衆の幻像」)を彼自身が探し求めているようであった。私からみると彼はすでに自立の思想的拠点を身に備えていた。私の育ったのほほんとした環境に比して、彼の舐めてきた辛酸は世の人に対する見極めを鋭くし辛辣であった。でもひょっとすると彼は、自身のそういう人柄を、苦々しく思い、その衣装を脱ぎ捨てたいと思っていたのかもしれない。彼が批判したり非難したり反問する対象が、何処に身を置きどのように状況を捉えそれがあなたにどう関係するのかを問う。その言説を身の裡に問い降ろし腑に落としてさらに胸中に構成し直して、鋭い槍を突き出すように言葉にしていった。批判や非難や怒りというか憤懣を繰り出すことによって自らの「幻像」を描き直そうとしていると、文化的にはまったくズレた岡山の地方都市から出てきた私は、自身の身に照らして感じていた。

 ささらほうさらの源流のグルーピングにかかわった人たちは、10年、20年というスパンで振り返ってみると、月2回の集まりの毎に何かを感じそれを反芻し、日々のわが身の在り様に問いかけ、自らが変わっていくことに挑戦していたのだと、わが身を重ねて思う。一つは自身の言説であり、もう一つは身の在り様であり、それらを繋ぐ感性や感覚、一つにまとめて関係を感知する「心」のイメージ。そしてそのようにして感受する情況に自らがどう位置しているかをマッピングして、自身の振る舞いを定め、どういう言葉を伝えるか思案する。細かく分節化するとそういうことになるが、それらをいちいち思案していたら、とても現場に起こる事態に即応できない。躰がほとんど反射的に反応するように身の習いにすることがワタシの習慣になった。

 ささらほうさらの源流のグルーピングは、この「突出した癖の強い思想家」がいたことによって、自分の言葉で喋ること、書くことが気風となり、ただ単に個々人は違うという個性次元の話ではなく、自分の得意技をもってこのグルーピングに位置することを各人に要求するものであった。

 それと同時に、「機関紙」の初代編集長を筆頭とする「遊びをせんとや生まれけむ」人たちの存在が大きかった。それを取り込んだ「遊事」や「運事」、作業変格活用によって社会的な気風とは異なる関係の風景をつくっていったのであった。軸になったのは身のこなし、立ち居振る舞いであった。己の抱く人に対する印象や感懐を口にしないではいられなかった「突出した癖の強い思想家」は、その動きによって逆に刺激を受け、面々との関係を作り上げ、自らの身に蓄積された身の習いを浄化再編しようとしていたと、ワタシは言葉の端々に感じていた。

 いま振り返って図式化してみると、ささらほうさらのグルーピングは二つの焦点をもって楕円軌道の気風を描いていたと空間的には言える。それに時間軸が加わり螺旋軌道となってここまでの半世紀を辿ってきた。二つの焦点の一つは思索言説の固有性、もう一つの焦点は躰に刻まれた無意識あるいは習慣化されて意識の奥深くに潜在する身の習いであった。

 前者は「学事」と呼ばれ、後者は「遊事」とか「運事」を含む作業変格活用、「遊び」であった。前者は知の世界の地平に繋がり、後者は血の命脈に結びついていた。当時それを、知意識人と血意識人と表現して面白がり遊んでいたのだが、この二重焦点の動きと関係があったから、ささらほうさらの源流のグルーピングは長く続いたのだと私はワタシの位置づけと変容を振り返って思っている。

 簡略に十年単位で私のグルーピング内での位置づけの変容を言い表すとどうなるだろうか。アラフォーのころワタシは自身の存在領域を限定して生きることに専念していた。まさしく「不惑」であった。仕事もそうだが日々の暮らしも含めて、一つひとつ、いまその現場で起こっていること、そこでの私の振る舞いがワタシを問うていると受け止めた。自問自答である。もっと広い次元とかもっと高い次元でそれが持つ意味を思案するなどではなく、その現場でいま生じている事態がワタシのセカイであると自己限定することであった。

 それはワタシの外部に世界が屹立していることを承知することでもあった。それが普遍世界としてワタシのセカイに触れてくるところで私との関係が生まれ、私がそれを意識的に受け止めたところでワタシのセカイになる。その余はワカラナイ世界だ。そう位置づけてみると、いかにワタシがちっぽけな存在であるかが浮かび上がる。いや、ちっぽけと言うどころか、外部世界にとってはまったく取るに足らない存在である。ちょうどそのころどこかの気象学者がバタフライ・エフェクトと発表しているのを読んだ。一羽の蝶の羽ばたきがメキシコだかテキサスだかに竜巻を起こす。つまり世界は微細にかかわっているという学説だったが、これは私にとって神は微細に宿るという言葉のエビデンスのように響いた。私の現場でワタシは何をしているのか、なぜそうしているのか。そう自問自答することが世界にかかわる私の立ち位置である、と。

 これがアラフィフの頃にもう一皮剝けたと振り返ってさらに思う。二重焦点の螺旋運動の中で「知命」を知った。天命を知ると50歳を別称するがこれは、自身の「在り様の現在」が「天命」であると見極めることだと気づいた。これは仏教用語でいう諦念ではなく、全き自己肯定を意味した。自身の身の裡に湧いてくる欲望ではなく、今此処に於ける自身の在り様がワタシなのだという見極め。これは演繹的な思考法の毒気がすっかりわが身から抜け、現象論的なコトの受け止め方へ転換していたことを示している。ワタシが何をしたいのかと問うと、それは空っぽ。身を置く現場の成り行き任せ。わが感性の赴くままに振る舞い、それに反応する人々の姿が変わるのと応答しつつ、向かうところへ向かう。それは私の自然感にも相応する境地へと退職後に向かう素地を築くものであった。

 そのころ「突出した癖の強い思想家」は何冊もの著書を上梓して教育社会学会に招かれるなど、知意識人としての階梯を上っていた。彼の持つ言説の特異性もあって、論壇の若手哲学者や教育学者立ちにも「何かに依拠するのではなく、あなた自身の言説で十分論壇に通用する」とけしかけられていたのを、私は傍らにいて耳にしていた。彼自身は、しかし、教育現場から繰り出す人間論、社会論、政治論を紡ぐ立ち位置を崩すことなく、ささらほうさらの源流のグルーピングに身を置いていた。

 ところがもう一つの焦点を為していた「遊び」の初代編集長は、70年代の前半で高校教師という型にはまった立ち位置に身が耐えられず、さっさと退職して不動産屋に転身していた。言うまでもなく活計を立てる身過ぎ世過ぎ。その後塾の教師や建設工事現場の作業員、中学校の用務員などを転々とし、そこでもエクリチュールの剰余を排出して「あそび」を貫き通して「ささらほうさら」にしていたのであった。これは私の暮らし感覚が全くの小市民であることを反照することでもあった。これまでも折に触れて述べてきたように作家・鈴木正興の実存は、つねにワタシの在り様に対して批判的に定立し、畏敬の念を呼び覚ます。

 こうして私は、ささらほうさらにおいては、おしゃべりな好々爺として、いま籍を置いている。言葉を交わす面々が私の物書きの原動力になっているのである。

2023年4月26日水曜日

風景全体が見所という公園(2)装う射爆場跡

 さて、栃木県「フラワーパーク」から茨城県「国立ひたち海浜公園」へ移りました。高速道路があってこその「日帰りツアー」です。

 海浜公園は広い。海に面して、南北二つの区画に分かれ、真ん中を高速からの連絡道路が貫いています。その半周ぐるりを回って駐車場に入ったから、その大きさがわかります。「国立の公園」だとその時気づきました。どうしてこんなところに? よく足を運ぶ東松山の「森林公園」も国営ですが、これは1974年設立の明治百年記念事業でした。立川の昭和記念公園は冠通りの記念事業。この「国立ひたち海浜公園」は何なのでしょうね。中央部近くに大きな観覧車が目に止まります。遊園地を意図したのでしょうか。帰ってきてから調べたら元米軍の射爆場であった土地が1973年に返還されて、「公園」とされたとありました。50年も前のこと。古い来歴を持っていたのですね。

 この時期TVや新聞で報道される如く、春のネモフィラと秋のコキアで知られています。後で考えてみると、観覧車はこの公園の象徴的なものでしたね。ネモフィラも一本一本はブルーポピーを小さくしたような花です。薄青いのが一般的。白いのもあります。一つずつをみる花というよりは、丘全面をこの花が覆って彩る景観がウリ。ここも、足利のフラワーパーク同様、風景全体がポイントでした。

 ネモフィラが植わった高さ30mほどの丘の上へジグザグに続く歩道をたくさんの人が上っています。花は一年草、周りを浅緑色のスギナなどが生え、ネモフィラの生長に必要な日影をつくっているのだろうか。でもほとんどそれは今ネモフィラの花の背景を務めています。ネモフィラは一年草だそうですから、毎年植え替えているのでしょうか。秋のコキアもこの丘に植えられて、夏の黄緑から秋の朱色へと葉色を変えていくのがウリになっています。やはり毎年季節毎に植え替えられているのでしょう。人の手によって丁寧に育てられていて、全体としての風景をみるべきものとしてつくっているのですね。足利の藤の花同様、出来上がりを見越して植え付け、剪定していく。これはもはや自然ではありません。壮大な盆栽。囲われた日本庭園のセンス。「日本の縮減文化」と韓国の評論家が言っていたか。

 野草観察を得意とする師匠もそれを感じ取っているのか、手を入れる人の作業を思いやって風景を味わっているようです。そうだ、観覧車はそれを見せようと公園の中央に位置してゆっくりと回っているのだと全体構図を読み取ったわけです。でも残念ながら観覧車には辿り着けませんでした。

 ネモフィラの咲く「みはらしの丘」に上ると、東に太平洋に向かって南北に広がる茨城港常陸那珂港区が見おろせます。その陸側には、火力発電所、日立建機やコマツといった名の知れた工場が建ち並んで、この公園に抱きかかえられているようでした。

 そこを降りて、公園の北側エリアの西の橋に行ってから中央を走る道路に渡した橋を通って、バスの駐車場に行こうと考えたのですが、1時間半の散策タイムではとても回りきれません。歩いている途中でそれに気づき最短距離を通ってバスに戻ったのです。集合時刻の5分前に到着したときには、ほかの方々はすでに席に座っていて、何だか遅刻したようなばつの悪さを感じました。

 実は足を運べなかった南側エリアには観覧車のある公園全体の監理中枢部。その南向こうにいくつものフラワーガーデンが設えられています。さらにその南には、砂丘ガーデンとか香の谷と名付けられた散策道があり、また米軍の射爆場の後だったと思われる大砂丘が広がっていると案内地図には記されていました。おそらく倍の散策時間があってもやっと回れるかどうかだと思いました。エリアの西中央部には休憩所やお店が軒を連ね、子ども連れが遊ぶにも十分な場所でもあるようでした。月曜日というのに、若い人が多かったのも、高度消費社会に入ったサービス業の時代を象徴していることのように思いました。

 そうそう、このツアーには、「いば旅あんしんクーポン」という地域応援クーポンが2千円/人、付いていました。師匠に聞いて知ったのですが、ツアー代金そのものも2割引。とすると併せて4千円/人の税金が投入されていたわけです。だがクーポンを使う時間も使える場所もありません。ガイドもそれを知っていてクーポンが使える高速SAに30分間休憩を取って使うことになりました。何とか2千円分を使おうとあじやほっけの干物などを買い求め、う~んこれって、いいことなんでしょうかね。心配になりました。

2023年4月25日火曜日

風景全体が見所という公園(1)身の置き方

 師匠に誘われて「観光地」に日帰りで行ってきた。栃木県足利市の「あしかがフラワーパーク」と茨城県の「国営ひたち海浜公園」。前者は「ふじのはな物語」がウリ。後者はネモフィラが真っ盛り。TVの画面ではよく目にしていたが、行ってみようという気にはなったことがない。師匠は、一度は足を運んで感触をみておくものと思っているのか、ときどき新聞などに載るツアー企画をピックアップして、誘いを掛ける。私は自分から足を運ぶ動機を持たないが、折りあらば何でもみてやろうという前向きの気分はあるから、誘われて断ることをしない。

