2021年12月31日金曜日

あやしうこそものぐるおしきエクリチュール

 コロナウィルスのおかげで足止めを食らって蟄居しているから、日暮らしパソコンに向かってよしなしごとを綴り、このブログにアップしている。そのうちのいくつかをピックアップして古くからの友人に毎月、「ささらほうさら・無冠」を制作し、送りつけていた。友人がアナログ世代であることはもちろんだが、デジタルに馴染んでいる人たちも多くなってはいるが、やはり紙にプリントされたものの方が、手に取って読んでもらうには良いと思うから、そうしている。

 一人、毎月の私の「無冠」に関して返信をくれる、完璧アナログの友人がいる。一枚の葉書の裏表に1千字ほどをビッシリと書き込んで送ってくれる。ときにはハガキに収まらず、6000字となったり、8000字となって封書で戻ってくる。ははあ、元気になったと、調子が良い証のように受け止めている。この方、肺を患い心臓にも問題を持ち、ここ十年ほどは低空飛行。ご両親は長寿であったからその血統を受け継いでいることが唯一の便りという風情。このところのコロナウィルス蔓延のせいで、逢うことも適わなくなり、月々の返信が健康状態の唯一の便り。

 だが、長く逢わぬ間に四百字詰め原稿用紙で1600枚に及ぶ「小説」『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』を仕上げて上梓、目下読み続けている。それくらい元気になったのだと安心していたら、今月のハガキには、「……体調思わしくなく気持ちも少々萎え気味」と前置きして、でも裏表ビッシリと書き綴っていた。

 その中に先月号の「無冠」が四百字詰め原稿用紙で150枚とあって、それで自分の調子を測る手もあると思った。ブログ記事は、ファイルにしてまとめているから、どれくらい書いたかチェックするのは、それほど難しくない。ファイル・テキストは1800字1頁のスペースになっているので、四百字詰め原稿用紙にしておおよその4枚。ファイルはテキスト頁を知らせてくれるから、はじめてそれを数字に起こして四百字詰め原稿用紙の枚数に換算してみたら、面白いことが見えてきた。年の瀬にふさわしい見返りとなるか。

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 このブログは、2007年の11月から始めている。65歳の高齢者になった翌月から現在まで14年ということになる。2008年から2011年までは年間500枚ほどから800枚ほどへと緩やかに増えている。

 2012年に1100枚を超えた。この年から山の会が始まった。山行記録を書いて月間の「山歩講通信」に載せた。2013年には1400枚近くに増えた。この年3月定年後にやっていた大学講師の仕事が終わりとなり、ならばやろうよと声をかけられ、36会という高校同期生在京組のseminarを始めた。そのせいもあって、こまめにメモを取るようにしたせいもある。seminar後の「ご報告」を書くこともした。山へ足を運ぶことも多くなった。

 2014年には1700枚になっている。この年、母親と兄弟二人が亡くなった。わが身の来し方を振り返ることも多くなり、書き付けることが頻繁になった。2015年1500枚と少し減ったが、この年、亡母と私の兄弟5人の人生を振り返って一冊にまとめ、写真集も添えて母親の一周忌に間に合わせて本にしてもらった。

 2016年には1800枚、2017年1700枚、2018年1500枚と月間120枚から150枚のペースで記録していっている。その間に後期高齢者になり、seminarも順調、山へ入る回数も多くなった。そうそう、2018年には、私の最初の孫が二十歳になることから『**と孫たちと爺婆の20年』と題して、初孫が生まれてからのち5人の孫たちと過ごした20年間の記録をまとめて一冊の本にして、プレゼントした。

 2019年1700枚とコンスタントに書き続けている。山に入ることが多くなり、山の会の人たちとも「槍ヶ岳を目指そう」とトレーニング山行を組んだ。ああ、良いペースで歩くようになったと私自身は喜んでいた。だが後で振り返ってみると、ほかの方々には過剰だったらしく、「槍」が終わってみると、ずいぶんと体に無理がかかっていたようであった。

 そしてコロナが襲来する2020年。実はこの年に高校の同期生が喜寿を迎えることもあって、田舎で同期会が企画された。在京組のseminarを「ご報告」するのには一番の機会。それもあって、5月の同期会に間に合わせようと大部のseminar記録1800枚をまとめはじめていた。A3版三段組みで300頁になった。しっかりとデザインしてもらって製本印刷し、『うちらあの人生わいらあの時代 古稀の構造色-36会seminar私記』と題して仕上げ、同期会の方々にお配りした。逼塞することが多くなったせいか1800枚も後半にさしかかるほどになった。

 2021年の4月には、私の山の遭難事故があり、入院加療が20日近く続き、右肩を壊していたのに1600枚と結構な枚数に上った。山に行けなくなった反動か、家に逼塞している憂さ晴らしか。まさしく徒然草。

 つれづれなるままに、日暮らしパソコンに向かいて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

2021年12月30日木曜日

今年の閲覧数

 去年のブログ閲覧数が送られてきて、そうかそうだったと今年のそれを覗いてみた。今年は、4月に山の事故があったせいか、7月からの記録しか残していない。だが、大きな変化があった。

 2021年の週平均閲覧数は、590。去年の4割減。一昨年の6割減である。週の最高閲覧数は、975。去年の週平均1002にも及ばない。一昨年の最高閲覧数のほぼ半分になっている。週の最低閲覧数は、349。おととしの最低閲覧数は815だったから、半分以下だ。

 このサービスサイトのブログ総数は、相変わらず30万件を超えている。これは去年も記したように、消滅放置ブログが9割ほどと考えると、総数そのものは問題にはならない。

 一つ気になるのは、一昨年と去年の間には、閲覧数と順位との間にそれほどの違いはなかったが、今年は大きな違いが生じている。去年の最高閲覧数は一昨年のそれより1割ほど減、順位も21000位から26100位へと下がっている。ところが今年の最高閲覧数が昨年のそれに比して4割減しているにもかかわらず、去年の順位26111位よりもグンと上がって、15042位となっている。これは何を意味しているか。

 一昨年と去年の間には消滅放置されるブログもあれば、新たに参入するブログもそこそこあって、若干の生きているブログ数減で済んでいたのだが、去年から今年にかけては、消滅放置を埋める参入ブログがなく、減る一方となっていると推察できる。ツイッターやチャット、その他のSNSに向かっていって、ブログというしんどいメディアは廃れていっていると考えられる。

 ま、閲覧数とかその順位とかはブログ主宰者の私にとっては、どうってこともない。だが、もしそれが、長い文章を読むのがメンドクサクなって、写真や画像で直に脳幹に飛び込んでくるメディアが好みになってもて囃されていっているのだとすると、やがて人間のものの見方や考え方や振る舞いの仕方が、大きく変わってきてしまうんじゃないか。いやじつは私自身も、新聞記事の長いのを読むのがメンドクサクなって、見出しだけ目を通して、ふ~んそんなことを言ってんのかと一知半解して通り過ぎることが多くなった。さすがに違和感を感じて一言批判的に触れるときには、長くても読むけれども、そうでなければざあっと観て流す。私のそれは、歳のせいだと自分で承知しているつもりだが、案外、歳などは関係なく、時代の文化がそういう方向へ流れているのかもしれない。

 先日(12/20)取り上げた、ハンナ・フライ『アルゴリズムの時代 HELLO WORLD』は、そうした人々の趣味嗜好まで思うように誘導する手法が行き渡って社会に蔓延していることを記していた。社会システムというか、町の作り方や環境の形によって適応しようとする私たち自身が身を変え、それにうまく適合する才能のスイッチを押して、それを継承していくことを思うと、単なる揣摩憶測とは思えない。

 とまれ、週平均閲覧数の方々には、1年間お付き合いくださいましてありがとうございました。メンドクサイ年寄りのよしなしごとをご笑覧くださったことに、厚く感謝申し上げます。

 コロナウィルスの第六波がいよいよ姿を現し始めたような報道。それにしても、感染が一番少なくなっていた11月の段階で、第6波のピークが2022年の1月下旬に来るんじゃないかといっていた専門家の見立て。日々報道される感染者数は、その「予言」に導かれるように数値を伸ばしている。さすがというか、見事というか。私たち市井の庶民の観ているのとは違った世界を見つめる人たちがいるとわかるだけで、この世界よろしくねとお願いしたくなります。

 佳い年をお迎えください。

2021年12月29日水曜日

「哲学する」グレーゾーン

 国分功一郎が「哲学する」ことについて触れた文章が、微妙なところで私の思念とスパークして、なるほどと思わせると共に、わが身に突き刺さる。

 近代政治思想の出発点とも謂われるホッブズの「自然権」に子細に触れ、それが原点から説き起こそうとしたことを評価した後に、スピノザがやはり、ホッブズと同じ「自然権」概念のもっと子細な解釈からホッブズの「リヴァイアサン」とは逆の政治哲学へ転回する過程を追ってきたあとで、当時イギリスで人気を博していたジョン・ロックの『政府二論』を取り上げている。

 その入口のところでレオ・シュトラウスの言を引用して、

《ロックは哲学者として哲学者たちに語ったというより、イギリス人としてイギリス人たちに語ったのだと述べている》

 と前置きして「そのような本として読むべきなのかも知れない」と手厳しい評価を下して、こう続ける。

《哲学は概念を用いて根拠を問う。新しい哲学が生まれるのは、それまでものごとを基礎づけていると見なされてきた根拠が改めて問い直されるときである。……対し、根拠が問われずに述べられたことは、どれだけ理論的に見えようとも、哲学にはならない。それは著者の単なる主張である。……ロックの自然状態論とは、まさしくそのような意味での主張である》

 と結論的に述べている(『近代政治哲学-自然・主権・行政』ちくま新書、2015年)。

 これが私にガツンときた。

 これまで、自らの自問自答を哲学していると考えて来た私にとって、半ばなるほどと思い半ば腑に落ちない思いがする。なぜだろうと立ち止まった。

 ホッブズとスピノザへの展開が「自然権」概念に関して受け渡すように語り出されていることは国分の追跡で明らかだが、スピノザとほぼ同じ時代に(オランダとイギリスという異なった土地で)活躍したロックは、自然状態を論じるときにホッブズの自然状態に関する言説を(根柢に立ち戻って)批判してではなく、自然状態には自然法があると提起して

《……すべての人類に〈一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由、または財産を傷つけるべきではない〉ということを教える》

 と引き取る。ホッブズは

《自然状態を描き出すに当たり「希望の平等」という非常に興味深い論点を提出してきた。この平等を根拠にして、戦争状態にまで至る論理が巧みに展開されていた》

 と、「自然状態」または「自然権」に対する根拠の差異を指摘し、ロックのそれには所有権の確立が前提されていると、その「根拠」の薄弱さを剔抉する。つまり、ロックのそれは、単なる主張に過ぎない=哲学ではないというわけだ。そしてロックは「イギリス人としてイギリス人に向けて語った」(つまり政治的言説)と見極めている。

 なるほど、そこまで根柢的に(自問自答であっても)やりとりをすることが「哲学する」ことなのかと、わが思考の底の浅さに思いを致す。

 と同時に、腑に落ちない思いも感じる。国分は「哲学者たちに語る哲学」を俎上にあげ(ようとし)ている。だが私はいつだって、「イギリス人がイギリス人に語って」いるように、日本人が日本人に語っている。というか、市井の庶民が市井の庶民に語るように、自問自答しているに過ぎない。そのとき、根源へ根源へと踏み込んでしまうと、まるでタマネギの皮を剝くように、どこまでも「わからないこと」が先に見える。といって(私にとって)スピノザやロックにあたるホッブズは何と問えば、敗戦体験まで戻る。敗戦体験以前の、わが身に伝承されている(親の立ち居振る舞い文化から伝えられた)大正教養主義は、私の無意識に沈んで土台となっている。そこへ降りたとうとするとき、いつも敗戦時の大転換が「齟齬」して、西欧的に身と心の、身体と精神との分裂をそのままに抱え込んでいるように感じられる。二つの違った文化流路が流れ込んで、いつも、何事に関しても引き裂かれた(アンビバレンツな)感懐を内心に生み出していると感じている。それが何かを突き止めようという思いが、私の哲学するである、と。

 こうも言えようか。

 国分が剔抉する「根拠」を探し求めて(わが身の内面へ遡るように)考え続けているのが私の「哲学する」一つの流路。もう一つが、現在の「わたし」が抱懐している「せかい」の奈辺に位置しているのかを位置づけようとして「哲学する」こと。

 その後者にあたる領域のひとつが、謂わば「政治哲学」と思ってきた。私がジョン・ロックに親しみを感じている(と今思って振り返ってみる)のは、戦後育ちの過程で意識世界に刻み込んできた第二次世界大戦への人類史的反省の産物、「日本国憲法」が、謂わば「根拠」のように(我が内心に)座っているからだ。それは、教育という形で外から持ち込まれたものでありながら、わが身の意識世界をかたどってきた原基であり、それを(日常の出来事に触発されて)対象化して批判的に再構成して受容していくことが、青年期以来の私の活動だと思っている。つまり哲学の歩んできた道筋を私は、門前の小僧としてしか知らないけれども、その門前の小僧の現代政治意識の一角にロックが位置を占めていることを好ましく感じているのだ。

 もちろん国分の提起する「哲学する」に敬意を感じている。彼のロックへの批判も理解できる。しかし私は、市井の庶民流の哲学する志を持ち続けていきたい。開き直るわけではなく、庶民の市井の道を歩いて行きたいと思うのである。

2021年12月28日火曜日

文化を忘れた金銭脳への偏り

 これまで日本社会をつくるのに経済脳ばかりになっていると批判してきました。もう少し子細にみると、経済脳であっても1980年代までの(つまり産業高度化過程の)日本の「資産」は、追いつき追い越せというモデル追随精神に溢れていたにせよ、世界の先端に追いつく気風に溢れていました。世界を牽引するほどの力が無いというのは、極東の島国という地政学的・歴史的な立ち位置から来る精神的核ではありましたが、高度経済成長が生み出す資金にも恵まれて、それなりに理化学研究や科学技術や人文社会科学にも潤沢な資金が回っていたわけです。むろんそれでも、その状況に満足できない優秀な頭脳は海外へ流出していきましたが、それはそれでまた、日本の学問研究に環流する回路をもっていました。またそれらが、(ある種の国民的一体性を保っているという社会的気風と雇用形態の作風とによって)一億総中流という中間階層の大量な創出という事態を生み出し、功罪取り混ぜてはいても、あるナショナル・アイデンティティを高めてはいたのでした。

 つまりこうも言えましょうか。

 経済的な成長・発展を考えるとき、市場をめぐる金銭というよりも、それを推進する人々のインセンティヴにもなる活力は、その社会を構成する人々の文化的な力に負うところ大なるものがあります。学問研究の水準という意味だけではなく、市井の庶民の立ち居振る舞いが持っている佇まいの文化性が産業過程に大きく影響しているのです。

 言語学者の大野晋だったと思うが、1980年代か1990年代にアメリカの自動車産業を訪れたときの印象記を書いていました。組立工程の工員が、吸っていたたばこをぽんと組立中の車に投げ込んでいるのをみて、ああこれでは、アメリカの自動車はダメだなって言っていたのを思い出します。丁寧とか、清潔とか、時間厳守とか、手を抜かない誠実さというのは、単に金銭的に始末できることとは別次元の「ものづくり」に関わる大切な要素だというのです。

 ところがバブル崩壊後の日本の為政者も、産業家たちも、グローバリズムの波に押されたとは言え、経済脳が金銭換算脳にだけ成り果てたようでした。しかもコストパフォーマンスとカタカナにして短期的な効果だけに目を留めた。大学改革にしても中等教育改革にしても、長い目でゆったりと育てる土壌をつくることに関心を失い、実利効果だけを評価する方向へ社会の気風を向かわせてしまったのでした。高校で言えば進学実績ばかりに目が向いて、生徒を育てる学校の気風は片隅に追いやられた。生徒たちは受験学力だけを求めるように仕向けられていったと言えましょう。

 為政者や産業家たち、日本社会の主導的な人たちの考えるトップダウンは、下司が黙って上司の言うことを聞く有り様をイメージしていたのでしょうか。現場仕事をしてきた私などからすると、現場に身を置く人たちが自ら熱意を持って取り組む仕事こそが、その場にいる人たちの力の差を補い合ってチームワークを生み出していく。そこには、その人々が育ってきた過程で関わった文化の総合力が現出するのです。産業家や為政者のリーダーたちは、そういうダイナミズムにたぶん気づくことなく現場仕事というものをみてきたのではないか。そう強く感じさせました。

 口先だけの百年の計ではなく、豊潤な大衆社会を過ごした時代経験を教訓にして、文化的な力が培われるような視線こそが、経済脳にも、バックアップする為政者の政策脳にも保たれていなくては、小心翼々の小吏と、面従腹背の庶民を輩出するだけの世の中になってしまう。いや、今の社会はそうなっています。そういう社会においては、内政的には得意満面のいいことづくめのイメージしか描けないだろうし、ひいては外交的にも、肝の据わった人間世界を見渡す施策を繰り出すことができないと思えるのです。

2021年12月27日月曜日

経済脳と謙虚さ

 昨日の「移民を受け容れることができるか」を書いた後で目にしたのが、東洋経済Onoine野々口悠紀雄の記事「日本が国際的地位を格段に下げている痛切な事実」。「いつの頃からか日本人は「謙虚さ」を失っている」と副題を振っている。

 2000年と2020年の先進40カ国の一人当たりGDPを比較して、日本の特徴をつかみ出している。2000年に、第1位ルクセンブルクに次いで第2位だった日本。アメリカは第5位であったが、2020年に日本は第24位、アメリカは変わらず5位だが2000年比58.7%増となっている。

「自国通貨建て1人当たりGDPの2000年から2021年の増加率をみると、つぎのとおりだ。日本が4.6%、アメリカが91.0%、韓国が188.0%、イギリスが78.5%、ドイツが64.2%。」と野口悠紀雄はデータを示す。野口は2点指摘する。

(1)アベノミクスが始まる直前の2012年には、順位が低下したとはいうものの、世界第13位。第10位のアメリカの95%だった。第20位のドイツより12%高かった。

(2)日本の地位がこのように低下しているにもかかわらず、日本人はいつの頃からか、謙虚さを失ったとして、次のような事実を挙げる。

《2005年頃、日本の1人当たりGDPのランクが落ちていると指摘すると、「自分の国を貶めるのか」といった類の批判を受けることがあった。客観的な指標がここまで落ち込んでしまっては、さすがにそうした批判はない。それでも心情的な反発はある。……日本の経済パフォーマンスの低さを指摘すると、「自分の国のあら捜しをして楽しいのか」という批判が来る。アメリカの所得が高いと言うと、「所得分布が不公平なのを知らないのか」と言われる。つまり、外国にはこういう悪い点があるのだという反発が返ってくる。……韓国の高い成長率に学ぶ必要であるというと、「韓国は日本の支援で成長したのを知らないのか」という意見にぶつかる。》

 いかにも実業場面をみてきた野口らしく、クールに事実を見つめない日本のエコノミストに憤懣やるかたない思いが伝わってくる。野口の憤懣の根にあるのは、彼に反論する人たちが「1980年代の成功体験」にしがみついていることと読める。これは私が言ってきた「自足」とは違う。野口はそれを「謙虚さを失った」と表現している。どういうことだろうか。

 経済脳だけで考えても、1980年代の日本経済のバブル的隆盛は、日本の工業力の力だけで達成されたわけではありません。アメリカの自足による停滞という「敵失」もあれば、軌道に乗る前のEUのちぐはぐもあったでしょう。何より学ぶべき技術的モデルは欧米にあり、なお、東アジア・東南アジアの唯一の先進国という立ち位置が、途上国との依存関係という優位性も作用していたに違いありません。

 それを「日本人の優秀性」のように固定して受け止める心持ちが「停滞」へとつながるベースを為しています。1992年のブッシュ父大統領がアメリカの大手企業経営者を引き連れて日本訪問し、日米経済摩擦を協議したときの、日本マス・メディアの得意満面の報道ぶりは、印象深いものでした。そのときすでに日本の経済はバブルが弾け、「失われた*十年」へ突入していたにも関わらず、金持ち喧嘩せず然と鷹揚に構えて、何と600兆円もの内需拡大を約束したのですから、まさしく「太平洋戦争の恨みを晴らした」つもりになったのかも知れません。

「謙虚さを失う」と野口悠紀雄は評しましたが、経済競争において優位に立つか劣位に甘んじるかをクールに見て取るセンスが磨かれるには、優位なときほど謙虚に実力を見定める視力が必要なのです。その当時すでにどなたかが指摘していましたが、モデルを追いかけるときの日本は力を発揮するけれども、トップを走るには決定的な戦略的思考が欠けているという「課題」を本気でクリアしていったのかどうか。せいぜい1980年代に「ゆとり教育」を提起して、創造力を培う何かをやったつもりになっただけじゃなかったか。

 潤沢な資金を注ぎ込んで百年の計を立てたつもりだったかも知れません。だが計画を遂行するには、現場の気風を醸成することから諄々と手を尽くさねばなりませんのに、トップダウンが機能しないことが最大の現場問題として、国旗国歌の法制化や職員会議の決議権を取り上げるとかとか、現場の牙を抜くことに夢中となって、壮大な構想を現実過程に移して遂行していく実務を、ほとんど第二次大戦の兵站なしの戦線拡大のように指図したのですから、現場はボロボロになるばかり。教師たちは自分たちが何をしているかを自問自答しながら技を身につけていくものなのに、ただただ「年間計画」を提出し、「実施報告書」を書区ことに追われ、10年次の免許更新をすればいいんでしょとばかりに、新しい教育施策に向き合うようになった。それが21世紀日本の教育の実態であったと、すでに退職している私は、後輩たちから耳にしたのでした。結局その「ゆとり教育」も2010年代に「脱ゆとり」と称して取り下げてしまうほどでした。ときの文部行政の中心にいたヒトが「団塊の世代が現場からいなくなれば、学校は良くなりますよ」と1990年代に口にしたのは、忘れられません。その短期的な視野には呆れてものも言えませんでした。

 さて、そういうわけで私は、せいぜい小渕内閣が提起した「21世紀日本の構想」の答申がイメージとしてはもっとも良かったと受け止めていますが、むろん、言説だけです。日本の産業構造から、外国人労働者の受け容れ、地方分権や大学教育の改革などなど、フォローする視界の広さと長い年月を治めた戦略的視線は、ひょっとしたら面白い日本の変革につながるかと期待させましたが、全くの画餅になってしまいましたね。

 そのあげくが、アベノミクスです。株価とか企業収益の増減とか、通貨の円安を図るとか、何とも短期的なことにしか関心を示さないのが常態になってしまった。かつて大蔵省MOFが誇っていた日本の屋台骨を支えているのは私たちだという誇りも、一人の首相の切った啖呵を保持するために文書改竄を手がけ、しかもそれを指示した官僚を護ろうと奔走し、ついには裁判を回避するために訴えを「応諾」するという為体。野口悠紀雄ならずとも、日本のシンクタンクは、もうすっかり錆び付いてボロボロになってしまっていると、愚痴をこぼしたくなるだけですね。

 こういう状況だから、ますます防衛問題でも外交とかをすっ飛ばして、すぐに敵基地攻撃能力とかイージス艦装備という暴力装置の話になってしまうのですね。危なくてしようがない。そう思います。

 謙虚さを失ったという野口の評は、まだ甘いといわねばならないほど、日本の行政システムは腐りきっているように思えます。こんな日本に誰がした! と嘆くのは、まだ早い。バブルの恩恵に浴してきた人たちは、その前に、1990年代以降の30年間を、お前さんはどう過ごしたのかい? と自問自答して、自らの思念を長期的にめぐらしてみてはどうだろうか。その上で、経済脳から文化脳へ切り替えるにはどうしたらいいかを思案してみようかとおもっているのですが、さてどうしたらいいんでしょう。

2021年12月26日日曜日

移民を受け容れることができるか

 12/24の本欄で「自足が危う差を生み出す?」と書いた。経済的な競争において優位に立つことが起業家たちに「自足」をもたらし、差異性を生み出す競争社会において停滞の危うさのベースになっているという取材記者の話であった。では、1990年代以降の日本に先んじて1980年代に同様の状態にあったアメリカはなぜ今もトップを走っているのか。

 日本との社会的気風の違いを考えると、まず、アメリカ的であることがグローバル・スタンダードだという「(世界の)センター意識」が決定的である。日本の場合、つねに追いつく立場にあった。なにしろ欧米化が目標であった。「極東意識」という中心から大きく外れているという意識を忘れたことはない。その気風の違いが、移民の受け入れにも躊躇する気分をもたらす。小渕内閣の時、人口減少下で経済成長を維持するには毎年60万人の移民を30年間続ける必要があると「21世紀日本の構想」が提示されたが、それを実行してやっと総人口に占める移民の割合は14%ほど、ヨーロッパの18%に及ばない。いま日本の外国人の割合は1.8%ほどだから、体感的にも移民社会というのがどんなものであるか、とうてい分からないと言えよう。

 アメリカが移民社会になっている土台に「(世界の)センター意識」があることは疑いない。しかもそうした移民が大統領や副大統領になる気風であるから、仮令「経済脳」であっても停滞に陥らない競争原理を作動させてきたとも言える。

 この移民受け容れの「21世紀日本の構想」が発表された頃、高校生と言葉を交わしていて世代の違いを感じさせたことがあった。当時、電車の案内表示にハングルや簡体字の中国語が登場し始めていた。また電車の中でイラン系の人たちが集まってしゃべっている姿をよく見かけるようになって、私などはちょっとした違和感というか、畏れにも似た感触を感じていたが、高校生はそれに違和感をほとんど覚えていないとわかり、驚きでもあった。また、韓国や北朝鮮の人たちの「(日本や日本人に対する)要求」を耳にすると、ひとまず良く聞いてみなくちゃならないという傾きを私はもっていると話すと、高校生は(えっ、どうして?)とよく理解できない表情をしていたのも、印象的であった。彼らは、朝鮮人に対する罪責感を全く持っていなかったのだ。

 そういうことがあったから、60万人を30年間受け入れという「日本の構想」はほとんど荒唐無稽に思え、でもそうなったとき、高齢者になっていく私たちは馴染めるだろうかと不安を感じたことを覚えている。だから、このままでいいというわけではないが、外国人の技能実習生に対する処遇の酷さや不法滞在者に対する入管の接遇の仕方が酷いのが(わが身の感触が剥き出しになったようで)理解はできるように感じている。彼らを労働力として遇しているのであれば、単なる長期滞在者というよりも共同生活者として受け容れていく気風を培わなければならないんじゃないかと反省的に思う。

 反省はしながらも、しかし、外国人とか移民に対するこういう(私のように違和感を持つ)気風が社会にあるうちは、日本はとても「経済脳」で「(世界の)センター意識」でモノゴトを考えてはいけないんじゃないかと、思う。極東の端っこにいて、でも自立した国家としての誇りを持って、国際社会でそれなりに役割を果たしていくとすると、「経済脳」で競りだしていくのではなく、文化的なメンタリティに矜持をもって世界に位置付く志を抱けるといいのではないか。

 それがせめてもの、「(私版)21世紀日本の構想」である。日本が持つ文化的なメンタリティと私がイメージするのは、控えめで静謐な、しかし気配りと芯の強さを忘れないというような、生活者的な質朴な佇まいなのだが、はたしてそういう気風が、今の若い人たちに受け容れられるのかどうかは、わからない。

2021年12月25日土曜日

おだをあげる

 昨夜は月例のご近所飲み会。ストレッチを終えた夕方、近くのファミ・レスに集まっておしゃべりをした。クリスマスイブかつ学校の終業式の日とあって高校生がたくさんいるんじゃないかと思っていたが、案外閑散としている。やっぱりコロナのせいで、自重気味になっているのだろうか。

 しかし年寄りたちは、意気軒昂であった。碁会所に通う一人、

「7階建てビルの4階にあるんだけど、大阪のクリニックの火災以来、行くのが怖くなった」

 と、入口が一つしかないことを話す。

「碁敵にも、何回かに一回は勝たせなくちゃあね」

 と聞く方は、茶化す。

 途中で、北海道のスキーから羽田に降りた足で直行してきた方も加わった。65歳からスキーを始め、まもなく83歳だが、雪を求めて新潟へ北海道へと走り回っている。肋骨を折ったりもしたが、まだ懲りないと。

 スマホにワクチン接種済みの証明を受けとる方法が話題になる。できない機種がある。いやそれは、ちょっとした機能を追加すればいいだけだからと事情通がコメントする。古いスマホの電磁波がペースメーカーの近くにあると誤作動すると話が飛ぶ。そこから狭心症の話になる。

「話すときはマスクをしてください」

 と、店員がやって来て言う。

「はいはい、御免なさい」

 と応じて、声を低くするが、いつしかまた、大きな声になる。

 こういうのを「おだをあげる」といっていたが、「おだ」ってのはなんだろうと疑問符が湧いてくる。今調べてみたら、「おだ」の解説はない。「おだをあげる」はどうでもいいことを話題にして気炎を上げるとあるだけ。日本国語大辞典に拠れば、各地の「方言」ともあり、その中に埼玉県の採取記録が数百とあった。へえ、面白い。

 クリスマスイブに年寄りがワインを飲みながらおだをあげている。3時間も過ごし、すっかり出来上がってご帰還。ちょっと飲み過ぎたかな。

2021年12月24日金曜日

自足が危うさを生み出す?

