グローバリズムを旗印に掲げて突っ走ってきた世界経済も、2017年にトランプが#アメリカ・ファーストを唱って登場してからは、すっかりしおたれ、ならば代わってオイラがと、一帯一路を看板に中国がグローバリズムを推進するような恰好をみせ、おや、大丈夫かいなと外野の庶民は固唾を呑んでみていたが、こちらも使い古した民族自決と資本主義的契約関係をひっさげて、やはり世界の中心・中華帝国の復興かと思わせる、見得を切る。
さあ、お立ち会い、と世界秩序の再編成活劇の幕開きになるかと思っていたのに、オレサマを忘れちゃいやですぜとばかりロシアが割り込んできて、ウクライナでドンパチとやり始めたから、もうグローバリズムなんて、どこへやら。
〽そんな時代もあったねと・・・
と鼻歌が出るような、昔話になっちゃったか。
それまで環太平洋経済圏なんて、いそいそと世話役を買って出ていた人までが、急に経済安全保障なんて言いだす始末。ヒト・モノ・カネの自由往来なんてキャッチフレーズを口にはしたが、その実、人の自由往来はインバウンドだけ。移民、難民、働き手は、特殊専門労働者しか入れないよと、つれないそぶり。他方で、技能実習生とか語学留学生とか、名札だけを付け替えた抜け道の低賃金労働者をわんさと受け入れて、とどのつまり奴隷労働を強いる恥知らずの経済大国気取りだけが際立っている。
〽こ~んな日本に~誰がした~・・・
とうそぶきながら、でも目に入らないから、知らないって強いよねと他人事のように、ふだんは忘れている。いや、ホントにお恥ずかしい。
わが身ばかりか、そういう世界が出来上がっちゃってるってことを、2015年までのデータをもとに解析して、展開して見せた本があった。ブランコ・ミラノビッチ『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』(みすず書房、2017年)。
世界の貧困と富裕の格差を探っている経済分析。エレファントカーブというのは、グローバル化が進展した20世紀末から21世紀初の20年ほどの「世界の所得分布の20分位/百分位」のグラフの曲線が、鼻を持ち上げて叫び声を上げる象の外形輪郭に似ていることからつけられた。グローバル化が世界のどの所得階層に富をもたらしたか。先進富裕層か中進層か貧困層かを子細にチェックする。
むろんいうまでもなく、超富裕層の1%がダントツで世界の富を占有しているのだが、その伸び率をみてみると、40/百分位から60/百分位の伸びの方が1%の伸び率よりも大きい。むろん、元が違うから絶対額となると比ではないが、業種によっては新興国の業者が超富裕層に食い込んできていたりする。
この20年ほどの間は、まず中国、次いでソビエト連邦と東欧の計画経済がグローバリゼーションの相互依存関係の中へ参入し、インド経済も加わった。つまり世界人口の20%の人たちが安価な労働力として加わり経済成長の一端を担うようになった。果たして、その人たちは豊かになったろうかと疑問を持って、ジニ係数を手がかりにつぶさに調べている。
ジニ係数というのは所得格差の度合いを測る指標。全員が同じ所得であるときは「0」、一人が全部を占有しているときは「1」として、所得のばらつき具合を数値化する。おおよそ「3」程度が安定的な数値、「5」となると暴動が発生してもいいくらい不安定な状態とみている。
足元は国民国家の枠組みにとらわれている。世界に於ける国別の所得格差と国内に於ける所得格差を比較してみると、戦争や災厄はむしろジニ係数を押し下げて、いわば国民国家のナショナリティを称揚するように働いていることもわかる。グローバル化は、BRICSなど中進国の富裕化に貢献し、世界秩序の再編成を口にするほど中国は力をつけ、アメリカは#アメリカ・ファーストを唱えて、力の衰退を一国主義的に食い止めようとしてきた。他方ロシアは、過去の栄光をふたたびとりもどそうと、ドンパチはじめたってワケだ。
本書の考察は、世紀の変わり目だけを対象にしているわけではない。15世頃末からの所得の推移を追い、産業革命期からの工業化社会に於ける所得不平等の推移と金融やサービス業中心の所得不平等の移り変わりに目をつけ、その社会の変容が社会規範の移ろいとか経済政策によって所得格差を拡げていることを突き止め、こう記す。
《合衆国では、予見可能な未来においてはフィ平等が高い水準で維持されると思われる。これを相殺する政策――教育のさらなる拡大や最低賃金の引き上げ、今以上に寛大な福祉手当――を推進する力は、不平等の拡大に有利な、ほとんど根源的と思える力と比べれば、弱々しく感じる》
つまり、所得拡大に対抗できる力は、目にすることが難しくなっているのだ。
ヨーロッパにおける右傾化についても、その蓋然性に着目していて、5年前の著述であるのに、十分現在に通用する世界を提示してみせている。しかもこの著者、「未来予測」をした本をガルブレイスなど何冊か取り上げて、そのほとんどが「当たっていない」ことを記し、「予測」が目前の状況に曳きずられることを避けられないとしていながら、「十の提言」を末尾において、こう付け加える。
《グローバルな不平等の研究は、方法論的ナショナリズムの限界を超越している。しかし、本書ですでに見たように、グローバルな水準は、国民的な層の上に積み重なった、新しい追加的な層とみるのがもっとも良い。》
この著者の「追伸」が、新型コロナウィルスの襲来とロシアのウクライナ攻撃によって変わった世界の状況をとらえるのに、これまでと少し違ったニュアンスに過ぎないのに、なかなか適切に作用する。
そう思ったわけを二つ。
その一。難民や移民に苦しむヨーロッパやアメリカに関して、国内的に受け入れをどうするとあたふたするよりも、難民を輩出する国々、こっちよりはそっちがいいと移民をする人たちの現住国の苦難を解消することに尽力する方が、はるかに効果的に対処できるんじゃないかという著者の提言。そりゃあそうだ。国内紛争を、対岸の火事のようにみているんじゃなく、国内で難民に対応するために支払う費用を現地国への支援に回して、問題解決を国際的に協働して援助していけばというのは、コロンブスの卵だ。
その二。移民を受け容れる国で、移民には市民権にある種の制限を設けることで、受け容れる市民たちも腑に落として共存するのに抵抗感が少なくなる。それには「人権」とか「国籍」といった在住条件と違って、一緒に棲み暮らすのに必要な社会的・文化的条件を付加することで、移民がゲットーをつくることもなくなって「共存する社会」が醸成されるのではないかという著者の提言。
こうした、世界の現状を見通した対処策の行間には、著者のヒトを見る目がしっかりと組み込まれている感触があって、それが好ましく響くのであろう。