 朝6時過ぎに家を出て夕方7時頃に帰宅する一日バス・ツアー。日程からお弁当まで全部お任せ。その上、現地では時間を決めて自由散策だから、歩く分には目新しい分だけ面白い。東北道を走るバスからは奥日光の連山が春霞にかすんで見える。でもガイドはこれも見所として紹介に努める。意外だったのは、茨城県の北東部、ひたちなか市の方からみた筑波山。見事に美しい三角錐。いつもは南や西からみているから双耳峰だが、そうか、みる場所でこうも変わるかと思うほどの姿であった。

 あしかがフラワーパーク駅があるのを知った。小山駅から新前橋とを結ぶ両毛線で40分ほどの駅は大勢の乗り降りを想定して回廊が設えられている。だがマイカーで来訪する人が多く、駐車場に入る車列が道路を埋め尽くし、畑や空き地などありとある場所に石灰の白線が引かれて駐車場にしている。駐車は「無料」というので車での来客が多いのだとバスガイドは言う。バスはそれを予測して時間を早め、また予め駐車場所を予約していたこともあってスムーズであった。9時20分ころ入場。

 いや、実に丁寧につくられている。両毛線に沿う北側から南側の小高い山との間に、正面ゲートを先端にした紡錘形の広い敷地にびっしりと花木が植え込まれ、それを見て回る散策道が張り巡らされている。人が多い。「只今TV撮影中。お静かにお願いします」という紙を持ったNHKのスタッフがいて、カメラが回っている。至る所の藤が紫色の花を垂れ下げ、地面を散り落ちた花びらで染めて満開を過ぎていたり、山盛り真っ白のフジの花が3メートルほどの高さから地面まで埋め尽くすように咲き乱れる。その前で背中をはだけたモデルが向きを変えて微笑み、カメラを構えた男性が右や左へと動きながらシャッターを切る。素人のスマホは自撮り棒を取り付けて一人であるいは何人かで撮影に余念がない。色とりどりのシャクナゲもボタンも栽培して名がつけられたツツジも、大盛盆栽の寄せ集めのように敷地を埋める。

 風景全体がフラワー公園だ。その中心がフジの花。5種類ある。一つの株が30メートル四方の藤棚に枝を広げ、高さ4メートルほどからたわわに2メートル近い花の房が無数に垂れ下がり、透き通るような薄紫の見事なおおいをつくる。ほのかな香りが漂っている。大長藤と名がついている。何本かの幹が寄り集まって径3メートルほどの一本の幹をなす。

 あるいはやはり藤棚から垂れ下がる大藤の幹は、痩せ枯れて中心部はボロボロとなり、それでも半径20メートルほどに枝を広げて、もう一本の同じように広がる大藤と藤棚の上で繋がって花をつけ、房を垂れ下げる。ここまで育てるには余程の手入れとご苦労があると思わせる。樹齢が80年から90年というから年数だけは私と同じようだが、いやこれは、かなわない。葉が外のフジとは違うキフジの房はいま咲き始めたばかりの風情。いずれこれがトンネルをつくるようになるには十数年を要するのかもしれない。楚々として控え目な感じがした。

 三脚の上に15センチくらいのフィギュアを載せ、その手先を穂歩に当ててポーズを取らせている男性がいた。三十歳くらいか。背景は向こう何十㍍かの藤棚に垂れ下がる見事な薄紫の大藤。人形の指には青いマニキュアが塗られている。着ている和服の柄にもフジの花がデザインされていてシック.だが目は大きな洋顔の藤娘。被り物はない。少し傾げた首が何かもの言いたげなのに言葉が見つからない気配を湛えている。なるほどこういう写真を撮ってインスタグラムとやらに載せているのか。無理難題を言って憚らないカノジョよりもこういうフィギュアの方がいいって言う男たちが増えているのだろうか。ちょっと分かる気がした。

 2時間くらいでは回りきれない。ましてハンカチの木や何じゃもんじゃの花も咲いていて、野草にまで目を向けると1日、2日でも足りないくらいと思われた。むしろ風景全体を味わうようなフラワーパークであった。そう言えば、照明のセットがあちらこちらに備えられている。若ければ夕方以降に入園というのも面白いかもしれないが、年寄りにはむつかしい。(つづく)

2023年4月23日日曜日

「ささらほうさら」の源流(3)個々が起ち上がる

 源流に集った人たちは、教育関係者ばかりではなかった。小中高の教師をはじめ、実習助手、事務職もいた。さらには、建築現場の監督、後には不動産屋も塾の教師も建設作業員や中学校の用務員も加わることになった。そんな多種多様な人たちが、思想的な結集軸も持たず、どうして「機関紙発行」という作業で、半世紀以上に及ぶ長い年月グルーピングをつづけることができたのか。グルーピングを「遊び」とする作法が貫徹したからであったと私は考えている。

 突出した癖の強い思想家が一人いた。彼を思想家と私が呼ぶのは、彼の人に対する方法的な問いかけにあった。なぜそうするのか、なぜそう言うのかと、次元を変えて問い詰めていく。何かの党派的な荒波にもまれて鍛えられたかのように感じさせる喧嘩殺法。もしそれがドグマを提示して問うのであったら、たぶん鋭さが半減したであろう。だが、何が正解であるかを彼自身も知らない。問い詰められた人自身が自ら応えを引き出すしかない場の設定。1968年の世界的な思想軸の混沌時代を経て、私たちの存在理由を改めて問い直す時機でもあった。問うこと自体がつねに根源へ向かう刃を持っていた。もちろん回答もまた、次元を一つひとつ明らかにして誰が誰にどんな状況の中で、その言葉を発しているかを自問自答するように要求する厳しさを含んだ。もちろんそういう鋭い問いと受けとった者もいるし、何処か次元の違う言説としてするりと身を躱してきた者もいたと私はみている。半世紀の間にグルーピングを離れていったものも何人もいる。

 この思想家の癖の強さというのは、レトリックを駆使し、向き合う相手の言説の弱さを察知してキリキリと切り込む。考える隙を与えない深さを湛えていた。外面的には負けず嫌いで面目に拘る。喧嘩に強い。もし彼の言説が前面に押し出されていたら、このグルーピングは空中分解したであろう。救いであったのは、彼自身が問うている正解を知らない(と感じている)という問い方の感触にあった。

 その感触は、問いかけの裏側に彼自身の生育歴中に突き当たったさまざまなデキゴトと人に対する不信と、意に反して(相手をぶちのめすように)振る舞ってしまうこだわりにあると私は思っていた。彼固有の身に備えてきた執心が彼をそのように人に対して向かわせている。それは私にはワカラナイこだわりであり、私の田舎と異なる都会地に育ったが故に、身の裡に胚胎した(世間に対する)反逆心のように思えたのであった。

 前回も述べたように門前の小僧・近代人の私にとっては、プチブル・インテリゲンチャという「身につけてきた殻を脱がねばならな」かった。それが奇しくも集まった人たちの、社会的職業階層や職能、学歴、地方と東京という、経てきた経験や文化状況の違いと、それらが背負っている身体感覚の差異に現れ、その確執がワタシの内面に引き起こした心底に届くような壮大な渦巻であった。

 じつはそこに、「遊び」が作用した。「遊び」はかかわる人の職能や学歴、来歴を無化する。癖の強い思想家は相応の権威的ヒエラルヒーを身の習いとしても智慧としても身に備えていたから、誰が何処から何を発言するかにとても敏感であった。やはりセンスの良い実習助手が文化状況について述べたことを私は面白いと思い、その思想家も良く読みとっていると評価はしていたが、その実習助手という立ち位置をして、岡目八目というあしらいを崩さなかった。私にとっては意外であった。ああ、この人の権威はこういうことにも作用しているのだと、私はワタシとの違いに感嘆したのであった。

 初代編集長が原稿本数とガリ切り枚数をゲーム化したことは、そうした思想的な評価をも無化する目を育んだ。そしてこれは、身に刻まれた習いこそがヒトの核心であり、そこに足場をつけてはじめて言葉が通い始めると感じさせる、別件逮捕のような作用力を持っていた。

 同時に、身を以て言葉にかかわるという厳しさを目の当たりにして、面々はそれぞれに自分の内心との自問自答を続けた。と同時に、作業変格活用に於いては、自分の立ち位置を身計らって振る舞うことをもっぱらにした。1980年頃だったか、埼玉教育塾を起ち上げたとき、その公開講座に参加した人の中には、もっぱら裏方として働くメンバーを気遣って、何かとんでもない(時代錯誤的な)ヒエラルヒーがこのグルーピングにあるんじゃないかと問うた大学教師もいたくらいだ。

 こうも言えようか。人はさまざまであり多様ですと言っていたら、たぶん自身を位置づけることはできなかったであろう。ささらほうさらの源流という限定されたグルーピングの中で自らの立ち位置を自らマッピングする。それができたのは、「遊び」という仕掛けによって、全人格的な感触がそのままさらけ出されて表出し、受け容れられたからではなかったか。それによって、却って、職能や学歴や経てきた文化的径庭の違いを違いとして承知して、まさしく「遊び」の領域に於いて同等に位置するという立場を得た、と。個々が起ち上がったのである。

 私は初代編集長のことを「遊びをせんとや生まれけむ」人と評したことがある。まさにその存在自体が「無近代」を自称する如く、近代的生活にどっぷりと浸っている小市民(プチ・ブル)であるワタシに批評的であり、私の日常に突き刺さる振る舞いに満ちている。いま少し、その刺激的な部分に分け入ってみよう。(つづく)

2023年4月22日土曜日

「ささらほうさら」の源流(2)遊びという感性

 ささらほうさらは、実によく遊んだ。むろん遊ぶために集まったのではなかったから、「機関紙」の発行作業をメインに据え「作業変格活用」と称して「遊び」に変えたと前回述べた。そのときどきの「論題」に上がったのは、教育問題であり、学校現場の教師と生徒であり、教育行政であり、それらは政治経済情勢や文化状況と地続きであったから、1970年の頃の世相を反映して、ほぼすべての世界の問題が意識の上では主題となった。それを初代編集長は「学事」と名付けた。砂浜での三角ベースボールもソフトボールも「運事」となり、麻雀その他のゲームは「遊事」と呼ばれ、宴会・食事などと並んで集まりに欠かせないイベントとなった。

 いわば「ささらほうさら」の源流となる集まりがすべて「遊び」として受け止める気風が生まれていた。「機関紙」の発行というといかにもいかめしい集団のように思えよう。だがそこでは実務手配的な編集方針が提示されるだけ。せいぜい百号記念などの「特集タイトル」振るが、何を書くかは執筆者の勝手というちゃらんぽらん。殊に初代編集長のエクリチュールの「遊び」は際立っていた。初期の一ページ一文一千字の、最末尾に句点が一つあるだけ、読点なしでビッシリと書き連ねられたり、見開き2ページ分すべてを四字熟語で埋め尽くし、評論家の中森明菜氏をして「エクリチュールの剰余」と絶賛せしめるという「遊び」の境地を体現して見せた。これは、文字を書くという人の行為そのものを「遊び」として突き放し、大真面目に何かを論じることを根源に於いて揶揄うアナーキーな所業でもあった。つまりそれによって、ありきたりのコトをありきたりに書き記すのが如何に馬鹿馬鹿しいことか、世の中の論題としていることが狭い世界のこざかしい料簡に満ちあふれて如何に滑稽であるかを反省せしめるほどの皮肉に満ち満ちていた。

 それはつまり、ものを書いていること、考えている主体であるワタシは一体何者かを恒に常に問い続ける呼びかけにもなった。そういう意味で、作業変格活用に集う人たちの全人格的な交わりになる作風を形づくっていくことになったのである。

 遊びの精神は、しかし、それにとどまらない。いまや畢生の作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』の作家・鈴木正興となった初代編集長は、その「後始末記」において、こう述べている。

    《……左様な文字密集軍団を速やかに行進させる上で心したのが一種自律性を帯びた文体、身体性を有した文体と言い換えてもいいかもしれない。その律動乃至諧調が調子こいたテンポ感で以て密集文字軍団を丸ごと前進せしめたと思うのだが、その際助っ人として任務を果たしたのが所謂だじゃれ、うがち、もじり、なぞらえ等の言葉遊びでもうこれはふんだんに挿し入れられている》