 韓国経済の現在を話している中で、元日経記者の鈴置高史が取材から得た面白い話をしていた。

 1960年代から1990年頃までを総覧してみると、日本がアメリカに追いついたというよりも、先を走っていたアメリカが止まっていて、その背中がどんどん近づいてきた感じであったという。1970年代のオイルショックを迎えたとき、日本の産業家たちはいかにエネルギーを節約するかに知恵を絞って生産性の向上を図ったのに対して、アメリカの産業家は潤沢な国内産石油に依存して生産性の向上に頓着しなかったがために、80年代になって自動車生産などで日本に追い越され、1985年のプラザ合意で円高を押しつけるしかなかったことを指している。

 韓国経済の急成長時代には国内のインフラ整備を含めて、日本に追いつき追い越せと懸命に産業構造の改革を推進してきたが、韓国の産業家の方からみると日本はまるで立ち止まってしまったようで、その背中がどんどん近づいてきたって感じだったと話している。日本の成長時代の産業家の主力は敗戦をくぐり抜けた世代であったが、それと同様に韓国のそれは朝鮮戦争をくぐり抜けた世代だった。

 生育歴中のハングリー体験が、金を儲けようとか経済成長をどうするとかいうことではなく、危機的な状況をどうくぐり抜けるかに懸命になる原動力となっている。だが、一度成長の味をしめ、豊かな時代を経験して育った世代にとっては現状維持の気分が湧き起こって、生産性向上という改革がことに見えてしまうといっているようであった。

 体験的にはとてもよく分かる。と同時に、差異から利益を生み出す資本制市場経済の仕組みが地球規模で作動しているから、一息つく暇がない。そういう国際関係を表している。そうは思うが、しかし、戦争と戦後の貧窮時代を知らない世代のインセンティブは、何だろう。金儲けか、それともゲーム感覚か。あるいは、何かに全力を注いで突き進んでいるという競馬馬のような熱中症か。いつだったか、日本の為政者を「経済脳」と誹ったことがあるが、そのとき私は、この元日経記者がいうようにつねに「改革」を叫んでばかりいて、その実、株価の高下しか目に入っていない為政者が経世済民を忘れていることを指摘したつもりであった。その「経世済民」には、自足することを知らない「経済脳」を揶揄う気分もあった。

 だが、鈴置高史は、自足して止まってしまったアメリカ経済と日本経済の産業家のインセンティブを取り出している。自足は国民国家単位の経済の危うさを招来しているという。経世済民は、自足からは生まれないというわけだ。走り続けなければならないのが資本家社会の市場経済だとはわかるが、では、ブータンのような足るを知る社会は、資本主義の元では誕生しないということなのか。それとも、グローバリズムの意味する経済圏から一足距離を置いた(国民国家よりもさらに小規模の)地域経済を(ある程度)自律的な核として築いた上で、国際関係をみていけということなのか。後者は国民国家の単位として、コロナウィルス禍の下で事実上成立してはいるが、グローバリズムが広がったせいで、小さな経済単位として自律的ではない。製造業さえも部品が調達できなくて止まってしまっているという欠陥を露わにしている。

 引退した戦中生まれ戦後育ち世代の年寄りが経済脳を批判するのは、止まってしまった暮らしから世界をみているから。そこに止まるわけにはいなない若い世代の頭がゲーム感覚を離れて、なお、インセンティブを絶やさない産業家のエネルギー源は、どこに見いだせばいいのだろうか。そんな疑問符をわが身に残した。

2021年12月23日木曜日

明るい冥府

 去年の記事「これから明るくなる冬至」を覗いた。

 一読、わが身を振り返った。去年は掃除に取りかかるのに「腰が重い」と実感があった。今年はそれが、ない。それは、やらねばならないという義務感が胸中に残っていたのが去年、今年はそれもない。4月以来のリハビリ中の右肩が思うように上がらないこともあろうが、掃除をしなくちゃあとわが身を責める視線も消えてしまっているから、焦りがない。「腰が重い」と気づく動機もなくなっているってコトだ。


 歳をとるって、そういうことか。「これから明るくなる冬至」というのは、わが身の外の物理的自然現象。それに引き換えわが身は「もう明るくならない証」を背負って冥府の暗闇に向かっているのか。それとも、「気にならない」という明るさが冥府に待ち構えているというのか。う~ん、ひょっとしたら後者かも知れない。そうだ、あくまでもわが身ありて実存ありとすれば、わが身が実感できないことは存在しないこと。年末清掃の義務感もきれいさっぱりとなくなって、明るくこの世を過ごすことができる。


 そうだね。たいていの神経症って、自己意識が自らを責めさいなむことが発端。何で悩むのよ、一切放下。投げ出しなさいよってことね。そうしたら、明るい冥府がまっている。

2021年12月22日水曜日

肩の荷を降ろす

 昨日(12/21)、秩父の山岳救助隊を訪れ、4月に救助してもらった御礼をしてきた。本当は「寄付」をしようと思っていた。だが、「寄付」を受けとる仕組みがないという理由で断られた。仕方なく、和菓子と若干の飲み物とお礼状と山の会に提出した「遭難事故報告書」のコピーとを携えていった。

 玄関口の立哨をしていた若い警察官が「山岳救助隊」に取り次いでくれ、出てきた方が私の用件を聞いて、「4月の救助に立ち会った隊員に変わります」といって、別の方を呼んだ。40代か50代の方がやってきて、パーテションで仕切られた廊下の片隅にあるビニールの仕切りがつけられた机に向かい合って座って言葉を交わした。暗かったが、話している途中で電気がついた。どなたかが気づいて点けてくれたようだった。

「どうして下山路でないルートを下ったのか」

「山と溪谷社の『埼玉県の山』記載されていたルートには、中津川へ下るルートのことが記されていた」

「廃道になっていると知らなかったのか」

「通常ルートとして使われていないことは知っていた。だが、本に記載があるので辿ってみようと思った。用心のため、ザイルやエイト環も用意した」

 隊員は紙に山頂付近の地図を描き、登山口から山頂稜線部へのルート。その途中から下山路があることを話し、私が救出されたポイントを記す。登山口から稜線部へ上がった辺りから下ったのではないかという。

「いや、中津川への案内標識が一カ所あった。またその少し先にはかつて案内方式がついていたであろう棒杭が立っていたが、そこを下ってもすぐに行き止まりになった」

 と、当日の経路を思い出しながら話す。隊員は、

「とすると、この辺りから下っていって、途中から尾根一つ西寄りへ辿ったんだね」

 と、図面に書き入れる。そうだ、そんな感じだったと相槌を打つ。一つ氷解したこと。救助隊のパトカーなどが最初にやってきたのは、私たちが下った沢の東側の対岸であった。どこから沢に下ることができなくて、ライトを点けて振り回しながら、スマホでやりとりが続いた。そのうち、北側から救助隊が来る灯りが見え、こちらもライトを振り回して場所の確認をしたのだが、そのときの最初に救助隊が来た辺りが下山路だったのだ、きっと。私は、その話を聞くまで救出された方向が下山路だと思い込んでいた。この見当違いは、ルートがなくなっているとはいえ、大きな間違いになる。

「ルートはね……、いやいや、話すのはやめましょう。行きたくなるから」

 と笑いながら、私の気持ちを先回りして続ける。

「私たちもそのルートを訓練で歩くんですよね。でも踏み跡はないし、救助に入った隊員でも迷ってしまうことがあるので、訓練で歩いてはみてるんですよ」

「……」

「いや、よく生きて下山しましたよね。」

「ありがとうございました。救助していただけなかったら力尽きていましたね」

「案内書も古いのがありますし、廃道になっているのも結構多いですから、一番新しい情報をチェックして向かうようにしてください。山の会の方々にも、そのようにお伝えください」

 と丁寧なサジェストをもらった。

 冬至の前に、4月救助の御礼を済ませることができて、ちょっと肩の荷を降ろした。さあ、来年は改めて、復帰の山歩きを始めてみようか。いやいや「復帰」ではない。肝に銘じて去年4月の昂揚を繰り返すことはしない。だから、山の会の人たちを案内することも、もう終わりとする。でも山を歩きたい。今ひとつ言えるのは、独りぼっちのハイキングって奴だ。時間はたっぷり取る。コロナ前に計画していた九州にも行ってみよう。そうやって平凡なハイカーとして歩いていれば、傘寿相応の山歩きの仕方が思い浮かぶかも知れない。冬至の今日は日の出から日没までの時間が9時間44分。明日からは、着実に明るい日中時間が長くなる。身が軽くなるのも、気分と相関している。

 古稀時代とおさらばして傘寿時代へ身を移す。そう考えると、身も心も軽くなる。

2021年12月20日月曜日

ここまできているアルゴリズム

 1980年代の後半であったか、コンビニがあちこちに広まり始めた頃、レジで客層や当日の天気、何がどれくらい売れたかがチェックされ、そのデータがコンビニ本部に集約されて、次の配送計画につながっていると聞いたのは。ほほう、そこまでデジタル化が進んでいるのかと感心した覚えがある。それから30年余、ハンナ・フライ『アルゴリズムの時代 HELLO WORLD』(文藝春秋、2021年)は、実情がもっと驚く段階にあることを記している。

 たとえば、その一つの章「データとアルゴリズム」では、スーパーなどで顧客の買い物データを(店舗カードを通じて個別にも)集積して、ある設定したアルゴリズムを使って処理すると、その顧客が妊娠していることとか、いつ頃出産の予定日であることなどがある程度判明するという。そのデータをもとに顧客にクーポンを送って、出産から子育てに至るまでのリピータとしてキャッチすることもしている。しかもそうしたデータを売り買いして、誰に何をコマーシャルとしてデジタルを通じてモニター画面に表示するように仕掛けることも行われており、社会的なアーキテクチャーとして整えられているシステムを利用するだけで、そのデータはどんどん集積されているという。

 いや、今ごろ何を言ってんだと若い人たちには言われそうなのは、よく分かる。

 こちらはデジタル難民。パソコンにせよスマホにせよ利用機能のほんのごくわずかな部分しか使えていない。にもかかわらず、フェイスブックやアマゾンやグーグル、アップルが独占しているとかデータの利用に問題があると欧米で取り沙汰され、社名を変更までしているという情報は伝わってきていて、ふ~ん、なんだろうと思ってはいたのだ。ま、カーテンの向こうの世界って感じ、対岸の火事であった。

 そりゃあ30年前と違う世界が展開しているってことは、何も知らなくても感じてはいる。デジタルの処理速度が相乗的に上がっていることも伝わっている。顔認証が子細にできて、「容疑者」がどの駅から乗ってどこの駅で電車を降りたってこともチェックできると、ニュースを観ていて知っている。広告会社が政党の委託を受けて選挙の時に投票行動を左右するフェイク情報を流すことも為されているらしいと、事件があってはじめてだが、わかってはいる。逆に、その社会のアルゴリズムに合わせるために人間が変わってきているというのは、私の関心事でもある。

 コンピュータの処理手順をアルゴリズムと考えていたが、それが司法判断や医療、交通、犯罪や犯罪追跡に絶大な力を発揮している事実を(上手くいっていることばかりでなく、誤作動や誤表示することを含めて)子細に述べているのを読むと、AIが人の知恵を越えてヒトを規定するようになるというシンギュラリティがやってくるというのが、いかにも早すぎる想定であると共に、それ以前に、AIに振り回されて、ヒト自らが自分の世界をごちゃごちゃにしてしまうって予感が、増してくる。

 それらの具体的なケースが、要点をついて記されている本書を読むと、はたしてマイナンバーカードをいろんなことに紐付けして行こうと考えている日本の為政者たちは、そこで集約されていくデータが、行政ではなく商業的に、国内だけでなく世界的に利用されていくってことを(ただ単にデータの流出を防ぐってレベルではなく)どう考えているのだろうと不安になる。と同時に、デジタル難民でホッとしているわが身の現在も感じている。

 ほんとうに時代に取り残されているんだと、深く深く思う。

2021年12月19日日曜日

何をしなかったか

 賀状に取りかかった。今年最大の事件は、4月の山での私の遭難。秩父山岳救助隊の記録には「70代、軽傷」とあるそうだ。私は「至福の滑落」と題して、その経緯を書き記した。だが賀状に書くのは気恥ずかしい。心裡では自慢話のように響く。

 カミサンは「コロナ時代には何をしなかったかが記録だからね」と、意味深なことを言う。そうか、山に行かなくなって、リハビリ通いが9ヶ月も続いている。でもコロナのせいじゃないな。

 しないことというより、できないことが年々増えていく。でもそんな他人の話を聞きたくないよね。となると、それまでやっていたことをしなくなったために、見えてきたこと、感じてきたことを考えてみる。

 すると、隠岐の島町の玉若酢命神社の八百杉が思い浮かんだ。樹齢2000年、屋久島の縄文杉よりは若々しい木肌。深い森の中の縄文杉と違って神社入り口にあって日差しが当たっていた。触ることもできた。あやかることができるか。

 ご近所の散歩となると、見沼田んぼ。天気がいい日には西の方に富士山が姿を見せる。元旦には調節池に行ってみようと思っていたら、「元日の富士に逢いけり馬の上」と漱石が詠んだ句に出くわした。そう言えば、調節池も工事が終了して五年ほどになるか。整いすぎて素っ気なかったのが、年を経て寂がついてきた感触が芽生えてきた。こちらの身にも錆がついてきた。これが寂になるかどうかは、生き方の粋がかかわろうから、いまさらどうしようもない。そう考えてみると、何もしてこなかったなあとわが身の来し方を振り返る。ま、そんなところだ。

2021年12月18日土曜日

コペルニクス的転回

 知り合いの息子さんが受験生。先月「推薦入試」を受験し、結果が出てきたという。残念ながら本命には手が届かず、滑り止めとしていた所に決まると知らせがあった。本人は落ち込んでいるらしい。何とか声をかけたいが、どういったものか。

 その子の大学進学かと考えていて、61年前の私自身のことが胸中に浮かんできた。時代が違うから、今とは比べものにならないが、高校までの暮らしと大学のそれとは、私にとってはコペルニクス的転回であった。天動説が地動説に変わるような体験だったのだ。

 岡山県の片田舎の町と東京との文明・文化の違いが、まず絶大であった。5年は遅れていたろうか。トイレが違う、電話機も電話のかけ方も違う、食べているものや食べ方が違う。ナイフとフォークの使い方に戸惑い、大学の同級生と洋食を前にしたときに見よう見真似で教わったこともあった。また、全国あちらこちらから出てきた同級生、あるいは東京育ちの同学年生の言葉遣いも振る舞いも、読んでいる本も違う。なにより自分の意見を主張するときの勢いとか、人に対する畏れ具合も違う。何しろ堂々としている。これは、ショックであった。

 そのうちこの違いは、高校生までの私の生育歴との違いだと、わが身を振り返って思った。まず私は、洗濯の仕方を知らない。掃除をするのも畳の間をざっと掃くくらい。ゴミの始末もわからない。自分で食事を作ることもできない。ああ、こんなに生活能力がないんだ、親にすっかり依存してきていたんだと気づき、がっかりした。こりゃあ、勉強するどころじゃないぞ、と。当時の言葉で言えば、頭でっかちだったってことだね。

 この感覚は、学生生活が終わってからもずうっと続いた。結婚してからは、連れ合いに頭が上がらない。男社会と謂われる時代に育ったせいもあるが、暮らしの基本は連れ合い任せ。連れ合いが黙ってそれを引き受けてくれるのをいいことに、私は家事のことを忘れて生きてきた。

 山に行くようになってやっと、少しばかりテント暮らしのような料理をしたり、下山後に洗濯したり、用具の手入れや片付けをするようになって、独りでも生きていけるような生活習慣が少しは身についてきたかなと感じている有様だ。

 この子が大学生活を始めるに当たって、この子のコペルニクス的転回は何だろうと、思い巡らしてみた。そう考えはじめてみると、私はこの子のことをほとんど何も知らないと気づく。そうして思い起こしたのが、「推薦条件」である。つまり3年間こつこつと頑張ったこの子にとって、暮らしの術はさほど難しくないにちがいない。そうだ、今もピアノを弾いて愉しんでいるという。夏にはどこかの幼稚園で子どもたちの要望に応えて即興でピアノを弾いて会を盛り上げたとも聞いた。そこまで鍛錬することのできる粘りを持っているのなら、暮らしの技術を身につける壁は、簡単にクリアできるだろう。よかった、よかった。

 とすると、もう一つの壁がこの子のコペルニクス的転回になるかも知れない。

 東京へ出てきて受けた最大のショックは、私が高校まで身につけてきた知恵や知識は一体何だったのだろうという戸惑いであった。東京出身の同学年生たちの言葉や振る舞いをみると、自信に満ちている。私が本を読む中で見聞きし覚えた難しい言葉が、まるで身の裡から発した言葉のように口をついて出てくる。

 そのとき感じたことが、その後の私の大きな関心事になった。

 私が高校までに身につけた知識は世間の常識とする知識であり、自分のものになっていない。考えてみると、私が話している言葉も、世の中の人々がふつうに遣っている言葉である。言葉には、感性や感覚、ものの見方や考え方が込められてる。だが知識として学んだ言葉は、まだ私の身の裡を通っていないのかも知れない。簡単に言うと、学校で教わったこと、目にした本や新聞や人から聞いた言説を、そのまま受け容れてきたのが、高校までの学び方ではなかったか。それが、私の戸惑いの原因であり、自信のなさにほかならない、と。

 そうか、「わたし」は、私が生まれ成長してくる間に出逢った親や大人や文化がもっている感性や感覚や価値観などが、全部まるごとわが身に投げ込まれて堆積している。それが「わたし」の感性や感覚や価値観になっている。「わたし」が自分で選んだこととは言えないかも知れない。ほほう、そんな風に感じているんだ、そういう風に善し悪しを見極めているんだと、まるで他の人のそれらをみているように、ひとつひとつ意識してとらえかえしてやっと、自分のものになっていく。そう思った。これは、「わたし」のコペルニクス的転回であった。

 モノゴトにぶつかるごとに、なぜそう感じるのか、なぜそう思うのか、どうしてそう判断するのか。そうしたことを一つひとつ吟味して、身に備わった知恵知識を振り返る。そうしてみても、しかし、なぜそう感じ、考えているか分からないことも多い。それは一端棚上げにしておいて、ひょんな時に思い当たって、ああアレは、そうだったんだと一気に氷解することもあった。それはまるで、ものを考えることで自画像を描くような振る舞い。自画像は変わりに変わる。しかもそれは、来年80歳を迎える今でも続いている。

 そうして私は今、思っている。「大器晩成」と小学6年の担任教師が私のことを母親に言ったのは、単なる(母親への)気休めではなく、人生って、結局生涯を通じて自画像を描き続けることですよということじゃなかったのか。出世するとか、お金持ちになるとか、有名人になるという世の中的な成功者になるかどうかなんて「小器」のお噺。自画像を描く。それが人間としての「大器」なんだ、と自画自賛している。

 この歳になって、それができているって、素敵じゃないか。ほらっ、私の言ったとおりだったでしょと、6年の時の担任教師が笑っているように見える。

 この子が大学への進学を機に、コペルニクス的転回をみつけ、これまでの天動説を地動説に転回する道を見つけて行くのは、きっと面白い冒険だろうと思い、ちょっとわくわくする心持ちが湧き起こってきた。

 そうか、こんなことを認めればいいか。そんなことを考えている。

2021年12月17日金曜日

私は神を信じているのか?

 国分功一郎という哲学者の『中動態の世界』(医学書院、2017年)を面白いと読んだのが2017年8月。図書館で借りて読み、読み終わってから後に本屋に行って買い求めたほど刺激的であった。「能動-受動」という価値的な見方が成立する以前の「中動態」の世界をギリシャ語の解析から導き出して、現代の私たちの価値的な視線への批判を展開している。まだ若い。私の子ども世代が、このように刺激的な考察をしているのは、うれしい。そう思って彼のことをみていた。

 その彼が博士論文で取り上げたのがスピノザと知ったのはごく最近のこと。図書館に『はじめてのスピノザ――自由へのエチカ』(講談社現代新書、2020年)を見つけ手に取った。門前の小僧にとってはうってつけの書名である。スピノザという哲学者のことは、デカルトの二元論を批判して一元論を説いた17世紀の人という「知識」しか持っていなかった。その一元論、「神即自然」が、国分功一郎の解きほぐしによってわが身の中で起ち上がってきた。

 こういうことだ。スピノザは、私たちが身をおく自然のすべて、大宇宙をも包んでいるのが神だとみた。広大無辺。それが「神即自然」の意だときくと、なんとなく私たちの自然観に近い。デカルトのように身体と精神を分けて考える二元論よりも、心身一如という一元論もなじみがある。つまり私自身も自然の一部であり、八百万の神じゃないが、この世のありとあらゆるものに魂が宿るように擬人化して考えるのも、少しも不思議ではない。汎神論というのも、そういうものだと考えるともなくボンヤリと思っていたのである。

 だが、スピノザの汎神論にいう神は、遍く数多の神が宿っているという意味ではなかった。きっちりと唯一神をイメージしている。となるとむしろ、ホッブズの本の表紙絵にあるリヴァイアサンという怪物のように、宇宙を含む大自然を包み込むように実在する「神」って感じかな。汎神論というのが八百万の神という数多の神ではなく、唯一の神。それが、大自然に生起する事々に宿る。それらは、神の現れ、振る舞いであり御徴であるという。私たちが考える「天命」にちかい感触がある。

 そこだけをみると、すべては宿命論的に決定されていることになる。私の「天命」はそれほどに意志を強烈に示していない。こちらが必要とするときに(気儘に)現れて「啓示」をもたらすってとこか。だが自然に生起することごとすべてに「天意」を読み取れば、私の抱く自然観の表徴とスピノザのそれとは現象的には一致する。ただスピノザは、すべてに宿るといっているのかどうかは、わからない。

 ただ私の感覚では、善きことも悪しきこともことごとく天意と受けとっている。「天」も「神」も、人の都合に合わせて振る舞っているわけではない。善きことも悪しきことも(その真意は分からないままに)突きつけてくるのが大自然であり、「神」ってそういうものだと、なとなく受け容れている。私のなかでは、「天」と「神」とが一つになる。人間の都合に耳を傾けるとは考えられない。そこが、スピノザと違うのかどうか。

 混沌の中に天意を読み取るのは、モノゴトの本質を真理として感じ取ることと同様に、そう受け止める感性が必要となる。デカルトはそれを「コギト/我思う」においた。モノゴトを疑っているワレの存在は疑い得ないを起点として、実在の原点とした。ひとまず神(の意志)と切り離して思索してゆくのには、欠かせない根拠であった。

 だが大自然の一員としてわが身を位置づけるとき、「我あり」は証明を必要としない与件である。そこでスピノザは、モノゴトの本質を見て取るセンスの形成が、もろもろの体験を積み重ねることにあると、生々流転の人の変容に求めた。その変容の中に、諸々の状況からやむを得ず行う振る舞いを不自由な、従属的あるいは隷属的なコトと見立てたというのも、私自身の抱いている自然観と私自身の感性や感覚、思索の形成と照らし合わせると説得的である。生育歴中の環境が、感性や感覚、生活習慣や心の習慣の総集としての身をつくる。何が自由意志で何が環境によってしつけられたものかは、わからない。自由な選択といっても、設定された選択肢自体が限られているとき、はたして自由意志の発露と言えるかどうか。

 自身を原因とする振る舞いを自由意志とみて、国分は解説しているのは明快である。国分のスピノザ論は、そこを起点にして「自由とは何か」へ踏み込む。そのとき自然に生起することが「神」の御徴の現れとみると、どこに自由意志があるのかと、展開する。それはなかなか面白いが、ここではさておいて、スピノザの「神」と私の「天」とは、同じものだろうかと疑問符が湧いた。

 全宇宙を覆うような存在としてのスピノザの神は、ありとあらゆる自然の出来事を神の意志の下に置いている。だが私の「天」に意志があるとは思っていない。自然に対する私の畏敬というのは、分からないもの(混沌)に対する畏れと敬意である。「混沌」を気まぐれな自然とみているとも言える。それを現実事象に対する「天啓」と読み取るのは、「天の意志」というよりも、直面している面倒な事態に対する改変の正統性を表示するほどの意味しかない。つまり自分のご都合主義に他ならないから、自然に対する信仰心とは無縁だといわねばならない。

 生じる事象に対する不可知の力の作用とみても、また、その見て取る眼力は経験によって自らの変容を手に入れることによって果たすほかないというスピノザの方法は、現場主義的な私のセンスにうまく見合うものといえるが、はたしてわが身の形成が人類史的な文化の堆積の現在形とみている私の自己形成と一貫性を持って語れるかどうか。面白い課題に向き合っている。

2021年12月16日木曜日

経済脳になってしまった統治

 18歳以下の子どもへの給付金をめぐる政府の右往左往を(安部=菅政権の一点の瑕疵も認めない突破主義と違って)、岸田政権の「聞く力」の現れと私もいくぶんの好感を持って観ていたが、ふと気づいたことがある。安部=菅=岸田の差異などという蝸牛角上の問題ではなく、政治家も官僚機構も貫くような大きな勘違い、視野狭窄に陥っているのではないか。勘違いというのは、国の統治って事を経済的な市場原理でしか考えられなくなっているってコト。

 というのは、マイナンバーカードを全国民へ拡げるのに、なぜ2兆円もの財政出動をしているのかを考えていたからだ。アメリカのように社会保障番号を登録させ、それと政府の財政支出とを連動さえるという仕組みをつくるのは、いわば統治そのもの。つまり命令して徹底周知する事柄のはずである。それを市場経済的に切り回そうと発想しているのが、今回の2兆円の財政出動だ。しかもそれは、健康保険証とリンクすればとか、預金通帳とリンクすればという選択が設けられているから、全国民にマイナンバーカードを付与し流布せしめるという初発の趣旨は、とうてい実現しない。笊も笊、結局何のためのナンバーカードか疑わしくなる事態を招来するばかりになる。