 つまり「遊び」は、その場に魂を釘付けにして味わう一発勝負。余計な解釈を寄せ付けないで笑い、愉しみ、悲しみ、鬱勃たる気分を味わい、ホッと安堵する設えと先行きどうなるのかという開かれた心地にさせる。それだけでいいのだと、この作家は述べる。これは、それ自体が近代批判である。近代は、集積された過去を未来に向けて組み立て直す人の営みを現在のワタシの視点を主体として描こうとする思考法である。遠近法的視野が、人の数だけ入り乱れ、ドイツ観念論哲学はそれを精神世界の普遍理性として描き出そうとした。唯物論哲学もまた理性の罠から自由ではなく、唯一絶対神に代わる権威を科学と人に求めて、特殊・個別性を捨象して人間を単純化してしまった。その結果「神は微細に宿る」を普遍化しようと文化的には、イマ、ココのコトゴトを大切に感じ取り大事にしようと、取って付けたような人生訓に変換してしまっている。八百万の神という自然信仰の土壌で育ったわたしたちは、近代先進欧米の圧倒的な力に押されて「普遍」が統合されている唯一絶対神を知らないままに、人生訓を解釈して「普遍」に辿り着こうともがいている。私のワタシも、その一人であった。

 それを鈴木正興の「遊び」は笑い飛ばす。彼は音楽を聴くように、ものを書き落とす。彼の「戯作」も「近代小説」ではない、読んで面白ければいい、「立ち止まって考えては作者の本意に反する」とまで懇願して、「無近代小説」と自称する。

 だが、「遊び人」でない門前の小僧近代人(プチ・ブルジョワ)であるワタシは、これをアナーキーと受け止めることによって欧米近代との端境を明確にし、八百万の神・自然信仰への橋渡しを試みようとしている。普遍はワタシの遠近法的消失点にある。そこまでは八百万の神の如く、ありとあるコトがワタシの普遍である。ありとあるコトが普遍というのは、つまり「混沌」である。ありとあることを混沌/アナーキーと捉えることによって、絶対矛盾的自己同一という西田幾多郎の足場としようとしたことを、門前の小僧の身の裡に築けるかなと思っているのである。

 遊びという感性が、欧米的近代の鋳型に嵌められて育ってきたワタシの脱出口に見えている。そのために私は、まだまだ「立ち止まって考える」ことによって着てきた殻を脱がねばならないのである。(つづく)

2023年4月21日金曜日

「ささらほうさら」の源流(1)身体感

 足掛け3年、精確には2年と10ヶ月ぶりに「ささらほうさら」の集まりがあった。半世紀以上、毎月親しく付き合ってきた、いまは年寄りの老人会。80歳団子を筆頭に70歳以上が集う。いうまでもなく、サザエさんやののちゃんと違って、昔から老人だったわけではない。集まりの名も渾名も、向き合う場面によって代わっていた。面々も世の平均年齢のご多分に漏れず彼岸に渡ったものも何人かいて、限界集落ならぬ限界集団の態を為している。

 17年前までは月に2回、それ以降は月に1回のペースで集まっておしゃべりの会をもってきた。集まる人の数も二桁を維持し、時には三桁になることもあった。どうしてこんなに長続きしたのだろうか。

 何か使命感があったわけではない。雲の中の水分が空気中の塵などを核にして雨粒になり雨となって降るように、核になる塵があった。それを半月間で出していた「機関紙」があったからと、初めのうちは考えてきたが、ではどうして機関紙の発行作業が続いたのかと問いを深めると応えは雲散霧消してしまう。

 機関紙の主たる問題領域は「教育」であったが、実際の記事を眺めてみると教育領野に限らない。本に関するコメントあり、メディアの報道に対する批評があり、仕事現場の日常にみられる年齢や性や職能にまつわる問題も、事象に関するとらえ方、その感覚や思索など、言葉を軸にして遣り取りすることのできることが盛り込まれていた。しかしそれが記事になったからといって批評するわけでもなく、ああ、彼奴はこういう風に考えてんだ、此奴はこんなことを思ってるんだと、人それぞれの身に抱えている感覚や思索の感触を、これまた受けとる人それぞれに感じ取っていただけであった。何しろ初代の編集長が、「出すことに意義がある。内容は問わない」と言明してスタートしたから、その気風が染み通っていた。

 だが、当初の3年間くらい無料で3千部ほど配っていたガリ刷り十数ページの隔週刊誌は、受けとった教育関係の現場では「メイワクだ」と言われるほど刺激的であった。簡略にいうと、啓蒙的・平等的・民主的風潮が覆っていた教育現場に、はたしてそうなのかと疑問符を突きつけていたのであった。教師と生徒の位置関係を巡って教師は管理的であることを放棄できるのか。むしろ権力的に振る舞っているし、そうしなければ学校lは維持できないのではないか。「教える-教わる」という関係には、権力関係を抜きにできない「大人-子ども」関係もあろうし、「指導-被指導」関係が予めセットされている。それを抜きにしては教師-生徒という関係は成り立たないと切り込んでいたからだ。「メイワク」だから無料にもかかわらずカンパが寄せられていた。だが、発足当初に、支援を受けた義理を果たした後は「有料」にして、無料の押しつけ配布を止めた。発行部数は3分の1になったが、そのころから書く側も主たる論題から目を離すことができなくなり、集まってのおしゃべりにもテーマが現れるようになった。ほんの中心軸の数名がそのような言葉を交わすだけで、集まった人たちはそれを小耳に挟む程度。遣り取りに加わったわけではないが、その気風が身体感に伝わっていったといおうか。誰が意図したわけではないが、主たる論題を直接議題にして遣り取りしたことは殆どない。そもそれを直に論題にしていたら、十年も持たない内に消えていたろう。

 では、なにが長続きした主因か。

 これは初代編集長の仕掛けであるが、機関紙の発行に「遊び」を取り入れた。異議有馬記念という競馬模様のファクトを、原稿執筆本数、ガリ切り担当頁数などに絞って統計的に取り込み、面々を騎手に見立てて競わせたのであった。実はこれを動機にして原稿執筆数が増えたという事実は、まったく何処にも見られなかったが、原稿本数とガリきりを前面に押し出すことによって、書かれている内容は二の次という身体感を培ったのだと、いまになって私は思っている。何が問題になっているかは、周辺にいれば分かる。「分かる」という次元がいろいろとあるように、言葉が分かるだけでは、躰がついていかない。躰が分かるには、自らの在り様を批判的に見る目が備わらなければならない。それには気風というか作風というか、その場にいることによって身に染み通るように伝わり受け継がれなければならない。その振る舞い方の中ですでに、誰もが同じように振る舞うべきだという平等主義的なセンスは取り払われていた。啓蒙的なセンスも誰が誰に向き合っているかによって千差万別であると、微細な関係の作法を通じて、否定的に広まっていった。それともに、しかし、啓蒙的な要素を欠くことは出来ず、そうするときの(人それぞれの互いの)立ち位置の違いを見極める必要があると、周辺の人たちの立ち居振る舞いが伝わっていった。これは、他人を鏡とするとともに、それを反照して自らを対象化してみることを必然化していった。

 誰かが意識してそうするというものではなかった。印刷したものを折り畳む、帳合いする、封筒に入れる、のり付けする。その間にお茶を出す、夕餉の支度をする、片付けをするなどなどを、誰かが指示して分担を決めてするというよりは、気づいてものが手近なものに取り付いて手早く済ませるという身のこなしが、伝染していったと私は思っている。それを初代編集長は「作業変格活用」と名付けて意識の目に止まるように図った。むろん作業ばかりではなかった。歌を歌い、ゲームをし、野球をやり、麻雀をやるなどの「遊び」を通じて、いわば全人格的な関わりの場面が展開したことによって、頭出考えるよりもまず躰に聞けという気風が生まれていた。これがあったから、月2回の集まり、日帰りから泊まり、年2回から3回の合宿というハードな関わりが頭でっかちにならず、身のこなしを通じて全人格的な相互浸透が常態化していたのであった。

 この「遊び」の仕掛け人・初代編集長が講師を務めた「ささらほうさら」の集まりが昨日あった。その講師の話を聞きながら私の身の裡に湧いてきた思いが、この「ささらほうさら」の源へと導かれていったのであった(つづく)

2023年4月20日木曜日

マンション価格の平均が1億4千万円!

 東京の新築マンションの価格が1室平均1億4千万円とTVが報道している。平均を押し上げているのは「新築」だけではない。オリンピックの選手村の(もはや中古物件といって良いような)販売も、不動産業者が買いあさりすでに転売しているものも出たという。6千万円余で手にしたものが9千万円余で売れる。こういうものが「平均」を押し上げている。

 何でこんなに高くなるのか。誰がこんなお金を持っているのか。そういう問いは、戦中生まれ戦後育ち・末期高齢者世代の金銭感覚。金融機関がお金を貸し、値上がりをも込んで転売することを目論めば、高いかどうかは「金利」の問題に見える。

 なにしろ金利は安い。政府の財布・日銀は金利をマイナスにまで持っていった。政府も景気刺激を意図して国債を発行し、日銀がその半数ほどを購入する。つまり市中にジャブジャブと紙幣を流してそれを「投資に」と誘いを掛ける。だが実体経済の中心である製造業は労働賃金の安さを目指して海外へ流れていく。日銀紙幣は不動産か株式への投資、あるいは外貨に換えて海外へ向かうしかない。米欧の景気と通貨の変動に不安を抱く欧米の投資家は円を逃避通貨と考えているのか、円を買って日本でやはり株式と不動産に投資する。株価が実体経済を反映していないといわれて久しい。東京の不動産バブルも、三十数年前のバブルの崩壊を再現するかのように、引き起こされている。短期的な視野のグローバル経済の成長論者は、実体経済がどうなっていようとも株価が上がっている間はほくほくとして資産の増加を喜んでいる。

 ところがこれが、日本だけの話ではない。欧米でもこうした金融バブルの到来が始まっている。シリコンバレーバンクやクレディスイス銀行の倒産がその始まりの予兆のように聞こえる。そこへ持ってきてコロナウイルス禍だ。政府はワクチンを買いあさる。医薬品業界は湯水の如く流れ込む世界大の資金集中に笑いが止まらない。日本も何百兆円を注ぎ込んだ。アメリカは景気刺激を含めて4千兆円規模の市場へのドル供給をしてしまった。それがまた、4年ごとの大統領選まで持ち越すことを時間的目安にするから、とどめを知らない。FRBが金利引き上げをしても一向に気にせずにアメリカの株価は上昇気分を崩さない。

 そこへまた、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。医薬品業界ばかりか軍産複合体も勢いを取り戻した。アメリカの石油などエネルギー産業界も、ロシアを封じ込め中東と手を組んで行こうとした。だが、細く長くでもいいから石油資源を上手に用いて石油以外の産業基盤へ移行しようとしていたサウジアラビアは、ロシア締め出しによって高騰する石油価格を好機とみて、ウクライナ戦争=ロシアへの経済制裁状態の継続を歓迎した。さらにアメリカの凋落を見越して、サウジアラビアはオイルダラーを中国元に切り替えて行こうとしている。当然中国もそれを歓迎してスイスの金融機関を舞台にそれをすすめる。それにお灸を据えたのがクレディスイスの破綻だったともっぱらの噂である。中東の中央銀行がバックボーンであるクレディスイス銀行が半値で買い取られたということは、オイルマネーの価値が半減したことを意味する。中東の資金がドルを見放して中国元にリンクされるのも潰す。それによって、中東のオイルマネーの存在感を一旦白紙に戻して目を覚まさせてやろうとするアメリカの陰謀だという論調がまことしやかに流れている。事実はそうなっているから、その情報が後付けの物語なのか、そうシナリオを書いて運ぶ手立てがアメリカにあるのかと、リテラシーのない私などはなるほどそうだったかと、ついつい腑に落としそうになる。

 不動産売買価格の高騰だけではない。IRの許認可によって世界の資金を集めようという大阪の発想は、まさしく有り余って浮遊する世界中の資金の落とし場所をつくろうという狙い。岸田政権が防衛予算の極大化を口にしはじめたことも、アメリカの軍産複合体の再興と無関係ではない。また日本の武器輸出を策定し、軍事研究を進めて独自の軍需産業を成長させようとするのも、その先鞭として有無をいさわず日本学術会議を席捲しようとするのも、防衛のためというイデオロギーに引きずられてではない。それよりも軍需産業を引き鉄として成長経済を何としてでも延命しようと「すがる懸命の藁」なのである。バブルの夢よ再びというか、すでにバブルに向かっている泡(あぶく)のような経済政策は、庶民の実態生活とはかけ離れ、中味はスカスカになってきている。

 GDPの成長と庶民の暮らしがかけ離れていて、どのような経済政策がいいのか悪いのか、もうワカラナイくらい次元を異にする話になっている。それを紐付けて話すとすれば、わたしたちの暮らしの実体が何であるのか。その実態はどう展開しているのか。そこから話し始めなければならない。経世済民は、随分遠くなってしまった。

2023年4月19日水曜日

夏日のハイキング

 佐野市の唐沢山。この名を冠する山は随分たくさんある。スマホで検索しても佐野市のこれは出て来ない。『栃木県の山』(山と溪谷社)に紹介されていたから、地理院地図でそのルートを取りだし、コースを確認して出かけた。

 露垂根(つゆしね)神社が唐沢山の登山口。鳥居をくぐったところに5台ほどの駐車場とトイレがある。それ以上に「唐沢山神社」の案内看板が目につく。この地の御神体という扱いだ。すぐに樹木の覆った昇り道になる。と言っても地理院地図に記された唐沢山の標高は241m。なだらかな斜面が長く続く。

 歩き始めてすぐに気づいた。脚の筋力が随分へたっている。四国のお遍路をしているときは、30km/日歩いてけっこう脚力は丈夫だと思っていたのに、こうして山に入ると、たちまちボロが出る。あるいは、デスクワークをしている日が続くと、筋力はすぐに衰えるのか。平地が多いお遍路に比べて山の投降は、低山といえども侮れないってことか。

 唐沢山神社は戦国期の山城であったようだ。本丸や二の丸、北の丸、土塁、堀切、車井戸という深さ25mもの井戸跡も残されている。江戸初期に廃城となり明治初期に城跡に神社を建てたと由緒書きに記す。探してみたが唐沢山の山頂標識は見当たらなかった。神社そのものが山の頂上ってことか。

「京路戸峠→」の標識が要所にある。いまの栃木市と佐野市の往来に使われた峠のようだが、唐沢山から北の諏訪岳324mへ続く稜線上には、各所に佐野市方面への下山路が分岐している。この標識があって迷わず峠に行き着き、その先の諏訪岳や村檜神社への踏路をとることができた。

 気温が上がると聞いていたが、山を下りるまではそう思わなかった。スギやヒノキばかりでなく、ツツジなどの灌木や落葉広葉樹の樹林に日ざしが遮られて、心地よく歩けた。下山して車を置いた登山口までに辿った県道などに入って、照りつける日ざしの強さが夏を感じさせた。去年はこの頃からお遍路に向かったことを思い出した。この暑さでは今年3月のように歩けなかったのは無理もないと汗ばむのを拭いながら思った。帰るとき車に乗って外気温をチェックしたら28℃であった。百葉箱のTVでいう気温とは違う。町はとっくに夏になっている。

 アカヤシオ、ヤマツツジ、ホツヅジ、名を知らない小さい赤い花を密集してつけているようなツツジ、フジ、ヤエザクラなどが道筋を彩る。樹林が切れる所々から佐野市の市外に通じる平地が見えるが、山稜に囲まれた盆地はほぼ全部がソーラーパネルで埋められ、これがメガソーラーかと思わせる景観。興ざめであった。

 一つ以外であったのは、諏訪岳の登り。京路戸峠から村檜神社へのルートの途中から別れて上るが、地理院地図に書かれていたほど短い距離ではなく、けっこう登りでがあった。山頂に上ったら二組6人の人たちがお昼を摂っていて、これは今日初めての登山者であった。後から一人息せき切って上ってきた70年配の人は、着くとすぐに下山するという。どうしてと問うと、この山の下の会社に勤めていて、毎日お昼にここへ上ってきているのだそうだ。往復すると1時間かからないくらいなのか。まさしく里山だと思った。

 4時間の行動時間。車の往復で3時間くらい掛けている。午後4時前に帰着。ビールを飲み、一眠りして夕食を摂り、いまこうして山行記録を書いている。いい一日であった。

2023年4月18日火曜日

体感の構造

 いい季節になった。過ごしやすい気温が心地よい。部屋の寒暖計を見るとほぼ20℃。起きてパジャマを着替えるとき、おや今日はちょっと肌寒いかなと思った。半袖の下着ではなく長袖にした。その上に着るものもTシャツではなく長袖。昨日の昼間より冷えているのかな。

 ちょっと不思議に思うのは、冬場の室温と同じなのに肌寒く感じるのはなぜなのだろう。冬場、室温が17℃あたりになると空調の暖房を入れる。温める室温は20℃に設定している。だから今朝の室温は暖かいと感じてもいいはずなのに、なぜか冬場とは違って身体が受け止めている。

 この体感て、何だろう。寒いところから帰ってきて暖かいが部屋に入ると、ああ、暖かいと感じるのは、相対的温度としてよくわかる。逆の場合もそうだ。だが、外気に触れる前に室温に感じる体感は、外気に触れた記憶が相対的実感の反照になっているのだろうか。とすると体感というのも、随分観念的な要素を含み込んでいるように思える。

 季節的な変化への身体の順応も関係しているであろう。外を歩いて汗ばむか心地よいか。あさ3、4℃の冷気の中を歩き始めるときに身に感じる軽い緊張は、さあ、これから今日も歩くぞと身を引き締めることにもなって、私はうれしく思ったのは先月のお遍路のときであった。身体は寒暖計のように客観数値で感知していない。どちらかというと音を聞くように、リズムやメロディやその調性のテンポやズレの醸し出す響きが皮膚表面や骨や鼓膜に届いて何某かのイメージを湧き立たせる。それが心のふくらみとして身体の隅々に行き渡り、世界と交歓する感触として意識される。交歓というと、いいことばかりのように思うかもしれないが、そうではない。気色の悪い感覚、恐ろしい響きというような違和感、気温でいうと寒気がしたり、寒いわけではないが身の裡が怖気を振るったりすることもある。それは、外部の気温という空気の気配が、わが身の裡に堆積している何某かの経験値と相乗して醸し出されてくる感触である。だから外からの刺激に(良くも悪くも)応えて裡側が呼応しているのだ。

 その呼応に、身の習いというか習慣的に身体に刻んだイメージのようなものが絡んで、心持ちをポジティブにさせたりグリーフにさせたりするように、身の感官が働いているのかな。と同時にいまの私には年々その感度が鈍くなっていっている。だから以前にはそれほど感じなかった、冬場と春めいた3月と初夏に移行する現在の寒暖差の体感が、おやそう言えば違っているなあと頭で気が付くのかもしれない。

 つまり元気な若い頃には、外気温の多少の変動に気づくこともなくわが身の裡の熱処理装置の調整で片付いていたものが、肌着や上着や靴下や襟巻きなどで一つひとつを外部的に調整しなくちゃならないほど身体の自動調整能力が鈍くなってきた。そうしている自分に気づいたのが、今朝の「発見」であったということか。

 とすると体感ということも、外部環境との交通というか往来を通じて動態的に変容し、やはり無意識にその径庭を身に刻み、ふと気づいたときに何か新しいコトを発見したように意識世界に送り出していると言える。感官機能とそれを受け止めて「体感」として意識に送り届ける間をつないでいる「こころ」とはどういう構造というか、機能的な関係を持っているのだろうか。これもまた、面白そうに思える。

2023年4月17日月曜日

模倣の片割れかモンダイの引き継ぎか

 去年のa銃撃のyの模倣犯だろうか、選挙中の首相が襲撃された。それに関して、a銃撃を持ち上げたり、yに対する世論が甘いからだと(橋下徹などから)非難する声が上がっているという。簡略な速報ニュースでは、誰に対するどのような論脈の非難なのかワカラナイから、そう非難されるに値する気分を持っていた一知半解の門前の小僧として、それってそうか? と自問自答している。

 yの犯罪に関して私は、統一教会に対するyの怨念が教会の宣伝活動に一役買っているとみなされたaに向けられたとみていた。統一教会の活動がyの家族に及ぼした結果に関しては(その責任が誰にあるかは別とすれば)yが怨念を抱き、それを晴らしたいと思うのは(短絡かどうかは別として)よく理解できる。もちろんその私の感じた感懐が、yの起こした銃撃に対して「甘い反応」になるということもよくわかる。でもそれは、非難されるようなことなのだろうか。それが模倣犯罪の土壌になるという指摘は、yの犯罪がなぜ起こったのかを究めていくのとは違った、表面的なデキゴトの連なりに文句を言っているだけではないのか。

 yの犯行動機が判ってきた後に、統一教会の活動とaとの繋がり、さらにaが率いる党派や派閥の政治家たちがひとかたならぬ関係を持ち、教会の宣伝活動に深く関わっていたことも明らかにされてきた。ところが、その党派の総裁であるkは、政治家一人一人が対処することとしてほとんど放置するに等しい向き合い方しかしていない。当の政治家たちも「関係を断ち切る」と口では言っているが、それが本当に為されているのかどうか、また、これまで関わっていたことがどうモンダイであったかを、ほとんどの政治家は言葉にしていない。岡目八目の私が見ても、当の政治家が誠実に対処しているとはまったく思えない。

 なるほど井戸端メディアも含めてメディアは、よく調査取材して追求していたように感じる。私たちにはそれしか知る手立てがないから特にそう感じる。それに比して政治家たちの動きは「嵐が過ぎる」のをただただ待つように鈍い。見方によっては、関係する政治家たちはスクラムを組んで、このモンダイを一過性のデキゴトとあしらおうとしているのではないか。そう見える。今の日本社会の問題として位置づけ、政治家ばかりかyの母親のような心の行方がなぜ生まれたかにも関心をとどめていない。つまり現在の日本社会のモンダイとして捉えようとしていない。まるで他人事。お役所の仕事に転化しただけで、ほぼ傍観して、今度の統一地方選挙にも臨んだとみている。

 もし今度のk襲撃がyに触発された模倣犯だとしたら、yに対して「甘い反応」をしたのは、統一教会と関わってきた政治家たちであり、目下名目的であれそれを率いているkたちではないのか。それを、yの犯行動機に同情的な人たちに向けて非難しているのだとしたら、やはりそれも他人事扱い。見当違いといわねばならない。

 ひょっとすると模倣犯と言うよりも、yの衝撃的なモンダイ提起にもかかわらず、鈍い反応しか示さない世情に、再びカツを入れる意図があったかもしれないとさえ思う。とするとこれは引き続きのモンダイ提起。模倣犯罪と呼ぶのかどうか。yが提起したモンダイは、統一教会と政権党の当時のトップとが結託し、それを引きずった孫の代になって噴き出したように、その間の半世紀以上に及ぶ日本社会の歩んだ道と深く関わっているんじゃないか。

 日本の1950年代後半から現在に至るまでの経済的成長と爛熟と失速。冷戦の終結や一極支配への突入とグローバル化の世界。それがもたらした大いなる不均衡とほぼ捨て置かれ、資源的に搾取されるばかりのように扱われた未開発や発展途上国の人々。それらの動態的絡まりが生み出した日本社会の中の貧困と搾取と苛烈な競争、それが生み出す不安と鬱屈。その捌け口もない。高齢者はバブルの余剰を食い潰して、まだ余裕があるかもしれないが、その分「失われた*十年」のツケが若い人たちに被さってくる。この時代を生きた誰もが当事者である。

 yの犯行も、この世代の不安や鬱屈が臨界点に達したからだと見ると、彼の去年の犯行の始末が、社会的には少しも為されていない。まだ臨界点は引き続いている。yのモンダイ提起を繰り返し突き出してくる若い人が今後も陸続することは十分考えられる。

2023年4月16日日曜日

身の裡と外

 朝起きるとまずお茶を飲みコーヒーを淹れる。お茶は毎日持ち歩いたりできるように豆茶とか17茶というのを煎じたのが2㍑ほどつくってある。冬場はそれを軽く温める。4、50℃くらいかな、熱くはなく冷たくない程度。コーヒーを淹れるお湯は90℃がいいと思っているが、いちいち温度計で測るわけではない。小さい薬缶がコトコトと音を立て始めたら95℃と思っていて、それで火を止め、少し経って入れはじめるとちょうどいいはずと思っている。