 なぜ、こんな為体になってきたのか。二つの次元の異なる統治体験が、戦後の統治機構の中に併存してきたからではないか。

 ひとつは、統治過程の国家がになうべき「強制力」という暴力装置的部分を極力避けて通ったにもかかわらず、一時、アメリカを凌ぐような経済的成功体験。この錯誤のワケはすぐわかる。アメリカが仕掛けた「日本の軍事的無力化」に乗っかって、冷戦時代をもっぱら経済的な活動に専念することができたからだ。国内的にも、占領が解け、自律して後にも、暴力的命令要素を念頭に置くことなく、ことごとくを市場原理的に処理するという錯誤に統治体質が馴染んでしまったことだ。

 善し悪しは脇に置いておくが、戦争直後の貧窮生活から「一億総中流」時代への経済的階梯を上るときは、統治者が何をしていようと庶民大衆は黙っててもついてくるものだ(今の中国をみればよくわかる)。その成功体験への上昇渦中に生まれた人達が、いまの政治家・政府官僚たちだ。

 大事なのは、もう一つのこと。

 冷戦時代を凌ぐにも、アメリカの御威光があったからとはいえ、「非武装」という看板を掲げて過ごすことができたのは日本国憲法の前文と第九条が国際的にも周知のことだったこと。まず、「日本の軍事的無力化」は第二次世界大戦における連合国軍の合意戦略でもあった。その証拠は国連憲章の第53条、所謂「敵国条項」が未だに残されたままである。だから日本政府としては、憲法の精神を徹底的に遵守して、戦後の安全保障と外交を続けるしかなかった。

 アメリカの庇護の下に、その政治的・軍事的要請にしたがったのは致し方ないとしても、なるほど日本はそこまで「徹頭徹尾・平和国家」を貫いているという姿を繰り返し、晒し続けて行くしかなかった。それらしいことをしたのは、田中角栄くらい。アメリカの先を越して中国を承認し、国交回復をした(だから角栄はアメリカの謀略によって獄中の人となったとまことしやかにいわれている)。それ以外は、そろそろと口先だけの、国内的にしか通じない言い訳をしながら再武装をすすめ、そのうち「不沈空母」としてアメリカの「同盟国」にまでのし上がった。

 その径庭をみていたものとしては、政府の統治センスは戦前のままだと思うほかなかった。戦前からの(伝統的な)「お上」の統治センスは、いまも残りつづけている。つい最近までの宰相が、「人事」と「策」を弄して中央官僚機構を手懐け、中央から地方への伝声管を(上意下達的に)確保し続け、結局中央政府の説明責任も国民に対する情報公開もネグレクトして、恬として恥じない統治機構の体質を保ち続けてきたことをみると、よくわかる。

 戦中生まれ戦後育ちの世代からみると、日本国憲法の「日本の民主化」さえも、ほとんど顧みられることなく、その形式だけが取り繕われ、統治者と庶民大衆の関係は選挙の時を除いて「統治-被治」の関係を変えることなく続けられた。そこに「民主国家として再出発」した戦後政府が果たすべき課題があったはずなのだが、統治機構内の(せいぜい与野党という次元の)争いに終始して、それも市場原理に任されてしまったと言えよう。

 そういう積み重ねが、統治者としての政府・中央官僚の頭脳を市場経済脳に代えてしまったといえようか。

 資本家社会的市場原理は、その初発段階で壮大な暴力性を発揮していた。資本の原始的蓄積といわれるが、農村を解体し、人々が労働力として雇用されて以外に生きる手立てを失う状況へと追いやった。しかしアダム・スミスが市場原理を説明したときには、その原始的蓄積のことはすでに社会的前提となり、自由な取引をすすめていけば自ずから神の手によって資源の配分も節約も最良の道を取ることができると考えられるようになった。

 それと同様に日本の為政者もまた、経済に邁進するあまりに統治が必然とする支配の暴力性を忘れ、あたかも良き統治は自ずから人々の同意を得て振る舞いを一つにすると信じているかのように施策するようになったと言えようか。言葉においても、「命令」を忌避して「指示」にしたり、自らに決して瑕疵はないことを貫き通そうとしたりして、かえって言葉自体の混沌を招いていることに気を配らないできている。

 こうも言えようか。政権にある為政者は、施策を経済脳で考えているにもかかわらず、統治の暴力性が必要であることに気づいている。ことに安部=菅政権は、それが発動できない元凶は「憲法」だとばかりに、私権の制限だとか、集団的自衛権の合法性を閣議決定や法解釈の手続き的な変更によって実現しようとしてきた。それは、暴力性を発揮しないで、謂わば経済的合法性の流儀の上に強権統治を実現しようという歪んだ国家権力の姿であった。

 岸田首相が「新しい資本主義」ということを説いても、統治の暴力性を消せるわけではない。というか、その暴力性を消せば消すほど、現実に展開する強権性をもみ消すために御正道を曲げてしまっている。それは言葉や文化の面での崩壊を引き寄せ、日本語によって保ってきたナショナル・アイデンティティすら失わせかねないと私は危惧する。いや、実際に政治家やかんりょうやなど、エリートと考えられてきた人たちが貧しい言葉を左右してみっともない姿をさらしているのは、日本人としての誇りを傷つけ、貶めている。それこそ、防衛という安全保障の根幹、「何を護ろうとするのか」を消し去ってしまう振る舞いである。日本国憲法の「平和条項」は、その土台の上に築かれるはずであったと、わが身の裡側をみながら思うのですが……。

2021年12月15日水曜日

「失われた*十年」の意味すること

 TVのニュースで国会論議のやりとりが流れている。野党が「マイナンバーカードで、2兆円も必要って、どこかそんなことをやっている国でもあるのか」と追求している。首相が「デジタル化を進めるためには必須のこと」と、官僚の下書きを読み上げるように応えている。バカだなあ、この人も、スガ宰相と同じようになっちゃってる。岸田首相の良いところは、政策発表をして後に世論の反応を探り、躊躇なく提案政策を翻して修正するってところにあると思ってきた。聞く力っていうよりも、どうしたら良いかわからないことに気づいている感触が、私たち庶民大衆の胸中に見合っていると思うからだ。官僚答弁を繰り返すのなら、ただの辻褄合わせ。


 そう思っていたところへ、本ブログ「2020-12-13、進む技術、遅々たる社会的手順」の記事が送られてきた。読んでみて、30年後の今も、同じことを考えている自分に気づく。この国の統治センスは、どうなっているんだろう。お役所のデジタルセンスが整っていないのに、統治手続きをデジタル化して、「情報処理」ができなくなってあたふたしているのが、今のお役所じゃないか。統治される国民の方の「情報処理」の速度が速くなっているのに、それを集約して始末する方のお役所の処理速度が滞留するようになって、医療を受けることができず、自宅待機といって放置されてきたのが、コロナウィルスの第五波ではなかったか。


 地方行政の滞留は、地方自治が整っていないからと言うのであれば、中央政府はそれを解決するために何をしなければならないか提起するべきじゃないか。国民にマイナンバーカードを持たせることが行政のスピード化を図ることになるのであれば、国民が喜んでカードの作成をする翼賛を待たずに、カードを作成しなければならないような政策を提起すれば良い。税務をカード経由で一括処理するとやって、それを集約できるように行政命令を決議すれば済むことなのに、それができない。なぜ? 与党の政治家たちが、まず反対するからだ。大企業がさらに反対勢力に加わる。産業界の大投資家たちがそれに翼賛する。つまり、自分自身の統治ができていないのに、デジタル化などというから、こんな憂き目に遭う。アメリカのゴアが副大統領時代にやったネットワークの整備と社会保障番号を、行政的収支のネットワークに整えた方法を調べれば、どうやったら良いかは一目瞭然。あるいは、韓国の整備経緯に範をとっても良い。


 30年前は小さな高等学校の片隅で行ったことだが、未だにお役所がその段階にとどまっているなんて、「失われた○十年」というのは、こういうことを言うんだね。

2021年12月13日月曜日

これは全人生の物語だ

 いま鈴木正興『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』(原町書肆、2021年)を読みすすめている。全四十八段のうち十四段を読み終わったところ。いや、実に大作である。A4版の三段組みで300頁になろうという。しかも、びっしりと文字が詰まっている。この作家から頂戴した手書きの「自称「小説」謹呈の御挨拶」は、こう記している。

《……しかのみならずモンダイは小生の文章の書き方、即ち一般の常識に悖るビッシリ書きとでも言うような書き方です。とにかく隙間なく文字を羅ね列べ、しかもやたらにルビ付きの漢字が押しくら饅頭しているとあっては読みづらさは必定、何しろ間も余白が殆どないのですから。今まさに目を通しておられるこの挨拶文もそうですよね。で、この言わばビッシリ書きの弊風はキューポラのある街の長屋で育った自分の生育歴に由来する貧乏性の所為でして、その故をもって余白ができやすい段落の設定や行替え、意味ありげな二、三行空け等々は可及的に忌避し、また会話部分もこれこそは行換えの必要があり、各種の小説を見ても、例えば「あっ!」だけでも一行分取ったりしてますが、読みやすいのは理解しても、ああ何と勿体ないとの感の方が強く、斯くして小生の場合は基本的に読みづらさも構わずの言わば連ね書きとなっています。……》

 この「挨拶」状を一読してわかるように、この方、一癖も二癖もあるメンドクサイ作家なのだ。ちなみに、メンドクサイというのは、読む方の感懐であって、ご当人はすでに積年の蓄積もあって身に染みこんだクセとなっていて煩わしいとも感じていないはず。ただ、歳をとると、わが身も外界と溶け合うのか、だんだん輪郭がぼやけてどうでも良くなるのか、我がクセながら身の動きが追いつかず、我がことをメンドクサイなあと吾輩も思うようになっている。そのメンドクサさは、作者も読者も同じように歳をとることで進行している。なかなか融通無碍にはいかないのだね。

 加えて、これを頂戴したのが11/16。その月の後半、珍しく私に忙しい予定が続いていて、歩いたり電車に乗って遠出したりすることが多く、読む暇がない。

 何しろ、持ち歩けるようなしろものではないのだ。大きく、重い。重いと言えば何kg? と、この作家がクセを発動して聞きそうだから、量ってみた。650gもある。厚さも11mmあった。400字詰め原稿用紙で1600枚あると作家自身は「御挨拶」に書いているが、この方、パソコンを打つでもなく、文字通り原稿用紙に書き付けているから、正味1600枚ということ。常なる編集なら2000枚ほどに相当すると自称している。例えばいま手元にあるピエール・ブルデューの『世界の悲惨Ⅰ』(藤原書店、2019年)はB5版490頁。1頁1000字ほどだから、400字詰めで1200枚ほどの計算になる。だが、デザイナーのセンスを生かす為もあるのか、章割の扉にも2頁をたっぷり余白を取ったり、途中に挟まるインタビューも、余白を気にしない余裕の編集になっているから、正味で言うと大分少なく2割減になるかな。厚さは32mmもある。つまり貧乏性の作家の腹心の原町書肆が、資質も薄手の上質紙を使いながら、大部をものの見事に詰め込んで仕上げているとみた。

 読むのが遅滞しているのには、ほかの事情も加わる。しばらく前に図書館に注文していた本が届く。別にふれているカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』。これは、返却期限がある。こちらは私の貧乏性といえば言えなくもないが、むしろ私は「反贅沢症」という気分が作用していると思っている。本は「共助」に頼ることにしているから、そちらをまず読まねばならない。そうこうしていると、上記ブルデューの圧巻がⅠ、Ⅱ、Ⅲと届いて、全体通して1533頁の通しページが打ってある。これはとても期限内には読み切れないわと悲鳴を上げそう。

                                      *

 そういうわけで、『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』は、気が向いたときに一段落ずつ読むようにして、やっと今、十四段を読み終わったのであった。

 また因みに、この小説、聊斎志異などと同じように段落毎に、その節の概要を表すかのような表題が、さながら川柳風情の17文字で綴られている。ちょっと紹介しておこう。

 四 眉上げて江戸事始めは長屋から

 五 ご覧じろこの塾風や破天荒

 六 小童が渓を成りて睦み来る

 七 捨てなされ狷介一途の裃は

 という調子。六の「成り」は「つくり」とルビが振ってある。これこそ「遊学」と言わんばかりに作家も遊び興じていることが伝わってくるではないか。

 自らは〈戯作〉と銘打っている。「声に出して読む小説」とこの作家のエクリチュールを評した方がいて、《本当に音読すると咽喉をやられますので御注意ください》と先述の「御挨拶」にも記している。作家は「御挨拶」にこう記す。

《いっそのこと、その江戸時代後期町人文化が興隆していた頃、民間で流行した軽易な通俗小説を総称して「戯作」と言っていましたが、まあそのような一種調子こいた類いのものと思ってもらえば適当かも知れません。したがって前述した如く「近代小説」が時空を貫いて人間存在等に関する根源的な意味を問い続けてやまないのに比し、小生のはさような面での桎梏はなく、内容に重たさが必要ありませんので、その点気分はへっちゃら、我が「小説」への思いはただひとつ、話の筋があっちへ行ったりこっちへ行ったり蛇行するにしても淀まず流れる水のような、或いはまた耳朶を掠め過る風のような読物となってほしい、それだけでした。そのため物語の途中読み手に「ここは何を訴えようとしているのか」とか「作者の真意は奈辺にあるのか」なんぞと立ち止まって考えてもらっては本意に反しますので、そこはそれ「そんなこといいから、はい、さっさと行きませう」と調子こいたテンポ感で先を急がせるふうにしています。》

 こういう芸風が、もう半世紀も前になりますが、「韜晦」と非難されたことがあります。私はこれを「遊びをせんとや生まれけむ」という人間本性、つまりヒトのクセの花咲き花散る様子と受けとっていました。大真面目に「韜晦」批判をなさる方々の、大上段ぶりをじつは揶揄していたのですから。

 読み進めるとまさしく講談を聞いているような気分になり、耳朶に響く声を聞き分けると、作家と呼ぶよりも戯作者と言ってよと行間から聞こえてくるようです。

 しかし、では戯作というのは酔狂と気分次第でしゃらしゃらと自在に書き流せるかというと、そうではないと、読んでみればわかる。いや、読んでは流れるような記述であるにしても、その土地土地の地理地形から神社仏閣の由緒由来、登場する人物の風体立ち居振る舞い、出自とその落ちぶれてきた径庭などを落ち着かせるためには、書き表されていない部分への深い考察がずいぶんと必要になる。あたかも海に浮かぶ氷山のように、9割方は見えないが重心を保ち、海上の突出部分を支え、どっしりと深く重く、由緒由来を沈黙に代えて潜在している。さらに洋学塾に学ぶ若侍を主人公に仕立ててあるとなると、江戸期の教養流行の行雲流水。唐来ものは言うに及ばず、和蘭陀やエゲレスなどの洋学の知恵知識があの手この手で流れ込み、それらを談じ論じる多士済々のお噺となるから、天文学、地学、植物学、化学、医学、鳥や獣学、昆虫学、薬学から、数学、哲学、歴史事情などなどに至る深い造詣が底流していなければ、なかなかどうして、お噺は停留して流れは止まり瀞となって淀んでしまう。しかもこの洋学塾、談論風発を旨として、欧風文化の位置づけなども方法論的にやりとりする場面もおいている。その視線は、まさしくこの作家の豊潤な内部から醸し出されてきている。

 つまり、この〈戯作〉は、この作家の畢生の作品と自称するだけあって、謂わばこの作家の全人生が投入され、反映されている。自身は「近代小説」とはみないでくれと懇願の態であるが、読み取る側からすると、戦中生まれ戦後育ちという(今となっては)特異な世代に属するこの〈戯作者〉の辿った人生を鳥瞰しているような趣を感じる。

 時代を江戸期に取ったのは、「近代の夢」から一歩ステップアウトした視点を確保するため。つまり渦中にいて渦を見極めるがムツカシイは必定という天下の作法に則って、「近代」から足場を脇へ移し、そこから「近代」を歩いた己が人生を鳥瞰してみれば、どのような物語りが紡げるか。そういう視線こそが、客観視の第一法則なのだからである。

 もちろん客観視とか主観に満ちているとかは、この作家には関係がないと撥ね付けられるかも知れない。というのは、この〈戯作〉は、登場人物を一人として抽象化しているわけでもないし、何かを表象させようと設定されているわけでもない。まさしく一人一人がすべて、然るべく生きて然るべく姿を変容させ、いずれ消えてゆくかけがえのない特定人物そのものとして登場してくるからである。それが「近代」を抜けている証拠だとでもいうように、まさしく「お噺」として語られている。

 社会を語るでもなく国家を語るでもなく、何かのテーマに限定して人を語るでもなく、生きた意味合いを取り出すでもなく、生きた姿をそのままに「かかわり」としておいて、人ってそういうものだと、まるごと、もちろん整理して秩序立てるなどという余計なことは読み手に任せて、雑然と投げ出すように開陳している。それがこの〈戯作〉を棒のように貫いていると感じ、その手応えの慥かさに震えるような気分の昂揚を覚えている。そうだ、これこそ私がイメージしていた人生ってもんだと、軽い感動に包まれて、我田引水している。

 とは言え、この作家を結局私は何も知らないのだとわかるのが、まず第一の読後感である。先述の海の下の海氷の水没部分のように、この〈戯作〉を読むほどに、知らない鈴木正興像が浮かび上がる。しかもそれで「わかったか」というと、とんでもない。奥深く、底知れない。これフェイク? それともトゥルース? という疑問を各所に残し、その言い回し、表示に戸惑って、何度も辞書を引き、典拠が中華文明の古代の文献古俚にあることを知ったり、ただの洒落だったりすることに思い当たって苦笑いする。これも、読書の娯しみと気持ちを解き放てば、ますます、この作家のメンドクサイところが面白くなる。この作家の蓄積・所業にとうてい及ばない私も、その文化のお裾分けに預かるような気分で、誇らしくもうれしい。どうだい、オレにもこんな作家の友達がいたんだぜって! 或いは、もう少し弾んで、どうだい戦中生まれ戦後育ちって、こんなもんだぜって。

 まだ当分、郁之助の遊学始末を味わい、戯作者・鈴木正興さんの人生やかくあらんと、彼を見知ってからの54年間を振り返って娯しむことができそう。ありがとう、郁之亮。ありがとう、鈴木正興。 

2021年12月12日日曜日

十二日町と我がノスタルジー

 今日12/12は、浦和・調宮(つきのみや)神社の「十二日町」。12/3の秩父夜祭りを起点に、荒川の流れに沿うようにお祭りが流れ下ってくる。12/8熊谷の「お酉さま」、12/10、大宮氷川神社の「十日町」と下りながら、夜店のテキ屋が、1年の無事を言祝ぎ、年を越し、新年を迎える庶民の準備のお手伝いを、諄々としてゆく年中行事である。

 浦和の十二日町は、調宮神社の御祭礼。昔は、子どもたちが地車(だんじり)を曳いて地区を経巡ったものだが、今どうしているかわからない。子どもが小さい頃は付き添って神社へ詣で、旧中山道沿いに並ぶ夜店を冷やかして歩いたこともあった。ときどき、夜学の生徒が夜店の店番をしていて、「よっセンセイ、これ持っていきねえ」と綿菓子を突き出してきたりして、面食らったこともあった。おおよそ信仰心のない私が、神社の由来などに関心を振り向けるようになったのも、そうした「お祭り」のおかげかも知れない。

「お祭り」が遠くなったせいか、調宮神社辺りの賑わいが、静かで仄昏い佇まいであったように感じられて、これって、私のノスタルジーじゃないかと思ったりする。なんだ? なぜ、こんなイメージが湧いてくるんだ? 

 大宮の十日町は一宮氷川大社の御祭礼であるから、賑わいは一入だ。もともと大宮が都市的な賑わいの中心であったのに対して、浦和は静かな奥座敷の風情を残していた。「文教都市・浦和」というキャッチフレーズが、旧制浦和高校から埼玉大学の威光を担いだものかどうかは知らないが、文人墨客が住まいを構え、鰻を食して来訪者を歓迎し、武蔵野の風情を文字にしていたことなどがお店のパンフレットに記されているから、「急行の止まらない県庁所在地」として有名であっても、地元ではまた違った落ち着きを求める誇りにしていたのかも知れない。

 平成の浦和、与野、大宮の三市合併話が持ち上がったとき、浦和と大宮が市庁舎の所在地を争った。私は、町が賑やかになる方向よりも静かな佇まいを保つ方を好ましく思っていたから、浦和におかれている方が「タウンシップ」が好ましいかなと思っていた。だが実情は、「さいたま新都心」を中心に「さいたま市」づくり構想が着々と進み、いずれそちらの方へ移転することも、決まってしまったように仄聞している。「さいたま新都心」は、浦和と大宮の半ばを取った結果というよりも、「さいたま市」の政治家や地方行政担当者のセンスが、首都機能の分散の一つとして設けられた「さいたま新都心」を中央行政大明神の象徴のように奉るところから来ていると、私は読んでいる。そもそも浦和から移転する必要があるほど、現さいたま市庁舎が古びているわけでもないし、規模が小さいわけでもない。ただただ、旧浦和と旧大宮の地方政治家と地方行政の担当者が、古い縄張り意識を底辺において綱引きをしたが共に譲らず、双方共にもつ「さいたま新都心」という中央崇拝の共通感覚に従って、落ち着きどころを得たという方が良かろうか。

 つまんねえ奴らだなあ。映画「翔んで埼玉」の制作モチーフを少しでも噛んで含んで持ってみやがれって、東京の植民地精神に唯々諾々としたがっている性根に毒づいてやりたいくらいだね。

 ともあれ、浦和の東の方へ住まいを変えてからは、十二日町にはすっかりご無沙汰している。ことに歳をとってからは、夜に出歩くことがない。遠出をしてやむを得ず帰宅が夜遅くなるとき以外は、家からさえ出ない。

 夜というと、すぐに昏い道のりを、月明かりを頼りにとぼとぼと歩いた13歳頃の風景が目に浮かぶ。これは間違いなく、我がノスタルジー。踏み外すと脇の田んぼに転がり落ちるかも知れない未舗装国道の夜道を、しかし何かから解き放たれたような気分を身に感じながら歩いた独りぼっちの感覚。そう言えばあれが、私の原点だったのかなと少年の頃の我が胸中を思い起こしている。

2021年12月11日土曜日

時間は存在しない(4)人類史の痕跡としての「わたし」

 カルロ・ロヴェッリの「時間」の見立ては、みている「わたし」を抜きにしては語れない。ということは、「わたしの(記憶に刻まれた)物語」が「時間の痕跡」であり、すなわち「わたし」の数だけ人類史が刻んだ「時間(という過去)の痕跡」があることになる。

 しかも私の実感として、「わたしの記憶」というのが恒常的に(わが身の裡に)あるわけではない。あるときに思い浮かび、あるときには深く無意識層に沈潜して忘れている。あるいは、他の人の痕跡と出逢うと思い起こし、修正され,移ろう。本を読む、映画を見る、話を聞く、人の振る舞いを目にするだけでもかまわない。それらに触発されて思い浮かぶ事々が、即ちすべて「時間の痕跡」である。表象的に受け止めることも、「わたし」という個別性に集約された「関係誌」であり「関係史」であり、即ち人類史である。いや、それらの断片である。「わたし」の自画像が「せかい」であるように、「わたしの痕跡」が人類史の(断片の)すべてを表している。人の数だけ人類史があるとも言える。

 人類史というのがなにがしかの普遍性を持つように学校を通じて教わってきたが、そうではないと修正される。普遍性は、記憶に刻まれたたくさんの相似の痕跡が、近似の、近似の近似として(したがって誰にも,何処にでも当てはまることとして)ボンヤリと受け止められたことを指している。

 こうも言えようか。「人類史の痕跡」というときすでにそこには、(その感覚や観念を)共有しているという普遍性とか一般性への共通感覚が働いている。私が用いる言葉そのものがそうであるように、「わたし」一個の固有のものは、それ自体として存在していない。そういう意味では、「わたし」が抱く観念や感覚や価値意識も、立ち居振る舞いも、すべてが「わたし」の体験でありながら、「わたし」に仮託された人類史的な文化の(欠片がわが身を)通過した痕跡だということができる。普遍性というのは、近似の近似の近似を指して呼ぶ言葉だと思う。

「神は微細に宿る」というのは、まさしく「近似」ではなく、デキゴトの個別性そのものに宿ることを指している。「神」という言葉に込められた普遍性を当てはめて,デキゴトの「近似」をそれと錯覚するのを正そうとする言葉に聞こえる。

 物事に名をつけることもそうだ。名をつけることによってモノゴトが個別性そのものとして起ち上がる。近似に抽象されてゆく過程で捨象されてしまうことの痕跡を、きっちりと残していこうとする行為の第一歩となる。

 そして今、高齢となった私は、「痕跡の記憶」を茫洋とした混沌へ溶け込ませていっているような気配を感じている。身の内の想念のいろんなことが溶け込んでボンヤリと一つの「混沌」と感じられていく。それは「何が何だかわからない混沌」というよりも、「わからないわけがなとなく感じ取れる混沌」として、腑に落ちる感触を得ているように思う。これは、身と思念とが折り合いをつけて齟齬を来さなくなっている感触なのかも知れない。

 カルト・ロヴェッリは「時間は存在しない」認識へ至る起点に、世界の活動をエントロピーの増大と捉える視線をおいた。人類史的な行為は、混沌の海からさまざまなモノゴトを引きずり出して名をつけ、分節化し、それらの断片を体系化し、物語を添えて一貫性を与えようとしてきたが、そのことそのものが、じつは、世界に秩序を与える試みであった。それがじつは、エントロピーの増大であったとみると、秩序づけてモノゴトを捉えようとするヒトのクセそのものが、それを招来していることである。

 案外、「秩序づける-混沌に踏み込む」という相反するモメントが息づいている実感こそが「生きている」ことじゃないかと思っているが、どんなものだろう。

2021年12月10日金曜日

恢復の体感、施療者への応答

 昨日はリハビリの鍼灸の日。5月から5kmほどを通ってリハビリのマッサージを週4回行ってきた。8月から鍼灸を奨められて隔週に一度加えた。足腰の衰えを防ぐ意味でも、歩いて通うように心がけた。だが、初めのうちは途中二度ほど腰掛けて休みながら、ようやく辿り着く有様。7月頃には通して歩けるようにはなったが、目的地につく頃には肩が張り、痛くなった。疲れが出やすくとれにくくなっていると思った。

 鍼灸は、要所数十カ所に鍼を刺す。要所がピクンと来るところと、何も感じないところがあってどちらがいいのかわからなかった。訊くと、要所に刺激を与えて血流を良くしようとしているというから、ピクンはピクンでそれなりに効果があるのだろうと考えてきた。鍼灸師は「今鍼を刺しているところで痛いところはありますか」と聞く。聞かれる頃にはすっかり馴染んでピクンが果たして痛いということかどうかもわからなくなっている。ただ、鍼灸後にマッサージをすることを含めて概ね1時間の施療。マッサージの15分と較べても、治療を施してもらったという実感は大きい。

 リハビリのおかげと思うが、半年を経て10月から週に2回のマッサージに変えた。鍼灸も11月から3週に1回に削減した。体の不都合感が緩やかに減っている。左肩の肩甲骨と腕の付け根部分の痛みは残るが、動きは遙かに良くなった。

 こうして8ヶ月目に入って、日常の体の動きでは,何の不都合も感じなくなった。ただ、体操をするとか腕の動きをチェックするときには、左腕の可動範囲が右腕ほどではないことに気づく。もう少し動かそうとすると、ピリピリと腕の付け根が悲鳴を上げる。リハビリのマッサージも、その点に集中して施療が行われる。医師の診察が「純粋理性批判」とするなら、リハビリの施療は「実践理性批判」だと思いながら、私の好みは実践理性批判の方だなと思ってきた。

 そうして昨日の鍼灸施療。これで最後という判断が,身の裡に湧き起こってきた。ああ、こういう日が来るとは思っていなかった。いつ切り上げるかは鍼灸師が見極めてくれるとばかり思ってきたから、年末年始の休業期間中を考えると、今度は1月6日になるかと算段していたのだが、わが身の方が、鍼灸はここまでで十分と反応しているように感じた。

 これは、うれしい。関わるリハビリ士は何人かいて、その都度違っていたが、いつしか3人に限られ、たいていは鍼師が私を担当してくれるようになった。その方のマッサージは、私の体の要所を指先でみているように探り当て、押さえ、つかみ、緩急を交えて施療してゆく。まるで私の身と対話しているかのような業だと感じ入っている。こういうのを職人技というのかと,毎回認識を新たにするような気分だった。

 その、お任せと思ってきた私の身が、自ら,ここまでで十分と鍼治療を見極めることがあるとは、思いもしなかった。鍼とマッサージの問いかけに、身を以て応じることができたように感じているのかもしれない。反応することがリスポンスビリティの第一歩。なにか施療者に対する患者としての「責任」を果たしていると思った。

2021年12月8日水曜日

第14回seminarご報告(5)世間って何?