 そのお茶を温める間に、コーヒーのソーサーにドリップの用意をして、コーヒーミルにコーヒー豆を入れる。ここまででだいたいお茶は温まっている。カミサンと二人分のお茶をカップに移し、改めて小さい薬缶にコーヒー用の水を入れて火に掛ける。そうして、コーヒーミルのコードをコンセントに繋ぎ手に持ってスウィッチを入れる。ウィーンと立てる音が豆を砕く音から砕かれた粉をさらに挽く音へと微細に変わり軽く香り立つのを感じて止める。これがだいたい25秒くらい。胸に押しつけてもう片方の手でポンポンと叩きミルの内部にくっついた粉を引き剥がす。そうしてドリップペーパーに粉を移す。ミルにもそれを移す刷毛にも粉が残らないようにする頃、薬缶がコトコトと鳴る。火を止め、テーブルへ運ぶお盆にコーヒーカップを乗せ、ドリップに軽く湯を注ぐ。そのお湿りがゆっくりと粉に行き渡った頃、薬缶からお湯をドリップに注ぎはじめる。時計回りに、お湯に取り囲まれた粉がペーパーの中で右に左に上へ下へと踊るのを感じながらゆっくりと注ぐ。香りが起ち上がる。ああ今朝も鼻は大丈夫だとミルを回しているときに感じたコーヒーの微香がちょっと違って鼻腔に届くのをうれしく感じている。

 その間にカミサンは血圧を測りコーヒーのお供の甘みを用意し新聞を取ってきて温めたお茶を飲んでいる。コーヒーをソーサーのままお盆に載せてリビングに対面のカウンターに置く。そうして私は血圧を測り、カミサンがカップに移したコーヒーを、お供とともに頂戴する。

 これが私の毎朝のルーティンワークだ。ふと気づくと、音、手指に感じる振動、香り、いろいろな手順の合間に、火の通りとか粉の挽き具合とか粉が湯を含んで膨らんでいく感触を感じ取って頃合を測っている。ずうっと前、初めの頃には時計で計るようなことをしていた。それがいつしかミルを回しながら数を数えるようになり、いまはウィーンと鳴るミルの音を聞いて粉に成る具合を感じている。つまり、時計という外部にあった「時間」が湯が沸くまでの(ほかの手間に掛ける)手順とか振動や音、沸き立つ微香に代わってわが身の「とき」になっている。そう気づいて、これがまたうれしいと思っている。

 外部世界であった「時間」が身に染みこんでわが内部の「とき」になった。それがいいことかそうでないかは判らない。外部世界が身に染みこんできているというかワタシが世界に溶け込んで行っているというか、世界とワタシが一体のものになっていく感触である。善し悪しは別としてワタシはその感触を喜んでいる。もちろん世界はただ単にワタシが受け止めているセカイにすぎないことも判っている。

 外を意識することによって内が起ち上がり、さらにそれを意識しつつ身の習いにすることによって、外と内の端境が溶け合って一つに感じられる。これが「関係」の動態的感触だ。それを感じることが世界というワタシには未だ不可知の外部を認知することであり逆にそれによってワタシという内部がセカイとして屹立していることを感知する。もちろんなぜそうなっているのかと自問すると、ワタシの内部もまた不可知の世界に満ちているとワカル。つまり外も内も世界もセカイも、内にも外にも広がりと奥行きを持っている。ヒトはそれを恒に常に往き来することによって動態的に外と内を感知し続けることを通じて、わが身が何処からきて如何なる地点に立ちどこへ向かっているのかを、若干感知することができる。そこに、生きることへの自問の自答があるような気がする。

2023年4月14日金曜日

AIも根拠を語らない

 いま、対話型AI(人工知能/チャットGPT)を使った遣り取りが評判になっている。ごく自然な言葉が繰り出される。文章にしても、ヒトが応答するよりも簡にして要を得ていると好評のようだ。他人事のように言うことはない。スマホの音声検索を利用すると、wikipediaなどを用いて音声の回答が返ってくる。どこまでそれがこれまでの検索と違うかなどは調べていないから善し悪しは分からないが、文章検索に見劣りするところはない。

 国会質問を(条件を入れて)チャットGPTに作成させ、それへの回答も(野党の質問に担当大臣が答えると条件を入れて)求めたら、これまたきちんとした文章が打ち出されてきたと今回の質疑応答でも遣り取りが為されている。役人の長時間勤務を軽減できるんじゃないかと政府も前向きになっているようだが、となると今度は、AIの出力した回答に手を入れるなと、入れたとしたらどこを、なぜ、どう手直ししたのかと質問が繰り出されるようになるかもしれない。エリート役人の、政府の意向を忖度した回答よりも、AIのそれの方が誠実となると、何だエリート官僚は要らないじゃないか、それよりも、情報をAIに読ませる入力を手仕事でする下っ端の方が(なにを、なぜ、どれくらい、いつ入力したかという)大切な役割を果たすことになる。いや、いまの反っくり返っている上意下達型官僚組織より余程誠実、忠実ってことになるかもしれない。いや、かもしれないというより、すでにそれは始まっている。つまりシンギュラリティは進行しているのだが、人がソレに追いついていない。

 面白いのは、同じように条件付けて問いを発しても出て来る回答は同じものとはならない。なぜ異なるのかと聞くとどう応えるかなと興味は湧くが、同じにならないというのは、ワカル。対話型AIだって、どの情報をどう処理してこうなったと出力の径庭と来歴を対象化してみることを仕組んでいないからだ。そうする必要がない。

 なぜ? ヒトだってそうだ。自分がなぜそのように回答するのかと自問したら、ワカラナイと応えるのが、自然。もし誠実に回答しようとしたら、これまでの人生の総覧を開陳することになろうが、それはしようとしてもできる相談ではない。つまり、対話型AIだってブラックボックスなのだ。

 ところが為政者はワカラナイといって済ませるわけにはいかない。辻褄合わせにテキトーなことを言うと信用を失墜する。ヒトは、忘れちゃいましたととぼけることができる。ついうっかり、ということもないわけではない。つまりヒトは、それに立ち会うヒトの人間観も相乗して、「だってニンゲンだもの」と許してしまういい加減さを感覚としてもっていて、必要なところでそれを使いこなす。そうすることによって急場/窮場を切り抜ける。こういう誤魔化しやオトボケをAIがどう学習し、応答に繰り込むか、大変興味深い。

 哲学者の東浩紀が「憲法2・0」の中で、ITを用いた国会の議員の役割を大きく変える提案をしていたことを思い出す。ソレを最初に目にしたときは、ほんの冗談のように思って受けとっていた。だがそうじゃないんだね。もう目前のこと。とすると、憲法審査会を開いている国会議員たちも、本気でAIを用いた大改革を、国民投票法も含めて大元から引っ繰り返して考えて貰いたいものだ。

 早く手を付けないと、アメリカでいま騒いでいるTikTokのように、too big to ban (禁止するには大きすぎる)と言われるように、多くの人が関わり、それに利害関係が生じてきて、いまさら中国政府が情報収集しているからって、それで禁止にされちゃあ堪らないと反発が出て来る。つまり国際関係に不都合があっても、存在することがデファクト・スタンダードになってしまうかもしれない。根拠を語らない機械的な処理社会にヒトが生き延びるには、ちょっと知恵を絞らなくちゃならないのかもしれない。イヤそうじゃないか。少々知恵を絞ったくらいで太刀打ちできる事態じゃないのかもしれない。ま、アナログ世代が口を挟む領域じゃないけどね。

2023年4月13日木曜日

根拠を語らない強さ

  もう一つ「根拠を語らない権力」がなぜ強いのか自問しています。1年前に述べたように、(そうすることによって)権力に向き合うヒトに(権力の意向の)内面化を図るからですが、なぜ、そうして内面化が促進されるのでしょうか。それがヒトのクセだからと私は考えています。

 でもどうして、それが人のクセになったのか。

 なぜそうするの? とヒトが自問するからです。

 なぜそう自問するのか? ヒトの自意識が形づくられるまでの間に、ヒトの感性や思考の原型は刷り込まれているからです。ヒトの文化の継承は、その大半が生活習慣の中で受け継がれ形づくられていきます。歩くことから始まり、喜怒哀楽も、趣味嗜好も、成育中の環境からもたらされ、本人はソレが何であるかを意識することなく身につけていきます。無意識の人間形成でもあります。自意識というのは、そのわが身が周囲と違うことに気づいたところから芽生えはじめます。褒められたり叱られたりする毀誉褒貶が、違いを表すことが多いのですが、なぜ褒められているのか、なぜ叱られているのかを受け止めるときでさえ、そのワケを意識することなく何となくこうすると褒められる、こうすると叱られるとイメージで受けとって、それに対する適応を身につけていっています。

 心理学では第一反抗期、第二反抗期と時期を分けて、自意識の変化を規定していますが、そういう、いつ知らず身に付けた感覚や思考の原型が、意識して世界を学びはじめて後の、自分の身の裡の不思議として残りつづける。いやわが身の不思議と(対象化して)見ていればそれほど苦悶することはないでしょう。だがたいていは、人と比べてわが身の偏りをなげき、わが身の環境の拙さを悲運と見てそしり、煩悶し、わが身の実存がイヤになってしまのです。それを抜け出すには、何かをするときになぜそうするのかと(自問ばかりでなく人にも)問うほかありません。その習慣がクセになると言えましょうか。そう私は、自答しています。

 子どもにとって大人は(存在それ自体が)不可知の権威です。その大人と(関係的に)接するとき大人の意向は権力となります。なぜそうするの? と問えばいいと、優しい大人はいうかも知れません。でもそんなことをしたら、いつも子どもは「問い」ばかりを大人に向けなければなりません。うるさいなもうと叱られるか、自分で考えなさいと諭されるかになります。

 でも子どもがそれなりに大きくなると、大人もそう簡単に子どもの問いを退けるわけにはいかなくなります。単純な問いほど応えにくいものはありません。問われてはじめて大人も、自分自身もなぜかは分からないでそうしてきた「わが身の不思議」に出合うってこともあります。いや、たいていは「不思議」ばかりなんだと、80歳になる私は今でも日々実感しています。でもこの歳になると、わが身の不思議はワクワクするような関心事なのですが、世の中の真っ只中で活躍している大人や、これからそこへ飛び込んでいこうとしている青年たちは、そんな暢気なことを言ってはいられませんね。子どもに問われたら、何某かの答えを繰り出さなければなりません。その時、間に合わせの答えをすると、ほぼ間違いなくウソっぽくなります。「不可知の大人」(の権威)がその一言で崩れ去ります。権威も、それをベースにして発動される権力も、そうなっては立つ瀬がなくなります。

 権力を行使する立場に立った賢い大人は、それを熟知していますから、「根拠を語らない」。「有無を言わせない」。しかしそれでは皆さんの支持をうることはできないよということから、あれこれと弁舌爽やかに遣り取りをするようになったのが、ギリシャの直接民主主義の始まりでしたね。結局そこで、弁論術という口先ばかり、反駁し相手をへこました方が勝ちという、口舌の輩が蔓延って、ちっとも人としての在り様の根拠を問うのに対して答えが出て来ない。分かったフリをして勝手なことを言うんじゃないよと、命を張ったのがソクラテスでしたね。それを文字に残して体系的なテツガクとして世に伝えたのがプラントンでしたっけ。いや、今お話ししようというのは、テツガクの話じゃないんです。そのギリシャをモデルとして、近代になって復活したのが民主主義でしたから、そもそも民主主義というのは、ワケを明示し、根拠を示して政治方針を決定するということが運命づけられているわけです。

 では、民主主義国家の権力ってのは、端から立論の底を見せて「有無を言わせない」力を揮うってことになる。これって、そもそもが無理なんじゃないと、私ならずとも思いますよね。そこで一つ提出されたのが、法的に決定されたことには遵うという法治主義でした。こう言い換えるとよくわかります。私たち人は完璧じゃない。それどころか、ヨノナカバカナノヨといってもいいくらい、私たちはちゃらんぽらんに物事を決めている。でも、皆で決めたことには遵いましょうというのを根拠とすれば、そこをスタート地点として民主主義は成立する。もちろんヒトは誤ることもあります。その時は、決定を修正すればいい。そうしましょうというのが、神のいなくなった人間社会の自己統治のルールになったわけです。最善とは行かないが、次善の策です。

 これは、中国がいま採っている「法治主義」とは違います。中国の場合は、どちらかというとプラトン的な考え方に則っています。次善の策では、状況に左右される人々の気分の移ろいによって賢者を死刑に処すことまでやりかねない。世の真実を見きわめ真理を見ることのできる理性を持ったものが御者となって統治してこそ、理想の国家が築けるというのがプラントンの理想国家です。中国は、共産党という真理真実を見極めることのできる、謂わば理性の権化=共産党が指導してこそ、統治は理想的に展開できると論理立てをして、そこからすべての政治体制を導き出しています。これも、民衆の暮らしを最重要にした人民民主主義だというわけです。民が自身で統治するのではなく、理性を持った御者が知恵を発揮して民の幸せを中心に据えた統治をするというのですが、これって、お上に任せて過ごす民草って響き。それが民主主義なら、江戸時代の武士の統治に任せるほかないどこが違うのでしょうね。

 民の民による民のための統治というのが民主主義だと思うと、まず統治に必要な情報は民に開示して、どういう論理立てで、そういう維持決定になるのかを筋道立てて示さなくてはなりません。情報開示が不可欠。でもそうなると、不可知性は消えますから、「権威」は消えてしまいますね。その矛盾に苦しんでいるのが、今の日本の政治ってとこでしょうか。投票率が下がってるのは、愛想を尽かしている反面、どう転んでもそう悪くあるまいと高をくくっている姿でもあります。政治学者の一部には、強権的統治は東アジア民族の体質に合ってるんじゃないかという言説まで出るほどです。

 この状況を何とかしたいと思う為政者が、ついつい「根拠を語らない権力」の魅力に取り憑くかれるのは、わからなくもありません。アベ=スガ政権がそうでしたね。でもそのお陰で官僚機構のエリート意識は腐り始め、周りの政治家たちもすっかり陣笠に堕してしまっています。ソクラテスに死刑判決を出した市民たちのようです。プラトン・パラドクスとでもいいましょうか。テツガクなきソフィスト政治といいましょうか。中国式のプラトニズムもイヤですが、ソフィスト政治も御免被りたいですね。

2023年4月12日水曜日

わが身の不思議をみる面白さ

 1年前(2022-04-11)の当ブログ記事「権力は根拠を語らない」を読み返して、自問が浮かんだ。

《「根拠を語らない権力」が、受け止める側に(権力の意向の)内面化を促進し、忖度をもたらす。なぜそうなるのか。》

 有無を言わさず指示を実行させる。それが「権力」だからです。

「有無を言わさず」だって? 何だ、それでは同義反復(トートロジー)じゃないか。有無を言わさず指示を実行させることができるのは、なぜか。それに応えてよ。

「権力」は、限られた集団の中で作用する。だから国家権力に限らない。会社であれ組合であれ学校であっても、集団という集団で権力は働いている。いやそうじゃないよ。私の関係する集団は民主的で、そういう権力で動くまとまりではないからという方もいよう。それはそれで作用する権力の強弱濃淡はあろう。だが、主宰者とか責任者がいる集団は、何某かの力でまとまりをつくっている。それが「有無を言わさず」という形は取らなくとも、そりゃあそうだよねと面々が(暗黙に)合意するいう空気が、その作用をしている。

 えっ? それって、権威じゃないの? というかもしれない。そうです。暗黙の合意というのは、通常「権威」と呼ばれます。だが、長年のしきたりで、そうすることとなっているものも、あるいは文書化されて決まっていることも、権威であるとともに、それが作用するときには権力となると言えます。長年の社会の習慣も、そういう力の背景になるわけです。年功序列を当然としてきた社会習慣が「若輩者がだまっとれ」と年少者を叱る言葉になります。男社会の習慣が「女のくせに」と女性を誹る言葉になります。

 つまり社会のどこにでも、権威があるところ、権力は潜在しています。だが権力はそれが作動するまでは、皆さんの心裡に根源を保ちつつ身を潜めていますから、私たち庶民大衆は、自分が権力の片棒を担いでいるなんて思いも寄りません。かつて「空気読め/読めない」が話題にときの、「空気」を支えていたのは外ならぬ、その場に居合わせた庶民大衆です。1970年前後に「わが内なる権力を問え!」と論壇で遣り取りが為されましたが、それはココを問題にしていたわけですね。

 ということは逆に、権威の社会的動向によって、それが作用するときの「権力」は揺れ動くってことになる。そうなんです。ロシアのプーチンにしたって、ソビエトが崩壊し、ほかの国民国家と同一平場に立たされたときに、(ソビエト)ロシアという、かつて米国と肩を並べて世界の覇権を争った「国」の敬意が受けられないことに腹を立て、不安を感じたとウクライナ侵攻を分析する見解があります。中国と違って、民主的な手続きを残したロシアの政治・社会システムが、人々の支持する方向を自在にし、ヨーロッパ寄りになることに不安を覚えたのが、初発の動機のように私は考えています。ウクライナがNATO寄りになる。それは即ち、いずれロシア(の政治・社会)がヨーロッパ型になることへの傾きです。武力はともかく文化的な権威は、とっくに強権ロシアを見放してヨーロッパ型民主ロシアへ傾きかけていた。それを不安と察知したプーチン・ロシアは、早くから野党を弾圧し、反権力ジャーナリストを文字通り闇に葬り去り、懸命に大国ロシアを守ろうとしてきましたが、とうとう(NATO、あるいはウクライナという外に向かって)武力を行使するほかない瀬戸際に(心情的には)追い詰められていたのですね。

 権力の崩壊の前段で、権威の衰退があるのですね。

 では何によって「権威」は支えられているのか。なぜ揺れ動くのか。そう自問する問いが、内心のワタシから繰り出されています。長年の身の習慣は、骨がらみといって良いほど、ワタシの身に染み付いています。

 私はいまでも年功序列的なセンスを持っています。年功序列というのは、年を取っていることへの敬意です。なぜそういう「敬意」をもっているのか問うたこともあります。もちろん幼い頃のみた「大人」はまさしく偉大でした。親がそうであり、周りの大人たちも子どもの知らない世界を(体験として)かかえている。それは「みえないセカイ」、不可知の世界でした。つまり知らないことへの「恐れ」や「畏れ」が「敬意」に転化していたと言えます。

 ではだんだん大人になるに従って、年上への敬意は薄まってきたか。薄まってきたとも言えるし、相変わらずとも言えます。薄まってきたというのは、私自身が年寄りになってきたから。そうすると、子どもから見て不可知の体験でも、自分自身から見ると経てきた径庭ですから、振り返ってあれこれ考えることができます。ヒトとしての体験は、振り返って恐れ/畏れを感じるような特異なことではありません。当然、自らへの畏敬の念はどこを探してもありません。ただ長年の身の習慣が、じつは関わった世界の関係がもたらした集積だという実感です。

 それが、「恐れ/畏れ」の対象の変化へと向かわせます。「大人」への「恐れ/畏れ」ではなく、ヒトが体験することへの「恐れ/畏れ」です。世界は広いというと、ただの未体験領野が大きいという想像の感嘆です。だがじつは、知れば知るほど「知らない世界」があることを痛感します。宇宙の神秘を教わったとき、その「知らない世界」がわが身の外にあるのではなく、外にあると同時に、わが身の裡にあると知ったことです。はじめ、ヒトの世界の文化がわが身に堆積していると思っていました。それがなんと、地球における生命体の歴史の蓄積がわが身そのものだと思うようになりました。さらにそれが、ビッグバッとその後のミクロの世界の結合の結晶がわが身なのだと知られると、わが身そのものの中に不可知の世界があると思うようになりました。それは、ワタシという大きな不思議の発見でした。それは、ワクワクするほど面白い感触をもたらしています。

 知るというのは、知らない世界があることを知ることだと、身に染みて感じています。もちろんそれが、面白いから、ついついその先へと、門前の小僧でありながら踏み出してしまう悪いクセがわが身の習慣になってしまいました。ニンゲンて面白いなと、思っています。善いとか悪いとか、そんなことはどっちでもいいのです。ついつい考えてしまう。なぜワタシはそう感じるんだろう。どうしてそう考えるのか。何を根拠にそう判断しているんだろう、と。

 そんなこと、メンドクサイじゃないかと友人はいいます。その通りです。そんなことを知ろうと知るまいと、ワタシは存在しているし、生きていけます。でもそれが年を取る上では、ヒトのクセとして極上の味わいを持つと思えます。逆にこれは、年を取らなくては味わえなかったことです。しかもとどまるところをもちません。永遠の問い。そう感じることが、また、ますますワクワクに通じているのです。

 そういうヒトの存在に「恐れ/畏れ」と敬意を感じていることが、堪らなく生きていることを証し立てるように思われて愛しい。そう思う自分が、ラッキーだったと誰に感謝するともなく有難いと思う。それが今もワタシの年功序列センスを支えています。

2023年4月11日火曜日

すっかり同居?

 一昨日(4/9)のこと。校正作業をしていて、ふと、思い出した。そうだ、今日は弟の命日だ、と。もう9年にもなる。

 7年目には夢枕に立った。

 去年は、「今日はお釈迦さんの誕生日だね」と口にした私に、「明日は(Jの)命日ね」とカミサンが告げて思い出した。今年はほんとうに、(ふと、思い出した)。そう口にすると、カミサンはとっくに気づいていたように「早いものね」という。

 9年前には涙が止まらなかった。夢枕に立った7年目までは、弟の死をデキゴトと捉える感覚があったのかもしれない。それが、この変化。近親者の死を特別のことと感じなくなっているのかもしれない。(ふと、思い出す)ように変わっている。(遠くなりにけり)かというと、そんな感触ではない。

 私の周囲の知人も、次々と亡くなっている。コロナ禍もあって、お知らせだけとなる。(そうか、彼も亡くなったか)と10歳上、7歳上の知人の訃報を手にしている。あるいは私よりも若い身近な人が危篤になり、見舞いに行った翌々日に亡くなるということにも出遭った。亡くなるということが「普通」になったのかな。80歳を超えて、友人知人と会うとき(ひょっとするとこれが最後)と思うようになった。遠方に住む兄弟には、別用で近くへいくとき、必ず立ち寄って会うことにしている。顔を見るだけでいい。言葉をちょっと交わすだけで構わない。黙って酒を酌み交わすというのなら、もっと良い。そんな気分だ。

 特別なことと感じないというのは、こちらも彼岸に近づいているからでもある。彼岸と此岸の端境がグラデーションになって、身の感覚としては溶け合い始めている感触が近い。霊魂とを身とを分けて考えている人なら、魂が往き来するようになったというかもしれない。だが私は、心身一如。身と魂は恒に一緒とみている。つまり彼岸もわが身の裡にあると考えている。彼岸と此岸がわが身に於いて溶け合うというのは、ものを思うヒトの感性の側からいうと、身の裡に彼岸がはっきりと起ち上がり、此岸と同居し始めたと言えそうだ。これまで彼岸は、文字通りむこうにあった。こちらに棲まう身としては他人事であったといっても良い。

 そうか、そう考えると、弟の死を悲しんだのは文字通り「永久の別れ」と思って、会えないと感じていたからだ。だがじつは弟は、わが身の裡にいた。生きているときだって、そうだったではないか。弟Jのヒトとしての感触は恒にわが身の裡に湛えられ、現れたり消えたりしていた。実際に会って身の裡のJと違う弟の姿を感じたとき、それは、ワタシのしらないJ(の発見)であって、でも、(それまでは)、ワタシのしらないJが私の弟であった。逆にその感覚は、弟Jはカクカクシカジカのヒトだと感じ、みているのはワタシ一人の偏見でもあった。実存のJが、それと違うのは当たり前で、その違いを気づかないで向き合うと齟齬が生まれ、確執・葛藤となり、あるいは発見の元となる。

 だが弟が亡くなり、齟齬も確執も葛藤も発見もなくなって、実はわが身の裡にいたとワカルようになった。彼岸もまた、わが身の裡にある。なんだJはいたんじゃないか。そう実感できるようになるのに、8年掛かったということか。 

 とすると死を悲しむことはない。もちろん齟齬や確執や葛藤、発見がある方が、生きている存在感があっていい。生きている当人からすると、実存が承知されている感触である。その実存感というのは(その人に向き合う)ワタシからすると、わが身の(知らないそのヒトの在り様)があって、わがイメージや感触や思い込みが修正される(動態的)可能性にあるということを意味する。

 動態的可能性は、しかし、死に伴って失せるものではない。Jを知る人の思い出話、彼の仕事が残した痕跡、それに触れるごとに、ワタシの中のJは修正されていく。それも実は、わが身の(そのときの)関心や傾きに左右されて思い起こされ、発見し修正されていくから、動態的関係を表している。そうなんだね。ヒトの文化が受け継いでいることっていうのは、そのようにして周囲の人との関係に記しとどめられ、ひょっとするとそれとして意識されないうちに継承・伝承され、人類史の刻む文化として受け継がれている。そういうものだと言える。