《わが身そのものが「世間」でもある》ことに触れておきたい。

 養老孟司だったか、「世間」について言っていたことを思い出した。「世間」というのは中国語で「人」を意味する言葉だという。では、日本の「世間」にあたるものを中国語ではどういうのか問うと、「人間(じんかん)」というらしい。日本語では、これは「にんげん」だ。これはヒトが群れをなして生き延びてきたことを思い合わせると、いずれであっても納得ができる。この、中国と日本の逆転的違いが何を意味するのか、面白いテーマになるが、それはさて措く。

 日本でいう「世間」は、「その人の共通感覚を持って関わる世界」を意味する。江戸期には、身分もあり関係する世界も限られている。しかも共通感覚を持って関わる世界というのは、人それぞれに異なるから、「世間」の外は「旅の恥はかきすて」のように、知ったこっちゃなかった。逆に言うと、「世間」の外は鬼ばかりでもあった。

「世間」が「その人」によって異なることになるのは、明治以降。

 ヨーロッパから入ってきた「社会」は、「世間」とは異なり、近代市民社会であった。市民社会というのは、考え方も共通感覚もそれぞれに異なる「他者」と、市民としての「権利」を認め合って、日常的に共存する空間を意味した。江戸期の世間に暮らしてきた人からすると、身分を越えて、知らない人たちと付き合う時代が来たということであった。いつも用心して暮らさねばならない。家を出ると七人の敵がいるというのが、実感に近かったのかもしれない。

 明治以降日本人の社会は一挙に広がった。社会の何処に位置しているかで人それぞれになるが、知らない「世間」の外と関わる人々がすぐ隣に登場するようになり、「世間」が消え失せて「世界」と関わる人たちや、さらにその向こうに「知らない世界」を感じている人たちが雑居する日本社会に変わっていった。ことに敗戦後、日本国憲法の洗礼を受けて、欧米風の「理念」を「人権」や「民主制」として受け容れてきた戦中生まれ戦後育ちの私たちは、欧米をスタンダードとして「世間」を嗤い、「世界」へ飛翔するように感じていたのであった。

 振り返ってみると、親世代が抱懐していた「世間」の感性やセンスや価値観を言葉として、振る舞いとして身につけて育ってきた「わたしたち」でもあった。つまり、身に刻まれた「世間」と新しく身に備えてきた「世界」とが齟齬したまんま身の裡に収まって、そのことに気づかず成長してきた。自己が意識されるようになってはじめて、齟齬が浮かび上がるようになり、はたして「わたし」の感覚や価値観は何を根拠に身に収まっているのであろうかと思案することが多くなった。

 山本七平が「水と安全はただと思っている」日本人だったことにも気づいたわけである。それを耳にした当座は、身の裡に残る古いセンスと思い、山本同様にそういう日本人を否定する心持ちが湧かないでもなかったが、一つひとつ繙いていくうちに、「水と安全はただと思っている」日本人の何が悪い、と考えるようになった。庶民大衆にとっては,所詮「水と安全はただと思って」暮らせることが至福の人生ではないか。それを、そう思って暮らせるように整えるのが国のコントロールをしている政治家や役人たちのお仕事ではないのか。山本七平は、税金を納めている庶民大衆が国の舵取りをしているように思っているようだが、それは政治過程の一面しか見ていない。統治の中枢を担っている(明治以降の)人たちがミスリードしたことをこそ、敗戦を機にきちんと行わねばならなかったんじゃないか。

「世間」が消え失せたために庶民大衆を包んでいた「共助」の関係も消えてしまい、人々には個人主義的に生きる術しか残されなかった。「公助」は統治者任せ、「共助」は消え、「自助」は家族だけ、もしくはただの独りとして,孤絶している。それが今,わたしたちの立っている現在地である。

 ジェンダー・ギャップを俎上にあげるには、まだまだ遠い道のりがあったように思う。(つづく)

2021年12月7日火曜日

第14回seminarご報告(4)無知の知

 LGBTQ+を性的嗜好のモンダイといったとき、それが差別につながる「概念」には、もう一つ間に介在する思考の傾きがある。固有名が捨象され、一般化されて「特異」な存在と規定されているのだ。

 私はオードリー・タンのことを例に挙げた。そのとき私は、オードリー・タンという固有名を持つ人のことを思い浮かべていた。天才的なITプログラマーであり、社会活動家であり、台湾の中学校で差別的な扱いを受け(たまたま父親の仕事の関係で)ドイツの中等教育を受けながら、引く手あまたの高名な大学の誘いを断って(中卒のまま)台湾へ戻り、今は若手の閣僚として台湾の社会の変革に立ち会っている、というイメージ。つまり私にとってオードリー・タンは、LGBTQ+をカミングアウトした「G」という性的嗜好だけでなく、彼のこれまでの人生を(ある程度)総合して人柄がイメージされている。ここが重要だし、それを言い落としていたと、後で気づいた。

 人物に対する印象は、それをイメージする人の感性や感覚や価値観や思考の傾きが反映される。それは、対象とする人物の印象を通して、自らを語っているからだ。差別につながるLGBTQ+の「概念」というとき、たいていは、対象となる人の性的嗜好にだけ焦点が合わされ、その人固有の人物像であるかのように規定されて語り出される。その焦点かを施している語り手こそが、語り出されているのだが、往々にして私たちは、語り出されている人のイメージしか思い浮かべない。オードリー・タンは「天才的」という才能が(人物像として)先行していたが故に、カミングアウトしても,その性的嗜好のみが囃されることはなかった。彼の性的嗜好だけに焦点化するには、あまりにも人物が大きすぎたとも言える。

 ミドリさんは「優劣の序列のない(関係)」が望ましいという趣旨の発言をした。それはその通りだが、世の中の人と人との関係は(どんな人との間であっても)、そうした序列を排除しては成り立たない。相手に向かいあるときのリスペクトも(向き合っている人の文化的な価値に基づく)、身に刻まれた優劣の序列が働いている。背の高さとか年の功というのもそれであり、それらは優位的にも差別的にも作用している。固有名とそれに付随するなにがしかの優位的人物像が先行しているときは、LGBTQ+は差別の対象とならない。美輪明宏もおすぎとピーコの場合も、歌とか辛口の社会批評や映画評やファッション評とかがマス・メディアを通して確立され、LGBTQ+は付随する固有性とみなされている。

 逆に言うと、劣位に立つ人は、優位に立つ人の優位性を無視して、劣位の固有性を取り出して囃し立てようとする。そこに自らの自律の根拠があるかのように。

 そういった優位的と認められる固有性がないか(まだ)認められていない場合に、LGBTQ+のような社会的少数者の特異性は、劣位な少数者の表象とみなされ、多数者の(自己確立の)餌食となる。それを差別することによって多数者に属することを自己確認しているという意味で、その差別は繰り返し、折を見て再生される。ということは、差別する方が,自己を確立する根拠を持たないときに周囲の多数派に帰属することで自らの「正当性」としようとする心理的作用が働いているとも言えよう。

 つまり、その特異性を劣位と見なす(差別する側の)人の傾きが表出するが、そのとき差別する側の人は、差別される側の人の固有名に「社会的少数者である=劣位の表象」をかぶせているのであって、固有名の人の全体像を見ているわけではない。これは、性的マイノリティに関してだけではない。障害を抱えたり、不運な境遇に見舞われて,病や貧窮や抑圧にさいなまれている社会的少数者にたいする「劣位概念」に基づく差別的振る舞いなのだ。

 では、どうして,ただ単に社会的少数者であることが劣位の表象に転化するのか。好悪の感情に社会的関係性をかぶせて価値的に物事を見る視線が、作用している。清浄/汚穢、正統/異端、貧窮/豊潤という判断が、ときには宗教的な教義に扶けられて(例えば「貧しき者は幸いなれ」というふうに)優位/劣位が逆転することも交えながら、私たちの身の裡に刻まれている。刻まれるというのは、精神構造の核となっていつの間にか無意識の判断が下されるほどに身に馴染んでしまっていることを指している。

 社会的少数者という観念自体が、すでに差別的であることに結びついている。多数-少数という判断軸を取り払うことができない。それが現実である。それを講師のミドリさんは「世間って、日本だけにあるのよね」と表現した。私が思い浮かべたのは阿部謹也『世間とは何か』(講談社、1995年)。阿部謹也は、他者性を組み込んだ西欧の市民社会に対して、同調性を前提にした日本のコミュニティ性を「世間」と呼んで、特異なこととして取り上げた。阿部謹也の文脈は「世間」を遅れたコミュニティ性とみなすものであったが、それだけでは、わが身の裡に刻まれた「精神構造の核」は剥ぎ取れない。「世間」がわが身を立てるのに一役買っているからだ。というか、わが身そのものが「世間」でもある。無意識に沈んでいる「精神構造の核」を,一つひとつ丁寧に洗い出して俎上にあげる吟味の過程を通してこそ、自己と他者の関係を「優ー劣」の価値秩序から解放して紡ぐことができる。

 その第一歩は、固有名を以て固有の出来事を考えている視線を外さないことだ。つまり、世に出現する出来事を固有の事象として見つめるしかない。だがそうしようとしたとき、私たちにはマス・メディアで知らされる事々について、その個別事象の子細を明らかにする手立てはない。にもかかわらず、世に出来する事象を受け止め「我がこと」として腑に落とすことが、せめてもの固有名として扱う最良の方法だ。その起点にあるのは、「わからないことが多すぎる」という自己認識。無知の知である。(つづく)

2021年12月6日月曜日

時間は存在しない(3)わたしたちと時間

 時間を探求していった結果「時間は記憶であり、過去の痕跡」とみてとったとき、その主体である人間とは何か、わたしとは何かが俎上に載る。カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)はこうして、ヒトの認識がどう行われているかに踏み込む。この、量子物理学者が「人間」とか「わたし」とか「自己認識」の領野に踏み込むところが、この著者のもっとも面白いところであり、単なる外部世界の法則を描き出そうとする物理学者というのではなく、その学問を探求している自己自身の存在を不可欠の一部として世界を描きとろうとしている点で、私の関心と絡まる。つまり自画像を描くことが即ち世界像を描き出すことにつながり、私の描く自画像や世界像と異なり、遙かに広く深いスケールで屹立していることがわかる。

 どう描き始めているか。(物理学的な考察そして)「時間が存在しない」のに、なぜ私たちは時間を世界共通のこととして暮らしているのか。その認識のメカニズムへ踏み込んだいる。

 カルロ・ロヴェッリは、「わたしたちのアイデンティティの構成要素」を三つ取り出す。(1)《わたしたち一人一人がこの世界の「一つの視点」と同一視される》と指摘する。一人一人がこの世界を反映し、「受けとった情報を厳格に統合された形で合成する複雑な過程だ」と見て取る。

(2)つまり「わたしたち自身が世界を組織して実在にしている」という。土地の名も人とのふれあいもさまざまな出来事も、一様で安定した連続的過程として世界を思い浮かべている。感覚器官への入力を伴う「概念」のような「もの」を、「ニューロンの動的システムの不動点」と見極める。

《自分と似た人々と相互作用することによって「人間」という概念を形づくってきた》。そこから「己という概念も生まれる」。《わたし自身にとっての最初の経験は……自分の周囲の世界を見ることであって、自分自身を見ることではない》とみる。

 これは、私が常々口にしていることの、初発の部分を省略している。カルロ・ロヴェッリが「最初の経験」をする以前に、我知らず、身に刻んできているヒトの文化がある。「己という概念も生まれる」後の周囲の世界を見ることは、じつは自己省察とぴっちりと背中合わせになって、「己」の再生産を行っている。

(3)それがアイデンティティとして自覚できるのは、「記憶」にある。その積み重ねが「わたし」。《わたしは現在進行形の長い小説であり、その物語が「わたしの人生」なのである》と、わが身の実在を確信している。記憶によって過去を参照し、未来を予見する精神作用をヒトは常に繰り返している。それがわたしたちにとっての精神構造の核となり、《わたしたちにとっての「時間」の流れなのだ》。

                                      *

 この部分の記述は,私自身の「わたし」や「人間」や「文化」や「認識」について書き記してきたことと、ほぼ重なる。カルロ・ロヴェッリは「時間は存在しない」ことの論理的記述の中でこれを記しているが、私は文化の継承性を記しながら、同じ感覚と概念に到達したアウグスティヌスやフッサールやマルセル・プルーストの引用や紹介をしながら書き進めるカルロ・ロヴェッリの奥行きの深さと浩瀚さには感嘆するほかない。

《つまり時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティの源なのだ》と述べた後に、仏陀の生老病死の四苦八苦、「苦悩」にも言及する。仏陀を最後においたのが、カルロ・ロヴェッリの到達点を示しているのではないかと私は受け止めた。つまり「時間」は幻想であり、そこから解き放たれる「悟り」に至った、と。引用文中の「ヒト」がカタカナであることも、認識している世界が私と重なっている感じがしてうれしい(と、介在している訳者に伝えたい)。

《時はわたしたちを存在させ、わたしたちに存在という貴い贈り物を与え、永遠というはかない幻想をつくることを許す。だからこそ、わたしたちすべての苦悩が生まれる》。

 時間は、私たちの身の裡に存在する。過去の痕跡は、精神構造の核となるとともに、受け継がれた文化として身に刻まれている。時間を構成することによって私たちは,共同性のベースを手に入れ、人それぞれが抱懐している(記憶・文化の総体である)「時間」を交差させながら、社会をつくりだしているのである。

2021年12月5日日曜日

第二期・第14回seminarご報告(3)差別の根源に立つ

 生物学的な「性/sex」と「性差/gender」が自然発生的に連関しているからこそ、男も女も自ら、性差を受け容れて成長し、あるときその差別性に気づいて,声を上げるようになるのだと思う。ただ、戦中生まれ戦後育ちの、「新憲法教育」を受けた世代は「男女平等」という理念を身に刻んでいる。と同時に、親世代や世間のもっている男女差別の文化にもたっぷり浸って成長してきたから、理念と身とが分裂するようなこともあったかもしれない。その都度気づいて、修正を施しているのが実態である。

 新憲法世代の男女平等の観念には(我が胸に手を当てて考えて見ると)、父権主義的な要素がずいぶんとあったと、大人になって思い当たることが多かった。男兄弟ばかりの間で育ったせいであろうか、それとも親世代の振る舞いがすり込まれたものであったろうか。女は弱いもの、男が保護的に向き合わねばならないと,まず思う自分があった。

 憲法の定めに基づいて制定されていた労働基準法にしても、例えば女性の深夜労働の禁止とか生理休暇というのは、そういう父権主義の発露としての保護的な規定だと考えていた。だから1980年代の後半であったか、国連の女子差別撤廃条約批准地のもなって労働労基準法の改正がなされて女性の深夜労働が取り払われたとき、えっ、それも? と思ったものだった。

 生物学的に、男に較べて女は体格が小さいとか筋力が劣るということだけでも、男が保護的に振る舞うのは当然と考えた。加えて母親となった女性が家庭で子育てをもっぱら担当しながら、健闘しているのをみると、仕事の面でいくぶんかでも軽減できる配置をすることもあって、それを女性差別とは考えもしなかったのであった。それ故にseminarでもそう発言したが、仕事の面でも女性が控えめに立ち振る舞うのは致し方ないとさえ思っていた。件のオリンピック組織委員会の森会長発言をジョークと受けとったのも、女性蔑視とみれば,なるほどそうかもしれないが、目くじら立てるほどのコトとも思わなかったのであった。でもそれらを総覧してみると、女性の間にもジェンダー・ギャップがあって然るべきですから、関係における位置づけを(男-女間の問題以外で)性差におくことがジェンダー・ギャップといえるのだと思った。

 海外メディアが騒ぎ出し、日本社会の(女性蔑視に関する)反応の鈍さを槍玉に挙げたとき、欧米との落差の大きさに気づきはしたが、それでもまだ「文化の差異」を欧米基準で判断しすぎるという気持ちをもっていた。たとえば欧米基準で語られるポリティカル・コレクトネスも、杓子定規な法的規制であって、言葉ってものが発せられる場とか文脈というものを勘案する領域が含まれていないじゃないかと,今でも思うところがある。法的に物事を処理してしまうセンスの欧米と、関係文脈的に考えて始末しようとする日本との差異は、文化的なものだとっ私が考えてきたことが浮き彫りになっている。

 ジェンダーを考えるときにも、だから、文化人類学的な考察から「男女の別」がどう認知され、社会的に扱われてきたかから説き起こさねばならないのじゃないかと,思う。となると、原始集団において、どうして将来女は別の氏族への贈り物として扱われたのか、浄不浄という観念と子を産むという女性の生理とがなぜ連接されることになったのか。神々と交信して、言葉を交わすことができるという不可思議が女に託されながら、なぜ不浄とされるに至ったのか。などなど、わからないことが多く、それらを一つひとつ解きほぐしていかなければ、性差を差別と一口に言うことはできないのではないかと、ぼんやりと考えている。

 ミドリさんの指摘する性的マイノリティについては、最初に浮かんだのは、生物学的な発生に関する記述だった。「(4)LGBTQ+」への共感性は私にとっては、理知的なベースに乗っているということ。生物学的にヒトは単細胞から受精して誕生するまでの間だれもが、初めは女性として育ち、妊娠の半ばで男性の外性器が発生して分岐する。それに変異が生まれるのが、LGBTQ+だと理解している。

 福岡伸一がどこかで「√nの法則」と呼んでいたが、細胞の動きは一様ではなく、一部は逆向きに動いたり,変移するという。すると、100個の細胞なら10個が、1万個の細胞なら100個が、1億個の細胞なら1万個が全体の動きに逆行する方向へ変異する。だから生物は、大きい方がDNAの継承性においても優位であるから、体が大きくなったのだといっていた。LGBTQ+は、そうした変異の現れであると考えると、不思議ではない。

 ただ、LGBTQ+(ばかりではないが)に対する差別的な言辞や振る舞いがなぜ起こるのか。ミドリさんは「カレシいるの?」と聞くことはLGBTQ+に当たるから、「お相手は?」と聞くべきってコトになると、世間の様子を報告した。その世間の見立ては,正解だろうか。私は納得できない。

 世間の常識では、LGBTQ+はマイノリティである。話している相手がLGBTQ+の一人だと知らない者からすると、世間の多数の一人と(今向き合っている相手を)見ていても、不思議ではない。若い女性に対して「カレシいるの?」と訊いてそれがLGBTQ+の差別だというのは、当人の被害妄想じゃないか。自分のことを知られたくないというのなら、世間の多数と見なされてしまうことは、結構なことではないのか。もしそれを不快に感じるのなら、オードリー・タンのように自分がLGBTQ+の一人であることを公表し振る舞うことだ。

 にもかかわらず、それを差別的に扱う人たちが数多いる。それがジェンダー・ギャップのモンダイなのだ。とすると、じつはそれは、ジェンダー・ギャップばかりでなく、差異を取り上げ、それを少数者として差別的に扱うことがなぜ生じるのかを考えていかねばならない。それこそ「関係のモンダイ」であって、差別的に振る舞う人の社会的立ち位置こそが取り上げられなければならないと思う。LGBTQ+を不快と受けとって差別する人というのは、自らの性的嗜好が満たされていないからだ。ひょっとすると、性的嗜好に関係なく、自らの境遇が望むように満たされず、鬱屈を抱え込んでいるのかもしれない。そういう自らの内心を(なぜかわからぬまま)解放するのに、他者を差別するというのは、ありうる振る舞いなのだ。そうやって人は、他者との関係を参照して、自己を形づくり、保ってきた。この世の差別は、基本的に差別する人の社会的処遇をモンダイとして俎上にあげるべきであるのに、法制的に始末しようとすると、限界を示しそれを超えると処罰すると規定することしかできない。だからこそ差別のモンダイは、社会的に扱われるべき事柄だと言えるのではなかろうか。(つづく)

2021年12月4日土曜日

時間は存在しない(2)出来事の痕跡・記憶が過去

「すべての出来事を生じさせているシヴァ神の踊り」と、「時間は存在しない」は、どう関係するのか。すべての事々は、いま存在しているとも言える。問題は、だれが何処に身を置いて、時間を認識しているかだ。

 そう考えてみると、ビッグバンが138.2億年前に起こったということも、それを明かす徴が観測できるようになってからではあるが、今地球に届いている。時間が存在するというよりは、過去の痕跡が残っていることによって、私たちに知れる所となる。

 過去から現在、そして未来へと時間が流れているというのは、私たちが(過去の痕跡を)認識することができたことを、外に指標を設けて一つの流れとして物語り化したものと考えることができる。時間が存在するというのではなく、時間を外部化することによって、痕跡の認知すなわち記憶を外部化して、共同体化したのだ。時計はその象徴とも言える。

 これは、個人の認識にも当てはまる。亡くなった人を思い起こすというのは、亡くなった人との「痕跡の記憶」を(関わりのあった誰かが)呼び起こしていることだ。エントロピーが枯渇したとき(熱平衡状態になり)人も物も解体過程に入って姿を変える。ただ、その存在の痕跡が、月に衝突した隕石の痕跡があばたになって見えるように、残る。月を見る人にはその痕跡が認知され、想起される。そうでない人には気にもとめられない。

 ヒトは言葉を通じて「記憶」を表象的にとどめることもするようになり、その分だけ、「痕跡の記憶」の共有される範囲は広がった。その一部が「科学」という客観的な認識として特化され、あたかも誰が見ても同じように見えると、特異な立場を与えられるようになったが、じつは、ありとあらゆる出来事が(その認知する立場を得ることとなれば)「痕跡の記憶」を共有することができると言える。ただ、無数にある「そうした出来事」と「それを認知する人の立場」は、そう簡単に共有できるものではない。むしろ、子細を放棄して「ぼんやりとみる」ことが叶えば、無数の「出来事」や「想起する人」の共通性を認めることができて、「痕跡の記憶」の感懐を共有することができる。

 実は,今私の話しは逆立ちしている。ヒトの「記憶(する言葉)」にまつわる生成的な順番からいえば、そのベースになる感性も感覚も、それを認識するときの言葉も、その表現の技術も、生育歴中に関わる人々の文化を携えた関わりによって身に備えてきたものである。つまり、もともと共感性を土台として、ある程度「出来事」の起こる事態を共有する感性や感覚を身に刻んでヒトとして立ち現れている。

 例えば動物の記憶力は真に精妙で厳密だと、生物学的実験は告げている。厳密で精妙であるからこそ、少し場が変わり、様子が異なるとそれ以前の記憶が適用できなくなる。だがヒトは、厳密で精妙でない分だけ、表象的に広く、さまざまなことへコトの示すものを敷衍する「記憶」を持つようになった。それは厳密で精妙な記憶をぼんやりと捉え、ときには飛躍させて別様に解釈することによって、「(記憶の)共同性の範囲」を広め,深めてきた。

 カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)は、こう記している。

《二つの出来事の間にありそうにない関連が見られたなら、何かありそうにないことが起きているはずで、そのようなことを起こせるのは、過去にエントロピーが低かったという状況しかないからだ。ほかに何があり得ようか。言い換えると、過去に共通の原因が存在するのは,過去にエントロピーが低かったことの表れでしかない。熱平衡の状態にある系や純粋に力学的な系では、因果によって識別される時間の方向は存在しないのだ》

《……記憶や因果、流れや「定まった過去と不確かな未来」といったものは、ある統計的な事実、すなわち宇宙の過去の状態としてありそうにないものがあるという事実がもたらす結果にわたしたちが与えた名前でしかない》

 こう述べて、宇宙の生成過程も、人間の歴史も,これらすべてが「特殊」であったとみてとり、「したがって因果や記憶や痕跡やこの世界自体の出来事の歴史もまた、視点がもたらす結果でしかないのかもしれない。……こうして非情にも、時間の研究はわたしたちを自分自身に引き戻す。わたしたちはついに、己と向き合うことになるのだ」と述べる。こうしてカルロ・ロヴェリは人間とは何か、「わたし」とはいったいなにかと哲学的領域に踏み込んでいくのである。(つづく)

2021年12月3日金曜日

時間は存在しない(1)エネルギーに関するコペルニクス的転回

 カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)を、久々に興奮して読んだ。この著者はイタリア生まれの理論物理学者。

 三部に分かれている。

 第一部では、現代物理学が時間について知り得たことを手短に紹介する。それはちょうど天動説が間違いであったと気づくように、時間の概念が崩壊していく過程でもある。

 第二部は、その結果残されたものについて述べる。《……本質だけが残された世界は美しくも不毛で、曇りなくも薄気味悪く輝いている。わたしが取り組んでいる量子重力理論と呼ばれる物理学は、この極端で美しい風景、時間のない世界を理解し、筋の通った意味を与えようとする試みなのだ。》と自分の立ち位置を見据えて述べている。

 第三部を《もっとも難しく、それでいていちばん生き生きしており、わたしたち自身と深く関わっている」と前置きして、「第一部でこの基本的原理を追い求める家に失われた「時間」へと立ち戻る機関の旅》と概説し、《ちょうど探偵小説のように,今度は時間を生み出す張本人を探ってゆく》と予告する。たしかに物理学に関わる部分は「難しい」が、むしろ第一部第二部と異なり、ハラハラしながら一気に読み進めていった。

 この著者は「もしみなさんについてきてくださる気持ちがおありなら、時間に関する現在の地の到達点と思われるところへ……おつれしよう」と、控えめに開会宣言をしている所が、肝。つまりこの方は、私たち庶民大衆が崩壊している「時間」に対する観念を、物理学の方から解きほぐして、私たちの日常感覚に見事に連接している。著者が「難しい」というのは(たぶん)物理学のことではなく、哲学的な分野の頃に踏み込んでいるからではないか。私たちの日常感覚をコペルニクス的に展開させる。まさに「生き生きしている」記述だ。

《世界を動かしているのはエネルギー資源ではなく、低いエントロピーの資源なのだ。低いエントロピーがなければ、エネルギーは薄まって一様な熱となり、この世界は熱平衡状態になって眠りにつく。もはや過去と未来の区別はなく、何も起こらなくなる》

 この転換に作用している物理学的知見とは、「熱力学の第二法則」(本書に唯一登場する数式、ΔS≧0。エネルギーは不変だが、エントロピーは増大する。その方向は逆向きにできない)であるという。とすると太陽が低いエントロピーの源泉となる。そこから放出される(エントロピーの低い)熱い光子が1個地球に届くと地球から(エントロピーの高い)冷たい光子が10個放出される。太陽からの低いエントロピーが熱エネルギーに変わり、動植物を育て動かし、諸種の人工的構築物に変わり、地上の生命体の活動となって現れる。

 では太陽のエントロピーの源泉は何かと問うていくと、ついにはビッグバンへと向かうことになる。つまり、そこから逆算して考えてくると、「低いエントロピー資源が世界を動かしている」認識に至るというわけだ。

 光合成は熱エネルギーをエントロピーに変えて溜め込む作用。動物はそれを食べてエントロピーを得ている。「餌から低いエントロピーを得ているだけのことで、生命は宇宙の他の部分同様、自己組織化された無秩序なのである」。