 これも蝶の羽ばたきと思えば、やはり最後の最期まで、羽ばたきつづけるしかない。そう思うのである。

2023年4月10日月曜日

他人事にする手続き

 一日中校正をしている。読むでもなく、読む。本当に読むと、誤字脱字に気づかないことが多くなる。文章を読むときには、文字を見るというより意味を汲み取っている。山行記録だから、頭の中に場面が起ち上がる。かつてわが身が体験したことだ。彷彿とするというが、まさしく再現されるかのよう。鬱蒼とした木々に囲まれた小径、ゴツゴツした岩をバランスを取りながら踏んで歩く様子が胸中に甦る。

 危ない岩場などを通過し終わって平地が見える九十九折れの一つの角を曲がるとき、躰が大きく迫り出して転落したことがあった。それほどボンヤリしていたわけではない。でも気が緩んでいたことは確かだなあと気分も湧き出す。なぜ足を踏み外したかは「わからない」と記している。細い道ではない。山道としてはわりと幅があった。にもかかわらず「わからない」というのが2019年の記録。だが、2021年の滑落事故後の今は、分かる気がする。手当てをした医者が診察後に「これは事故の結果じゃなくて原因だよ」といった頸随の圧迫。

 そんなことを思い巡らしながら校正をしていると、文字はどこかへ行ってしまう。読むでもなく読み、何を意味しているかは外さず、想像力を空にして文字列を目で追う。こういうのって、エクリチュール・ヴァーチャルを横に措くっていうだろうか。そんな埒もないことを考えながら、デスクワークをしている。

 校正をしていると、ものを書くときの私の欠点が露わに目に止まる。PCでタイピングをして書いているから、タイプミスや変換の誤字が多くなる。3年前まで使っていたPCのキーボードは、キーの文字がすり切れて見えなくなっていた。そこへもってきて根がせっかちなものだから、指が勝手に動く。昔はブラインドタッチといった。「ところが」が「とろこが」になったり「山行記録」が「参考記録」になっていたりする。加えて5年ほど前から、デュピュイトラン拘縮という、2百年前ナポレオンの主治医をしていた人の名がついた手掌の不都合を患ってきた。指が思うように動かない。自ずからブラインドタッチができなくなり、打ち間違いが多くなる。そんなことが胸中に彷彿とすると、ますます文字列を追えなくなる。

 時々垂れている首を後ろに反らせて首と肩の凝りをほぐす。そうして、ふと思う。ひょっとすると本にするって、この校正の味わいを身に染みこませるためにしているんじゃないか、と。

 校正の味わいって?

 かつて書き落としたものを、読むでもなく読むという行為を通じて、他人事のようにわが身から離れてゆくことの手続きなんじゃないか。誰が書いたか分からないものの、文字列を追い、意味することの喚起するイメージを脇に措いて、でもこの表現で(世に流通するセンテンスとして)いいのかなと、クールに見る。山の名など、案外我流のものが多い。尾瀬の「燧岳」が「燧ヶ岳」だと、山と溪谷社の「日本の山」にはある。「赤鞍が岳」と表記した山名が「赤鞍ヶ岳」なのか「赤鞍ガ岳」なのかわからない。山と溪谷社の「東京周辺の山」にも載っていない。地図から拾って「赤鞍ヶ岳」であると確認する。私的記録だと、「赤鞍が岳」で一向に構わないのだが、本にするとなるとそう言って済ませるわけにはいかない。わが身から突き放して、他人事にする。つまり私的なエクリチュールも、公的なものとするには、それだけの手続きが必要になる。

 人と言葉を交わすってのにも、こういう校正の味わいのような手続きが必要なのではないか。一旦湧いてきた言葉を口にする前に胸中で吟味する。なぜそう感じるのか。そう思うのか。それらの根拠を確認する。言葉を交わすというからには、いちいち立ち止まって考えているワケにはいかない。これを癖にする。そうすることによって、慥かな意思表明ができる。そんな感じがする。メンドクサイね、人間て。

2023年4月9日日曜日

失われたのは国民的一体感

 WBCに日本チームが優勝して後のTV番組を見ていると、もう大谷翔平しかいないのかよと言うほどに、オオタニ・ショウヘイ、一本槍。あるいはその余波である、野球、または大リーグ。企画の貧困というか、誇らしさのよりどころがココしかないと謂わんばかり。これって、ナショナル・アイデンティティが消失間近な反照なのかと感じさせる。失われた*十年というのは、ひょっとすると国民的一体感を感じる「誇らしさ」の喪失じゃないかと思った。

 暮らしにおける国民的な一体感はどういう盛衰をたどったのか。

 大方が等し並みに貧しい時代には、経済的に豊かになること、衣食足る暮らしのできることが国民共通の希望であったと、先に述べた。高度経済成長のはじまった頃のことだ。それはナショナル・アイデンティティと呼んでもいい気分の共有であった。「芸術は爆発だ」という岡本太郎がもてはやされたのは、重厚長大と言われた産業的な生産活動の頂点の頃、1970年の大阪万博のころのことだ。安かろう悪かろうといわれた生産活動に品質管理が持ち込まれた。エネルギー資源の乏しかった日本の工業が、石油危機を経て環境汚染と省エネに取り組み、自動車産業においてアメリカを追い越し、一躍世界のトップに躍り出たのは1980年のことであった。繊維産業中心だった日米貿易摩擦の焦点は、鉄鋼や自動車に移ってきていた。

 それは同時に後から考えると(国内的にも、先進国間に於いても)、重厚長大型産業から多品種少量生産へ移行していく時代になっていた。労働賃金が高くなり、人々の暮らしは食べていけるかどうかではなく、「おいしい生活」(1982年)に移っていっていた。好みも多様化し、サービス業が主軸になり、国内交通網が整備され流通業が増えていった。

 そのころから加速した物質的な豊かさの進行に伴い、共有していた一体感がさまざまに別れ、「人生いろいろ」と島倉千代子が歌ったのは1987年。学校の教育における画一化が非難を浴び、多様化が推奨され、文科省が「ゆとり教育」を提唱したのは1980年であった。暮らしにゆとりが出てきた。生き方もワンパターンでなくなった。それと同時に、豊かな家庭に育てられた子どもたちにも、変化がみられるようになった。非行、暴力、不登校からはじまり、「ふつうの子どもたちが変だ」といわれ、学級崩壊が広く報道されるようになったのも、1980年代であった。

 皮肉にも、1960年代初頭の国民的な共通の希望が実現することによって、同じようなものを着て、似たような暮らしをすることへの疑問が生じてきた。高度経済成長からバブル時代を通じて進行した暮らし(感覚)の変容は、人々の紐帯を地方行政へ明け渡し、個人が単体で社会に投げ出されるような個人主義の時代を生み出したのであった。

 思い起こすのは三十数年前。1980年代の一億総中流と呼ばれた経済的バブルは、大方の国民が日本の勁さを豊かさに実感し、鼻高々だった。これはナショナル・アイデンティティの最後の照り輝きだったと言えよう。大蔵官僚が主導するエリート統治は、もっとも成功した「(革命なき)社会主義」として欧米知識人の常識となった。日本の終身雇用、会社勤めと人生とが一体化している昇給制度とか、株主よりも従業員との一体感を重視する)日本的経営の利点が、盛んに取り沙汰された。社会文化を含む社会関係の欧米との違いが肯定的に評価され、ナショナル・アイデンティティとして受け容れられた。WWⅡに勝ったのはどっちだと巷の評判であった。これが1991年頃まで続いたバブル経済にみるナショナル・アイデンティティの最後の輝きであった。

 それが、1990年代半ばから変わってきた。世界の経済競争のトップランナーになったと言われたバブル経済が1991年~1996年にかけて崩壊して以降、なぜか日本経済は影を潜めた。単なる(日銀や政府の)金利・金融政策の誤りといえないさまざまな要因が絡んでいる。

 それが1989年に始まる東西対立の終了、その後に続くソビエトの崩壊とどう関連しているのか。「歴史は終わった」とアメリカのフランシス・フクヤマに言わしめたアメリカの一極支配体制とどう関連して、どう世界政治が動いたのか、分からない。父ブッシュ米大統領が日本を訪問して600兆円の日本の国内需要喚起策を要請し実現したことはよく知られている。なぜそれが受け容れられたのか、私たちにはわからない。それで「なぜか」と言ったのだが、アメリカの強い要請があったことは当時の外交官が証言しているが、なぜ日本の為政者がそれに合意したのかは、分からない。陰謀説も繰り出されていた。

 符節を合わせるのが、IT時代の到来であった。アメリカのゴア副大統領が全米にITネットワークを張り巡らしたのが1993年、たちまちそれは世界を席巻し、アメリカン・スタンダードが世界を覆うようになった。日本の政財界に対して陰に陽にさまざまな働きかけが為され、日本はそれに対応する経済的な改変を行わざるを得なかったと、大方のエコノミストは指摘する。産業社会の発展段階の前期である高度経済成長が終わって高度消費社会に突入したとき、経済のフィールドは大きな転換に入っていた。日本より一歩(約20年)先んじていたアメリカや経済統合することによって進展のばらつきを補正してきたヨーロッパと同じ道をたどることは出来ないにしても、高度消費社会における産業へ大きく転換する時を向かえていることを意識しなければならなかった。

 表だって目に見えたのは、1990年代半ばから急速に進んだ経済のグローバル化と金融市場の流動性の活発化である。会社法が改定され、企業の会計基準を世界標準に合わせるなど、株主の利益を主体とした経営へと改められていった。企業買収(M&A)や企業の吸収・合併が盛んに行われるようになったのはそれに少し遅れてから。コンプライアンスという言葉が駆け巡った。総会屋が閉め出され、経営者と暴力団との関係が断ち切られた。企業は収益を上げることが最優先され、株価の推移が経営や経済政策の最優先関心指標となったのもこの頃からであった。

 これは単にアメリカ式経営へ移行すればいいというものではなかった。アメリカン・スタンダードの適用に順応するためには、旧来の日本的システムと齟齬する部分を改革するほかなかった。だが、それには旧来の家族制度や社会の気風に手を付ける必要もあった。日本の「終身雇用」と呼ばれる仕組みは、人の生涯の変化に合わせて昇給もし昇進もしていくものであった。それに伴う昇進や昇給、雇用や転職やのシステムを抜本的に変えるしかない。しかし、そんな社会意識とシステムの改革が政府の政策で変えられようはずもなかった。保守政治家は古い社会通念に基盤を置いている。経営者はグローバルな競争に備えて身を護ろうと備えを固める。

 リーマンショックの後だったか、ニューノーマルという言葉が経済誌を賑わした。新しい事態が定着して、新しい社会の常態になったことをそう呼んだ。だが、どれほどの企業経営者がそう意識していただろうか。

 コンプライアンス(法令遵守)を(不正が)見つからなければ守られていると考える経営者たちは、旧来のセンスのままで新しい事態に向き合っていたと言える。会計も、製品検査も、誤魔化し、隠蔽し、内部告発によって初めて、公的な場で頭を下げる。しかし見つかったのを悪かったとは思っても、やったことが悪かったとは必ずしも思っていない。自分のために不正をしたのではないとわかると、それだけで「不正」を許容する空気が会社にも、社会にもある。ここでも視野が、ごく身近に、そして短期的に狭窄されている。万一に備えて、賃金を削ってでも社内留保金を蓄える。大企業は、下請け企業への生産価格圧力を強め、安価な海外への発注へ舵を切る。関係部所や人は切り捨てる。雇用制度がそのように変わってきた。正規社員は調整しやすい非正規社員に代えていく。中小企業も中核の技術者を引き連れて、労働力の安い海外へ出て行くほかない。当然のように、日本の国内でそれなりに創造的な仕事をしていた技術は流出する。

 海外で安く生産して輸入すればいいじゃないかと考える産業家、エコノミストや為政者も多くなる。しかしそれが経済関係だけで(機能的に)考えればいい問題でないことに後になって気づく。国内の優秀な技術者も海外へと出て行ってしまう事態となった。輸出産業中心に政策が組まれ、大企業中心に施策が練られ、国内全体を見通した構造改革の戦略は、どこかに祀られてしまっている。30年経って気づけば、それでもまだ、ましだ。いまだにGDPの成長が滴り落ちることで国民皆が豊かになると信じているエコノミストが、その分野だけの狭い了見だと気づくのは、何を契機にしてだろうか。