《宇宙自体が、閉じたり開いたりする部分同士の相互作用を通じて少しずつ自分をかき混ぜる宇宙の広大な領域が、秩序だった配置に閉じ込められたままになっているが、やがてあちこちで新たな回路が開き、そこから無秩序が広がる》

 コロナウィルスとヒトとの「かんけい」も、その一つと考えると、「すべての出来事を生じさせているのは、このどこまでも増大するエントロピーの踊り、宇宙の始まりの低いエントロピーを糧とする踊りであって、これこそがシヴァ神の真の踊りなのである」。

  ちょっと丁寧に追っていきたい。(つづく)

2021年12月2日木曜日

霹靂の晴天

 昨朝(12/1)は、自転車置き場の屋根を叩く激しい雨の後に目を覚まされた。いやそれだけではない。強い風にざわざわと庭木が音を立てる。でも予報では9時頃に晴れマークがついているからと、カミサンは出かける用意をしている。北本自然観察公園で植物観察の集まりがあるのだ。その何日か前に下見に行ったカミサンは、当日雨にならないかとと期待していた。それほど、見るほどのものが無いという。聞いていると、ここぞと焦点を絞れないで困っている様子だった。だが無情にも、9時までの大雨は9時から晴れマークとなり、観察会のコーディネートをしている方から、「よろしくお願いします」と、NHKとTBS両TV局の「予報」をつけてメールを送ってきている。行かざるべからず。

 6時頃のニュースでは、都内でも水が溢れる画像が流れる。埼玉県南部と南東部は大荒れになると注意が呼びかけられている。その中に「宇都宮線と高崎線が止まっている」ともあった。いけなくなって喜んでいるかと思ったら、何だかどうやったらいけるかと思案しているようだ。

「車で送ろうか?」

「何時頃出る?」

 と、すっかり前向きになっている。送らざるべからず。

 だが、水が出ているとなると、大和田の大宮商業高校脇の道路が大きく立体交差で窪んでいる辺りと、北本のコカコーラ社から西へ向かって高崎線をくぐる所がこれまた立体交差になって窪んでいる辺りが、水が溜まって通れなくなるのではないか。回り込むかもしれないから余計に時間を見込んで、家を出た。

 新産業道路は混んでいる。毎朝そうなのか、雨だからそうなのかは、わからない。でも慌てても仕方がない。大和田の立体交差の所は、難なく通過。水が溜まっている気配はない。高い部分から流れ落ちないだけでなく、降った飴排も水が行き届いているのであろう。層だよなあ、建設時にそういう工夫をするくらいのことはするよなと、日本の土木工学の慥かさを思い起こす。時間がかかり、コンビニによってトイレを借りる。何かを買わないと悪いから、何にするかちょっと迷い、油井のボールペンを買う。

 国道17号と合流する上尾水上公園あたりは、恒例のように渋滞している。その先も、上尾市を出るまでは混雑する。どうしてここが混むのかはわからないが、30年ほど前からの渋滞指定地みたいなところだ。助手席のカミサンは、コーディネータと電話で連絡が取れるから、急がなくていいと、私の運転を心配している。

 naviは、目的地に到着時刻を表示し続けている。家を出るときは集合時刻の30分も前だったのが、集合時刻を少し過ぎる時刻に変わっている。だがnaviは、一般道路の走行速度を30km/hと計算している。ふだんの走行では、おおよそ1/3は信号待ちで停止しているから、時速45km/hで走っていればnaviの指定時刻、それより速いいときは早く着くとみている。ラジオが「高崎線も開通した.遅れが出ている」と放送している。そうだそうだ。これを知っていれば、かみさんが来るとは思っていないかもしれない。そう言うとカミサンは、「あの人たちはいつも車で動いているから、電車のことは気にかけていないんじゃないかな」と笑う。

 北本の立体交差も水の心配は杞憂であった。空は雲がかかり、雨はひどくなった。ワイパーの速度も速まっている。到着したのは、集合時刻の4分前。コーディネータの一人が入口で傘を差して待っていた。良かった。

 私はトイレを済ませてすぐに帰途についた。雨はだんだん小やみになり、家に着く頃にはすっかり上がった。日差しが差し込み始め、霹靂の晴天になった。観察会は順調に運び、みなさん100円ショップのスマホに取り付けて倍率を上げてみる道具を手に入れて、わいわいと楽しんだらしい。

2021年12月1日水曜日

自然が主体の世界

 オミクロンという変異株に用心しようという。コロナウィルス禍も変移している。なぜ感染が減少しているのかわからないと同様、なぜ変移するのかもわからない。変移しても、感染力が強くなるとも限らないが、オミクロンは強い感染可能性があるという。遭遇してみないと専門家もわからない。大自然相手だと、改めて思う。と同時に、この世界は自然が主体なんだねと、これも改めて思う。

 欧米の一神教の信仰では、この自然の頂点を神と仰いだ。神の被造物である天地のすべてが、やはり神の被造物であるヒトに託されたと物語を作った。そうして、ヒトを主体とする哲学が誕生したというわけであろうが、この文脈の間にヒトによる手前勝手な物語の作り替えが為されている。「託された」という偽装である。

 しかし、この偽装のおかげで、ヒトが自然を守る責任が発生した。自然の上に神をおくことによって、主体=神の意思が偽装主体=ヒトへと乗り移り、ヒトは神の御意志、つまり支配に従うことをルールと呼び、支配されることがヒトが主体を確立することの第一歩とされて、be subject to ~という、受け身形の用法となった。

 他方、アジアの多神教は概ね、自然を主体と考えてきたが、そこに頂点があるとは考えなかった。自然とは混沌であるとみた。つまり、「わからない」。その結果、自然を守る責任がヒトにあるとは思いもしなかった。ひたすら自然に翻弄されてもそれをそのまま受け止め、遵い、解釈し、適応することを身につける。つまり、適応するというかたちでヒトは環境への責任を問われず、しかし自然の摂理に遵うという生き方を身に付けていった。

 この両者の自然観の違い(神の意志か混沌か)が、欧米とアジアのボタンの掛け違いになってくる。西欧の人間中心主義、すなわちヒューマニズムが自然への畏れを忘れ、手荒な改変につながった。アジアの自然観はなるがままに環境を放置してきた。それが逆に、自然環境をどう保護していくかに関する責任の違いに現れて、進んだ欧米/遅れたアジアという恰好になっている。ことに、近代が先行する西欧が環境破壊に気づいて、それを修正していくのは当然と言えば当然である。後を追うアジアから見ると、やっと近代というのが「混沌」のすべてに秩序をもたらすという驕慢な所業だと気づかされた。

 なぜ驕慢というのか。自然を「混沌」とみるのは、「わからない」と自らの立ち位置を自覚している言葉である。それを欧米の「近代」は、「わからない」ことは明らかにしていけばいいと考えている。つまり自然に「秩序を与える」ことができると、前提にしている。日本語で言えば、「謙譲の心持ち」がない傲岸不遜である。

 でも、欧米の「秩序を与える」ことが、人がクセとする好奇心を満たす(「わからない」ことに向き合う)ことと同じベクトルを持っているから、否定しようもないとアジアでは受けとっているのか、つねに欧米の後追いをしてきたわけだ。だが、「秩序」を与えれば与えるほど、「わからない」「混沌」が広がり深まることが、アジア的な自然観からすると明らかに見える。エントロピーの増大だ。

 ところがここへきて、世界秩序をつくることについてアジアもそれなりの「発言力」をもってきた。神を戴いたかのような中国の振る舞いが欧米主導の世界秩序を脅かしている。統治について欧米と近似的なセンスを持っている中国が、欧米に対抗して秩序形成の双璧として姿を現した。そう考えてみると、アメリカと中国との確執がどう移り変わるか世界の緊張がそこに集約されるのだったが、そこに割って入ったのが、コロナウィルスであった。私は天啓だと思っている。「秩序を与えるなどとアホなことはよしなされ」といわんばかりに、ここ2年、コロナウィルスが世界秩序を席巻してきた。鎖国(という名の管理貿易)だって、なんだこんな簡単にできるんだと思われるほど。それもワクチン開発で一段落つくかに見えたが、そうはどっこいいくものかと、ウィルスが盛り返している。

 オミクロン株という変種を繰り出して、延長戦に持ち込まれた。ここへきて、ひとつ思い出したことがある。ボルツマンという物理学者が提唱したのであったか、エントロピーの増大は、どこまで天啓を発信し続けるか。

 ヒトが懲りるまで? どうしよう。

2021年11月30日火曜日

現実をどう見るか

 今日(11/30)の朝日新聞「取材後記」は《放置する政治家「資格」疑う》と見出しをつけて、憲法の規定を守ろうとしない内閣への苛立ちを、次のように記している。

 帝国憲法改正委員会審議中の1946年、《憲法担当大臣であった金森徳次郎の答弁は明快だった。政府や国会で活動する人は「政治道徳の根拠ともなるべき人々」であり、制裁規定をおくまでのことはない、と。……しかし現在のこの国の政治家たちの姿を見ると、金森の見通しは実に甘かったというほかない》という。

 臨時国会の召集を求められたのに、「憲法の規定に反して」それに応じないことを元最高裁判事の言葉を援用して非難しているのだが、それはそれでいいとしても、どうして「資格を疑う」という言葉になるのかが、よくわからない。金森徳次郎がいうように「政治道徳の根拠となるべき人々」が政治家の資格を有するというのなら、何処にその規定があるのかきっちりと明示しておかねばならない。75年も前の単なる「担当大臣」の答弁である。それを国会議員の「資格」とみるからには、金森もまた、その根拠を明示しておかねばならない。と同時に、それを引用して改めて国会議員の「資格」を論じるのなら、この論者(編集委員・豊秀一)もまた、改めてその根拠を明らかにしなければ、「実に甘かったというほかない」といわれてしまうよ。

 何が問題か。発言者の発言の裏側には、その方の理念とか観念とか思い込みとかそれまでに歩んできた総過程の文化が横たわっている。その一端だけをご都合主義的に採用して、ご自分の主張を展開するのは、これまた単なる「非難」であって、現実認識としても共有されないし、論理的な展開の足がかりにもならない。

 では、どちらが「現実」に近いか。あきらかに「資格」を疑われる政治家の存在が現実的である。金森徳次郎の思い描いた「政治道徳の根拠となるべき人々」とは、国会が規定する法律が政治道徳の根拠となり、いずれは国民道徳の規範となることを期待したのであろう。よく、タテマエとホンネと対比されるが、現実的な方がホンネ。とすると実際に生きている庶民大衆は、どちらに重きを置いて身の裡に取り込み生きていく指針とするか。言わずともわかろう。

 国家が法律で決めたものが、どういうあしらいを受けるかを、日々国民は、世の中のいろんな出来事を見つめながら、注視しているともいえる。だから国会議員がみっともないことをして言い訳をしたり、文書を改竄したり、変な言葉の用法を閣議決定して宰相を擁護したりすると、そうかそういうことかと国民の「世界観」を手直しして、生きていくのに役立てる。それらの積み重ねが、庶民大衆の「情報・認識・行動指針」となって、集団的無意識として社会を覆うようになる。金森が甘かったというよりも、ホンネを見極めて法をつくらねば、抜け道を探ってザル法にしてしまうと人間認識が、欠けていたのだ。性善説だとよく言われるが、そうではない。人間を性悪説で決めつけるのも、一方的である。そういう見極めではなく、人の日常的な振る舞いと、外からの「規制」がどのような「かんけい」で動いているかを見極めて、そのときどきに最適な対応策を講じなければ、憲法ばかりでなく法律もまた、ただのお飾りに堕してしまう。

 今や政治がそのようなお飾りに過ぎないと思えるのは、庶民大衆の見誤りなのだろうか。

2021年11月29日月曜日

第二期・第14回seminarご報告(1)ジェンダーは文化の棚卸し

 今回の講師はミドリさん。「ジェンダーについて考えてみましょう」とタイトルを振ったA4版5頁のプリントを用意。その1ページ目に10項目に亘る今日の話題の表題が掲げられ、今日のステップを示して、途中で脱線しないように全体像を示している。

(1)ジェンダーとは?

(2)ジェンダー・ギャップとは?

(3)ジェンダーレス、ジェンダーフリー、ジェンダーバイアス

(4)LGBTQ+

(5)日本史の中の性差

(6)SDGs*ジェンダーの平等を実現しよう。

(7)性的マイノリティの人たち NY Pride parade

(8)レディーファースト

(9)天皇制とジェンダー

(10)宗教とジェンダー

(11)MY conclusion


 生物学的な「性/sex」に、社会的・文化的な「性差」が加えられて「ジェンダー/性的役割」が生まれてくると話しが始まる。

 インドの女児の(故に)堕胎された数を1994年~2014年の統計を示して例示する。インドではダウリと呼ぶ(女児の)結婚時の持参金が負担となって、男児の出生が歓迎され、女児が忌避されている実態を取り上げる。中国でも一人っ子政策が行われていたときには同じような事態が起きていたから、男系のイエ制度、職業・資産の相続がなぜ行われるようになったのかが問われていると、私自身の関心へ心持ちは向かいかける。

  話を聞いていて、身の裡にふつふつと疑問が湧いてくるのを感じる。なんだろう、この「わからなさ」の違和感は? 「生物学的な性」と「社会的・文化的な性的役割の区別/性差」とは、「ジェンダーの平等を実現しよう」いう言葉でくくれるほど単純なことなのだろうか。いや、別様にいえば、そこでいう「平等」ってなんだ?

                                      *

 私はまず、J・M・クッツェー『モラルの話』を思い出した。ノーベル文学賞作家の小説だ。う~んと唸るような所収短編のひとつが「犬」。

 通りかかる彼女に激しく吠え掛かる「猛犬」。勤めの往き帰りに、毎日二度、吠え掛かる。ジャーマン・シェパードかロットワイラーの大型犬。恐怖の色を浮かべる人に吠え掛かって支配欲を満足させているのか、あるいは、雄犬が雌人を見分けて支配欲を満たそうとしているのかと、彼女の想念は広まる。行き着いた先にアウグスティヌスが登場する。

 アウグスティヌスは、我々が堕落した生き物であるもっとも明らかな証拠は、みずからの身体の運動を制御できない事実にあると言っているそうだ。

「とりわけ男は自分の一物の動きを制御する能力がない。一物はまるでそれ自身の意志に憑依されたように動く。あるいは遊離した意志に憑依されたように動くのかもしれない」

 彼女はじぶんの「屈辱的な恐怖の臭い」を出さないために自制力をもてるか、と自分を励ます。だが、今日も駄目だ。そこで彼女は勇をふるって「猛犬注意」と張り紙を出している家の玄関の扉を叩いて、「なんとかしてくれ」と頼む。出てきた老夫婦は「いい番犬です」と言って取り合わない。

 以上のような話。私は「女性」の生来的な「恐怖」と受けとっている。

「かんけい」によって生じていることを「身体制御」という実体に持ち込んで「堕落した生き物」と規定するアウグスティヌスを「いい番犬」と名づけているようにも読み取れる。

何でこれを思い出したのか。私もアウグスティヌス同様に「堕落した生き物」と自己認識するからだ。

 もう一つの、どこかで見た詩へと連想が飛んだ。家へ帰って拾ってみたら、次のような断片だった。誰かがどこかで引用していたペルシャの詩人シーラーズのサアディの作品。

    アーダム(キリスト教のアダム)の息子たちは、一つの体の手であり足であり、

    彼らは同じ精髄からつくられている。

    どれか一つの部分が痛みに苦しむと、

    ほかの部分も辛い緊張にさいなまれる。

    人々の苦しみに無頓着なあなたは、

    人の名に値しない。

 神の創造物である人間が、互いの共感性をどこかへ置き忘れて、「人を殺すのはなぜいけないのですか」と問う若者を生み出し、それに応えられないで立ち往生する大人の一人だとわが身を見つめ直す。ここも、わが身に覚えのあることを、訴えがなければ痛みとして感知しないセンスが、ベースを為している。

 ジェンダーの問題は、身に染みこんで刻まれてきている社会的気配だから、改めて考えてみないとわからない。

 しかも、社会的・文化的な性差が、自然発生的に形づくられてきたとすると、生物学的な性と切り離せない合理性があったはずだ。それを、「古い性差別観念だ」と切り捨ててしまえるのか。私たちが身を以て(社会的、集団的に)たどってきた道を、現代の合理性の観念で切り棄てることはできるのか。そんな思いがふつふつと湧き起こってきたのだった。

 seminarの開催案内に記した「まえふり」があったから、先のオリンピック・パラリンピックの組織委員会の森喜朗会長の「女性蔑視」発言を、会長を辞任するほどのことかとみている私の書いた一節がミドリさんの俎上に上った。ミドリさんは非難するでもなく、淡々と私の発言を取り上げ、あたかも森喜朗と同じ「古い時代のオジさん」と見ているようなあしらいであった。ちょっとそこへ立ち寄ってみようか。

 森発言を私は、下手なジョークと受け止めていた。というのも、誰であったか脳科学者が(ラジオで)、子どもの男兄弟というのは序列秩序が安定していると心理的にも関係が安定すると話し、それに対して女姉妹というのは、いつもあなたが中心ですよといわれていることで関係が安定すると言っていたことを思い出していた。そのとき私は、ふ~んそんなものかと、私の身に覚えのない女姉妹の心もちを推察して聞き流してたのだが、これも森喜朗と同じ女性蔑視発言なのだろうか。

「一人(女性が)発言すると私も発言しないではいられないというふうに女性は発言する(ので会議が長引く)」という趣旨の森発言は、会長という彼の立場からすると、どんなことをそこで言っておこうとおくまいと決定事態が変わりはしないのに、言わいでなるものかと発言するのを皮肉ったのだろうか。ま、その程度の森流合理性があったろうかと感知したわけであった。

 だから、同席した他の委員も(森会長の功績に照らしてか?)咎めなかったのかもしれない。それがメディアに取り上げられ、森喜朗は何が問題なのかわからない風情で「謝罪」し収まったかにみえたのに、外国人特派員がそれを報道し、海外メディアが大きく報道して騒ぎになり、海外では(それではオリンピックに参加しない)とまで言うアスリートもいて、会長辞任にまで発展した。でもこの辞任劇の何処に、「女性蔑視」解消に関する日本の文化的な進展があったろうか。言われてみれば「女性蔑視」であったという追認はあったろうが、昔の古いセンスのオジさんの発言に何を目くじら立ててんのよと笑い飛ばすくらいが、日本のフェミニストの受け止め方ではなかったろうか。

 いや、欧米メディアの「女性蔑視」を過剰反応といいたいのではない。そうではなくて、相変わらず日本のメディアも、組織委員会も、海外欧米からの圧力に弱かっただけじゃないのかと、自己の文化センスに定見のない政治家やメディアの現在を思ったのであった。

 ジェンダー・ギャップを取り上げるとき、男女間の社会的な役割意識をギャップと言っているのか。それとも欧米と日本の文化的な差異の大きさが「ギャップ」といっているのか。この両者を取り上げる必要があろう。そしてさらに、欧米と日本の文化的な差異を、一つの基準で「ジェンダーギャップ/性差別」として論じるのは、いかにグローバル化の時代とは言え、文化の多様性に差し支えが生じるのではないか。

「ジェンダーギャップ指数」が日本は、アンゴラに次いで120位と言われても、男言葉/女言葉があったり敬語が三層(尊敬語、謙譲語、丁寧語)に入り組む日本語と単純明快で機能性に富んだ英語とが比較されて「女性の地位が低い」といわれているようで、それって、何を女性尊重と言っているのかさえわからなくなる。

 いやそもそも「女性尊重」って言葉さえ、「女性を(保護する対象として)軽視する」発言と捉えられかねない風情さえ漂う。私の身に染みこんだ文化とともに潜在している「性差」を一つひとつ拾い上げて、考えてみるしかないか。まるで私が経てきた文化の総棚卸しみたいだと、改めて思っている。

2021年11月28日日曜日

seminar実施しました

 昨日(11/27)、36会seminarを実施しました。新橋の「ももてなし家」は、9月よりもさらに人が集まっており、一階の店内を見て回るのは夕方の電車の中よりも混雑していました。それがいいことかどうかわかりませんが、確実に「人流」は恢復しています。

 seminarにいつも顔を出す「常連」が、全員そろうことになっていました。

 開会の30分ほど前から集まり初め、てんでにおしゃべりが始まります。2ヶ月ぶりの方もいれば、4ヶ月ぶりという方もいます。seminarがある毎に映画を見てからやってくるというフミノさんにも、1月のseminar後の新年会にバイオリンの演奏を披露してもらうことになりました。新年会は、幹事役のミヤケさんが実施を決め、後日皆さんに案内を出すことにしています。

 9月に入院していたマンちゃんもお内儀と一緒にやって来ることになっていましたが、まだ顔を見せていません。いつも連絡を取っているミスズさんが、皆さんに聞かれて、どうしたんだろうと心配しています。電話をしたら、まだ家に居ました。2時から開始と思っていたといい、家を出てくることになりました。

 1時間ほど遅れて二人がやってきました。マンちゃんは、歩くのもおぼつかない風情ですが、皆さんの顔を見るためにやってきたと口にします。会食になって、他の皆さんと同じものを注文し、生ビールも少しずつ飲んでいましたから、ずいぶん恢復しています。ちょっと咳き込んだりしますが、フジワラのトシさんと話し込んでいましたし、店番にも午後から顔を出して、片付けもお内儀としているとのこと。数え傘寿の壁に挑んでいる最中という感じですね。

 さてseminarは、ミドリさんを講師にして「ジェンだーって何? 日本人はジェンダー・ギャップを埋められるか?」をお題にして始まりました。事務局の「次第」には、次のように「まえせつ」が書かれています。

《生物学的な「性別sex」に対して、人間は社会的にも、文化的にもいろいろな衣装を着せてきました。男らしさ、女らしさ、男の役割、女の役割という衣装。それが「ジェンダー/gender」です。

 文化的にいえば、男言葉、女言葉があります。服装もそうです。立ち居振る舞いに至っては、男女の優劣が如実に現れます。三歩下がって男を立てるという大和撫子の理想型も、文化的につくられていった素養です。

 制度的にいえば、男系/女系という職業・資産の継承権の系譜も問題になります。家計の財布をだれが握っているかというのも(社会的に)男女が影響しているとすると、それもジェンダーです。イエ制度や夫婦同姓か別姓かも、関係してきます。

 それが男と女の関係となると、もっといろいろな既成観念がかぶせられて、私たちの感じ方や考え方を支配している言えます。その齟齬から来る軋みを、ジェンダー・ギャップと呼んでいます。齟齬は取り払うことができるのでしょうか。

 でも、どのような場面でどのようなモンダイをめぐって取り交わされるかによって、齟齬の質も範囲も広がっていきます。先のオリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の発言も、そうでした。また、子育てをどうして女がやらなくてはならないのか。イクメンという言葉も起ち上がりました。男と女の生理的違いがもたらす社会的、文化的な差異は、しかし、時と場合によって、身のこなしとして私たちはくぐり抜けてきました。時代的な文化の流動・変化によって、かつては何でもなかったことが、大きく問題になってきています。世相の変化です。

 他方で今の私たちは、歳を重ねてきたことによって、ジェンダー・ギャップよりも、フィジカル・ギャップの方が暮らしに大きく作用するようになりました。同時に、古いままのジェンダー・ギャップを身につけていて、どうしてあの程度の発言で森会長が辞任することになるのか。ちょっとわからなくなっていましたね。国内的には一時収まったかに見えた発言の波及でしたのに、、国際的な非難が轟轟と響き渡るように伝えられ、国際世論に押されて会長辞任となったのですが、そのインターナショナル・ギャップがどうして生じたのか。それが副題の「日本人はジェンダーギャップを埋められるか?」という問いになっているのかもしれません。彼女の経験豊富なアメリカ文化との対比が縦横にめぐらされて、面白い切り口になると期待しています。》 

  さあ、どうなったか。そのご報告は、また改めてすることにしましょう。

 seminar後の会食は、「アルコール解禁」とあって、勢いづいたのはミヤケさん。ハイボールから初め、岡山・宮下酒造の地ビール「独歩」、同じく宮下酒造の「極聖・雄町・大吟醸」と飲む順番を考えて注文し、ハイボールの届くまで、手をつけずに待っているという律儀さでした。マンちゃんの恢復を祝って乾杯し、まず何より再びこうして顔を合わせることができるのを言祝いでいる気配に満ちていました。

2021年11月27日土曜日

多様性を認めるだけでは落ち着かない

 今日(11/27)の朝日新聞の「悩みのるつぼ」は、「何にでも執着する自分がいやになります」という10代の女性、大学生の相談。ドラマをみても自分の好みに合わないとすぐに見捨てる。それが高評価を得ていると知ると、自分が非難されているような気がして気に入らない。苛立つ。自分が好きな作品のときは、自分とその作品との境界が曖昧になり、それに対する世間の評価を自分への評価と受けとってしまう。批判されると傷ついてしまう、という相談。

 それに対して美輪明宏は「他人の感想なんて千差万別。割り切るしかありません。人間にはいろんな価値観があるのは当然です」と応じて、見出しも《哲学を学び、多様性を認めましょう》とまとめている。

 だが、そうか?

 多様性を認めるというのが「人生いろいろ」という他者承認だとすると、この相談者の「自己嫌悪」は少しも片付かない。「世間の高評価」を受け容れられないのは、「自分の評価」が相対化されないからだ。では、自信たっぷりなのかというと、そうではない。はたして「自分の評価」は正しいのかと不安になっている。つまりこの相談者は、自分(の評価)を世界に位置づけることができないことに苛立っているのだ。

 となると道筋はひとつ。なぜ、自分はこの作品を気に食わないのか、どうして私は、こちらの作品がいいと思っているのか、そう問いを立てて自問自答して、自画像を描いていくしかない。他の人たちとか世間の評価は、自画像を描くときに踏み台になる媒介物だ。彼ら、彼女ら(評論家)は、何処をどう見て評価しているのか、その点を自分はどうして認められないのか。

 かつて西欧では、趣味と色合いは批評の対象にしてはならないという(紳士淑女の)世間相場があったそうだ。それをぶち壊したのが、フランスの社会学者・ピエール・ブルデューだとどこかで読んだ覚えがある。ブルデューは、趣味も色合いに対する好みも、生育歴中の環境によって埋め込まれ、無意識の自分の好みとして沈潜している社会的な継承性を持っていることと見て取った(『ディスタンクシオン』)。

 つまり相談者の感性や感覚、あるいは好みの傾き、ときには思考の傾きも、無意識のうちに育まれ、あるいは習い性となって無意識層に沈潜している社会的な関係の結晶なのだ。だから、自画像を描くというのは、自らの感性や感覚、好みの根拠を自らに問いただし、意識層に浮かび上がらせることに他ならない。そうしたときにはじめて、自分の選好がどういう社会的な継承性の産物であるかをみてとり、相対化することができる。

 多様性を認めるというのは、(好みやセンスは)人それぞれよということなのだが、そう言って終わりにすると、「関わりの糸口」は断たれてしまう。糸口をつなぐのは、それぞれが背負っている社会性を、我がことと対照させて位置づけていくことだ。一つにまとめる必要があるのは、その好みやセンスによって共有している場が決定されてしまうときだが、ふだんの暮らしの中でそれは、そう多くはない。

 じゃあ、関係ないって済ませてしまえるんじゃないか。そうなんだ。我関せず焉と感知しないのが社会的な作法になっていたりするから、社会的な振る舞いとしては知らぬ顔の半兵衛を決め込むのがいい場合もないわけではない。だが、自画像を描くというのであれば、我関する縁と考えて、自分の身の内の共振する部分を拾い出してみることも、面白い振る舞いとなる。

 これが哲学するってことだと、私は考えている。美輪明宏は、「哲学を学べ」といっているが、哲学者の哲学した結果を勉強しても、よほど通暁しないと自分との接点を見いだすことはできない。それよりは、自ら哲学することだ。世間の評価と照らし合わせて自分の評価を際立たせ、その根拠を問うとき、自ずから社会の規範や常識のベースになっている感性や感覚が身の内から湧き起こり、その根拠へと迫ってくる。

 おっ、これだと一度つかんでも、しばらくすると、それもまた(そうかな?)という自問自答に包まれることもある。それでいいのだと思う。「自分」ということ自体が、一つに固定的に捉えられることではなく、行雲流水の如くつねに移り変わっている。そういう移り変わりをものともしない自画像が描き出されたとき、だれが何と言おうと、あるいは何も言わなくとも、私は「わたし」だという動態的確信を手に入れることができる。

2021年11月26日金曜日

石油の備蓄放出だって?

 ガソリンの値段が上がっていることは、車に乗っていれば、ピリピリと感じる。でも、温暖化を防止する手立てを講ずるには、最適な環境ではないか、とも思う。つまり、ガソリンや石油製品が値上がりする。それらの利用を(やむを得ずであれ)控える。石油の採掘元のOPECは、産出量を減らして値を上げ、国家の財産の失くなるのをできるだけ先延ばししたいのだから、温暖化防止とちょうど見合っているじゃないか。

 そう言えば思い出したが、1970年代のオイルショックの頃は、「このまま石油を使い続ければ、(石油は)あと何年持つか」を数値で出していた。30年で枯渇するといっていたが、それから50年経っても同じ騒ぎをしている。石油の値が上がったことで、採算の合わないとみていた採掘が行われるようになったと理解していた。また、それでも石油がとれなくなったときを考え、シェールガスという新手の化石燃料を作り出してきたのだった。

 半世紀前と違うのは、温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようという要素が加わったからだ。それを主導しているのはヨーロッパ。フランスは原子力にドイツは再生エネルギーに舵を切っている。

 だが、後発の中国やロシア、インドなどは、欧米の先進国がCOPを通じて温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようというのは、先進国の身勝手。自分たちは先に存分に化石燃料を使っておいて、あとから追いかけている国に使うなというのは、勝手すぎるじゃないかと批判している。それをCOPの会議では、先進国が化石燃料からの転換を図る技術を後発の途上国に無償で提供しろと(先進国に)迫ったが、まとまらなかった。

 先進国でも、トランプのように「温暖化の危機」はフェイクだとCOPからの離脱を掲げたりしたから、ますます先行きは不透明になっていた。バイデンが登場して、息を吹き返し、どうやら次の一歩へ踏み出そうとしている矢先、石油の値上げがやってきたというわけだ。バイデンが呼びかけて、備蓄分を放出しようと呼びかけ、日本も追随することになった。しかしそれも、バイデンのアメリカ中間選挙向けの弥縫策と揶揄される程度の効果しかあるまいと、各地のエコノミストは冷笑している。

 そりゃあそうだ。OPECに対抗して石油を放出するくらいなら、イランに対する経済制裁を解除すれば、イランは石油を輸出するし、OPECも減産=値上げをやっていることができなくなる。これは以前、第二次オイルショックの時に打った手と同じ、そのときも大産油国イランが貢献している。

 逆にCOPの立場に立つと、OPECの減産=値上げは、国際会議の合意に苦労するより先立つべき政策である。むろん石油を止めても石炭がある、天然ガスがあるから、そう簡単に世界全部がCO₂削減に向かうわけではないが、自動車や航空機、船舶という最大の輸送手段の削減に、これほど有効な手はないと。だが欧米も工業諸国も、そうは動かない。

 そう考えていて一つ思いつくこと。庶民大衆は、ガソリンが高くて手が届かなくなると、車を捨てる。電車やバウに切り替える。自転車に乗る。歩く。遠出をしなくなる。つまり、「状況」に適応するしか、生きていく方途はない。それはたぶん、あちらへ行きたいこちらで遊びたいという心裡の「欲望」を押さえることへ向かう。

「欲望を止めろ」というのではない。これまでの、お金を使う商業主義的誘惑に向かう「欲望」から、自らの体を使って移動し、気候気温に適応し、興味関心を満たす方途を探り、そのための環境(たとえば図書館とか映画館とか演劇場とか博物館など)を整えていく「欲望」に切り替えていく。商業主義的消費から自律的な遊びへと向かう文化的な転換を図るのが、一番賢明ではないか。

 つまりこうも言えようか。バイデン政権を初め、各国の政治指導者が採る政策は、商工業第一主義の資本家社会的な暮らし方への誘惑であり、私たちの日々の暮らしを堅くそれに結びつける方策ばかりに満ちている、と。私たち庶民大衆は、その誘惑からぼちぼち離脱して、自らの心裡を満たす暮らし方を真剣に考える時が来ているのではないか。

 そう考えてみると、石油のことはほんの一つの発端だったとわかる。コロナウィルスがそもそも、私たちの反省を迫っていたことは、資本家社会的な(商業主義的な)物量と宣伝の溢れる生活ではなく、静かに佇まいを整え、ときどき内心を見つめながら、人と人との関係を穏やかに保っていく暮らし方ではなかったか。

 ガソリンが高くなっても、困ることはない。庶民大衆の暮らし方の知恵は、どうあっても生きていく力を持っている。あの戦争までやって、なおいま、こうやって生きてきているのだから。

2021年11月25日木曜日

政治家はコーディネータ

 運動としての民主主義を掲げる政治家は、「かくあるべし」という具体政策イメージを持たない方が良い。

 えっ? じゃあ、彼は政治家として何をするんだ?

 庶民大衆の皆さんの意見や不満や要求が、出せるように、ネットワークと運動を組織する。皆さんのそれらは、多様であるから、その数だけネットワークは重層し、運動は多岐に亘る。一人で組織するというわけには行かない。政治家は、庶民大衆のそれらを政治的次元に引き上げる。

 引き上げるというと、政治的次元が「上」に見えるかもしれないが、そうではない。次元を変える。むろん、素のままの「課題」を除かずに、それらの違いをある程度概括して、三つか四つの差異的政策にまとめることになる。それについて、徹底的な討議をする。形式的な討議ではない。支持する政策の、短期的、長期的に結果すること、対立する政策のもたらすこと、政策を具体的に遂行するに当たっての困難と課題など、一つひとつ掘り出して俎上にあげ、吟味して決定に持ち込む。そのとき、反対意見、少数意見、特異な意見を一つひとつ丁寧に位置づけて、重ね合わせ、譲り合っていく。なぜそうするかをひとつひとつ解きほぐし、明快にしていく。それが「討議」である。

 この「討議」には、庶民大衆の(それまでの人生で経てきた)あらゆる出来事が醸した思い込みや流言飛語や認識の違いや意識していないことが浮かび上がり、「にんげん」の諸相がぶつかり合いとして剥き出しになる。人々の差異である「諸相」を解きほぐし、政治的課題としての限定をつけて、互いの相互認識に持ち込んでいく必要がある。

 じつは、ここが政治家が取り仕切る一番の「課題」だ。そういう意味で政治家は、哲学者でなくてはならない。ここでいう「哲学」とは、人が生きるということの筋道を根柢から見て取る感性を持つことに始まる。つまり「にんげん」とは何か、人は今どう生きているか、いかに生きることをよしとするか、そういったことに向き合う感性が不可欠である。

 この点が、コーディネートの要だと思う。コーディネートする政治家も、意識しているかどうかは別として、「かくあるべし」という観念をもっている。だがそれを押しつけたり、我田引水のように運ぼうとすると、たちまち「不信」が湧いてくる。というか、そもそも「信頼を得ていない」ことが出発点にあるから、「信頼」が醸成されていかない。庶民大衆が主体であり、政治家はその主体を、集団的意思として起ち上げるコーディネートをしているのだから、自身の「かくあるべし」を押しつけるようであっては、務まらない。

 その間に、三つか四つの差異的政策が二つになったり、一つプラス三つほどの付属政策になったりすることができれば、そのようにして合意に達するようにする。その間に、優先順位をつけることもあろうし、次年度以降の課題として継続審議に持ち込むこともあるだろう。ときには、不満を抑え込んでしまうこともあるとみておかねばならない。民主主義とは、集団的決定の最終段階においては、抑圧を含むしかないことがある。

 それら政策立案のための資料収集を官僚たちに担当してもらうってことも、情報収集機関としての役所の務めだし、情報メディアも、この過程で活動してもらえるように活動の全過程を公開していくことが、ここで浮かび上がる。公務員が「国民全体への奉仕者」になる。政治家の「ご挨拶文」を書かされるよりは、よほどそちらの方に官僚たちのやる気がそそられると私は思う。彼らがエリートとしての矜持を「国民全体への奉仕者」ということにおくようになれば、彼らは長期的な視点と公平性と公正さと継続的なマンネリズムを長所に変えていくことができる。政治家からの一定の独立の根拠も築かれていく。

 安部=菅政治の欠点は、自ら感知している「情報」を秘匿して、あたかもその「情報」が自分の発信するべき特権的なことのように占有していたことにある。だが、情報化社会の広まりにつれて、「情報」は広く知れ渡るようになってしまった。それどころか、情報収集機関であったはずの役所がいつの間にか時代遅れの収集癖に凝り固まり、官僚というエリートが世俗の情報に追随するようになってしまった。地方政府からの基本情報すら、ファックスで送付し、改めてそれを入力して集積するという手間暇をかけ、その結果誤入力や欠落を招いている。いや、それらの入力を外部委託することによって、もはや役所が情報収集と発信の能力を失ってすらいる。その頂点に立って差配してきた政府首脳は、文字通り裸の王様であった。

 政府首脳に「権威」はいらない。「信頼」を得ることが第一だ。もちろん「信頼」の積み重ねが「権威」となることはいうまでもないが、情報を秘匿して小出しにすることによって手に入れる「けんい」って、すぐにボロが出る化粧のようなものだ。それを身につけている限り、庶民からの「信頼」は得られない。

 コロナ禍は、じつはそうした「信頼」を手に入れる最大のチャンスであった。コロナウィルスが襲来するとどうなるかわからないというのが、ほぼ全員の一致する感懐であった。どうしたらいいかわからないということは、どうやるかが「問われている」わけだから、衛生医療関係者の意見、社会関係の期待、経済活動の停滞と浮沈、何より暮らしにおける最低限、整えなければならないことを取り出して公開し、どう調整するか、何を優先するか、何が欠かせないかを丁寧に吟味しつつ、具体化を図る。数十の提案を三つ四つに絞り込み、その過程も明らかにしておくことで、その選択過程への「やむなし」という了承を取り付けることだって、そう難しいわけじゃあるまい。

 ところが政治家が、才覚力量に溢れ、旺盛な活動力で取り仕切って「俺に任せろ」的に振る舞えば振る舞うほど、庶民大衆は「お任せ」になり、政治の「公助」を主権者の権利の如くに消費してしまう。だって彼ら(政治家と官僚)は秘匿するほど「情報」をもっているんだろ? ならば、それ相応の具体的な結果を出せよ。口だけでサービスするような贅言は、もういらないよ。そう、不服不満は鬱屈し、投票にも行かないし、政治なんて知ったことかとそっぽを向くようになる。それを埋め合わせて、政治家の方へ向いてもらおうとすると、大枚の選挙資金を投入して明らかに不正な利益誘導をするようになる。そのような政治家の不始末は、数え切れないほど多い。野党がそれを追求していることも、庶民大衆からすると、与党をいじめて遊んでいるようにみえる。むろんそれで与党の不始末がどうなってもいいとは思わないが、政治家って、結局権力を握っていないと負け犬の遠吠えなのねって、認識が定着する。

 野党は、政治世界の枠組みを打ち破って、根柢から社会運動として動き始めなければならない。まず、庶民大衆を「主体」にすること。なってもらうこと。それをコーディネートするのが政治家の役割と心得て、「哲学」を提示してみせること。それが「信頼を築く」第一歩だと思う。

2021年11月24日水曜日

運動としての民主主義

 立憲民主党の党首選挙が行われている。朝日新聞はその候補の見解をわりと丁寧に伝えているが、私の耳には「相変わらず」に聞こえる。

 今回の衆院選で(事前の予想と食い違って)敗北したことを、議会制民主主義の枠内で捉えているから、政策提起をするとか、人々の意見に耳を傾けるとか、選挙のときの共産党との提携が良かったか悪かったかという次元でやりとりしている。そこを抜けないと、たぶん、だれが党首になっても野党の壁を切る崩すことにはならないだろうと私は思っている。というのも、今回選挙の焦点を、安部=菅政権にたいする批判として総括するのであれば、モリ・カケ問題やサクラの会の問題は、政治が人民主体ではなく政治か主体になっている象徴的な事象だということだ。

 普通の庶民からすると、もう国民主権などということは「お客様は神様」と商業主義が唱えるのと同じ、「投票してくれる人は神様」と持ち上げている贅言に過ぎないとわかっている。主体となった実感を味わったことなどないからだ。簡明にいえば、「主権者のために」を合い言葉に、政策を見繕って差し上げ、どうだこれでと、自慢顔をしてみせるのが、政党や選挙の手立て。つまり主権者って、単なる一票であり、一票でしかない。

 だが、この単なる一票の動きを動かすには、手間がかかる。マスとして動かすにはどうするか。SNSもマス・メディアも、世情を動かす立派なメディア。俺らを動員して新鮮さを演出する。他党をおとしめ自党を持ち上げるニュースを、フェイクであろうがなかろうが取り混ぜて流す。マス・メディアは「客観報道」とか「責任報道」と称して取り上げる。SNSは自画自賛ではないように見せかける装いもして、広がりを持たせる。

 それらの「報道」のトップを飾るようにするのは、一つのイベントを演出して盛り上げるようなこと。博報堂など大手企業の知恵を雇い入れ、裾野の「噂」から頂上「決戦」まで、ピンからキリまで、あれこれ織り交ぜての広報戦術を駆使して、人々の心を揺り動かし投票行動へと結びつける。オリンピックなどの壮大なイベントを企画立案して実施する経験に、社会心理学や人間行動学、流行の最先端をつかみ、コントロールする技術を用いて、人々の動きを操るように差配してきたのである。操られる側も、決して自らが選び取ったという確信の揺るがぬように組み立てられた「総選挙」というイベントの結果が、実はそうするべくしてそうなっているかたちで、仕組まれているとも言える。

 そういう社会に私たちは暮らしているのだ。陰謀論がはびこっていくのも、ごく自然なこと。人間工学を組み込んだサイバネティクスの社会、主体的にそうしていると思える情報社会が、日常、私たちの心中深く浸透しているのだ。国家を動かしている「主権」というのが、これほどの統計的な数値にすぎないというのは、戦後76年を経た結果である。

 数えで傘寿という、この歳になって思うのだが、いまの日本の民主主義を根柢から変えようとする方策は、法制度や形式的に整えられた民主主義ではなく、主権者を「政治の主体」とする具体的な実践である。政治って政治家が牛耳ってるアレでしょと傍観するものではなく(いま私はそうしているが)、自らが腰を起こして、足を運び、政策立案に(意見を聞かれ、意見を申し述べて)参画し、具体化の運びを実感できるほどに身近なものにすることだ。

 そのために政治家がいまやらなければならないことは、次のようになろうか。

(1)中央、地方を問わず政府が手に入れている「情報」を公開し、何が課題であるかを提示すること。

(2)人々から(1)の課題に関する諸提案を受けること。

(3)その諸提案を整理して、いくつかに絞り、それに関する諸意見を集約すること。

(4)最終的に絞った政策提案を、議会で、あるいは住民投票で、決定すること。

 そんなめんどくさいことはできないよという人は、みているだけになる。投票にも足を運ばない人がいるのだから、ある程度、そういう人がいるのも仕方がない。

 だが、加わろうにも、身体的、精神的に関わることができない人たちもいよう。そういう人たちには、障害となる諸条件をできるだけ取り除いて、参画するチャンスをつくるようにする。いや、政治課題だけではない。暮らしに関わるいろいろな障害を抱えて動きが着かない人は数多いる。そういう人たちが、何らかのサポートを得て、社会活動に参加できるようサポート体制を整えていくことも、「公助」あるいは「共助」としてすすめていけるようにする。そういう社会をつくろうという「運動」を、社会運動として起こしてもらいたいと思う。

 そのような、生活や社会活動の隅々からの取り組みが始まることによって、政治家への不信感や諦めを超えて、私たちの暮らしに必要な「かんけい」を作り上げていく。そういう期待をもてるように、一歩を踏み出してほしい。それこそが、安部=菅政権ばかりでなく、香港やウィグル自治区や台湾に対する中国政府の圧政的姿勢を批判し、何を護るために何を為すべきかを、真剣に我がこととして考える一歩が踏み出せる。

 日本の政治体制を「かくあるべし」と想定して、私たちにお説教する政治家は、もういらない。主権者の要求を聞き出して実現しようという政治も、いらない。共産党への不信感は、自民党の安部=菅政治への不信感と同じことだと私は考えている。つまり彼らは、自分たちのイメージに(日本の政治を)もっていきたくて、いろいろと手を尽くしている。耳に心地より響きは、いずれ地獄への道と同じだったと気づく。「主権者はお客様」「お客様は神様」という政治手法は、民主主義政体の最低のやり口。もう古いのだ。そういう時代を超えて次の民主主義社会をつくるには、私たちが主体として参画する運動する民主主義をつくることしかない。

 世界に蔓延っている専制的な政治センス、権力を振り回して秩序を維持し、餌を与えるように要求をお膳立てする政治センスは、無用である。私たち自身が主体であることを培える民主化運動を、社会運動としてはじめようではないか。

2021年11月23日火曜日

届き物

  熟した甘柿とサツマイモが届けられた。カミサンの兄からの贈り物。85歳を過ぎて兄は米作りをやめた。その田んぼ跡に杉ばかりを植えても風情が無いと思ったのか、サツマイモを植えたら、大量に収穫できた。そのお裾分けというわけ。甘柿は家の裏庭に生っているのが目について、穫ってくれた。いずれも段ボール箱にいっぱい。むろんカミサンは喜んで、電話で話している。

 カミサンは4人姉兄妹の末っ子。一人だけ大学まで行かせてもらった。他の兄姉は四国の山の村に居を構えて農業と林業、その他の仕事について、いずれも80代の人生を送っている。一番上の姉が元気であった頃は、蕨や薇や山葵が毎年届けられた。私が定年後、蕎麦打ちを覚えて打っていると知ってから、蕎麦が毎年のように送られてきた。蕎麦は収穫が大変だからとカミサンは遠い昔を見るように話していた。十五年近くも続いたが、2年前に脳梗塞に襲われて、農作業から手を引いた。

 もう一人の、一番歳の近い姉とは、姉兄の様子や縁者の消息を聞かせてもらって、一番気の置けない姉妹。餅米を送ってくれたり、自宅で集落の仲間とつくる地元料理のあれこれを詰め合わせて正月には届けてくれたりした。その姉も、ご亭主が入院したりすることがあり、気鬱な日々を送っているのか、やりとりが少しばかりちぐはぐするようになった。

 もちろん親の佇まいに変化があっても、わりと近くに暮らす甥っ子や姪っ子と通信がとれるから、姉兄の様子を聞くのに不都合はないが、コロナ禍とあって直に会うことができない。皆同じように歳をとることが、こういう行き来の変化をもたらすものかと、改めて気づいてため息をついている。

 熟し切った甘柿は、皮を剝いて食べるということができない。柿の頂点部分の、頭の蓋を取る用意丸く切り取り、匙を入れてクリームのように熟した実を掬いとって口に運ぶ。これはなかなか上手い手だ。柿の皮はそれなりにしっかりと固さを保っている。中の実は熟してグズグズになっているから、スプーンにうまくのる。朝食のデザートに最適。だがこれが、ひと月分ほどもある。

 米作りに力を尽くしてきた兄の、百姓仕事に残る思いは土を介するサツマイモにこもるが、芋掘りの大変さがどれほどのものか、見当もつかない。85歳を過ぎた体には、やはり過酷なのではなかろうか。

 元気でいること、安らかに過ごすことのなかに、自然を使って生きてきた生業が、やはり体という自然を使っていたという事実のあったことを、動態的に感じ取って生産物を頂戴しているのだと、ふかくふかく思う。それが姉兄妹の関係そのものなのだと、思い起こしている。

2021年11月22日月曜日

低血糖?

 昨日、散歩を兼ねて買い物に出た。カミサンと一緒に行き、私は荷物の運び屋。途中、植物の色合いの変わり具合や蜜柑や柿の実り、サザンカの花などを観ながら往復1万歩ほどを歩く。ところが往きの途次、ふ~っと肚の力が抜けて行くような気分に襲われる。(あっ、これって、低血糖だ)と思った。

 いつであったか、もう十五年以上前になるが、同年齢の友人たちと御岳山に行ったとき、御岳神社に上る階段の手前で、一人がしゃがみ込んでしまった。当人は「低血糖だ」という。糖尿病の彼は、ときどきこうした症状が出るらしい。同道していた奥様が飴だったかチョコだったっかを出して食べさせ、しばらく休んで恢復した。その後は、皆さんと一緒に歩いて何の不都合もなかった。

 そうか私にも、糖尿の気が出てきたかと思った。だがカミサンはすぐに昨日の私の食事を思い出し、カロリー不足よと言った。そう言われて気がついた。昨日のお昼は、「こんにゃくバイキング」であった。そして夜7時過ぎに帰宅して、カップラーメンを食べてお酒を飲んで済ませた。カミサンはお昼の後のコーヒーショップでクレープとクリームの大きな盛り合わせを食し、その残りを持ち帰って帰宅後の夕食にしたのであった。朝は、いつものように軽くヨーグルトとサツマイモを頂いたが、それがカロリー不足になっていたとは気がつかなかった。

 買い物先で、甘い栗の和風ケーキを買って口にし、ベンチでひと休みして元気が出てからリュックに買ったものを詰め込んで、歩いて帰った。

 こんなことは初めて。山歩きをしていた頃は、いつもリュックに飴かチョコか、行動食を入れていたが、いまそれは眼中になかった。歳をとると平地の散歩にも、そうした用心が必要だということのようだ。

2021年11月21日日曜日

普段が戻ってきたか

 先週中頃からの、動きを記しておく。

 11/17(水)、昨年までなら山へ行く日だったが、まだムリ。図書館へ期限の来た本を返却しに行く。「返却された本」の棚に、蓮実重彦『伯爵夫人』を見つけ手に取る。何年か前、芥川賞をもらって、蓮見がそれを鼻にもかけなかったという新聞記事を見たことがある。美学専門家の蓮見にとっては、芥川賞というのをただの投げ銭のようにみていたのか。ベンチに座って読む。

 なんだろう、これは。高齢者のエロスの残像を裡側から描き出そうとしたのだろうか。何とも醜悪というか、滑稽な場面が、男の視線で描き出されてくる。そればかりが延々と続く。1時間ほど読んでやめた。美学的なナニカがひょっとすると出てくるのかと思っていたが、そこまで我慢して読むほど、蓮見の美学に思い込みはない。蓮見が芥川賞を鼻にもかけなかったというのは、選好者の(元東大学長という)権威主義を笑ったのだろうか。

 新規の図書を何冊か借りて図書館を出た。足を伸ばしてco-opへ買い物に行く。お昼の食材を買い求め、ぶらぶらと帰途につく。これで1万歩ほど歩くことになったか。それだけ歩くと、なんとなく一日のお勤めを果たしたような気になる。午後をボーッとして過ごす。

 11/18(木)、8時に家を出て鍼灸に向かう。10時前にクリニックを出て北浦和駅へ出て、京浜東北線で新橋に向かう。新橋の旧友が先月入院手術を受け、退院したけれども声が出せない。電話をしても奥様を介して、通訳をするように会話をしていた。でも店番には出ていると、別の友人から聞いたので、訪ねたわけだ。まだ来ていなかった。奥様と姪御さんが店番をしていて、様子を話してくれる。月末の27日のseminarには顔を出すというから、そこそこ元気だとみてとる。

 新橋から有楽町まで歩いて、やはり旧知の友人Tの個展を観に行く。退職して油絵を学び、ここ15年ほど個展を開いている。毎月1点描いて、12点飾るのが通例であったが、去年はコロナ禍もあって中止、今年を最後にするという。もう描かないのかと聞くと、そうではない。描くのはそれほどでもないが、個展を開くというのは、体力がいるというのだ。そんなものか。80歳を汐に、絵を通した世間との付き合いを切り上げるってワケだ。絵は、色の使い方が俄然明るくなった。彼の描く風景に、だんだん距離を置いた気持ちがこもるようになってきた。遠景にそっと思いを寄せる描き手の心持ちが浮かび上がって伝わってくるように感じる。それが明るくなったということは、ある種の「達観の境地」に到達したということか。結構なことだ。

 この日も1万5千歩を超えた。

 11/19(金)、カミサンをトラスト地に運び、車をおいて見沼自然公園へ散歩に出る。シロハラが飛ぶ。メジロやシジュウカラが木の実をついばんでいる。コゲラが虫を探しているのであろうか、木の幹をコツコツコツと叩いている。オオハクチョウが5羽、自然公園の池に浮かんでいる。2羽が大人、3羽がグレーがかった幼鳥。ご一家さまであろう。今秋の初見。1時間ほど歩いて車に戻り帰宅する。

 明日、前橋まで行く準備をいくつかする。ほぼ1万歩歩く。

 11/20(土)、早朝、前橋へ向かう。高速に乗ってから、今日が土曜日であることに気づいた。外環道もそうだが、関越道が渋滞している。ふだん土日には外出しない。若い人たちに道を譲るとカッコつけて話すが、渋滞で苛々するのがいやなのだ。ところが半年以上山へ行かなくなり、車にも遠距離乗らなくなっていたから、土日の混雑を忘れていた。考えていたより40分ほど遅れて合流地点に着いた。

 関西から来た知人に逢って、午後までの空いた時間に富岡製糸場にでも行こうかということになった。家のカミサンも同道しているから、私はもっぱら運転手に専念できる。

 富岡製糸場は、私も初めての訪問。世界遺産になったとかで、ずいぶんと力を入れて整備が進んでいる。日本初の近代工場とあって、開設に力を貸したフランス人の「功績」が浮かび上がる。工女の労働時間、休日や健康、寄宿に気遣う施設設備などが、建設当初の姿を(年々移り変わる者も含めて)残しておこうと、手入れをしている。フランス人が去ってからの労働時間の加重さなどは、「野麦峠」を思い起こさせた。絹の生産が1970年ころまで主力の一端であったというのは、日本の高度経済成長が軽工業から重工業へと移り変わっていく最後の花火のように思えた。また、富岡製糸場の最後の資本の担い手が片倉工業と知って、さいまた市大宮区の片倉跡地の再開発を思い起こして感慨深かった。

 知人の付き添ってきた息子の「面接」が終わるまで2時間以上もあるとわかって、お昼を食べることにした。富岡製糸場の近くにある「こんにゃくパーク」へ行くことにした。そういう「名所」を調べるのは、若い人はスマホでさかさかとやる。もちろん私もカミサンも初めてのこと。

 入口で長い列に並ぶ。代表者が人数登録をして、チケットをもらう。こんにゃくバイキングの無料券。列の先には、種々のこんにゃく料理が並び、それをトレイに載せてテーブルに座って、頂戴する。もちろん、バイキングだからお腹いっぱい頂いてもかまわない。それが無料なのだ。それがまた、おいしい。デザートも「こんにゃくゼリー」が用意され、それも何種もあって、飽きさせない。お昼がこれでじゃあ悪い。

「無料でいいのかしら」とカミサンは驚いている。むろん、テーブルから出口へ向かう場所には、こんにゃくを使った品々がこれでもかとばかり積み上げられ、目を誘う。安いことはいうまでもない。土産にと知人もカミサンも買い込み、もらった手提げ袋が破れそうになるほどになっていた。「パーク」と名付けるだけあって、子ども連れも若い人たちも、わんさと押し寄せていた。

 時間を見計らい、移動中に息子が口にする食べ物も少し手に入れて、待ち合わせ場所へ行く。「面接」が終わった息子は「いや、面接官が優しかったよ」と肩の力が抜けたように母親と話す。ああ、こういう話しを私は息子や娘としなかったなあと振り返る。高崎駅まで送りがてら、車の中での会話を耳にする。ここが受かったら、共通一次試験も受けて、一般受験者がどれほどの実力で合格してくるのか測ってみたいなどと軽口を叩くのも、いい兆候なのだろうか。

 その途次に、滑り止めの「合格」が知らされた。良かったねえ(浪人しなくて)と言祝ぐ。母子の安堵が言葉の端々に広がる。持ち本命(のこちら)がダメなら、自宅から通えるところになる。第二本命の受験が明日に控えているから、急ぎ帰るのだが、そこへも弾みがついた。

 高崎駅で降ろし、関越に乗って帰ってきた。久しぶりの夜の運転。行楽帰りの車の渋滞は、終わりかけのよう。車はいっぱい走っているが、時速60~100kmで止まることなく進む。家には7時半前に着いた。

 山を除けば、ふだんの日々が戻ってきたようであった。

2021年11月19日金曜日

ハビトゥス

 いま手元にピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ』と『ディスタンクシオンⅡ』の2冊がある。「社会的判断力批判」とサブタイトルのついたこの本、じつはカミサンが図書館に予約して借り出したもの。えっ、どうして? と私は思った。ふだん「俗に塗れている」と自称しているカミサンが、どうしてこんな堅い本を読むんだ?