 すでに人々の心持ちの中では、国民として一体性を感じる要素は1980年代を通じて崩れてきていた。しかしそれも、バブルのシャショナル・アイデンティティが効果を持っている間は表面化しない。それが崩壊して、一気に噴き出したようにとりあげられる。1996年に文科省は学校の儀式における国旗掲揚・国歌斉唱を義務づけり指示を出し、1999年には「国旗・国歌法」を成立させて、現場では「口パク」を禁じて管理職がチェックするということまで知りようになった。これは、そうでもしなければ保持できないほど、国民としての一体性が薄れてしまっていたのである。

  失われた三十年。失われたのはナショナル・アイデンティティだ。

2023年4月8日土曜日

自然(じねん)の劣化

  昨日の午後のこと、カミサンが「タイヤの交換はいつ?」と聞く。「う~んと、いつだっけ」とちょっと思案して、あっと気づいた。前日の午後2時だ。すっかり忘れていた。というか、その前々日までは、いつタイヤを車に積み込むか考えていたのに、それもこれも頭から飛んでしまっていた。と同時に、そう言えば、今朝は歯医者の予約をしていた、それを忘れてすっぽかしたことも思い出した。しかも歯医者は、2月の末に予約していたのをお遍路帰りで忘れてしまってすっぽかし、そのリベンジで予約したものだったから、ダブル・ミスってワケだ。やれやれ。

 タイヤ交換は、すぐに電話をして謝ったら、電話口の受付嬢ははははと軽く笑って「え~っと、次の交換可能な日を調べますからちょっとお待ちください」と言って、(よくあることと)さして気にしていない様子。ホッとする。歯医者はちょうど午後の休憩タイムだったので、電話をしそびれている。どうしよう。

 なぜこうなったかに実は、心当たりがないわけではない。もっか近々刊行する本の校正をしている。全部で600ページを超えるかという分量があり、分冊にしましようかと話が持ち上がっている私の著書。校正もそれの半ばをやっとすぎたところ。1日取りかかって20ページ程度しかすすまない。寝ても起きてもというワケにはいかないが、起きて家に居る間は概ね校正をしている。昔からそうだが、何か一つ夢中になって取りかかると、ほかのことが頭から抜けてしまう。発達障害じゃないかと(カミサンに言われ、自分でもそう)思ったこともあったほどだ。カミサンは、仕事を片付けるのが早いと褒めてくれたこともあるが、早いというよりも、それをやり始めるとほかのことがすっ飛んでしまって気にとまらない。一つひとつ(思いついたときに)早く片付けておかないと、忘れてしまうと思っているから、とりかかったときに始末する。それが長期に亘る持久戦になったりすると、怪しくなるってワケだ。

 頭の中を覗いてみても、ワタシの関心がどう移ろっていて、どこに、なぜ、どうやって焦点を合わせているのかもわからない。きっちり連続しているコトとか断続的に思い浮かぶコトとか、たとえば雪山に行こうと考えていて、そのために冬タイヤに交換するというモチーフがあれば、たぶん、忘れずに関心の胸中にとどめているだろう。つまり身を動かすアクションに繋がっていると、その下準備に当たることも忘れずに胸中の関心事としてとどめておけるのかもしれない。だから、歯が痛むので歯医者を予約していたのなら、忘れなったろう。だが、治療途中ではあるが安定してくると、つい、すっぽかすということかな。躰に聞けというワタシの身の習慣が、社会的関係と繋がらなくなった。身勝手になったといえようか。これを歳のせいにすることができるか私固有のことなのかはわからない。どちらにしても傘寿を過ぎたワタシのことであるのは違いない。

 もう一つ感じていること。ワタシ自身が、じつはそれほど、このアクシデントをショックに思っていない。これにむしろ、驚いている。若い頃であれば、もうこうなるとどうしていいか分からず、思い煩ったであろう。それほどに大きな、失敗であった。ところが今、それほど深刻に受けとっていない。ま、そういうこともあるわなというか、そういう歳になったなと思っている。

 そうやって居直るしか、身の処し方がないこともあるが、わが身がやっていることは事実として認めるしかない。大抵のことは、そう受け容れている。そんなことしてたら、どんどん劣化していくだけだよと、よく知る人はいうけれども、それも「自然(じねん)」。歳をとるってそういうことだと、近づいてくる遠近法的消失点の方から、素直にワタシを振り返っている。

2023年4月6日木曜日

資本主義市場経済の限界

 seminarのときにkeiさんが「GDPが増えたら私たちの暮らしにどういう影響が出るの?」という質問に、「分からない」と応えたワケを説明しておかねばならない。

 お遍路中の感懐の中でも記したが、資本家社会的市場経済の枠組みに含まれない経済活動を目にすることが多くあった。お遍路への「お接待」もそうだ。むしろお遍路が自ら購入しなければならないものを無償で提供するわけだから、商品市場経済の阻害行為ですらある。あるいは柑橘類の市場に送る箱に収まらない規格外のものは商品にならないと生産者はいう。自家消費や路端での勝手売買はまだしも、大量に廃棄されている。この生産活動も、市場経済と消費とのミスマッチと言って良い。

 細かく言うとこの、箱に収まるかどうかという規格は市場が大きくなるにつれて広まった。地産地消は当然という「生もの」扱いをしていたときは、当然のように果実の大小はさほど問題ではなかった。ところが全国に、あるいは海外に輸送される商品となり、それに応じた大量輸送もともなって、規格ができあがった。

 さらに、そうなったのには消費環境の変化があった。まだ食糧生産が追いつかないといわれるほどの産業段階の成長初期(1960年代頃まで)には、捨てるなんてもったいないというセンスが、消費者にも生産者にも共有されていた。ところが、高度消費社会になって、見てくれの悪いものは市場では売れなくなった。むろん味を良くするために柑橘類の生産農家は、受粉を人の手仕事でやる。それが実を作ると、摘果して数を調整する。ひとつひとつの実に袋かけをして丁寧に熟すのを助ける。掛ける手間暇も多くなる。

 暖冷房・冷凍技術の変化に伴って、商品市場も大きく変化が起こる。季節外れの生鮮産品が出回るのは周知のことだ。果物も嗜好品というよりは高級贅沢品というほどになっているものもある。多品種少量生産になった。それに伴って消費行動も変わる。社会的には、ますます贅沢な消費になり、店頭に陳列されるものも多くなり、廃棄されるものも多くなった。これらの時代的な変化は「豊かな暮らし」に直結しているだろうか。

 むろんそういった社会の変容をくぐり抜ける生産者や流通関係者の工夫も行われている。情報社会化に伴って、マスメディアだけでなく情報ネットが広まるにつれて、生産と消費とそれを仲介するサービス業の連携がみられるようになった。漁港で水揚げされたものの廃棄されていた珍奇な種類の魚があることが知られ、その調理法が紹介され、ならばすべて買い取って顧客に提供しようという流通ネットがつくられていく。食品ロスも取り上げられ、「ワケあり」と明記された商品も出回るようになった。

 だがそれらの工夫は「ニッチ」と言われる。簡略に言うなら、大企業中心の市場経済の動向の隙間を縫って小規模零細企業や生産者、小売企業が工夫を凝らしている姿である。なぜか。GDPの成長もそうだが、国の経済政策は国単位の大きな視野で展開されている。経済が「経世済民」と言われていたのは、それ故であった。中央集権国家では、いっそうその政策を考える単位が大きくなる。地方単位は、立場が薄くなる。それが明治維新後の日本社会では、さらに加速された。地産地消は影が薄い。

 そこへグローバル化の時代だ。当然のように彼ら為政者やそれに関わる専門家たちの目に入るのは、日本の国際的な位置であり、それと競争関係に入っている大企業の業態であり、有力者の言動である。中小零細企業はその大企業の振る舞いの仕方を受けて様子を変えるとみなされている。大規模企業は、したがって、政治家とも緊密に連携を凝らし、利害関係のスクラムをがっちりと組む。GDPと株価の動向に目が凝らされる。為政者の目も、そうした中央集権的な統治的視線に絞られてくる。憲法もそうだが、統治的視線で国民を一つにしようというメンタルな作用をしてきた。それを学校教育は「国民化」と呼んだ。それも時代的な変化によって、多様化の時代へと移り変わる。しかし、資本家社会的な市場経済のシステムはグローバル化に伴ってますます、高度消費社会の上澄みである贅沢品へと向かう。情報ネットもまた、高度成長期以来のスタンスで人々の嗜好を操り、高度消費社会の上澄みである贅沢品へと向かう刺激を日々散布する。こうして経済政策は、人々の暮らしから離陸してきた。

 それに一撃を加えたのが、コロナ禍であったと私は、2020年5月に刊行した『うちらぁの人生 わいらぁの時代』で記した。「天啓」である、と。今回の「ふらっと遍路の旅」は、それをわが目で見て取るような旅でもあった。

 keiさんに「GDPの成長は私たちの暮らしにどんな影響があるの?」と問われたとき、「わからない」と私が応じたのは、「経済」と「暮らし」が断裂しているからだ。いや、「経済」と「政治」も、またそれらと「文化」も、「科学技術」も、人々の好みも、善悪の価値判断も、誰がどこに立ってどのような状況に於いて言葉を発しているかで、意味するところが異なってきてしまっている。

 経済に絞っていえば、こう言えようか。資本家社会的市場経済は、敗戦後の1960年代にはまだ、暮らしと一体になった(国民が共有する)イメージをもっていた。池田勇人が「所得倍増」と掛け声を掛け、当時の歳代野党・社会党が「毎日牛乳1合を飲める社会」と看板を掲げたのは、その程度の貧しさが「共有」されていたからだ。それが(たまたま現憲法の戦争放棄条項によって)経済に先進するしか方途がなかったことが幸いして、高度経済成長へと歩を進め、環境汚染や諸種の労働問題を生み出しながらも、欧米に追いつき追い越せと邁進することができた。つまり、資本家社会の市場経済一本槍で突き進むことがナショナル・インタレストであると言える程度に、国民的共感を得ていたのであった。

 だがそれは、バブルまでであったと言えようか。

 1990年代に入って後、経済成長が成し遂げた社会の変化がもたらした人々の欲求・欲望の変化、国際関係の変貌、それに伴う一強大国からの強いグローバル化の要請、それがもたらす国内社会関係の変化などに、為政者も産業界も適応することができないまま、バブルの夢よ再びと旧来の成長路線を継続することに躍起となった。

 もうその時すでに、国際関係は東西冷戦の片方の正義は崩壊し、ということは、残るもう片方の正義も理念的な基盤を見失っていた。つまり、WWⅡの人類史的反省の結晶としての「日本国憲法」が書き記している「国民国家」の理念的方針は、戦争を放棄し、暮らしを前面に押し出して人権を保障し、文化的生活をすべての国民に保障する男女平等の社会をつくるという、謂わば人類史的夢に突入する時代を迎えたという理想型であった。

 それを、共産主義という強権主義ではなく、資本家社会的市場経済でもって実現しようという道を日本は歩んでいたのであった。政策的にいえば、東側・社会主義国が存在することによって西側・資本家社会的市場経済もまた、労働者という人々の暮らしを常に視野に入れ、それへの暮らしの保障を策定せざるを得なかった。それが1989年の冷戦の終結で、すっかり崩れ、戦後的理念はどんどん空洞化していった。いうまでもなく、労働側も、もはや社会主義的政策を良しとする理念の共有点を見失い、大規模企業の労働者の専有物として「権力」を持ちはしたが、庶民大衆の大勢を占める人々の暮らしは、どこも代表することはなくなった。かろうじて、政党の一部が選挙のときの支持を得、代理して声を上げる程度であった。それでも庶民は、一億総中流というバブルで潤った資産を食いつないで(それなりに)豊かになっていたから、その後の30年間を凌いできたと言えようか。

 つまりすでにして、三十数年前に「経済」「政治」「文化」「科学技術」と私たちの生活は分裂してしまっていた。それを総合的に観る視点は、気象変動や温暖化という「環境破壊」の負の形で示されているものだけになっている。資本家社会的市場経済システムがそれと対立する地点を通過しつつある。人々の暮らしをどこでどう紡げばいいのか、トータルにはわからない。断片に於いて懸命に紡いでいる姿があちらこちらに見える。

 その資本家社会的市場経済の驀進がようやくにして、終わろうとしている。それを知らしめたのが、コロナ禍であり、ロシアによるウクライナ侵攻とそれに対する経済制裁とエネルギーの不足であった。これを天啓として受け止めないで、どうこれからの世の中を見ていったらいいのか、私にはわからない。