 聞くとブルデューというフランスの知識人が、自らの足下を掘り崩すような研究活動をした金字塔のような本だ、ぜひ読めと友人に奨められたという。

 知ってる?

 そりゃあ、知ってるさ。どこかに書き置いたことがあったはず。

 ブログをチェックしてみると、6年前の12月にブルデューの名が出てくる記事が3回あった。

「西欧を日本に橋渡しする気質」(12/20)で加藤晴久『ブルデュー 闘う知識人』(講談社選書メティエ、2015年)の読後感を記している。

「闘う人生ということ」(12/23)で映画「ヴィオレット」を見て、フランスの文学世界にデビューする出自による差異をボーボワールと対照させているのを見て、ブルデューに触れている。

 「「難民」はどう抵抗するか」(12/29)で「ハビトゥス」に触れている。

 カミサンは2冊の『ディスタンクシオン』の目次を眺めて、「これは歯がたたん」と投げ出した。その傍らに、岸政彦『100分de名著 ブルデュー・ディスタンクシオン 「私」の根拠を開示する』(NHK出版、2020年)がある。その友人が貸してくれたという。これが面白かった。岸政彦という方がどういう方か知らなかったが、私の息子の少し年上という感じの方。社会学者であり、文学にも手を出していくつか小説を書いているそうだ。

 何が面白かったのか。ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んだ衝撃とそれから受けた影響を「私」の裡側に触れて記しながら、ブルデューの提起した「ハビトゥス」や「趣味」がどのように社会構造に規定されてあるか、それがどのように「文化資本」として社会的に作用しているか、それをになっている主体である人が、どのようにそれを自らの選好として認知して、階級的な差異まで内面化しているかを述べている。それが社会秩序の保持に作用し、人々の主体幻想に力を添えているかと、「人生の社会学」に言及する。

 それと同時に、社会学が「現状を保持する学問」といわれていることにも目を配り、「ハビトゥス」が「他者の合理性を見る目」に影響して、多様な人がいるという大雑把な多様性の受容ではなく、人それぞれの合理性を理解することが安定的な社会関係を築く第一歩と確信していることを示している。

 まさにそう、と膝を打った。社会の現状に対して奮う力の無い私たちが、にもかかわらず片隅で社会的な「ハビトゥス」を培っていくために働いていることは、実は日々の一つひとつの挙措動作に拠るものだと考えている。それは、文字通り砂粒の一つひとつが、社会の主体として立ち現れる姿だと思わせた。

2021年11月18日木曜日

関心の傾き

 このところ、カミサンのお出かけが多くなった。鳥と植物観察のほかに、映画や歌舞伎が加わったからだ。これまでも月に1回は映画などに足を運んではいた。だが、1年ほど前から古い気心知れた友人が定年退職後の延長仕事を辞めて、映画や演劇、歌舞伎へのお誘いがあるようになった。つい先頃も「(月に)4回はムリよ」と電話で話している声を聞いた。私はその友人の顔を見たことがあるだけで、言葉を交わしたことはないが、会うと話が絶えないらしい。先日も帰ってきて、幕間におしゃべりしていたら、係員が来て「会話はお控え下さい」という紙の札を見せて「叱られた」と話していた。

 そのおしゃべりの一端で面白いことを聞いて、気にとまった。

《「町山智浩のアメリカの今を知るTV」に出てくる女優の藤谷文子って、何もしてないんだから出す必要がない》

 とその友人が言ったというのだ。へえ、面白い人だ。この人は、何を見聞きしているんだろう。

 もし彼女がいなければ、町山智浩のおしゃべりが止まってしまうと、まず私は思った。町山がTV視聴者向けに「アメリカの今」を、建国以来の径庭を交えて訪ね歩き、藤谷に話すように画像を交えてしゃべる。藤谷は、たしかに「ふんふん」と聞き耳を立て、「へえ、そう」と初めて聞いたように相槌を打ち、ときどき「そう言えば……」と身辺にあったことを付け加える。それが話の回天車のきっかけとなって町山智浩の「アメリカの今」が繰り出されてくる。対話って、そういうものだとも思う。

 では「藤谷はいらない」という友人は、何を見聞きしているのだろうか。町山智浩のまさしく「アメリカの今」のテーマをしっかりと捉え、まさしく現在のアメリカの情勢分析をするように受けとっているのであろう。彼女は厳しい、彼女のセンスは際立っていると、カミサンはいう。「俗に染まっている」と自らを笑うカミサンと違い、先鋭的な演劇を見つけてはそれを観に行く。ドキュメンタリー・タッチの映画にアンテナを立て、カミサンに声をかけている。つまり彼女は、「現在の世界の問題」に直に関心を向けているのだ。他のことに気を向けるほど「遊び」がないと、傍観的な人はいうかもしれないが、それはたぶん、「世界の問題」に集中していて、他の夾雑物が目に入らない。

 ではお前はどうなんだと別の「わたし」が問う。私はもっぱら、世界の傍観的な位置に立っている。何をするにも、手立てを持たない。ただただ、力のあるヒトが動かしている世界をみて、そうかなあとか、そうじゃないだろ、とか考えているに過ぎない。だから、夾雑物が目に入る。それどころか、ひょっとするとその夾雑物が、案外世界の駆動力の一端になっているんじゃないかとさえ、世界をみるようになっている。だから、「力のあるヒトが動かしている世界」というのも、実はその周りにうろちょろしている「夾雑物」があってこそ動いているんじゃないかと思わないでもないのだ。

 藤谷の相槌があってこそ町山智浩の「おしゃべり」の繰り出しがあるという方がいいかもしれない。まあ、傍観者的な位置にいるからこそ、そう見えるような気がする。関心の傾きは、次元を狭くしてしまうけれども、その分、先鋭な切っ先を世界に突き立てる力を内包する。その鋭い切っ先を、俗に染まったと自称するカミサンが肌で感じていると思うと、世界って面白いとあらためて感じているのである。

2021年11月17日水曜日

山の「要介護」から「要支援」へ

  おや? 雨になるのかなと心配させたお天気も、雲がとれて日差しが入るようになった昨日、田島ヶ原のサクラソウ自生地へ出かけた。カミサンが植物観察の案内をするというので、車で送り、私は秋が瀬公園の北の端まで往復を散歩した。

 久しぶりに山の会の方にも出逢った。4月に私が山で事故を起こしたとき、傍らにいて救助を要請し、入院するまで付き添ってくれた方。私が元気そうなのを見て、「あさって山の会の人たちと秩父へ行くことになっているけど、来ませんか」とのお誘い。「お弁当ももつから、手ぶらで来て」と付け加える。

 あははは。そう言われて気づいた。そうか、山にも介護度があったか、と。

 となると、4月の遭難時は、「介護度4」。救助してもらわねばならない状態にあった。

 入院して家に戻り、リハビリに通い始めるときは、「介護度3」。1時間ほど歩いてクリニックへ行くのに、カミサンがついてきた。じっさい、着くまでに何度か休んだ。肩が張り、腕が重くなって歩けなくなったのだった。

 7月くらいかな、かなり恢復し、日光白根山の中腹を4時間くらい歩いてみた。途中やはり肩が凝り、腕が重くなって休むことになったが、それでも4時間、何とか歩ききった。「介護度2」ってところかな。

 そうやって考えて見ると、今は「介護度1」の段階か。平地を歩く分には、5時間ほど歩ける。腕の付け根が張ることはあるが、リュックを持ち替えるなどすれば、何とか凌げるようになった。旅に出ても、荷を持つのに難儀することもなくなった。

 山の会に方にそう告げると、傍らにいたカミサンが「要支援よ」と一つ階梯の次元を変えた。そう言えばそうだ。ことに一昨日のリハビリから後、腕の付け根が楽になっている。今少しつかえる感触が残っているし、思うように後ろへ腕が回らない不都合はあるが、ま、日常生活には不便しない。後は歳のせいですよといえば、みんなそうだと思える程度になった。

 ほぼ恢復か。リハビリの回数も、減らしていいかもしれない。そんなことを思いながら、1時間50分の散歩を終えた。9kmの歩行、1万2千歩。汗もかかず、寒くもない。

2021年11月16日火曜日

「未完成」もいい味わい

 2年前、友人から古希祝いでもらった蜜柑の苗が、2年目の今年、実をつけた。ところが、なかなか蜜柑色にならない。青いまんま。その友人に話したら、「蜜柑成」だねと笑われた。その後、庭の隅でカミサンが見つけたのが2年前の蜜柑の苗についていた説明書き。「寒くなったら、室内に入れて下さい」と書いてあった。なんと、鉢植えのまんまで育てろってものだったのを、庭に植えてしまったのだ。十月の末、他の家の蜜柑は見事に色づいているのに、我が家のそれは、未だ青い。なんだか「私への皮肉みたい」と友人に伝えたら、笑われた次第。それが色づき始めた。みるみる蜜柑色になったが、未だ皮は固いままのように見えた。その皮に薄い茶色のかさぶたのようなものが付き始め、「寒さに弱い…早生みかん」とあったのを思いだした。

 昨日朝、穫り入れた。全部で四つあった。友人に一つ渡すことにして、友人の娘にも一つ持っていくことにする。電話をしたら、「いるよ」と元気そうな声。ほぼ毎月郵便でやりとりしているが、8月には「此岸にいるのが不思議」というくらい暑さに負けそうな葉書であった。それが、9月には6000字を超える手紙となり、10月には9000字にもなる長文の返信が来た。その分量を見ながら、元気になったなあと喜んでいた。顔を合わせるのは昨年の7月以来か?

 昔尋ねたことのある彼の家は、高層ビルに囲まれてすっかり場所がわからなくなっていた。車のnaviは「目的地に着きました。案内を終了します」といって沈黙してしまった。電話をすると、彼が通りに出てきて、細い路地に車を入れるように案内してくれた。路地は昔のまんまという風情。

 コーヒーを飲みながら、少し話をする。何と彼は、「小説」を書き上げ、冊子にし、すでに配布しようとしている。A4版1頁3段組で296頁にもなる。400字詰め原稿用紙にすると1600枚になったという。畢生の大作とご本人も《自称「小説」謹呈のご挨拶》のなかで述べているが、この「畢生」は「生涯にたった一編でもいい「小説」というものを書いてみたい」というほどの意味合いで、作者本人に、全く気負いはない。

《小生謂う所の「小説」は(テーマを持ち時代相に切り込むという)近代的なものとは無縁の、まあいずれ自分の思いつきに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく》と、ひたすら遠慮がちに卑下なさっている。しかしこの方、かつて、ドキュメンタリータッチのファンタジー作品で埼玉文芸賞を受賞するという実績を持っている。「声に出して読む小説」と賞賛の声を得たこともあって、その筆のタッチは音韻を踏まえて踊るようであり、(声に出して)読むことがすでにリズムやメロディを胸中に醸し出し、その言葉の踊り出しに酔っていただきたいと(言ってはいないが)謂わんばかりである。

 舞台は江戸、謂わば「戯作」とタイトルに加えるほど酔狂を極める「語り物」というわけである。いつものように寝ころんで読み始めようとしたが、重くて腕がすぐに痛くなり、机に置き、椅子にきっちり座って読むしか仕方がない。文字がびっしり。しかも漢字が軒を連ね、ふりがなをつけてあるから、いっそう頁の面積を埋めて重々しい。すぐに読み草臥れてしまって、ま、ゆっくり読もうと取り組みを改めることになった。

 そういうわけで、この「小説」の読後感は、ひと月もふた月も後になろうと思う。

 帰宅して、苗を下さった友人にも差し上げたので、我が家も蜜柑を食してみようと手に取った。実は、その味が恐ろしく、かの友人にも「もし酸っぱいようなら、レモンのようにつかってね」と口にした。皮を剝く。薄くしっかりとしている。何だか酸っぱそうな気配がしていたが、一袋口に入れる。う~ん、そこそこの甘さ。酸っぱくはない。まず蜜柑を食べているという感触がうれしかった。古希祝いの蜜柑を、数え傘寿の私とカミサンがいただいている。この調子なら、来年以降も、一つ二つは口に入るはず。そう言えば小学校の担任が我が母親の気持ちを静めようと「大器晩成ですから」と口にしたことを思い出した。文字通り「蜜柑性/未完成」の「わたし」にふさわしい。完結編もなしで彼岸に渡るというのも、友人のくれた「幸せな予言」に聞こえる。

2021年11月15日月曜日

尊王論者も姿を消したか

「小室真子さま、圭さんとNYへ」と報道されている。その少し前に、「圭さん、母親の代理で元婚約者に400万円を支払って解決」と、この4年間のもめ事にけりがついたと週刊誌が報道している。

 このモンダイについて私の見解は、すでに《人と「情報」》(9/28)で記しているので繰り返さないが、上記報道をみて、普段は天皇制が日本の根幹のようなことを主張している人たちも動いた形跡がない。なんだ彼らも、ただの「天皇制利用主義」者じゃないかと思った。昔なら、尊皇の思いを持っている篤志家が、4年前の早い段階で内密に圭さんの母親またはその元婚約者に400万円を渡してやって、さほど大事にしないで結婚できるように計らうってことをやっていたと思う。

 私は別に尊皇思想ってわけじゃなく、「主権者である国民」の一人として「象徴天皇」を担ぐ一万三千万分の一くらいの呵責を(この皇女に対して)感じるから、1億5千万円の支度金を持たせて「ご苦労さんでした」と送り出すことくらいしてやれよと話していたわけだ。それが「税金から(母親の借金を)支払うのか」などとつまらぬことをいう輩が、メディアも含めて、ゴタゴタに加担したのだと思っていた。

  尊皇思想の人の中には、民間のつまらぬ男と結婚することが許せないと思う方も(自分は民間にいるくせに)いるかもしれない。宮内庁に巣くう皇室絶対主義者はいざ知らず、今のご時世、結婚相手の民間人にいささかの悶着があったからといって、それが「皇族の品位」を汚すものという大時代的な「皇族純血論」を振り回すのは、ナイーブすぎるといわねばなるまい。

 それに、数多いるであろう尊皇主義の大金持ちたちは篤志家になる心持ちもないのか。このモンダイを内々に治めるほどの知恵も持ち合わせていないのか。綾瀬はるかという女優がコロナウィルスに感染したと報じられたとき、すぐに入院できたなんて「上級国民待遇じゃないか」と声がちょっと上がったけれども、たちまち消し止められ、その後そうした報道は一切聞かれなくなった。だれがどうしたか知らないが、見事じゃないか。そうやって、綾瀬はるかというセレブが護られていることが誰かの利得になるかどうかではなく、そういうつまらぬ「噂」に晒されることから彼女を護るのは、じつは、そういうつまらぬ噂(が蔓延すること)から社会を護ることにもなっていると私は思う。

 尊皇主義者が、じつはそういう世間の流言飛語から「皇族の品位」を護る力を振るわないで、どうして「国柄」とか「ネイションシップ」とか「民度」という社会の品位を護ることを、語れようか。

 バカだな、お前、国会議員がどんなことでどう振る舞っているか見てみろよ。奴らに品位があると思うかい? そいつらに「社会の品位」を護れっていうのは、猫に鰹節の番をさせるようなもんだ。

 そうか、逆に言うと、尊皇論者もすっかり大衆化しちゃって、「皇族の品位」なんて振る舞いを忘れている。護ってやるってコトも、宮内庁がやることと役割分担的に考えているのか。つまり、篤志家が「皇族の品位を護る」ために400万円をそっと支払ってやるってことさえ、だれも考えてやれないほど、この世は四民平等となり、金銭がすべてになっているってことか。

 う~ん、それも、つまんない世の中だなあ。

2021年11月14日日曜日

前向きに世界を見ること

  旅の行き帰りに、マルクス・ガブリエル『つながりすぎた世界の先に』(PHP新書、2021年)を読んだ。NHK特集などでこの哲学者のやりとりを見聞きして、ヘーゲル哲学を中心にドイツ観念論哲学を斬新な目で見て取る感触を感じて読み進めたことがあった。

 この本は、コロナウィルスに戦々恐々と対応してきている世界を、どう見ているか、この後どうしていく必要があるかを、日本のコーディネータ二人に誘われて、リモートでインタビューに応えたものを一冊にまとめた恰好の啓蒙書である。勿論学問的に啓蒙しようというものではなく、ガブリエル自身が、今世界で起こっていることを哲学しているプロセスが、言葉になって繰り出されている。軽々と読み進めた。

 軽く読めたのには、ワケがある。コロナが象徴的に意味するもの、米中の対立という構図をどう読み取るか、そこにおける日本(漢字をいう中国との共通項と隣国という立ち位置)の役割、ドイツとの第二次大戦後の世界における共通性、EUの対中国の立ち位置、トランプへの(わりと肯定的な)評価、メルケルへの賛辞、資本主義市場に対する具体的な向き合い方を繰り出して倫理資本主義を説き、「(暮らしの)質への転換」など、話が具体的である。

 ここ30年ほどの近代世界が推し進めてきたグローバリズムが、人の営みとして不適合を起こしていることを、コロナウィルスが明らかに示している、と根源的に提起する。もっとも根柢的と思われたのは、「無知の知」の強調。自分が知らないことを知っているという問いを発する起点からはじめ、応えを手にするときにやはり、知らない世界が広がっていることに気づくという、ある種応答の循環を思わせるような地平を踏まえている。そこが哲学の真骨頂よといわんばかりだ。固定的に物事を見るな、そう見て取る瞬間に、差別が生まれ、思念の中の序列が固定化されるといいたいようであった。

 実は、昨年のコロナウィルス禍の蔓延以来私自身、これって自然からの啓示ではないかと謂ってきたのと同じ感懐を、この哲学者が持っていることがわかり、ホッとしながら読んできた。彼は「日本人にはわかりやすいかもしれないが」と断って、こうした「自然が主体」となった世界の事象と位置づけている。一神教ではなかなか信じられないことだが、「神道や仏教ではごく普通のこととして受け容れられている」ことに注目している。それを、すぐに日本的と読んでいいかどうかはわからないが、私の持つ自然観とうまくマッチする。

 この本の感懐を考えるともなく思い巡らしながらTVをみていると、高齢化が進み限界集落のトップバッターと思われていた群馬県南牧村で行われた「TVシンポジウム」が放映されていた。高齢化率66.2%という全国一の村を、この先どうやったらいいかと、村長や村へ足を運ぶ巡回診療医や東大の名誉教授がシンポジスト。それに加えて、もうこれ以上やってけないんじゃないのと考えている72歳の村民、東京や埼玉県からやってきて定住しようと頑張っている若者二人を交え、ここ数年、人口移動がプラスになっていることをあかしながら、どう未来図を描くことができるかと言葉を交わす。他の件の試みなども紹介しながら話が進む。そのとき、「日本の試みは世界モデルですから」と奈良県を取材した番組制作者の言葉が重なる。ここでもまた、現に進行する高齢化と人口減少を見つめる目を、思い込みに拠らないで、具体的に現場を見て話を交わして、一つひとつ具体的に考えていく過程が、画面の裏側で行われていることが示されている。

 哲学的に考えるというのは、固定観念をひとまず取り払って、一つひとつ具体的に言葉を紡ぎ現実の振る舞いに還元して、実行に移していくことだ。言葉にすると、それはそうだと簡単に了解できることだが、自分の観念の固定観念となると、なかなか容易に身から剥がせない。それをたぶんマルクス・ガブリエルは哲学者を入れて言葉を交わしなさいと力説しているのだと思う。

 TVの番組を見ていると、それぞれ皆さんが哲学していると思う。「生き方を変える」と東大の名誉教授は口にするが、コロナウィルスに脅えて人口密集地で日々を送ることに夢中になっている若者にこそ、伝えたい言葉だと思った。量じゃないよ、質だよ。娯楽じゃないよ、静謐だよ。自分じゃないよ、環境だよ。そうした所に身を置き、具体的な振る舞いに目をやることが、現代社会のもたらす鬱積から身を解き放つ最初の一歩だと、気づく。

 もうこちとらは、どこかに身を移して暮らすような身分ではないから、口先だけで喋喋しているが、若い人たちは2,3年限界集落暮らしをしてから都会に戻ってきてもいいんじゃないか。そういうことに政府が補助金を出して、人生創生計画を起ち上げてもいいんじゃないか。そんな気がした。

2021年11月13日土曜日

遠征

 何年ぶりだろうか、関西へ足を運んできた。半世紀ほどのお付き合いのあった友人が昨年なくなり、その一周忌と納骨に呼ばれた。亡くなった折、神戸大学へ「献体」をした。葬儀はお骨が戻ってからということだったので、幸いにも出席できた。もし昨年であったら、大阪も東京も大騒ぎしていたから、出席できなかったに違いない。

 奥様と親族4人、故人の知人が私を入れて3人というひっそりとした儀式。場所も墓園。「**家之墓」と彫り込まれたお墓の前に式台を置き、納骨を済ませてから、お坊さんが読経する。わずか30分ほどで儀式は終わり、移動して会食となった。

 今年で数えの卒寿になる方だったから、東京の大学へ進んで以来、家族とは別れるように暮らしてきた人であった。私も踏み込んで彼の出自由来を聞こうとしなかったから、知らなかったが、姉と弟がいたはずだったけれども、顔を見せていない。訊くと、弟さんとは何やら険悪な関係があり、弁護士を通じて話をしているそうだ。親族というのは奥様の妹さんとその娘家族。福岡からワゴン車で駆けつけて、子どももなく独りになった奥様の世話をしている。妹さんは別として、その子ども家族は故人である伯父に会ったこともないと聞いて、ご挨拶代わりに私が48年に亘って故人を尊敬してきた要所をいくつかのエピソードでお話しした。と、姪御さんが「図書館のお手伝いをしているのですが、伯父の入れ込んでいたことも知らず、二日前、手に取って面白そうと思ったのが世阿弥や観阿弥の能に関する本だった」と偶然の出合いを言祝ぐように話をする。また私が故人から紹介されたフランスの哲学者の名前を聞かせてくれといって、ミシェル・フーコーとルネ・ジラールの名前を書き取っていた。

 そうした故人に関することは淡々とお話しできたのに、葬儀の「ご案内」を受けたことへの感謝と気を落とされないようにと奥様に言葉を添えようとした途端に、涙が出そうになってちょっと慌てた。

 葬儀の間は青空が見えて、日差しが熱いと感じるほどであったのに、会食へ移る頃から雨が落ち始めた。「主人のうれし涙ですね」と奥様は静かに口になさっていたが、寄り添ってから63年の月日がこみ上げてきていたのかもしれない。

 葬儀会食の後私は、堺に住む弟の家へ行った。去年行われた母の七回忌にコロナ禍で出席が叶わなかったから、お線香を上げようと足を運んだわけだが、やはりここ5年、顔を合わすことがなかった弟夫婦と言葉を交わすことが楽しみであった。夕食を頂戴しながら何時間おしゃべりしただろうか。焼酎のお湯割りを弟がつくってくれ、6杯までは覚えているが、何杯飲んだか覚えていない。朝方目を覚まして布団の中でうとうとと心地よくぼーっと過ごして、7時過ぎに起きた。雨の音がしていたと思ったが、朝食を終える頃には日差しが出てきた。金剛寺というお寺に行こうという。なんでも南朝の行在所にもなったという。そうか、高野山に近く南朝の熊野もすぐ近くなんだと思った。

 金剛寺は面白かった。わずか車で30分ほど走る。金剛山の山懐に入った感触。女人高野と聞く。女人禁制の高野山を取り囲むように女人高野が何カ所かもうおけられていて、その一つに南朝の天皇が御座所を定めていたというのだ。真言宗御室派の大本山と肩書きが付いている。こんなに大きなお寺とは思わなかったほど、広い敷地が、何区画かに分けられている。北朝のとらわれた天皇の御座所屋敷、南朝天皇の御座所屋敷と分けられてあり、国宝や重要文化財の大日如来像や不動明王や快慶の弟子が制作したという阿形像吽形像が楼門の両脇を固めている。一面のスギゴケが覆う庭園は、修復中の大玄関を囲う足場と多いが視界の邪魔ではあったが、色づき始めているモミジと相まってしっとりとした落ち着きを醸し出す。御座所の部屋は広く風通しが良い。寒かったろうなと思う。

 絵を描いている十人ほどのグループがいた。その視線の先は、御所の白壁とその向こうの庭に広がるモミジの色合いとが、なるほど目をとめるに値する景観を保っている。金堂の大日如来を見ているとちょうど読経が始まり、バリトンの響きのいい声がときどき打ち鳴らす鉦の音を交えてお堂全体に響き渡る。声が身に響き、染み渡って清められる感触を、南朝の天皇さんも味わっていただろうかと、700年ほど前に思いが飛ぶ。

 寺庭をゆっくり見回っていると雨が落ちてきた。駐車場の車に入る頃にははっきりとした雨粒が降りかかり、なんだか切り上げ時を知らせる雨だったなあと言葉を交わして笑った。

 12時半頃、軽いお昼をいただき、メトロの駅まで送ってもらって弟夫婦とは別れた。新大阪駅まで一本。混んでおらず、大阪のコロナの感染も気にならなかった。新幹線も空いていて、乗り込んで30分ほどは眠り込んでしまったが、そのあと本を読んで過ごした。富士山が8合目から上に雪をつけて、曇り空を背景に静かに屹立していた。上野東京ラインが混んではいたが、25分の電車も肩がぶつかるほどではなく、武蔵野線も6時頃のラッシュであったのに、歩くのに不都合を感じるほどではなかった。

 久々の面白い遠征だった。

2021年11月11日木曜日

不道徳だから倫理的であり得る

 伊藤亜沙『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020年)は面白い。人の五感の「触覚」がコミュニケーションのメディアとしてどのような働きをしているか、「触覚」を通じて人は何を受けとり、何を送り届けているか。それらを、目の見えない人のマラソンをリードする「紐」を通じて、分け入る。体育というのは、と発題して、「人の体に失礼でないように接する作法を学ぶ」と見極める。

 そうそう、それこそが「心の作法」だよと、私はうれしくなった。でも、「体育」が「心の作法」を教えるってのか? そう思うに違いない。「触覚」って「さわる」ことか? と思うかもしれない。著者は「ふれる」と「さわる」の違いから分け入り、「さわる」の一方向性にたいして、「ふれる」の双方向性を対置する。「さわる」が、触る対象物をモノとして見ているのに対して、「ふれる」は、ふれる対象からの「応答」を敏感に感知する所を組み込んでいる。

 実はそう単純分けていいのかどうか、読みながらちょっと戸惑う。施術者は「さわる」つもりであるのに、患者は「ふれられている」と受けとっている場合。「対象者」はモノなのだろうかヒトなのだろうか。そういう交通の齟齬は、郵便の誤配のように必ず発生している。実際に、リハビリの施術を受けているときには、先日も記したように、施術者がわたしの体の微妙な反応を指先で感じ取りながら経絡の要所を探り当てて、そこへ鍼を打つことをしている。これは、双方向のコミュニケーションと言えるのだろうか。モノとしてのわたしの体の(生理的な)反応は、わたしの「こころ」なのだろうか。コミュニケーションへの応答と言えるのだろうか。ちょっと違うんじゃないか。

 もう少し微妙な、人と人との間の(かんけいの)想定が必要なのじゃないかと、ちらりと思う。

 ともあれ、伊藤亜沙は、この「さわる」が呼び起こす身体的な反応の危うさを見逃さない。たとえば、リハビリのマッサージのような施術において「ふれる」ことが、性的な意味合いを帯びてしまうことに注目する。介護のときの「ふれる」行為が、性的行為のそれと重なり合ってくるとき、介助者と介助される人との「かんけい」はどうとらえられるのか。これは、じつに危ういが、だからこそと伊藤亜沙はいう。だからこそ、そこに「倫理的」である要素が介在する瞬間が生まれる、と。

 道徳を「普遍的な善」と規定し、倫理を「具体的なある状況においてどう振る舞うか」と規定する伊藤亜沙は、「不道徳だからこそ倫理的でありうる」と論題を提示する。それが面白い。

2021年11月10日水曜日

ふれる

 いまリハビリを終えて帰ってきた。体を傷めてリハビリを始め、半年が過ぎた。週に4回であったのも2回に変更した。もちろん初めの頃に較べて、体は楽になった。なにより肩や腕の痛みを感じないで2時間、4時間と歩けるようになった。

 相変わらずなのは、右肩の動き。腕を後ろへ回そうとすると、肩から先へはいかない。肘を折って、背へ手先を回すと、ちょうど掌の半ばが体についた所で、止まってしまう。同様に肘を折って肩先へ指先をつけようとしても、肩につかない。要するに、肩甲骨と腕の付け根にまつわる筋が硬くなって、動かなくなっている。その筋が耳の後ろを通って首の方へ絡まり、また背骨の少し右側に沿って腰の方へと連なっていて、それも痼(しこ)る。それ以外の部分は、おおよそ恢復したと言って良いであろう。

 未だ続く痼りが事故のせいなのか、それ以前からの頸髄神経の圧迫に拠るものなのかわからないが、4月の事故以降、固着してしまったようである。リハビリは、それを解すためにやっている。

 8月からは鍼灸を月2回取り入れ、マッサージもそれまで同様に行ってきた。一つ感嘆しているのは、鍼を打つとき、鍼灸師の人差し指と中指の指先が筋のナニカを探り、探り当てた所へ鍼を打つ。軽くトントントンと鍼が入り、ピクッときたところで止まる。その位置から指が、ナニカを探りながらずれていき、ほんの1cmほどのところでまた、探り当ててトントントンと鍼を打つ。そのようにして、数十本の鍼を打つのだが、その指先が探り当てるナニカの箇所が、ほぼ間違いなく私の痼る筋の要所を衝いていることに、私は感嘆している。

 いやそれが、実は鍼だけではない。マッサージというリハビリの時も、鍼を打つわけではないが、施療の初めに腕や首の動きをやってみて、とりかかる。やはり指先で要所を探り当てて、押さえたりつまんだりして、解していく。その押さえる所が、ことごとく痼っている所とつながっている。しかも押さえてしばらくすると、痼りがほぐれて、体が軽くなっているように感じるのだ。これって、なんだろうと、いつも思う。

 感嘆しているのは、施療士が探り当てているナニカが、間違いなく痼りの要所であること。彼または彼女の指先は、どうやってそれを探り当てているのであろうか。単に「さわる」というのではない。「ふれる」ことによって、私の体からの反応を感じ取っていると思われる。

 理屈を聞きたいと思って、鍼灸師に「鍼を打つって、体に何が作用してるの?」と訊いたことがある。「刺激を与え、そこへ血流が集中してくることによって動きが良くなることを期待している」と、説明があった。骨や筋がどう体を経巡っているかを熟知した上で、ただ「さわる」だけでわかるのだろうか。それとも、「さわられた」ことへの私の反応を感知する「ふれる」ことによって、探り当てているのであろうか。いつか訊いてみようと思っているが、なぜか微妙な領域にふれる質問のように感じて、未だためらっている。

 患者の体の感じる感触が、施療者の指先とのコミュニケーションによって応答し合っているのだとしたら、それは面白いことだと思いながら、いつもリハビリを受けている。(11/8)

サービス提供の一時中断

 昨日昼、記事を書いてアップしようとしたら、インターネットに接続できない。いろいろ手を尽くしている間に、思い出した。何日か前、接続サービス提供元から「2日間程工事のためサービス提供を中断します」と「お知らせ」チラシが投げ込まれていた。それには日時などが記されていたが、そうと思っただけで、すぐ忘れていた。それが今日だったというわけか。オレっていい加減だなあと改めて思う。

 電話が鳴る。「メールを送ったが、どうですか?」と問い合わせ。返事がないので、何かあったかと思ったようだ。「メールも見られない程のことがあったのか」というから、「いやじつは・・・」と説明する。お互い、歳はとっていても、メールを送って二日目ともなると返信が何のが心配になる。せっかちになっているという時代の速度感覚が身に染みているのと、身に何があっても不思議でない年齢という慮りもある。

 ただ、音信手段が一つでないから、音信不通が放っておかれることはないが、逆に電話やネットがなかったときは、郵便での問い合わせになる。その時間的な悠長さの身体感覚と今のせっかちな身体感覚では、「かんけい」の受け止め方が異なるに違いない。

 時間的な悠長さは「便りのないのはいい便り」という俚諺のように、受け止め方の側の想像力に任される所が多分にあった。その想像力が介在する分だけ、「かんけい」に「遊び」があったとは言えまいか。たとえ死んでしまっても、「遊び」の中で生き延びているというのも、「かんけい」を思いの中に委ねて保っているという意味で、現実と幻想との相互性をともにリアルそのものとして実感できていて、好ましく思う。お互いにそういう関係と思っていれば、何年別れていようと、会った瞬間に不在の間が埋まって、やあ元気でしたかと挨拶を交わすような気がする。

 長い別れの間に、「あなた」が身に備えることになったであろう他国の人や風物がもたらしたであろう事々も、「遊び」に加わって、相手に対する「恐れ/畏れ」として感じるようになる。それが、「あなた」に対するリスペクトとして、取り交わす「かんけい」の各所に滲み出してくる。それとはちょっとニュアンスの異なる「思い」が「あなた」から「わたし」に向けて差し向けられるであろうが、それもまた、「わたし」から発せられるリスペクトの気風に見合う敬意を含み持つというのが、私の体験的な実感である。

 郵便制度もなかったとか、庶民が便りを交わすことなど考えられなかった頃には、旅に出るということは永久の訣れと思って、別れの言葉を交わしたであろう。音信が取り交わされる社会システムが整うほど、「遊び」が保っていた「思いの丈」が消えていき、「わたし」がそう思うことと「あなた」がどう考えているかということが、距離を置かず、照らし合わされることになる。「わたし」が勝手にそう思っているが、「あなた」はそう考えていないかもしれないという齟齬が、「わたし」の思いの中に在処を占められなくなる。SNSが行き渡った社会に育った若者たちが、それに適応しようとしてせっかちになり、「返信」が来ないことに苛立ち、実は自分の「我欲」を相手に差し向けているだけに過ぎないのに、それに応答しないのは(無視したことであって)ケシカランといきりたつ。そんなふうに人間を変えてきていると、ストーカー事件などを耳にすると思ってしまう。(11/9)

                                      *

 いま(11/10、15:30)やっと通じた。カスタマーセンターに電話をして、操作を教えてもらった。モデムとルーターの電源を一度抜いて、もう一度差し込む。それだけで復旧した。たぶん、使い慣れている人は、すぐにそうするのであろう。そういわれてみると、これまでも何度か、そういうことをしてきたことを思い出した。なんともお恥ずかしい。訓練しがいがないのですね。先ずはこれを、アップします。

2021年11月7日日曜日

この夢――何を意味しているのか

 夜中に目が覚める。夢を見ていた。

 1990年代中頃のこと(らしい)。私が職場の人たちをまとめる要職に就いていて、強く主張していたことが、管理職によって拒絶され、ついに引っ込めることになった(らしい)。交渉から戻ってきた同僚が「記録」を見せ、それの最後には「行動と矛盾」と、私に向けた非難の言葉が記されている。この同僚は、20年も後に(長い疎遠のあと)山を一緒に登るようになり、ちょっとしたことから諍いになり、絶縁してしまった、私より一回り以上も年若い人だ。「記録」を読んでどうしようかと考えている所へ、もう一人の同僚が姿を現す。「まいったねえ、どうする?」と声をかける。その瞬間、「すぐに退職するよ、オレ」と言うと彼は「いいかも」と応じた。この「いいかも」さんと出会ったのは1992年。私より5歳くらい若かったが、立ち居振る舞いが絶大な信頼感を醸し、よく一緒に山を歩いていた。その後に大きな職場の構造転換問題があって、私がそのモンダイに関する先鋒を引き受けていたなあと思いだしたから、1990年代の半ば(らしい)と考えたわけだ。

  いや、それだけの夢。考えているうちに目が覚めて、何で今ごろ、あのモンダイを思い浮かべたのだろうと思案している。勿論そのとき私は、退職もしなかったし、転換した構造のもとで開拓的な仕事をしたと思っているし、「いいかも」さんも私と行を共にしたから、(そのモンダイへの対処にも、その後の関わり方にも)わだかまりがあったわけではない。そしてまた、その構造転換がその後(現場に残っていた人から話を聞くと)、なし崩しにされて、今やすっかり構造転換前と同じ職場になってしまっているとも知ったが、それが私に関係があると思ったこともない。すでにどうでもいいことと思っている。

                                      *

 今振り返ってみると、その構造転換を意識的に進めていく準備が、職場の人たちにはできていないと私は見ていた(と思う)。行政からそうせよと言われてきたから(仕方がない)と軽く思っただけじゃなかったか。その状況に楯突きたかったから、構造転換するとはどういうことかと、準備期間の2年の間、毎週のように「職場新聞」を発行し、論陣を張り論点を整理して提出した。そこで提示した問題が、準備を進める間に差し迫ったことととして目に見えてきて、それに対するいろんな角度からの声も、その「職場新聞」に掲載されるようになった。

 それが構造転換の問題から逸れて、あの人はそんなことを考えていたんだとか、コイツは学生の頃、そんなことをアルバイトでしていたんだとかまでオープンになり、「構造転換」ができて試行段階となり、本格始動するようになってからも、「職場のコミュニケーション」として持続することになった。つまり、構造転換の副産物として「コミュニケーション誌」が残ったのであった。2003年に私が定年退職して「職場新聞」は終了となったが、その後5年ほど経って「いいかも」さんと会ったとき彼が、「ああいう、コミュニケーション誌があるとないとでは、一緒に仕事をしているという関係性が違うね」と、思い出して話していたのが印象に残っている。

 よく労働組合の広報誌のように発行されている「職場新聞」はある。いや実際に私が発行していたのも、元はといえばその「広報誌」のようなものであった。それが、現実の構造転換がどう進捗するかという緊張関係を持ったとき、管理職を含めた職場の「会議」において、その「職場新聞」に掲載した私の論調が取り上げられ、私も「会議」において言い足りなかった所や関連して考えたことを取り上げて掲載するようにしていた。そういうモンダイ提起に耳を貸さず、事態が切迫してきたときには、管理職に対して「あなたの所にも(この新聞は)届いているんだろ、よく読めよ」と論難する人もいて、たんなる「広報誌」ではなく、ほぼ職場の「コミュニケーション誌」としての位置を得たのだと思っていた。

 最近、コミュニケーションに関する本を読んでいたら、所謂広報誌のようなのを「伝達的コミュニケーション」と呼び、取り交わす言葉となったときのことを「生成的コミュニケーション」と専門家たちが呼んでいると知った。つまり当時のわたしの「職場新聞」は、伝達的コミュニケーション誌としてスタートしたのが、成り行きもあって「生成的コミュニケーション」に変化していったのだと思った。そうなったとき初めて、「コミュニケーション」というやりとりが成立しているのだ、と。そして、そのやりとりこそが、実は肝心なことであって、そのメディアを通じて取り交わされる論題とか論議は、どうでもいいのだと(人の営みを考えてみると)言えるように思う。

 この「どうでもいい」という感懐は、その構造転換がその実を結ぶかどうかも、その現場を離れることとなったものにとっては「どうでもいい」ことと思うのと同じである。人と人との関わりに関しては、生成的コミュニケーション自体が意味を持つのであって、その動態的な作法が、どのように展開していったか、そこに、関わった人々の思いがどれほどに映し出され、取り交わされていく実感を伴ったかが、問われているのである。

 私たちの日々のことばでも、高見に立っているとか、上から目線とか非難されるのは、伝達的であるに過ぎないという批判なのだ。やりとりを通じて(最初の発信者も)変容していく姿を見せなければ、とうてい生成的コミュニケーションとはなり得ない。新聞もTVも、双方向と言うことを言うのであれば、やりとりを通じて「変われよ」という叫びを聞き届けなければならないのではないか。SNSというメディアが文字にしていることは、ことごとく、世の中に向けたそういう「叫び」だと思っている。

「じゃあ、すぐにでも退職するよ、オレ」というのは、すでに、そういう生成的コミュニケーションの「現場」を失っている無意識の、自戒の言葉なのかもしれない。

2021年11月6日土曜日

36会seminar 第二期・第14回seminarのご案内

 36会の皆々さま

 秋らしくなりました。コロナウィルス感染も何故か少なくなり、どうぞseminarの秋をお楽しみ下さいというようです。

 さて今回のseminar。第二期第14回は実施を予定しています。

 ご出席の人数確認が必要ですので、ご面倒でしょうが、参加のぜひをお知らせ下さい。


 と き:2021年11月27日(土)13:00~、15:00から会食

 ところ:新橋「ももてなし家」2階

 講 師:羽方綠さん

 お 題:ジェンダーって何? ――日本人はジェンダーギャップを埋められるか?


 講師は、コロナウィルスの「三密回避」のせいで、おしゃべり相手に不足して身を持て余している、元気いっぱいの綠さん。昔風に数えでいえば傘寿になりますが、いえいえどうして、溢れんばかりの勢いは辺りを払うものがあります。

 その綠さんが「ジェンダー/gender」に切り込みます。

 生物学的な「性別sex」に対して、人間は社会的にも、文化的にもいろいろな衣装を着せてきました。男らしさ、女らしさ、男の役割、女の役割という衣装がジェンダーです。さらに、それが男と女の関係となると、もっといろいろな既成観念がかぶせられて、私たちの感じ方や考え方を支配している言えます。その齟齬から来る軋みを、ジェンダー・ギャップと呼んでいます。齟齬は取り払うことができるのでしょうか。

 でも、どのような場面でどのようなモンダイをめぐって取り交わされるかによって、齟齬の質も範囲も広がっていきます。先のオリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の発言も、そうでした。また、子育てをどうして女がやらなくてはならないのか。イクメンという言葉も起ち上がりました。男と女の生理的違いがもたらす社会的、文化的な差異は、しかし、時と場合によって、身のこなしとして私たちはくぐり抜けてきました。それが、しかし、時代的な文化の流動・変化によって、かつては何でもなかったことが、大きく問題になってきています。

 他方で私たちは、歳を重ねてきたことによって、ジェンダー・ギャップよりも、フィジカル・ギャップの方が暮らしに大きく作用するようになりました。と同時に、古いままのジェンダー・ギャップを身につけていて、どうしてあの程度の発言で森会長が辞任することになるのか。ちょっとわからなくなっていましたね。国内的には一時収まったかに見えた発言の波及でしたのに、、国際的な非難が轟轟と響き渡るように伝えられ、国際世論に押されて会長辞任となったのですが、そのインターナショナル・ギャップがどうして生じたのか。それが副題の「日本人はジェンダーギャップを埋められるか?」という問いになっているのかもしれません。彼女の経験豊富なアメリカとの対比が縦横にめぐらされて、面白い切り口になると期待しています。

 ご期待下さい。

    2021年11月3日  36会seminar事務局・藤田-k-敏明

街の設計と普通でない人(マイノリティ)

 コロナの感染が少し収まってきたからか、我が町を歩いても、少し人が多くなったかなと思う。旅に出て東京を経由したりすると、いや、実に人が多いと驚く。

 都会暮らしに味をしめたのか、ただ、働き場所を求めて集まってきただけなのかはわからない。たぶんその双方が互いに相乗作用して、集まることになってしまったのだろう。

 てんで勝手勝手に、経済階層もピンからキリまで、文化の深浅も達者なのから門前の小僧まで、居座る期間も、腰を据えるのからお試し来訪まで、種々雑多な人が寄り集まってきた結果だ。迎える側も、住宅建設や公共インフラや交通網や商店街なども、そのときどきの、その地区ごとに寄り集まりったひとたちの具合に応じて、何とか(まずは自分たちが、加えてそこへ参入する人たちの様子を見計らいながら)暮らしていけるように、経済計算をしつつ、暮らしや仕事や文化やインフラに連なる街づくりをしていくことになる。

「都市設計」というほどの意志的な街造りは、トヨタが富士山麓に試みているスマートシティのようなケース以外は、ほとんど為されていない。それが、自由主義的な社会の成り行きってヤツよと、為政者は考えているのだろうか。たぶん為政者も、「都市計画税」というのを徴収していながら、その実「都市計画」というのは、街の「有力者」のご要望に応える断片の継ぎ接ぎばかりである。何処を商業地域に指定するか、住宅地区にするか、耕作地域に指定するか。建築基準をどう定めてもらって、納める税は極力少なく、資産はできるだけ高くとどまるように計らうか。そういうことが有力者の胸算用である。あるいは、行政と商業企業が大規模な建築や不動産事業主と提携して、駅周辺の再設計をするという、本格的な街づくりも各地で行われた。そういうときに、障碍者や子ども、お年寄りに優しい街づくりが行われたりしていて、緩やかに「普通でない」、マイノリティの人々への配慮がみられるようになった。あるいはまた、治安保持のための警察関係者の要望を入れて、「アーキテクチャー」と呼ばれるプランニングも組み込むことが行われている。

 自分が、年寄りという、身のこなしが普通でない有り様(マイノリティ)になってみると、都市設計以上に、人が集まりすぎていることの方が、なにかと面倒だと痛感する。 よく整備されていても、人の流れというものがある。駅のホームなどは(時間帯にもよるが)渋滞を引き起こして流れを断ち切ることになるのは、「普通でない」マイノリティのわが身であったり、階段を、手すりに身を寄せて、歩一歩と身を持ち上げているお年寄りだったりする。街を歩いていて、「邪魔だ、ジジイ」と罵声を浴びせて若い男が自転車ですり抜けていったのは、まだこちらも血の気の多く残っていた60代であった。振り向いて「なんだバカやろう」と言い返そうとしたが、すでに相手は走りすぎていた。近頃の若い人は結構優しい人が多いとは思うが、街中の渋滞の元凶に出くわすと、「くそジジイ」と罵りたくなっているのかもしれないと、首をすくめる。

 となると年寄りは、混雑する時間帯に、混雑する場所に近寄らないようにするほかない。早めに家を出る。電車に乗るときも一本遅らせてもいいように、心得る。乗り換えもそうだ。まして旅に行くときには、荷物がある。これは、わざわざ、わが身に負荷をかけて障碍を体験するようなことだ。エレベータに乗るにしても、ホームの人があらかた思い思いの方向へ散ってから、移動するようにしなくてはならない。元気なときはエスカレータを駆け上がっていたが、荷物を持ってとなると乗って動かずに運ばれて行く方がいいことが、実によくわかる。

 こういうことを思うと、都会に人が集まり、さかさかと時間を刻むように振る舞い、列をなして移動する街の暮らしというのは、どこか基本的なところで間違ってんじゃないかと思うようになった。いや、間違ってると思うなら引っ込んでればいいわけではある。だが都会におけるヒトの暮らしが、そういうストレスに耐えてでも引き合うものなのかどうか。毎日何億円というトレードをしている人が、カップラーメンをすすって、目を赤くしてモニターをにらんでいる日々を送っているのをイメージするのと同じ、バカなことをしているんじゃないか。都会の人達すべてが・・・、と思うのだ。

 そういうことを程々にして、静かに暮らしたいという、身が不自由になった年寄りの声を聞き届けた「都市設計」を、どなたかやってくれているのかしら。

2021年11月5日金曜日

隠岐の島の息づかい(4)メカミサンに小さな幸運

  2日目、島前・西ノ島の宿。今日の行程を一通り終えて、宿に到着した。夕食の後、オプションの「神楽」があった。希望者は7時20分に集合してバスで送ってくれる。地区の公民館。といっても広く、ちょっとした体育館のよう。舞台もある。小学生らしき男女が二人、背を丸めた中学生らしき女生徒が一人、高校生かなという女子生徒が二人と、アラカンの大人の囃子や歌い手が3人。神楽同好会と名乗っているが、地区の文化保存のために活動しているのであろう。会場準備のスタッフは、さらに同数ほどの公民館職員か。

 神に捧げる神楽に始まり、巫女の舞、恵比寿と3題の演目。お囃子を鳴らし、踊り手がわずか2畳の畳を隅から隅まで使いながら、ゆっくりとした所作で何度も回る。ちょうど目の高さに来る足のつま先や踵の動きが、体の動きに先んじて動き、一つひとつの所作がきっちりと刻むように30度ずつ回って、それについていくように、ゆっくりと身が回る。見ているうちに、神と交信しているような気配を踊り手に感じたのは、不思議であった。

 恵比寿の舞は、これはすっかり人間に向けて差し出された神からの贈り物という感触で受けとったが、そういえば、大黒様は大国主命ではなかったか。ここ、島根県は、神々の総本山。皇室の氏神様・お伊勢さんと違い、民草の神々の総本山は出雲の神。それを讃える響きが伝わるようであった。こうして、9時頃までかけて、二日目の全行程が終わったのであった。

                                      *

 第3日も、晴れ。気温もそこそこあって、寒くも暑くもない。南というよりも全国的に穏やかな秋日和であった。朝が早かった。6時半に朝食、7時20分には出発。まず港で、分宿のグループ合流をしなくちゃならない。それに、いろいろとおもてなし行事を詰め込んであった。

 玉若酢命神社へ行く。1日目の水若酢神社同様、伊勢や出雲など名神社のいいところどり「隠岐様式」の神社建築。千木は垂直、男神。巨大な注連縄が拝殿の庇の下にかけてある。毎年取り替えるのではないらしい。2礼2拍手2礼という参拝形式。これもちょっとクセがある。神在月に来たせいで、島根県の神社には他国と異なる習わしがあっても不思議ではない。

 社よりも、社殿の入口にある大杉がすごい。八百年杉(やおすぎ)と名前がついているが、樹齢は2千年だそうだ。見た目、屋久島の縄文杉よりは木肌が若い。そうだよね、年数からすると、弥生杉の若って所か。

  すぐ港の方へとって返す。民謡の実演を、小グループ毎にしてくれているらしい。そのグループのローテーションと、客を待たせるわけには行かないという配慮があるから、行ったり来たりすることになる。

 港前の観光会館に戻ると2階に披露の会場が用意されている。舞台として畳表の上敷きが敷いてあり、太鼓と三味線囃子の椅子がおいてある。客席との仕切りにビニールのカーテンが上から下までぴっちりと垂れ下げてある。コロナ対応というわけだ。私たちは椅子に腰掛けて観聴きすることになる。

 進行係と歌い手が同じ人。太鼓と三味線のほかに踊り子3人が登場して歌う。なんでも北前船に乗って新潟など全国からやってきた船乗りが伝えた民謡が、隠岐の地で変奏され、歌詞も変わって隠岐民謡として今に至っている。元歌が隠岐ふうに歌詞を変え、歌い継がれてきたという。また、両手に持った飾り棒を、右手と左手でとっかえひっかえ、まるでジャグリングのように持ち替えて、男衆(おとこし)が踊り、太鼓と三味線と歌が囃し立てる踊りもあって、なかなか面白かった。わずか30分程の演舞だが、6グループを交代してもてなす。演者たちも大変だ。

 モーモードームに移動して、牛突きを見る。土地によっては闘牛といい、角突きといわれる、牛の格闘技。一度、宇和島で観たろうか、沖縄だったろうか。でも、勝敗をつけるまではやらない。負けるとそれがクセになり、牛が使い物にならなくなるからだそうだ。角を突き合わせること5分から10分程。短時間だが、迫力はすさまじい。角が首に食い込みはしないかとハラハラして見守る。追い込まれて、会場を取り巻く鉄の手すりにまで下がり、それ以上下がれなくなって押し返してゆく牛の力勝負。見ている方も、力が入る。牛の綱を引いてコントロールしているのは20代(という感じ)の若者。それが、とても新鮮な気配を漂わせていた。

 モーモードームのすぐそばが隠岐国分寺。天平文化の匂いを残し、後醍醐天皇の行在所となったということで、正統文化の(鎌倉期には排斥を受けた)継承者という誇りを湛えながら、しかし、明治維新期の廃仏毀釈によって伽藍から何からを壊され棄てさせられた怒りがこもっているような感触があった。明治維新政府の天皇権威の利用に憤っている感じ。かろうじて「隠岐国分寺境内」と記した石柱を本殿跡に建てて名分を立てているようだ。

 脇には隠岐国分寺蓮華会舞の会館が置かれ、ビデオで演目を紹介していた.一緒に見ていたガイドが私もやってみますと、龍の舞の一節を、歌いながら、とっとっとっと三段跳び、後ずさり、それを三回繰り返してやり、笑いと拍手を受けていた。幼い頃から見て育った彼女も、自ずと体が動いて踊らないではいられなかった様子。身に響くのか、それが面白かった。

 隠岐・島後の北端まで車を運び、白島(しらしま)の景観を見せる。多島海、百に一つ足りないから「白」島という。海の向こうにはユーラシア大陸があるのだろう。波は静かであった。

 行程途中に「かぶら杉」という大杉も観る。大きな杉が一度切り払われ、その台座部分から何本かの幹が生えて何百年も経っている杉。それを見せようとバスは立ち寄る。

 こうして午前中の名所を見て回り、お昼にまた、海鮮丼を食して1時間半程のフリータイムとなった。このとき、新しい出発日のクラブツーリズムの客がやってきて、観光会館の案内を受けている。なるほど、こうなると、チャーター機といっても、季節定期便くらいには活躍するようだ。でも当方は、町を見て回る元気はない。広々とした自然館のロビーで、港を眺めながら本を読んで過ごした。この穏やかさが好ましい。空港へはバスで10分程。空港の横の公園に出かけて1時間程の散歩をして過ごし、機上の人となった。

 帰りは追い風のせいか、飛行時間は1時間15分。だがチャーター便だけのことはあった。座席番号で5人の人に「隠岐の観光協会からの贈り物」というプレゼントがあった。添乗員がくじを引いて発表する。一般客を入れていたら、こんなことはできない。

 なんと私の隣席のカミサンが、マグカップと隠岐ローソク島と北斎の波の絵とをデザインした特製手拭いをもらった。この人、こういう小さい幸運が、いつもついて回る。持ち帰って、壁に飾って今回の旅の記念としている。(隠岐の旅・終わり)